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【仏教】悟りを開いた人のスレ避難所51【悟り】
140
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/10(水) 20:47:06 ID:1d4drIFg0
実践すれば無駄ではないのじゃ。
実践有るのみなのじゃ。
141
:
素人A
:2018/01/11(木) 09:16:29 ID:wVAiAl6o0
昔と違つて今はある意味無意識の修行には恵まれている野鴨。テレビやパソコンネットごちやんねるもある意味瞑想いや
妄想の夢の修行場だ。昔の人はこの世の苦しみから逃れても夢や白昼夢の妄想でしかぼおつとして逃れられなかつたけど
今の妄想は視覚と聴覚だけで行為は頭やテレビ現場で作られて、こじさんの思いも見るだけだから実害が無い今ははっきり
と見えるテレビドラマという夢がある。触る痛い苦しいとか言う直接的な感覚はこの身だけで十分でそれを実現しようと
する必要は無い。なぜなんだろうと考えた。心身るという言葉が出てきた?心にとって身は向上の修行する時は必要なのか?
我々はホントは夢の中に居て目が覚めてもそれも夢で夢幻に中も外も夢の中に居る幻実なのか?宗教信じる人
例えばエホバの証人の人が聖書のとおり信者以外は皆殺しでエホバ天国で救われると言つてもそれはエホバの人があの世の
夢に脱出したらそうなつても我々のあのよ夢と重ならず矛盾しないのかも、だいたいエホバの人は行為はエホバの神まかせ
で見る聞くの人たちで性格も穏やか実外がないけど聞くのうるさいだけ神任せこれは無責任だけど是れでいいのだ
責任取ろうとして無理に実行すると悲惨な夢になるしまあなんだかんだ言つても宗教もこの世で仲良く生きるの学ばないと
生き残れないし 夢の中の夢 夢の外も夢 見る聞くだけなら実外も無い でも低級なドラマおもしろがってばかり
見るのも少しは勉強しなさいの声が 良い子は少しだけ良い実選するのじゃ
142
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/11(木) 22:28:32 ID:1d4drIFg0
鬼のように実践してよいのじゃ。
143
:
素人A
:2018/01/12(金) 11:06:50 ID:gOqWUDAs0
今朝もまたネタ考えなさいと今日はくされて、私の頭では無理難題に取り組むけどネタだし適当に書くかで気楽に書き進もう
真面目に相手するひとも居ないしまあ良いかで?宗教とはなんだ私自身何の宗教団体に入ってない?そういう人が外から
あれやこれや言つても何の意味があるのか?あれ無駄な思考でこれも無駄だけど朝の書き込みしなければ適当にかきこまなき
ゃうんうん考えるけど私は何で考えているのだろう書き込まないとサボったと思われるのを恐れている是が正解意外と私は
見得貼るで。?要するに宗教の分野を国が面倒みないからよくわからない宗教にすがるひともいるしだから宗教は信仰宗教は
その人を救えるとだまして金巻き上げるのか、人間なんて解らないことだらけで個人でも社会や国でも無理な事だらけ
それ以上は神という言葉に逃げる、神とは逃げ工場で科学でも解らないでしょうでも世界は神が作ったのです?意味不明な
神だから宗教団体の人は神は団体の味方と勝手に思う、でも神と言う言葉は団体とは無関係なので団体の言う事聞かないのは
あたりまえ。聖書もユダヤの国造りのために書いているから適当で場食っても良いのた。最初は産めよ増やせよ地に満てよは
ユダヤ国作り宣言だし日本なら古事記の様なもの。それがなぜキリスト教がローマに利用されローマ帝国の拡大に利用され
宗教なんてこんなもの私のネタに利用された
144
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/12(金) 21:37:08 ID:1d4drIFg0
ねたは考えなくてよいのじゃ。
自分を観察して書いてみるとよいのじゃ。
145
:
素人A
:2018/01/13(土) 09:02:17 ID:gOqWUDAs0
坐禅や瞑想とは?あなたはあまり坐禅や瞑想普段サボる毎日でそんな事書ける資格があるのか?反省は猿でも出来る此処は
5チャンネルだし誤自由にかけるそんなに気にする事はないまあ良いかで?真剣な僧のやる坐禅はギリギリの生きるだけの
生食で動かないで無駄な物理的エネルギーを使わずかあちゃんという家族もなく社会という物の共同体も最低限の生活の中
で坐禅する僧ですが今の時代損な事は出来ないでもそれが僧なんだけど?だいたい動物が生きていくためには他の生物を
鱈腹食つて後は身を守るために交感神経に切り替えて体を動かさないと自分が食われ生きていけない本能に支配されている
けど坐禅瞑想は生きるのを半分否定して心見だけで身は最低限で面倒見ないのか、半死半生なら華厳宗や真言宗の修行が
見栄えするけど形に捕らわれて形式的なのか?人間は死に僧になると脳内麻薬が出て輝かしい妄想を見るというけど
般若心境も僧いう体験の鴨かも?そんな事ならだれでも身我死んだら簡単に僧なるのか?でも心がけの修行しないと
まぶしい光のエネルギーが暑苦しく自分にあう煩悩の日陰さがして身の服をまとい自分にちょうどいい世界を見つけよう
とでまあ良いか。また書き込みが迷走してあちこちにさまよい意味不明でも長くなつたし他に逃げようたぶん何処も
夢の中だし正しい答え何手もあるのかないのか ハッピーニューいゃー
146
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/13(土) 20:41:59 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、自由なのじゃ。
自由に書くとよいのじゃ。
147
:
123師
:2018/01/14(日) 00:11:17 ID:gEOH7nEM0
142.
実践、か。
悟れないバカが実践することになる。
実践しても悟れないと、わかることが悟りである。
鬼和尚のように実践しているバカもいる。
148
:
素人A
:2018/01/14(日) 09:16:51 ID:gOqWUDAs0
アクイナスはこう言っている「『三つのものが美には必要である翻訳すれば、全体性、調和、そして光輝』となる」。全体性この
原理の機能は、みずから規定されかつ規定するような、実践とは関わりの無い、閉じた錬金術的な場を創り出すところにあります
それがどんな効果をもつかを見るには、何でもいいからいくつかの事物の集まりー例えばテーブルの上の品物の集まりを眺めて、
創造の中でその周囲に枠をおいて見て下さい。すると枠の中の事物の総てが「ひとつのもの」と見なされるでしょう。それはもは
や、いろんな用途をもつ無関係な事物の集合では無く、ある構成の部分であり、相互に関係づけられています。その枠の外にある
ものー例えばテーブルの部分は、いまや「他のもの」となり、枠の中にある事物のすべては一つのものになります。スティブの言
葉では、「君はそれを一つの全体として見る。その全体性を認識しているわけだ、これが全体性なのさ」というわけです。(続く
149
:
素人A
:2018/01/14(日) 09:28:54 ID:gOqWUDAs0
>>142
みんなは差亜取ったら?みんな差撮ってる野花も
損な悟りなんてつまらないなっとくできない。我々の不幸塀や矛盾の面倒見ない上様は
何考えているのか?飲み残しのコップに集まった流しあっまつた蟻は蟻の飯事水に流す
のか、手でたたいて蟻に逃げろと警告するけど鈍感というか横着な蟻もいて
我慢できず南無阿弥陀仏で許せと水にながす でもそれも私が選んだ答え 薄情でも
150
:
素人A
:2018/01/14(日) 09:57:10 ID:gOqWUDAs0
あまた間違えた
>>142
は
>>147
ほんと私は注意障害で
あなたが選んだ答えは一つも間違いなく前に蟻 恥かいた
でも雨がふらなきゃ虹はでない
ノーレインのーレインボウ
https://www.youtube.com/watch?v=Ww6Lgh3x_7E
151
:
避難民のマジレスさん
:2018/01/14(日) 20:34:14 ID:zKxhGnxU0
>>148
秋茄子ってスコラ哲学のあの秋ナス?
