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【実践が】修行するスレ【肝心なのじゃ】

1蓮恵:2018/06/26(火) 20:42:21 ID:673pd1OM0
修業したい輩がひたすら修業のためのスレを作ってみました

修行が足りないと感じている方は、
懺悔して修行に励むスレです笑

実践したことや工夫、
修行のためになること、
モチベーションが上がるようなこと、
成長を感じたこと、修行の愚痴とか、独り言とか書いていくスレです。

2蓮恵:2018/06/27(水) 22:30:49 ID:wgmHycAY0
長時間無理なく座るための姿勢を模索している

以前、知り合いに腰が反っていると指摘されたが、その通りで確かに私の今の姿勢では腰に負担がかかる

腰に負担をかけないような座り方を模索する
更には、上中下の丹田が直線になるように座る

そのような姿勢になれば、頭部に気が流れ、定が深まるだろうとの鬼和尚の言葉がある

3蓮恵:2018/06/28(木) 12:50:17 ID:hoZtgThs0
座る理由がなくなるまで、座れば良い

4蓮恵:2018/06/29(金) 05:08:38 ID:hoZtgThs0
朝から座る

5蓮恵:2018/06/30(土) 00:48:12 ID:q2c17jDA0
鬼和尚スレの594氏は、
私が要約するならば、
諸行無常=行蘊の遷流を
観察されたのだろう

彼の観察は見事である

6素人A:2018/06/30(土) 10:11:26 ID:gOqWUDAs0
テレビ観る事はクダラン世なあ いやチューブ?
中島みゆき 地上の星実践したつもり https://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE 
心我落ち着きが無い 椅子禅はやる気が無い 
栄光の架橋もくだらない でも孝子さんの歌はくだると言う 差別化 まあ色々良い野花も
何故か今心我落ち着いた 何故か気が向いた坐禅5分使用

7素人A:2018/06/30(土) 10:23:28 ID:gOqWUDAs0
人にはストレスがあり 言いたい事書き込めば少しは気が晴れる
それが芸事版の良いところ 坐禅なんて時間の損だし 
でもクダラン事やらないだけでもまだましか

8避難民のマジレスさん:2018/06/30(土) 21:04:10 ID:/zzdxcfo0
>>5
蓮恵さん、鬼和尚スレの594です。
鉄眼禅師という方は存じてませんでしたが、とても参考になります。
ご紹介頂きありがとうございました。
時間のある時にじっくり読み進めている最中ですが、【五の五】にある

>明らかなる鏡の中に終日(ひねもす)かげのうつるを見れば、天をうつし、地をうつし、花をうつし、柳をうつし、人間をうつし、鳥獣をうつし、さまざまの色かわり、しなことなりて、刹那もとどまらざるに似たれども、その鏡の本体は、鳥獣にもあらず、人間にもあらず、柳にもあらず、花にもあらず、地にもあらず、天にもあらず、ただ明々として、くもりなき鏡の全体なり。

この文を見つけ震えました。
まさにその通りです。
しかしまだ私は鬼和尚の仰る阿頼耶識を完全に滅した世界を観れていないと感じます。
涅槃静寂はそこにあると思いますので、観察を主とした実践に励んで参ります。

9蓮恵:2018/07/02(月) 23:01:07 ID:awKSWTIg0
>>8
仮字法語が素晴らしかったので、誰かに紹介したかったのです
そして、まさにその箇所を読んで頂きたかった
良ければ、またこのスレに書き込みお願いします
お互い励みましょう

10蓮恵:2018/07/03(火) 08:56:13 ID:i4aZRtoI0
ttps://ameblo.jp/oniosho/entry-11783835377.html?frm=theme

ダンマパダ解説

21 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。

怠けてばかりいる者が立派になったり、簡単に悟りを得るというような事はあり得ないものじゃ。

つとめ励む事によって人は目的を達成する事が出来る。
つとめ励む事によって人は偉大な者となる。
つとめ励む事によって人は目覚めた者となる。

 正しい教えを知っても、それを実践しつとめ励む事が無いならば、苦から逃れられる事は出来ない。
 正しい教えを知っても、それを実践しつとめ励む事が無いならば、死によって破滅する。
 正しい教えを知り、それを実践してつとめ励むならば、世の人々が逃れられぬと諦めている苦を滅する事が出来る。
 正しい教えを知り、それを実践してつとめ励むならば、世の人々が逃れられぬ死をも超越する事が出来る。
 