152
:
素人A
:2018/01/14(日) 22:44:19 ID:wVAiAl6o0
>>148
(続き)調和 さてこのような構成ができると、次に重要なことーそして重要な事のすべてーは構成の中のそれぞれの
対象ないし事物が此処にあるのか、あちらにあるのかという事、つまり部分に対する関係、各部分の全体に対する関係、全体の各
部分に対する関係です。これが審美的な道具としてのリズム、すなわち調和です。その要素になるのは、事物、色彩、言葉とその
音、楽器、建築の部分とその比率などが考えられます。スティブンの言葉によれば、「君はそれの形の線に導かれ、点から点へと
眼を移してゆく君はそれを、その限界内で均斉のとれているものとして認識する。その構造のリズムを感じるわけだ」ということ
になります。輝き リズムがぴつたりあつたとき、人は喜びの中にとどまり、それに何か他の効用があるかどうかまったく考えま
せん。スティブンはこう言っています「君はまさにそのものであって、他の何ものでもないということを知ったわけだ。
〔アクイナス〕がスコラ学派の「クイッディタス」つまり事物の「そのものであること」について言つているの
がこの光輝なのさ。この至高の徳性は審美的映像が芸術家によつて感じられるものなんだ。こういう審美的瞬間の心を、シェリー
は燃え尽きる炭という美しい比喩で説明している。美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美の
こういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識するこの瞬間こそは、審美的快楽の輝かしく静寂な状態だよね。
153
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/14(日) 22:59:21 ID:1d4drIFg0
事物そのものを感じられるようになるのが悟りなのじゃ。
154
:
素人A
:2018/01/15(月) 07:26:46 ID:wVAiAl6o0
悟りとは?さあ我々は悟りの仲使いこなしているのに何故かさあとりに会えないと思う。悟りは凄い魔法で悟れば
何でも解決し安心出来るすごいものと思っているのか?さとつても出来の悪い性格は直せない相変わらずだったら
そんなのは悟りじゃないと思うのか、皆さんが悟り期待しすぎなのか相変わらずの平凡な日々では悟りではないのか
苦しみ悩みもそのままで何の解決も出来ない役立たずでは損なの悟りではありませんと我々が認めないだけなのかも、
まあそうなんでしょう。さとりとはあーこうだと期待しすぎて当たり前に当たつても外れ馬券並に金にならなきゃ
有り難くないと思うのか?悩み速解決できる凄いものであったら悟つたになるのかそうじゃないと期待はずれ何だろ
なあ?別に私は悟りあまり有り難がつていなく来たら煩悩が困ると恐れているのか別にさとつても煩悩困らないだ
ろうけど坐禅や瞑想する時間は避けているというより時間の無駄と逃げているからそれに付随している悟り面倒だと
おモツてるのかいや悟りが楽しい煩悩を困らせるとおもうのか?今朝も無駄に長くしているだけでさとりとは関係
あるようで関係無いよと書いているだけ?我々は皆悟っているけど何の価値もないと思っているだけなのかも?
今朝は無駄に書き込み迷走するしさとりとは言葉かほんとにあるのやらないのやら。さあ迷う
155
:
123師
:2018/01/15(月) 10:17:43 ID:fqNocczU0
153.
事物そのもの、か。
そんな知覚心理学の問題ではない。
事物と悟りとは関係がないよ。
心理学をやめて、宗教をやれ。
156
:
避難民のマジレスさん
:2018/01/15(月) 15:05:47 ID:zKxhGnxU0
>>153
秋ナスがミサ中に体験した(と思われる)啓示に関わりはありますか?
あのハゲはなぜ神学大全の著作を中断した(と言われている)のですか?
マイスターエックハルトの不審死となにか関係あったりしますか?
157
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/15(月) 21:29:45 ID:1d4drIFg0
>>156
その啓示がどのようなものか知らんからわからんのじゃ。
本当にありのままの姿を見たのならばそれが砂粒一つでも言葉によって書き記すことは出来ないと知ったじゃろう。
言葉にするほど嘘が多くなるからのう。
関係はないのじゃ。
158
:
123師
:2018/01/15(月) 23:36:57 ID:eomqpZ8E0
157.
宗教と関係のないことは、書かない、と言うことである。
鬼和尚も悟っていないからして、嘘ばかりを書いていることになる。
心理学者を名のれば良い。
159
:
素人A
:2018/01/15(月) 23:40:34 ID:wVAiAl6o0
十方 玉城康四郎さん解説より抜粋。 いつたい、激流の太刀にこれまでいくたび突き破られてきたことであろうか。しかし
いつのまにか、塞がるはずのない無穴の大穴がみえなくなつてしまうのである。・・・最後の項目は光明である。十方全体は自己
の光明であるという。その自己とは、父母未生以前の鼻の孔である。その本当の自己が実現すると、仏殿が開いて仏にまみえる。
しかしいつのまにか、別人のための別のものにとりかえられてしまう。またそれを打破して合い見える。私はこの繰り返しを、何
と何十年もの間性懲りもなく続けてきたことであろうか。道元もまた同じ思いを経験していることに、格別の親しみを覚える。
道元はさらに次のような意味の一文を続ける。「本来の面目を呼び出すことはやさしいが、忘れ去ることは難しい、しかし呼び出
されるならば、これまでの私はぐるりと回転する。回転すれれば何の用もなくなる。おやおや、まだわからないのか、三十棒を恵
んでやつたではないか」この簡潔な一節のなかに、私の悦楽と失望の絡み合いが濃縮されている。そしてようやく、その絡み合い
から解き放たれようとしながら、私はまた新たな不可思議感を覚えはじめている。その感覚の道理については容易に表し得ないが、
いま突然と覚えるのは、本来のふるさと感と、無量こう来住み続けた仮住まいへの親しさとの結び合いである。この不可思議感が
これから私の体内でどうなつていくのか、『眼蔵』の先の巻を読み続けながら注視して行きたい。
160
:
素人A
:2018/01/16(火) 08:36:40 ID:gOqWUDAs0
ブラフマンいや仏教では編だ如来が編み出した正解いや世界だから求めれば阿弥陀になる空、それから枝分かれして法も変化
に変換されて此の世うになつた私たちの不味い煩悩も元を正せば阿弥陀の性格が影響している。暢気に南無阿弥陀仏と難解も
唱えれば救うのか?いい加減な阿弥陀仏貴方の不味い考えでこの世うになつた。でも阿弥陀さんが我々とたいして代わらん人
だと解れば、人のいい私としては何とか役に立とうと思うけど?頭も知恵もないし、阿弥陀さん皆でアートため息つけば少し
は気が晴れて空には満点の星の輝きがある風景だ。何で私が物々考えた元は、胸の所に金色の仏が出たあぽつ師匠が何か社会
に影響されたのか考えが唯物論のようで、仏が毎日でれば毎度コントロールされて唯仏論になつたのに残念、そうなっていない
でも此の世も元々の阿弥陀の応用というかパクリから出来ている法と思えば、即死してもあまり代わり映えのしないと思うが
正解いや世界だと妄想する。嘘でも何でも毎日現れればほんとになる。よくわからん正解は無とは何もないということでは無い
ようだし私の能力では無理解という事か、つまり私の頭や目や身で身ても一部しか身縁し
私たちはあみだくじのはずれにいるのかあたりまえだ
161
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/16(火) 22:00:51 ID:1d4drIFg0
ただの感想じゃな。
それを他人に語って何がしたいのかのう。
162
:
素人A
:2018/01/17(水) 09:21:27 ID:gOqWUDAs0
生とは何か?死とは何か?科学的に国も真剣に研究してほしいけど?今の科学常識では死んだ後は何も生命が無いときめつけて
いるのか?社会や国は生きている時だけ価値が有るから、損な心理的いや真理的な儲からない研究は科学的にも何の価値も泣く
心理学に金回らずその中でも超心理学は科学とは認められていないのか研究はユングで終わりか?国の死の判定も臓器移植の為
の方便で死とは何かなんて徹底的に調べるきはさらさら無い。今は真剣に研究した泣き丹波さん可愛そう。国はヤル気だせ真剣
に科学的に本気で研究すると宗教団体が反対するのか?宗教団体も科学的に真面目に研究するきはない。宗教団体は神は死んだ
の証明を恐れているのか、それとも現代科学や社会常識から外れたら、神殺されると思っているのか、いま一番強い団体は国家
だし是には誰も歯向かえない範囲でしか?思考も制限されているし、だいたい宗教者も公の場では小さい声で死後があるかもし
れないとしか言えない立場の和尚さんが蓋いし、人間は社会の中でしか生きられない、かつこわるいけど真実はどうでも良いし
社会から抹殺されるのが怖い、私も勇気がないし情けないなんか決まらない。、社会に満足出来ない人はインチキなカルトに騙
される人桃が゛多い師?カルトは金儲けだし真面目ではないし良い人では無い師、大体団体に騙されない寂しい孤児んだし宗教
関係者ではないし?関われ無いか。現代社会という生き物は金の血液エネルギーで良く解らんものは金には成らないし価値が見
えないし今はまあよいだし非常識な人は白い目で見られる。
?要するに今朝の私は過去のコピー丸写しで書き込んだし、なにも気力ないしねかてぃぷな朝の気分かえようかため息息連発だ
163
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/17(水) 21:23:16 ID:1d4drIFg0
修行によって死もわかるのじゃ。
個人の心にそれを知る力はあるのじゃ。
社会にも国にも死を超えることは出来ないのじゃ。
164
:
素人A
:2018/01/18(木) 10:12:49 ID:gOqWUDAs0
私は何故坐禅や瞑想さぼつて後回しにするのだろうか?現実的に役立たないし、暇が無いと思うからか?じゃ書き込みは
あまり現実では役立たずなのに続いているこの差は何だろう?書き込みは見える文章になつているからか?それとも習慣
か?書き込みしないとサボった感が残るこれは今までサボってないから休むと気になるからか?要するにいままでの行為
の習慣の連続が今の私の坐禅や瞑想竹刀につながっている。忙しいとか暇ないとかは理由にならない。でも何か役立ち感
がないとやる気も怒らない。心つて身が伴わないと頼るのは習慣しか無いのに昔は少し瞑想や坐禅続いていたなあと思い
だすけど、いっのまにかやらなくなつたのはホカホカの用事が割り込み後回しになっていったからか?反省はどうでも
よいけど今行動する坐禅のエネルギーが力なくうなずく不味い。要するに最初は意識的に坐禅や瞑想してそれが習慣に
なれば無意識というか機械的に毎日行えるだけ理屈はどうでもよいけど今やるエネルギーが無い。書き込みも最近やらされ
感が多い。でも我々凡夫は行動は身得るものが必要でこき使われても何かやった感がないと行動しない。形の無いものは
張り合いないし坐禅瞑想は習慣しか頼りない。また思考の瞑想だけ ぽ師匠もあきれているけどはっかネズミの様に
空回りに明けて暮れる毎日 如何書き込み昨日と一緒だ。
165
:
541
:2018/01/18(木) 19:38:51 ID:o7TfOr0I0
人は自分に向いていることをやるのがいいと思うよ。
「他者」とは何だろうか?
これを改めて考えて見たい。勿論『「他者」と言う観念を見ている』と言うことも含めて。
166
:
541
:2018/01/19(金) 09:51:24 ID:o7TfOr0I0
人間と言うのは、思考による存在の解釈である
存在と言うのは、解釈している自己をも包含する概念だからね。
我々は《存在》であるが、思考によって自己や他者が生まれる訳である。
その他、月や太陽、地球、車、料理などの個別の「存在者」も、やはり、思考による解釈である。
それらは、本来は区別の無い「存在」である。
逆に言うと、一切の思考を働かせない状態では、我々は存在として在る訳である。
167
:
素人A
:2018/01/19(金) 09:53:02 ID:gOqWUDAs0
キャンベル「人はよく、我々みんなが探し求めているているのは生きることの意味だ、とい言っていますね。でも、本当に
求めているのはそれではないでしょう。人間がほんとうに求めているのは、いま生きているという経験 だと私は思います。
純粋に物理的な次元における生命経験が自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きていると
いう無上の喜びわ実感する。それを求めているのです。結局そこがいちばん肝心なところです。」 神話の力より
柏樹子 ・・じょう州の真祭大師にまた一人の僧がたずねた。「柏樹には仏性がありましょうか、ないでしょうか」大師が言
つた「ある」僧が言った「では柏樹はいつ成仏するのですか」大師が言った「虚空が地に落ちるまでまて」僧が言った「虚空
は何時地に落ちるのでしょうか」大師が言った「柏樹が成仏するまでまて」・・・で待つわいつまでも待つわ
待つわ
https://www.youtube.com/watch?v=hZg88LZ2QrU
168
:
541
:2018/01/19(金) 10:00:40 ID:o7TfOr0I0
そこで、他者と言うのは何かと言う話だが、我々は、出会う人によって自分を使い分けている。
つまり、関係性を考慮して、自分を演じる訳だが、関係性を「考慮」すると言う事は
それは、思考による演技な訳だ。
だから、友人や恋人や家族が「様々な顔」を持っていて当たり前と言えば当たり前である。
思考によって生じた仮面の他者をさらに受け手が思考によって解釈している訳で、突き詰めれば突き詰めるほど、よく分からないことになっている。
169
:
541
:2018/01/19(金) 10:12:10 ID:o7TfOr0I0
悟りと言うのは、我々の本質が《存在》であることを悟るということであろう。
つまり、《存在》であるとき、自己も他者も生まれていないのである。
古代インド哲学や仏教などでも、人は己の思考世界に巻き込まれ、六道輪廻に落ちていくと言うような話があるが
まさにそういうことである。
では一体、どうすれば、輪廻の世界から抜け出し、存在に回帰することが出来るのか?
170
:
素人A
:2018/01/19(金) 10:26:54 ID:gOqWUDAs0
自分の心さえ思うように意図であやつられないのに、他者を操り人形の様に糸であやつれない
会話を用いても、他者の心の糸は思うように行動させられない他者を行動させるのは
金で釣るのが一番効果的でも貧乏なひとには苦しい世界?でも俺俺詐欺は
171
:
素人A
:2018/01/19(金) 11:51:50 ID:gOqWUDAs0
仏教徒はみんな輪廻転生問題に取り組まないといけないと誰がきめたのか?
私は仏教の意見そんなに熱心でないしインド人でもないし南米に生まれたら
いまはカトリックの天国行きと言わないと白い眼でみられるし、とにかく
この世では。周りに気お使う。私の今は小さな幸せ欲しい 悟りとか輪廻とか
他人事 まず目の前が腹減っている小吾
172
:
123師
:2018/01/19(金) 12:36:31 ID:ASW6aBVY0
169.
存在に回帰しないことであるよ。
173
:
541
:2018/01/19(金) 14:22:32 ID:o7TfOr0I0
>>123
師
存在に回帰しないこととはどういうことか?
174
:
541
:2018/01/19(金) 14:26:29 ID:o7TfOr0I0
六道輪廻だとかなんだとかはただのおとぎ話であり、
一種の比喩表現に過ぎないと言うのは「前提」である。
そんなものが実在すると信じることが迷いなのだ。
しかし、実際にそれはそうとして、人々はやはり何らかの輪廻の中にいるものである。
175
:
541
:2018/01/19(金) 14:33:56 ID:o7TfOr0I0
現代的に言えば、存在者を存在者たらしめる「精神構造」といってよかろう。
その元と成っているのは、真言仏教などを援用すれば「身口意」のような行為である。
ちなみに私は、この輪廻からほぼ抜けている。
しかし、それでも、ちょっとした隙に、輪廻に落ち込むこともある。(自己や他者が生じる)
要するに、完全に輪廻を超越している訳ではないということである。
176
:
123師
:2018/01/19(金) 15:22:46 ID:ASW6aBVY0
173.175.
宗教は存在の問題ではない。
輪廻は存在の問題である。
177
:
541
:2018/01/19(金) 15:24:08 ID:5Ykvm8S.0
ちなみに、ここで言う「存在」とは「絶対無」の事であることに留意されたし。
178
:
123師
:2018/01/19(金) 15:26:22 ID:ASW6aBVY0
177.