 知識は未だ阿頼耶識の範疇にあり、それによって正しい認識を得た事にはならないからじゃ。
 つとめ励み、自ら悟りを得たならば、それによって正しい認識が生じ、不死の境地に居る事が了解される。
 死は生の裏側であり、それは同じものであったと判るじゃろう。
 その時までつとめ励むのじゃ。

11避難民のマジレスさん:2018/07/04(水) 22:07:36 ID:/zzdxcfo0
>>9
蓮恵さん、ありがとうございます。
私にはまだこの大きな鏡を観ている自我が残っているようです。
瞑想に一から取り組み直していますが、ちょうど鬼和尚スレで鬼和尚からGOを頂きましたので、このまま続けて見ます。
お互いに切磋琢磨していきましょう。

12蓮恵:2018/07/06(金) 09:07:25 ID:awKSWTIg0
瞑想に対しての執着があるのではないか
瞑想の利益は大きいが、それらへの執着を捨てることで、瞑想が深まるのではないか

捨である

13蓮恵:2018/07/06(金) 12:29:19 ID:awKSWTIg0
中丹田の位置は以前、私が思っていた位置よりは後ろである

14蓮恵:2018/07/07(土) 10:59:57 ID:QHN4ezEg0
井上義衍老師

今これが在るとも思わんでも在るということはまだ人間の考え方としての主体があってですね、
そして、それをこう見ている人がおるんです自我が。
それまでが共にこう無くなってしまうということですよ。
それから人もおらんようになるはですね、物も無くなってしまうほど、ただそのものになる、という必要があるんですよ。
そうでないというとですね、思い込みのこの我見としての私という思い込みの根源がですね、本当に無いんだという確証を得ることができないんです。
そこまでいきませんと、そこまでいきますと、確証が得られるということはですね、なに、さっき言いかけたんですけど、そのもの自体の時には、そのものを自覚することもができないほど確かな生活者です。
ちゃんとこれがね、そいう生活の真った中におってですね、それでこう(手を打つ)縁に触れるとですね、その縁の様子にフットこう一念が起きるんです。
人の心がこう始めて動き出すんです。
認識が、その時に始めてその真意がですね鏡にものをパット写したと同じようにですね、自分たちの考える以前の実相がチャットこう写るようにできている。
それを把握する道ですわね。そのためにこう自他の関係というものがすっかり無くならなきゃあものにならんということなんですわ

15蓮恵:2018/07/07(土) 11:07:39 ID:QHN4ezEg0
「寒い日や、暑い日は、どうやってやりすごせばよいのでしょうね」
すると
洞山和尚は
「寒くもない、暑くもないところに行けばいいじゃないか」
僧は
「それはいったいどんなところですか?」
と聞き返すと
「寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨(寒時には闍梨を寒殺し、熱時には闍梨を熱殺す)」
と、答えた。

「寒いときはお前さんを寒さが殺し、暑いときはお前さんを暑さが殺すのさ」

16蓮恵:2018/07/07(土) 20:18:26 ID:bBhHG6gQ0
正法眼蔵

ただし、心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、 仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをも いれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる

17避難民のマジレスさん:2018/07/08(日) 16:59:50 ID:ZNACB4pQ0
慢性的な倦怠感が有る。酒や薬物を飲むとこれがなかった。
人間関係が少しは関係してると思う 人とぶつかったときに起こるズーンとした残念な感覚が近い
それは胸と背中と首のあたりに起こる。呼気が浅くなる。人の多い飲食店は体に若干の緊張が有る。
逃避として動画を見て部屋にこもることが多い。いい天気だと残念と焦りと損失と罪悪感が有る。
この行動で怠惰に拍車がかかる。
たまに倦怠のない時ががある。何が有るとき倦怠で、何が無いとき倦怠が無いのかを知りたい。

睡眠、倦怠、怠惰--これらは修行の妨げである。そのよすがを知り究めよ。(感興のことば5章 34)