絶対無、か。
それは存在ではない。整理されていない論理である。
179
:
541
:2018/01/19(金) 19:17:03 ID:o7TfOr0I0
123師の考える、存在は「存在者」の事であって、存在とは存在者を取り囲みそれを成立させている「無限」のことである。
道教などで言う《一者》のことである。西洋哲学では《存在》と言うし、東洋哲学では《無》と言うが、本質は同じである。
180
:
541
:2018/01/19(金) 19:30:21 ID:o7TfOr0I0
ところで、「六道輪廻」(人間の持つ世界観)の発生根拠は、「気分」であることが指摘されている。
(私は西洋哲学と東洋哲学どちらにも通じているので、それぞれの用語を統合させつつ語っている面があるので留意されたし)
要は、根源的な気分が最悪ならば、魔もよってくるし、鬼にも出会う訳である。
ただ、この「気分」とは、「すでにそこにあるもの」なのが厄介なのである。
181
:
541
:2018/01/19(金) 19:35:23 ID:o7TfOr0I0
現代風に言うならば、「気分」は構造的な発生根拠を持っている訳だ。
仏教的な発想をすれば、「気分」は「アーラヤ識」から立ち上ってくる。
アーラヤ識は、今まで自分が行ってきた行為(記憶)の貯蔵庫である。
六波羅密を実践しなさいと言うのは、アーラヤ識の浄化に深く関わるからである。
つまり、アーラヤ識が変ると、立ち上ってくる「気分」が変る訳である。
そして「気分」が変ると、それに立脚する「世界観」が変るのである。
182
:
541
:2018/01/19(金) 19:56:13 ID:o7TfOr0I0
どうも、東洋人は、『ミリンダ王の問い』などの影響かもしれないが、
伝統的に西洋哲学より東洋哲学の方が優越していると考えがちだが、そう単純な話ではないと私は思う。
謙虚に、西洋哲学からも学ぶべきである。
183
:
541
:2018/01/19(金) 20:08:35 ID:o7TfOr0I0
ところで、最近では経営論に道教の考えを取り入れるものも多い。
これは最近の話ではなく、本家中国でも、帝王学を説いた『韓非子』は道教の哲学が根拠になっている。
もっとも、道教の思想を参考にしてはいるが、そのものではなく、基本的には統治理論なので、二律背反する部分も多いと思う。
私も、禅者でありながらも経営もしているので、この点に関しては思うところもある。
六波羅蜜を取り入れた経営理論と言うものがあっても良いかと思う。
六波羅蜜は自利・利他・解脱と言う三つの要素があると言われるが
「いかに儲けるか」と言う一方の側面に立つと、経営自体も上手く行かないものだと思う。
しかし、利他だけを追求すると、他の二柱も倒壊する。
このバランスが大事だと思う。
184
:
541
:2018/01/19(金) 20:31:18 ID:o7TfOr0I0
気分は構造的成立基盤を持っていると述べた。
それが、六波羅蜜で言う「自利・利他・解脱」の三要素であると思う。
これは非常に使える理論である。
自利を善くし、利他を善くし、解脱への修行を善くすると言うことが、「気分」の性質を大変換させると言える。
この三要素が、バランスよく実践された時に、「ハッピーな気分」が持続する訳である。(永続する訳ではない)
ただし、ある程度、行が深まると、鉄を鍛えて鋼(はがね)になるように、不可逆的、「金剛」と比喩されるような段階にいたるということもあるだろう。
私などは、仏教のパラダイムからすると「外道」に当たる訳で、善根が円満に具足しているわけではないが、ちょうど、六波羅蜜を無理なく自然に実践できる程度の境地ではあると思う。
185
:
素人A
:2018/01/19(金) 22:21:02 ID:wVAiAl6o0
まあ迷路の仲でも明朗な人は頭色々にぶつけながらジリジリと前に進むのかも
物借るのを恐れるひとはなかなか前にすすめない根我底部を彷徨う野鴨
186
:
541
:2018/01/19(金) 23:49:44 ID:o7TfOr0I0
六波羅蜜の五戒などは割りと守るのに難しくは無い戒である。
酒飲むな、不倫するな、嘘つくな、盗むな、殺すな、である。
殆ど、素で守っている。と言うか、あえて守ろうとするまでもなく、普段から六波羅蜜に近い生き方をしていると言えよう。
しかし、まぁ、無意識でやっていたことを、意識的に、細部にわたって実践する良い、契機であるといえる。
187
:
541
:2018/01/20(土) 00:02:56 ID:o7TfOr0I0
実は十年前も鬼和尚に「六波羅蜜が守れません!出来たら苦労しねーよ!」と言う相談をしていたのでした。
それから十年して、六波羅蜜が意識せずともほぼ、当たり前のように守られている段階にいる訳で、
意外と修行が進んでいたのかもしれません。
188
:
541
:2018/01/20(土) 00:21:18 ID:o7TfOr0I0
ちょっと整理しよう。
実践六波羅蜜
自利の実践
・忍辱・・・私は侮辱や中傷、陰口を叩かれても一切心を動かしません。
・精進・・・私は自分が心置きなく禅定できる環境を作るために全力を尽くします。(日々の雑用の光速遂行)
利他の実践
・布施・・・私は人々の幸せの為に財産や身体を使います。
・持戒・・・私は盗まず、殺さず、嘘つかず、不倫せず、付き合いで飲む酒以外は飲みません。
解脱の実践
・禅定・・・私は、日々、真実の私の追究をしていきます。
・智慧・・・私は、真実の探求によって、開放された心から生じる純粋な智慧を素直に受け取り、世の中に還元してまいります。
189
:
素人A
:2018/01/20(土) 09:37:04 ID:gOqWUDAs0
正法眼蔵 霞眼「自然成」の自というのは、己の事である。己というのは、すなわち汝のことである。つまり四大・五蘊
からできているそのものを指している。それは結局、私とも人間の位の決めようのない真人を使いこなしているので
あるから、我でもなく、誰でもない。それゆえに、定まってないところを自というのである。「自然成」の然という
のは、「ゆるす(聴許)」という事である。「自然成」というのは、すなわち「華開き果を結ぶ」の時節であり、言い換
えれば、「法を伝えて迷いを救う」の時節である。たとえば青蓮華の開く時は、火の燃える時であり、開く所は火の中
であるようなものである。火をつけるところも、焔が立つ所も、みな青蓮華の開く場所であり、開く時節である。もし
青蓮華の時節と場所でなければ、「般若(智慧)のひらめき<一星火>」が生まれることはないし、ままたそのひらめきの
働きはないのである。良く知るがよい、般若の閃きによって、百千の青蓮華が大空に開き、大地に開く、過去に開き、
現在に開くのである。火の現れる時節、現れる場所を見聞するのは、青蓮華を見聞することである。青蓮華の時節と場所
を見過すことなく見聞すべきである。
?山下清さんは見た風景をそのままに描くことが出来るこれは現実画見えるという事で覚つている野鴨。凡人の私でも
まず制感で真っ白なキャンパスに凝念やジョウロで描く訓練をすれば三昧の現実の絵を描くこと画出来るのだろうか
190
:
123師
:2018/01/20(土) 11:17:23 ID:dj.UlUx.0
179.
その存在は宗教の問題ではないよ。
宗教は存在の問題ではない。
191
:
123師
:2018/01/20(土) 11:19:48 ID:dj.UlUx.0
188.
それは生活の問題である。
それは宗教の問題ではないよ。
192
:
541
:2018/01/20(土) 17:26:15 ID:/AieE0vM0
1234
君の考える宗教の形とは違うのだろうね
193
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/20(土) 21:39:56 ID:1d4drIFg0
実践あるのみなのじゃ。
194
:
素人A
:2018/01/21(日) 10:30:16 ID:gOqWUDAs0
同業者のお母さんが亡くなった。この頃テレビの有名な人も毎日あの人も亡くなったこの人も亡くなったけど死ぬのは
別れは悲しいけど個の身と心が分かれるだけなのかも知れない。死んだら新世界を観にっけるてそのあと新しい個の身を
身につけて大法輪中法輪小法輪で輪廻は回るのかも、死んだらまず妄想力いや瞑総力が問われる閻魔大王はほんとは
自分の瞑想力の試験問題で自分で正解を観な選ぶだけなのかも。生前頼りない嘗てな自己流妄想しかしない人はへぼ将棋
の人とかわらず下手な考えしか無く選べるのは生前と同じような正解を選ぶしかないもうそうなっている野鴨。瞑想力
の基礎は制感・凝念・状慮?で三昧を観にっけるという事か私はヨーガ根本経典の本読んだだけで修行はおろそかで
今の心は脅しに弱く頼りなくさまようだけで九級しているけど死んでも頼りになる阿弥陀さんの性格もわからずまあ
今と同じレベルならまあ良いかで向上心も無く良くもない。何とか書き込み出来た永遠に相変わらずの世界ならまあ
良いか ずっと
https://www.youtube.com/watch?v=U7I5DVFViRM
195
:
541
:2018/01/21(日) 19:03:22 ID:o7TfOr0I0
しかし、まぁ、究極の悟りを得ているわけではないにせよ、毎日、毎瞬に幸せを感じている。
本当にありがとう。
196
:
541
:2018/01/21(日) 19:08:36 ID:o7TfOr0I0
この、怒涛の如くやってくる「力への意志」と「生きていて良かった感」「thanks あらゆる存在者」
ニーチェの言う、永劫回帰とか超人などと言うのは、私の事なんだろうなと思う。
197
:
541
:2018/01/21(日) 19:21:16 ID:o7TfOr0I0
>私の事なんだろうなと思う。
「私」と言うと、反発や反論もあろうから言いなおすと
このようなあり方と言うかな。
198
:
素人A
:2018/01/22(月) 08:49:51 ID:gOqWUDAs0
名無しさん推薦のタイム アフター タイム /シンディ・ローパー 聴いてあれと思ったのだが 孝子さんの夢をあきらめないで は
これパクったと思われても文句言えない鴨と
https://www.youtube.com/watch?v=t9q2Xr_iV1M
でも私はシンディローパー他の歌知らない。いっも夢をあきらめないでしか知らない人を馬鹿にしているけど
みんな似たようなものだと思った。でも坂本冬美さんこれでええんかと思った。飲み屋で酔っ払っている時以外聞き
たくないクダランなあと思った。でもNHKは是で良いのだ。文春や民放は小室さん虐めるしマスコミは芸能人には
不倫はだめとか厳しい。介護で疲れている小室さん、奥さんがやらしてくれなかつたのか小室さん可愛そう少しくらい
は良いと思うけど厳しく追及するのは自分たちの金のためだし何がペンは正義なのかわからんそれが民主主義だし
みな野次馬だしそういう風に時は動いていく。現実とバーチャルごちゃまぜで説きは動いて行く。相撲もなんか知らん
けど面白くなつたし、金さんも気まぐれで何かんがえているのかでも頭いい。
199
:
素人A
:2018/01/23(火) 08:56:48 ID:gOqWUDAs0
歴史的人間を動かし彼を規制する道徳制度、世界史という悪夢を生み出してきたのです。さらにそれは人間が動物と共有する
基本的衝動ーすなわち(1)他の生物を食らって生存していくこと、(2)子孫を産むこと、そして(3)征服して服従させることーの
中枢です。こういった基本衝動は、まつたく制御されないまま放置されるなら、凄まじい破壊性を示します。それれは20世紀の歴
史が明瞭に物語っているところです。ヨーガのモデルに従えば人間の意志が生命の動物水準を超える目標を目指すところまで高ま
るためには骨盤部ではなく心臓部にある第四のチャクラの覚醒が必要です。この変容中枢の名前は「アナーハタ」には「打たれな
い」という奇妙な意味がありますが、これは「二つの音がぶつかって立てるのではない音」と解釈されます。生理的な耳に聞こえ
る音はすべて、互いに擦れ合うかぶつかりあう物体によつて生み出されます。たとえば声の音は息と声帯がぶつかつて出来る音で
すしかしこのようにして作られたのではない音は、偉大な音調あるいは唸りであり、一切の事物の顕現(エピファニー)であるとこ
ろの創造的エネルギー(マーヤ、シャクティ)の音なのです。そして現象的形態の中に創造的音調を直感する事が、心を愛に向かっ
て開きます。いままで「それ」だったものが、そのときから「汝」となり、創造の音調によって生命を賦与されるのです。
?ということですが昔は宗教も信用されマスコミも発達してなく君主国家を超えた大法の神というか心の倫理があった。でも
今はテレビみれるし野次馬気分で心は偉い神の評論家気分で罪人でもない不倫の人を見下すし心はこの世に観光気分の野次馬だし
この身の不満は他人事で皆評論家で心は井戸端会議?それでは不味いのでは。心の修行しなくてはいけないのでは
200
:
素人A
:2018/01/23(火) 11:52:46 ID:gOqWUDAs0
昔の庶民のこの世の不満解消は酒や少の食物や母ちゃんとやると子沢山や
宗教の念仏アーメンでこの世を逃れ上をめざす?ある意味今より真面目に修行していたのか。テレビのワイドショウあれは何?ドラマはあれはなに?マスコミは偉いのか?
これでは人々の心はレベルが落ちる一方ではないか?じゃネツトは少しは自分の考え
があるだけ少しはましか? いま私の坐禅瞑想は反省しか無いこれでよいのか
もがいて上に飢えている 人間の逃げ場は今は頼りないけど古い宗教は必要か
アーメンでもいいし南無阿弥陀仏でもまあよいか かず数えるのも
テレビみつづけるのよりは でも面白くないつまらないと思う心我?
便利で楽な今の生活から昔の生活には戻れない。心の逃げ場は宗教よりデレ日
お菓子くいながら でも昔のテレビはまだましだったけど
201
:
素人A
:2018/01/24(水) 10:05:03 ID:gOqWUDAs0
今朝のネタは現実と妄想の違いは?心見の見る聞く以外に物理現象とうものが我が身や周りの身に起こった時は現実かも?
玄沙和尚は修行の旅にでようとして足の指を石にぶっけ血を流してこの居た身は何だ妄想であるのか現実なのかと追及し
たとか?皆で同じテレビドラマを見ても物理的には光の放射でそれを受け頭の中で情報として記号分析して何何さんだと認識する
のは現実と言えるのか?見た人はその人の情報が入っていてみな何々さんだと認識する?これは現実に同じ人と光の集まりを
同思うんだろう。?あれ何だ頭は瞑想のシステムが生まれながらにある。僧じゃないと視界は何の意味もない物理法則だけ?
情報とは光通信は光速に拘束されるのか光の速さを決めたルール制作者は光以上に速い世界に居る野鴨。その人は時間空間を
決めるとき光速が無限ではコンピューターの容量が足らず光は秒速30満メートルにきめたの鴨。私の頭の容量ははるかに
小さく妄想しても迷走するだけ目の前の身のたけを守るのに使い果たすのが利口な考えで瞑想は暇人の娯楽でもこの世の苦しみ
を少し逃れられる野鴨。まあ何とか感とか文章をひねり出し意味不明でも長くなった。私には輪から内しか解らないけど
輪の外はあるのだろうか
202
:
素人A
:2018/01/25(木) 08:51:56 ID:gOqWUDAs0
私たちの存在・意識の元というか珠死生きのもとは無職透明でも一つの元から絵だ別れ枝分かれして夢中に逆さに立つ樹なの
かもしれない。根ビューたーが元が二つ以上では世界をまとめるのは無理で元は一つで枝分かれしてこの世うになった。
実在は無一文でも夢野金の生る樹を生み出したからまあええか。?
夢中説夢・・・釈迦弁尼仏が言われた。「諸仏の身体は金色で.さまざまな福徳の姿で荘厳されていた。法を聞いてそれを
人に説こうとしてていつもすぐれた夢をみた。その夢の中で国王らなつたが.宮殿や一族を捨て.栄華をむさぼる欲望も捨て.
修行のため菩提樹のもとに行き.獅子の座に端座して.道を求めること七日.諸仏の智を会得して.最高の悟りを成就した。
ついで説法を始め多くの人びとを教化して長時間を過ごし.穢れの無いすぐれた法を説いて無数の人びとを救った。後に息を
引きとつて涅槃に入ったが.あたかも煙尽き灯消える如くであった。もし後世の悪世のなかで.この最高の法を説くならば.
その人は.さきに説いたようなさまざまな功徳を得るであろう」いま仏の説かれたことを学んで.諸仏の働きをよくよく究める
がよい。これはけつして譬えではない。諸仏のすぐれた法は.ただ仏と仏とのかかわりであるから.夢みている事も.覚めてい
る事も.ともに真実のすがたである。覚めているなかで発心・修行・菩提・涅槃があり.夢のなかの発心・修行・菩提・涅槃が
あって.夢みているのも.覚めているのも.それぞれ真実のすがたである。それには大小や優劣の区別は無い。
203
:
素人A
:2018/01/26(金) 11:06:03 ID:gOqWUDAs0
正法眼臓 弁道話 問。ある人は次のように言っている。「この生死の世界を嘆くことは無い。この迷いの世界を脱出する
のに、すぐ出来る方法がある。それは、心の本姓が常住不変であると言う道理を知る事である。その主旨というのは、
この身体は生まれたからには死滅する事はあっても、心の本性はけっして滅することは無いという事である。けっして生ずる
ことも滅することも無い心の本性が自分の身体にある事ほ知ってみれば、この心の本来の性なのであるから、身体は仮の姿で
あり、この世に死んであの世に生まれるという具合に定着する事がない。これに対して、心は常住不変であり、過去現在未来
にわたって変化のあろうはずがない。このように知る事が生死を離れたというのである。この主旨を了解ものは、これまでの
迷いの生死が永久に消滅して、この身が終わるとき、心は本性の大海に入るとき、(つづく)?そんなに簡単な事なら般若心経
読み続けるなさい。修業あまりしない私が下記写して道元さんはこのような安易で修行心の無いのは外道だと思われる。でも
殆ど普通の人は修行しないし安易でも厳しいのは避けるし簡単でも知る方が良いのかダメなのか私にはよくわからん。
心と言う言葉は意味が不明で定義も良くわからない。私は色々いぞ我しくて書き込みも大変
204
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/26(金) 23:00:55 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、本性は滅することは無いものじゃ。
そこまで達すれば死も無いのじゃ。
205
:
素人A
:2018/01/27(土) 00:20:56 ID:wVAiAl6o0
人と言う字は上は1つで下は二つに別れ私は下の一つに居る。
自分心は色々転がるばかりで、ほかの人の心もそうかなあと推論するばかり
というか何でも自分の立場でしか見る目がない。けど間接的でもでもテレビカメラで
みれば外国の風景もみれるし月の裏側も観れる。あれカメラとは何者だマイクも何者だ
でもそれ以下の嗅覚味覚しょつかく実現する道具は難しい。脳神経に電流流せば
実現できるのかどうか 人の心もある程度の考えわかるの鴨 それは不味い脳いじるのは
神様でもいじらないのに クローン猿中国作つたけど此れは?