知りたいどす。

18避難民のマジレスさん:2018/07/08(日) 17:20:10 ID:ZNACB4pQ0
すません書きたくなったので連投で。以降控えます。

あえて人の多い駅に行って観察でもしてみようかと今思うが。
漠然だがそれは誰かに迷惑をかけるのではないかという不安がある。これが倦怠の感覚に少し近い。

小さい頃スキー場でインストラクターの人をソリでハネたことが有る。女の人に文句を言われたことがある。自分の誕生日か何かでショッキングな出来事だった。
関係はないかもしれない。

書いててなにかスッキリした。しかし上記に書いたことは漠然と自分の中では既知のものだったが。

19蓮恵:2018/07/09(月) 12:20:21 ID:Voac38LI0
鏡の比喩に対しての個人的見解です

鏡に物が映る働きは無我であり、
意識が物事を認識する働き自体は無我です
主体なく、自ずから、計らいとは関係なく、勝手に、映る、認識されるといったようなものでしょうか
(そもそも主体などという物は、
人我の見、つまり自他という枠組で物事を解釈した時にのみ、存在するものではないでしょうか
計らいがなければ主体は存在する道理はありません)
眼自体に物を見ようとする計らいは皆無ですが、眼は分別なく勝手に眼の前の物の色をとらえる
その際、眼が認識する主体であり、眼に映った物が認識対象であるなどという構図は成り立たない

20蓮恵:2018/07/11(水) 18:24:13 ID:xkWevCpc0
恐怖が生じるとき、
必ず何かの記憶が呼び起こされる

21蓮恵:2018/07/14(土) 00:43:54 ID:O3OmiHPQ0
まさしく生は泡沫のようなもの
その泡沫の生滅が人生と呼ばれている

22蓮恵:2018/07/17(火) 00:01:06 ID:zziYk6zo0
認識されたものに対して
己を持ち込むことなく、
認識は認識として放っておく

現在起きている現象に、
過去から得た見解や知識や分別を加える必要はない
現在は現在のままで完結させる

魚が泳いだ痕跡が残らないように、
鳥が空を飛んだあとに痕跡が残らないとは

23蓮恵:2018/07/17(火) 00:17:54 ID:zziYk6zo0
主体なくして六根の働きがある
そこに人間はいない

人間が六根の働きを認識しているのではない
認識があるのみである
そこに人間はいない

ただ主体なくして心が生じる
その時の心は何と呼ばれるのだろうか

24蓮恵:2018/07/27(金) 19:31:02 ID:673pd1OM0
今という体験がある

体験は六根が知覚する
しかしながら、
人間の知見では、その体験を眼で見た、耳で聞いた、と判断する
これは分別である

体験は体験のまま、分別される必要はない
そもそも六根を六根として分別する必要はない

25蓮恵:2018/07/27(金) 19:35:19 ID:673pd1OM0
六根を"私"の所有物として、
見ているのではないか?

その"私"の六根が今の体験を認識しているなどと思っているのではないだろうか

実のところ、体験は体験であり、
体験の中に六根は存在しない

眼が眼をみないように

26避難民のマジレスさん:2018/07/27(金) 21:46:22 ID:tk2vui..0
>>25
蓮恵さんはハーディングやダイレクトパス的なアプローチで探求してるんですね。
六根を記憶で結び付けて「私」が出来上がってるんだなと、私も実感します。

27避難民のマジレスさん:2018/07/27(金) 22:04:53 ID:tk2vui..0
私は六根のうち、視覚が強烈に自分を想起させます。
目をつぶり聴覚を意識すれば、外と内の境界はないことがわかりますが、目を開けた途端に「あちら」と「こちら」に分離します。
「こちら」が私ですね。
「こちら」を丁寧に探しても、あるのは探している思考だけで、私はいないのになぜか「こちら」を感じます。
「あちら」と「こちら」自体が分別であり、「こちらに私がいる」ということも観念。また「私」という個も観念。
そして目の奥の筋肉の圧力を「私」とし、分離している。
また、そのようなことを今あれこれと探求している「私」という自我に気づくと、「私」が消滅し、「観照」と思われる状態となります。
が、鬼和尚は自我が消滅したら戻ることはないと仰ってますね。
まだどこかに自我が潜んでいるのかもしれません。もしかしたら「これが観照か」と認識している者かもしれません。
まだそこがはっきりしていない状態です。