人
人 人
人 人
206
:
素人A
:2018/01/27(土) 08:42:41 ID:gOqWUDAs0
二つの世界の導師 時間のうちにあらわれる幻影の視野から.その原因をなす深遠と背景の視野へと世界の仕切りを往復す
る自由がある。それは一方の世界の諸原理を他方の世界の諸原理で汚すのではなく手他方の世界の力で一方の世界を知る機会
を精神に与えるものである。これは導師の天分といってもよい。ニーチェが主張するように「宇宙の踊り手」はある一点に重
々しく留まるのではなく.陽気で軽やかに回転し.有る場所から他の場所へと飛び回る。〔導師は〕一つのときには一つの所
でしか語れないが.だからといって他の時点における見方が無効になる訳ではない。神話がこの迅速な以行の神秘をただ一つ
のイメージで示される場合。その瞬間たるや〔以行〕の意味の全てが篭められている貴重な象徴であるのだから.大事にしな
がらじつと想いをひそめなければならない。「山上のキリストの変容」の瞬間は.まさにこのような瞬間であつた。
私.じやあ御釈迦さんが菩提樹の下で坐った瞬間は大事が篭められているのか?ここは仏教ですから少し仏教らしくの声が?
207
:
避難民のマジレスさん
:2018/01/27(土) 19:13:36 ID:czRftzgI0
メイトーのグランカカオを食べながら、自分はつくづく感情を食べていると感じました。
人間は感情を味わうために地球いいると感じました。
208
:
素人A
:2018/01/28(日) 09:25:02 ID:gOqWUDAs0
(ラーマクリシュナ不滅の言葉)一つの貯水池に、いくつもの水のみ場がある。ヒンドウ教徒はこちらの水汲場で水をくんで
ジョルと言い、イスラム教徒はあちらの水汲み場から水をくんでバーーニーと言い。キリスト教徒はまた別の水のみ場からく
んでウオーターよんでいる。また違う水汲場からくんでアキュアと呼んでいる人もいる。名前は違っても内容は全く同じもの
である。「宇宙の大実母は、子供たちのおなかにあうように料理を作って下さる。みんなの胃袋の消化力は同じじゃないかね」
国(民族)と時代と、容器(人の理解力)に応じて、神様は色々な宗教をお作りになつた。
ラーマクリシュナ金と女嫌いでも食いしんぼう食欲の煩悩は否定しない野鴨。
ホーキンス疑がいも無く科学教の中で生きている鴨。仏教途は御釈迦さんの鴨、日蓮宗は法華経の中で有る居ている。浄土
真宗の人は世間の中にいる。キリスト経はキリストの鴨で、私は?歌外も無く孝子師匠の歌の中で生きている空安心する
文句も出ない。あれ今○○の中に居ると思う時はブラフマンの心と同行なので文句も無い、自然の中に居ると感じる説きも
同じ思いなの鴨。という事は私にとつては疑外も無く歌の中に私が居るで情けないと思う私が「」良く見える。迷い有る苦
もありで私はそんなに一真に修行していない。い加減でも、みんな私とそう違いは内用な?でもブラフマンの親心受け取ろ
う。キリストでイスラムでも幸福でも科学でも、中で生きている説きはまあ良い鴨で
209
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/01/28(日) 21:36:52 ID:1d4drIFg0
神に帰依するラーマクリシュナはキリスト教徒にわかりやすいから西洋人にもてもてなのじゃ。
キリスト教も神を信奉するからのう。
キリスト教の聖人と同じと思っているのじゃ。
210
:
素人A
:2018/01/29(月) 09:18:40 ID:gOqWUDAs0
自分の心落ち着けるだけなら頭や心臓にある思考や感情の中心というか意識をあと意いや胃も加えるか是が
意識偏りすぎて心が乱れる。この心の乱れを落ち着かせ+に向かせるには丹田に意識と言うか気もちを集中させる
と心が落ち着くのが解った。今までサボっていたがこの頃色々ストレスが多く必要により実行したら、あれ頭と心
と意の所にいた居場所が椅子禅して?念力テープも聞きながら呼吸を見続けると、あれ私は丹田に居る状態になり
心は落ち着き怖れない勇気も出るのに気が付いた。坐禅は兎に角有効だと気が付いた。でも自分だけなのは仕方
ない。兎に角私が丹田に居る是が坐禅なのかもしれない。
?それはさておき威張りやの苫小牧博士の私は何でも知っているの考えも良いとこだけ冷静にきけばためになる。
御釈迦さんより偉いけどまあ良い所はある。私もそういう所があるからこの人嫌いではない如何かしている鴨。
御釈迦さんがどうたら
https://www.youtube.com/watch?v=yP4yzZFImyI
211
:
素人A
:2018/01/31(水) 09:14:26 ID:gOqWUDAs0
まあ世界とは突き詰めれば、まあ法ゲーム鴨知れない。まあトリックというか法が支配するのは輪から内で、輪空
外は魔法を言葉というか言語でつたえなきゃで、頭がコンピューターがらつて居るなあ、意味不明?この世界
ソフトと思うのは物理の相対性理論30万メートル以上は無い。これは多分宇宙ソフト製作者の情報予算の限界が
あり無限速では制作不可能という事情があるのか?脳とコンピューター宇宙は原理は同じようで法といかルールで
我々が遊ぶのか学ぶのかマトリックスの様なものかも?ヨーガゲーム思ってともばかにしてる麻原さんは本性が
地獄の様な心見だし警察権力の中牢屋の身だし心は地獄の中にいるのかも。あんまり害のない大川さんは能天気
な空威張りの心でこの世はバーチャルだと思ってもこの世馬鹿にしすぎで、世界も心がけしだいで目的の違う
ゲームとなる。この世は色とりどりの心が咲き乱れ党一もなくバランバランで咲き乱れる情報の世界なのかも
学ぶひともいるし、酒飲むひともいるし、あくどいひともいる。御釈迦さん信じる鬼さんは瞑想完成させ世界に
頼らず一人の世界で思うようにあそべというのか、でもこの身にかき回され色々はなければ、金ないと家族も
文句いうし、何もしないと詰まらんし将棋か?ごみは分別しに頭使うし、ニュースは今相撲のごちゃごちゃみないと
その前は阿部さん北朝鮮に暇な時間頭つかうし、色々ありすぎて今朝も書き込み長くなつた
実践はいまホットして缶コーヒーのみだした。だめだこりゃ
212
:
素人A
:2018/01/31(水) 21:18:44 ID:wVAiAl6o0
我々がこの世のドラマの出演者として出ているとき、あの世の仲良し霊団の代表として
この世で修行の演技しているのかも、あのようの仲間たちはハラハラドラマ観客として見ているのかも
向こうは同じよな考えの人ばかりで修行場として厳しくないし、まあこのような色々な修行も有り難い
のかも、またデタラメで適当な思いつきですが。そういえば昔ぽ師匠が似たような事いってた?
無意識にぱくつたのか
213
:
素人A
:2018/02/01(木) 08:37:41 ID:gOqWUDAs0
虹と水晶 ・・・ミラレバはこう言っている。「心もそらも空虚だから、心の本性はそらのようだと言う事はできる。だが、
心は知性を持っているのに対し、空はそうではない」と。悟りとは宇宙に関する知識ではなく、宇宙の本質を生きる経験に外
ならない。そういう生きた経験を味わうまでは、色んなたとえを頼りにするほかならない。だがそのおかげで、そのたとえが
持っている限界にしばられる事になる。土台は、これから説明する不思議な物体のようなものだ、と言ってもよいだろう。
その物体が白くまるみを帯びている、と言えば、それについてのイメージが得られる。だが翌日になつて、それを見た
別のひとが説明するのを聞いて色も白というよりは真珠貝の色をしていると言えばそう考えるようになる。そんな説明を五十回
聴いたところでその物体に関して少しでも考えが深まるわけではない。だがいつたん自分で見ればどんなものかはっきりわかる。
・・要するに百聞は一見にしかずか?百文は瞳にしかず?要するに今朝は心も体も疲れている
過去メモの○鬱しで元気んも無くでも月末はなんとか越えた
214
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/02/01(木) 21:26:17 ID:1d4drIFg0
なにやら前に見たようなきがするのう。
同じところを回っているのじゃ。
215
:
素人A
:2018/02/02(金) 09:33:04 ID:gOqWUDAs0
私よりだいぶ高齢従兄が亡くなられた。私は冷たいひとなのかいつもこういう時あまり悲しまない。この世からいなくなって
寂しいけど魂がバーチャル洋服着た者は洋服を一枚脱いで○○階に今いるのだろうか?スピリチァルの人は肉体から同じ姿の
霊体が抜け出し今近くにいて葬式を眺めてあれ自分が死んだ事になってる。私はここに居るのにその人たちにそう言っても
みなきがつかない。触れない。自分の視覚は健在で心も生きている知恵も知識も生きている野鴨。そのうち画面が変わり
前死んだ仲間や親戚が迎えにきて大歓迎パーティをうけ。そのあと生前からその人を指導した霊が顕れて色々指導して
霊前の世界でまず幽界であきるまで観光して、新しい着物を付けて新世界に行くのか?元にもどる例もいるのかもよく
わからんいずれにせよ皆世界はつながっているのか?何でつながっているのか知恵というか法というか世界は情報場なのか
たしか苫米地さんがコンピューターから脳科学にいったひとだが霊とか気功とかも情報で世界も情報場だと私はユーチューブ
で見た。この人は金儲けの手段はセミナーで他に知恵ないのだろうか?私は無料のユーチューブしかみないでもカンで有料
ぶんも解る、兎に角世界は重なる次元の縁起空なりたつているのだろう。大世界の中で自分に必要な位置でひっ様な働きを
築きながらしているのだろう。大宇宙全体でもいま描いている筆先の働きがないとまあ良いアートとは言えないのだろうか
ただだらだら書きたいだけなので纏まりも無く長くなった
216
:
素人A
:2018/02/02(金) 12:58:28 ID:wVAiAl6o0
悟りとは? 今は私も皆も悟りという一つの山の頂上を目指して登っていなあと確信することか?
でも今の現実は苦しみや少しのたのしみがあるし一歩一歩登るしか仕方ない、疲れたら一休みも
から悟りわからんでもまあ良いかと有る苦のを素直に見つめられればまあよいんだけど
厳しい苦しいけどなんとかにはなる。後ろに歩くのもあるのか?まあいずれもまあ良いか
217
:
素人A
:2018/02/03(土) 10:27:12 ID:gOqWUDAs0
最近毎朝の書き込みはノルマに追われあー面倒だなあ忙しいのにでも習慣だからで、今朝もネタも用意してないし書くので
とりあえずやる気が無いのは新鮮もなくマンネリだからか。でも太陽は飽きる事も無く廻り続けている。あ天動説は間違い。
私の心の無意識がやる気なく、感動が無く書き込み書き込み申し上げます。私に宗教心あるのか?心が年取ったのか疲弊
して何事もしらけてみて、からだが段々いかれても心も年だからとあきらめて何事もまあしょうがないですぐ諦める。
気力気力や体をうごかさなければ思っても思うように動かなく。これでは頭もぼけるのではでもボケないか。
私は書き込み人に見てもらう意識があまりなく、思い付きだらだら早く長く描くのが自慢だつたが今朝は指先も重く
前頭葉の命令の奴隷で早くかけの声が聞こえるけど、兎に角疲れているのでこれではダメだけどこの辺にするか。
218
:
素人A
:2018/02/04(日) 09:35:39 ID:gOqWUDAs0
画餅 ・・・古仏がいうに「仏道が成就するとき、それはどういう光景かというと白雪がちらちらと降り去り、あるとは青山の
数軸を描き得た。このようなものである」と。これは大悟の模様を伝えたものであり。それゆえに仏道を成就したまさにその
ときは、青山・白雪の数軸と名づける。それを描いてきたのである。しかしさらに眼を転ずると、一つ一つの動静が、すべて描
いた絵でないものは無い。我々の修業や功夫も、ただ絵から得たものである。仏の十種の名前<十号>や三種の働き<三明(宿命通・
天眼通・漏尽通)>も、一軸の絵である。また、仏道のさまざまな働きや方法である五根・五力・七覚支・八正道なども、いち軸
の絵である。もし絵は事実でないと言うならば、すべての事象はみな事実ではない。すべての事象が事実でないならば、仏道も
事実ではない。仏道が事実である場合には、絵餅はすべてすなわち事実であろう。・・・実に美味い餅を食えば満腹鴨?
219
:
素人A
:2018/02/05(月) 09:42:33 ID:gOqWUDAs0
禅語百選 把手共行 手を把って共に行く 仏の実在を信じ、そのおしえを学び、ともに手をとりあって人生を旅する仲間を
同行と呼び同朋と懐かしみます。四国遍路や西国巡礼の旅人たちは、たとい一人旅であっても「同行二人」と笠に記します。
自分以外の一人は弘法大師であり観音様です。禅者はこの同行を特に、どうあんと呼び習わしています、同行は師となり先輩
となり友となって、影と形のようによりそって修行にはげみます。つくしんぼうのように、どこか見えないところで、こころ
とこころが繋ぎあっているのです。人間と人間だけが「手を把って共に行く」のでなく、ほとけと人間、ほとけとほとけが、
ともに手を把りあって旅をつづけるのです。ほとけと修行者は、横に並んで歩くときもあり、前後になりあうときもあります。
同行は現実に同行する友だけではあのません。苦悩にあえいでいる自我の心の奥底に潜んでいるもう一人の友でもあります。
松原泰泰道さん)彼の名を自己といいます。人間とは現実の感性的自我と、本質的自己の同行の二人の存在です。
感性的自我がどのように醜悪でも、その心の奥底で清浄な同行の本来的自己が凝視していると信じるのが、禅の人間観です。
信心です。この同行に出あつた人を「さとつた人・めざめた人」といいます。ともに手をとりあう善友のあるのは幸いです。
心中に信ずる同行のあるのはさらにさいわいです。・・?どうのこうの?片手の人のどうのこうの?犬は意内のか無?
220
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/02/05(月) 21:18:24 ID:1d4drIFg0
死を観るとよいのじゃ。
そのほうが役に立つのじゃ。
221
:
素人A
:2018/02/06(火) 09:15:47 ID:gOqWUDAs0
朝だ朝だけどアートマンは?あと任せ現実はこの宇宙がどうなっているか物理学者は紙の上数式を求め無理やり公式に
当てはめようとしている。紐がどうしたのか見得ない次元の中に重力は逃げていくという。私の目の前はまあ来るしい
けどなるようにしかならない。きっと宇宙はゲームというか夢のソフトから出来ているのだろう。意識とは元々意識の
元はブラフマンいや一つの魂が枝分かれして枝分かれして後はアートマンに後は任せるのだろう。アートマンの所は
個の身で観える景色や意識など感覚器官と体の意識が解るけど身得ない所は無意識として魂の元と一体なんだろうか?