28蓮恵:2018/07/30(月) 12:54:03 ID:/ga7aJzk0
>>26
曹洞宗の井上義衍老師を参考にしています
老師の不思量の言うところは、
ダイレクトパスに似ているかも知れません

29蓮恵:2018/07/30(月) 12:58:19 ID:/ga7aJzk0
対象の物体と自分の身体との距離を認識しているときは、それは距離を認識しているのであって、
その時、物体と己はない

30蓮恵:2018/07/30(月) 21:31:42 ID:/ga7aJzk0
概念には、対象が存在しない
もしくは対象と完全に離れたところに存在する
概念は、概念としてのそれ自体の体験である

思考には、対象が存在しない
もしくは対象と完全に離れたところに存在する
思考は、思考としてのそれ自体の体験である

感情には、対象が存在しない
もしくは対象と完全に離れたところに存在する
感情は、感情としてのそれ自体の体験である

31蓮恵:2018/07/30(月) 21:39:22 ID:/ga7aJzk0
所有、非所有の観念、自他の観念、
といった概念、思考、感情といったものと、"体験そのもの"とは完全に離れたところに存在する

もしくは概念、思考、感情自体が独立した別の体験そのものである
2つを同時に体験することは不可能である

32蓮恵:2018/07/30(月) 21:49:50 ID:/ga7aJzk0
伝心法要

修行者よ、疑うことなかれ。四大が集まって身体ができている。

その四大には我(アートマン)はない。

また身体には主体はない。

このことよりこの身には我(アートマン)はなく、主体はない。

五蘊が心である。

五蘊には我(アートマン)はなく、主体はない。

故にこの心には我(アートマン)はなく、主体はないことが分かる。

六根、六識、六境(=十八界)が和合し生滅するのも同様である。

このように十八界(=六識+六根+六境)は既に空であるから一切が皆空である。

ただ、本心のみがあって無限定の清浄さを保っている

33避難民のマジレスさん:2018/07/31(火) 18:51:39 ID:jDggCKfs0
蓮恵 サンは、はじめましてなのかな?
で,坐禅会などいったことがあるのですか?

34蓮恵:2018/08/01(水) 01:32:58 ID:Voac38LI0
>>33
はじめまして
座禅会はたまにいきますよ

35蓮恵:2018/08/02(木) 10:17:37 ID:/ga7aJzk0
たとえ過去の記憶に依存した思考といえども、それ自体は新しいものといえる

それはなぜか

今行われているからである

36蓮恵:2018/08/02(木) 19:37:11 ID:jfIRm1IY0
>>14
無分別に参ずればよい
分別の前に、祖師方の仰有る実相がある

37蓮恵:2018/08/02(木) 19:42:28 ID:jfIRm1IY0
この心、この思いをどうにかせんとする作為が生じる
生じた自分の心を評価または操縦しようとする作為がある

ただ心あるままに、
無抵抗であればよいのではないだろうか

38蓮恵:2018/08/02(木) 21:25:09 ID:jfIRm1IY0
仏がいわれた、
「仏性を知ろうと思うなら、まさに時節の因縁を観なければならぬ。
時節もし至れば、仏性が現前する」
「仏性を知ろうと思うならば、というのは、ただ知るだけの問題ではない。
「修行しようと思うならば」「覚ろうと思うならば」「説こうと思うならば」「忘れようと思うならば」みなここに当てはまる。
「説く」「行ずる」「覚る」「忘れる」「錯(アヤマ)る」「錯らない」などということも、すべて時節の因縁である。
時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもって観ずるのである。
修行の日々において観ずるのである。
智慧・無智・覚・始覚・無覚・正覚などの分別を用いては、観ずることはできないのである。
「当観というのは、観ずるものと観ぜられるものとにはかかわらない。
正しい観、まちがった観などにも関係しない。
まさに当観である。
当観であればこそ、自他の観でもない。
時節因縁そのものである。
因縁を超越したものである。
仏性そのものである透脱した仏性である。
できないのであってひたすら観ずるほかはないのである。

39蓮恵:2018/08/04(土) 13:37:03 ID:xkWevCpc0
私は人間の精神活動の根本的な部分に疑問をもっている

これは記憶によって生成されたイメージに言語を結びつけて、それを認識することです

40蓮恵:2018/08/04(土) 23:19:00 ID:jfIRm1IY0
自他の識別と記憶機能から、
己が相手に何をしたとか、何をされたとか、物語のようなものが生まれるが、そのような認識は本当に正しいのだろうか

41蓮恵:2018/08/06(月) 12:29:27 ID:arcilThk0
十二因縁であれ、唯識の認識論であれ
観察の際にそれら知識を用いるべきではない

42蓮恵:2018/08/19(日) 17:54:33 ID:/GsKRCTo0
全てが作為とイメージを超えたところ、あるがままにあるのだ

43蓮恵:2018/08/19(日) 17:55:40 ID:/GsKRCTo0
あるがままとは全ての作為とイメージを超えることである

44蓮恵:2018/08/20(月) 01:36:51 ID:AJvXZZkI0
慈悲、 勇猛心、その他の徳も我を離れたところで本当の意味で働くのだ

45素人A:2018/08/20(月) 12:11:36 ID:gOqWUDAs0
我々衆生は在るがままとかありのままとか、真理の言葉は
皆自分の都合よく解釈して怠ける心理がある。でも真面目な心理の人は
辛い世根と私は勝手に辛いと思うだけなのかも根。それぐらいの心構え
画無いと思い出のDVdをたたき割って伸世界に生まれ変わらんのかも
私は未練たらたらで有る我飯に浸るばかりで勇気そのうちに来るのか?
2段目ロケット切り離せずつい楽してしまう運命

46蓮恵:2018/08/23(木) 16:17:24 ID:Voac38LI0
うーむ
認識した物に観念をつけてるのは
自分でした

47蓮恵:2018/08/24(金) 12:18:40 ID:jfNKViO60
観念は、過去の記憶や体験から生成されているのである

物の態度や苦しみというものが、
ここにおいて生じるということである

48蓮恵:2018/08/24(金) 12:22:57 ID:jfNKViO60
無駄な議論に時間をさくのは、釈迦の精神に外れている

49蓮恵:2018/08/26(日) 17:44:51 ID:QHN4ezEg0
これにたいして、全ての説明は不要である
説明と解釈が自我を生むのである
全ての説明と解釈を捨て去る

50蓮恵:2018/08/31(金) 12:41:36 ID:/ga7aJzk0
認識されたものは、それだけである
無知と作為によって、付け足されるのである
それはそれだけである

バーヒヤ経に、
それ故に、おまえはそこにいない、なぜなら、バーヒヤよ、おまえは、まさにここにいないのだから。
それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである
とある

51蓮恵:2018/09/01(土) 09:39:37 ID:V73v3q9s0
存在するというのも、存在しないというのも
消え去るというのも、残っているというのも人の見解にすぎない

事実は見解を超えている

52蓮恵:2018/09/06(木) 20:24:26 ID:7BnCBKyw0
今まで自分というものを消そうと思っていた
違う
全てを消すのだ

53蓮恵:2018/09/10(月) 18:23:50 ID:mOD8.0pA0
本当の用心は、気付きを待つことではない
気付きを忘れることである

手が熱いものに触れれば、
手がおのずから、思いなくして、
勝手に、動くのである
 
真の用心は、用心を忘れることである
無用心である
気付きは気付きの方から訪れて、去っていくのである

生まれなかったものは生まれなかったものとして、去っていく
生まれたものは生まれたものとして去っていく

54蓮恵:2018/09/12(水) 12:27:24 ID:O2oCEnnw0
量り来ること久し、豈思量せざらんや。然れども山は是れ山と言わず、代わって山と言う、名何ぞ形を労せん。言わざるも露わる、阿誰か誤る事有らん。

量らざる者親し、誰人か亦、疎き有らん。巍巍堂堂として、寸糸を繋けず、繊毫を置かず、全身放下し、命根截断す。

此の処、何ぞ非思量の処と名づけん、豈識情測り難しと言うべけんや。

此の田地に究到落着せば、普州の人、賊を追う、誰か贓を顕わさん。
子細に看来たれば、声を揚げて響きを止めんと欲し、耳を掩うて自ら去るが如し。如かず、此の鼓笛を打たせざらんには。

55蓮恵:2018/09/13(木) 18:44:40 ID:dL6aU5yg0
何ももっていないふりをしながら、
正しさを主張する心を隠し持っているではないか


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