縁起ようわからん、我とは元めれば阿弥陀の糸が蜘蛛の糸の様に絡まってわけわからん意味不明で我々は苦しんでいる
けど編み出した人は苦しんでいるのだろえか?呑気になるようになると居直っているのだろうかさっぱりわからん。
御釈迦さんがやったびばさった瞑想。歩きながら右足・左足・見た・落ち込んだ・右足・ひだりあしこれ何の意味ある
のか、心があ軽くなるのか?思い出は重い出だからあ軽く行様が? ラベリング 右・左・右
ヴィパッサナー瞑想」でストレスに強くなろう
https://www.youtube.com/watch?v=fOtq7bhNoXU
222
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/02/06(火) 21:40:22 ID:1d4drIFg0
心を観るのじゃ。
歩きは見なくてよいのじゃ。
223
:
素人A
:2018/02/07(水) 08:37:18 ID:gOqWUDAs0
英雄とは生成中のものの庇護者であって生成し終わったものの庇護者でないのは、かれが常に現在のうちに存在しているからで
ある。「アブラハムが存在する以前に、わたしは存在している」。英雄とは永遠なる存在と時間におけるうわべの無変化をとを
けつして取り違えたりせず、またつぎのようなる瞬間(ないしは「べつなるもの」)をその変化〔の要素〕によって永遠を損なう
ものとして恐れたりはしない。「いかなる事物といえども、その形体を何時までも保持しているわけでは無い。万物を絶えず更
新する自然は、一つの形から新しい形を創り出す。まことにこの世界中に、滅び去るものは何一つないのだ。全ては流転し、そ
の形を変えるだけである」。こうして次なる瞬間が実現を許されるー「永遠という名の王子」が「世界という名の王女」に唇を
かさねると、かの女の抵抗はしずまつた。「かのおんなはぱつちりと目をあけた。そして眠りから醒めて、よにもなつかしそう
に王子を眺めた。二人はつれだつて塔をおりた。すると王が目を醒まし、王妃が目をさまし、それから家臣すべて目をさまして
、みんなおおきい目をしてお互いを眺あった。広場にいた馬が起きあがつてぶるぶると胴震いすれば、猟犬は飛びあがつて尻尾
を振る・・・料理番は小僧の横面を張り飛ばしたので小僧は大声で泣きわめき、下女は鶏の毛をむしり終わったのだつた。」
?キャンベルさん英事言う師。ぼ師匠は無をくどく師。でも今暗い時は何とかあ軽くしたいのがさあとりあえずは必要
鬼さんは試見よと今此処有る苦か
224
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/02/07(水) 22:36:27 ID:1d4drIFg0
ただひたすらに観るがよいのじゃ。
そうすれば目覚めるのじゃ。
225
:
素人A
:2018/02/08(木) 09:34:18 ID:gOqWUDAs0
ヨーガ根本教典 二・五四〔制感〕制感とは諸感覚がそれぞれの対象と結びつかない結果、まるで心自体の模造品のようになった
状態をいう。 佐保多さん解説 制感とは諸感覚をその対象から手元に引き戻す。或いは感覚が対象に向かって動こうとするのを
引き止めるという意味である。感覚がその対象に結びつこうとする動きを引き止められて自分独りの状態に取り残されると、諸感
覚はあらゆる心理状態の実体である心の模造品のようになる。各感覚がそれぞれ独立に外界の色、声などの対象と結びつくことを
やめ、器官と心の一体になっているのが制感である。と 一体ぜんたいなにが始まりかそれはヨーガ有る世界?色即是空?
二・五五 制感の行法を修習していくならばついには諸感覚に最高の従順さが生ずる。 佐保多さん・・・特に最高の従順ささと
言うときには、心が専念状態である時に感覚もまた外部の知覚を受け付けないことを意味している。そして最後に心の働きもこれ
に追従して消滅する事になる。? こからヨーガの用が端◎と基本は大切だ空 宇宙もビックバンがあり ブラフマン妄想竹刀
鬼さんが目覚めるの蛇とか言っているから今はヘビーな夢の中に居るのか?
226
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/02/08(木) 21:49:24 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、感覚を制するのじゃ。
そうすれば夢も消えるのじゃ。
227
:
素人A
:2018/02/09(金) 11:05:27 ID:gOqWUDAs0
最近私は能天気な天国からな闇な世界に活かされて、試行錯誤のこの世の学校でまあ何だかんだ大変だなあでも心くだけ
ないぞでネットも瞑想から迷走して、苫米地さんから丹波さんから出口を求め出口仁三郎さんの霊の大本の講義を学ぶ。
死んでも心と魂は生きている当たり前だ。今この世の学校で学んであの世の霊の世界を自分の心が選んでいるという
事なのか。宇宙飛行士は宇宙に出だだけで心が広くなって国に捕らわれない心が広くなるのは何故か?日本に生まれたら
日本の生き方や宗教になるしアメリカなら自動的にプロテスタントになるし北朝鮮学校は金さんの言う事聞くようになる
しで心にもちずがある野鴨。兎に角我々は試見ると肉体環境が一体難題でこの世の学校で楽し苦苦し苦で学んで行く。
この世で学ぶあの世の話
https://www.youtube.com/watch?v=gM-CQ_kyoJg
臨死体験気功瞑想サイト
http://www.geocities.co.jp/noboish/case/index-c.html
228
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/02/09(金) 22:20:06 ID:1d4drIFg0
善い事をして良いところにいくとよいのじや。
229
:
素人A
:2018/02/10(土) 09:01:52 ID:gOqWUDAs0
宗教とは?現代の人々が認める宗教は?とりあえずの心の安心を得られるのは金儲け?金があれば煩悩とか物質的安心は得ら
れる鴨。でもこんな物は生きている時だけ通用し、死んだら通用しない死、一安心できない宗教としては死んでからも安心の
保障が無いとまあ宗教とは認められるか?嘘でも一安心があれば宗教か?誠があれば嘘でも方便になるからまあ最低宗教は
宗教といえるのか?とにかく門を広く開かなきゃ誰も宗教門には入らないから、キリスト教や浄土真宗などあの世で阿弥陀
さんの処手で修業すれば良いと有今は煩悩にまみれて向上心もなくてもそんな人があの世で真面目に修業するのだろうか?
まあ夢が最低でも続けば宗教かも?昔のエジプトでは珠死生が三周半のレベルより低いと魂が合成動物に食われて消滅する
という脅しもあるけど、まあ文句があると寂れた宗教しか残らないしまあこの世を越えた大法輪もあると教義があれば
さあとりあえずでも宗教と認められる野鴨?まあそのうちレベルをあげれば゛まあよいか。?苦しい時は低いレベルの煩悩
に一時的に逃げるて逃れるのもあるけど根本的に苦しいを消すのはレベルの高い瞑想や坐禅しか無いのかでもそれは現実
としての夢が終わって死なんと今を身るのはしかたない。でもコツコツと修行を重ねる野鴨レベルの高いさあ鳥な野鴨
唯物論は宗教では人安心が無い
230
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2018/02/10(土) 22:10:39 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、日々実践あるのみなのじゃ。
231
:
素人A
:2018/02/11(日) 10:15:10 ID:gOqWUDAs0
梅華 玉城さん解説・・「釈尊の眼の玉が瞑れるときも、雪の中で梅の一枝は花開いている、今や見渡す限りのいばらや
刺ばかり、それを笑うように春風は華の咲き乱れるなかを吹きわたつているが如しである」このいばらや棘ばかりを、
道元はどう処理しようとしているのであろうか。もし魔がさして眼の玉が見えなくなったとき、「今日はわたしの今日
である、大家の今日なり。直に梅華眼晴なるべし、さらにもとむることやみぬ」もとめればもとめるほど、眼の玉は
見えなくなる。もとめてはならない、そして今日ではなく大家の今日だと気づくべきである。・・・
?来るしくて悟りもとめても求めては絡まりばかり、霊界物語で地獄で救われる呪文は神様このままたすけて修行します。
唱えると。たぶんファイナルファンタジーの呪文はこれのパクリなのか?で修行の旅は続く。
今は修行中の身だしまあ良いか出口王仁三郎の霊界探検〜『霊界物語』
https://www.youtube.com/watch?v=Ze_7XIc-M44
232
:
素人A
:2018/02/12(月) 09:15:05 ID:gOqWUDAs0
神話の力集合的無意識の元型・・・これらのモナドは当該の文化における「民族的観念」の集合の地域的な組織であり、
これは人類共通の根源的エネルギーと無意識の衝動を、その時々の必要と関心に応じてさまざまに配列しています。
このエネルギーは生命の本質に属する生物エネルギーであり、もし制御されないなら、恐るべき姿で現われ、
凄まじい破壊性を示すのです。もっとも原始的かっ恐ろしいものは、生命の無心な貪欲さです。生命は他を食らって
生きます。母親の乳房に吸い付く乳児の関心もこれとおなじようなものです。こうしてやすらかな眠りが、悪夢に変じ、
人食い鬼、人食い巨人、じりじり近寄る鰐などが姿を表すことになります。・・・第二の根源的な強制力は第一のものと
密接に結びついており殆ど見分けがつかないほどです。それは性衝動ないし生殖衝動です。これは子供時代から抜け出る
移行期数年間に知られるようになりますが、そのときには先の第一の要求さえも凌駕するほど切迫したものとして現われます
。なぜなら此処で語られるのは種だからです。種が固体を凌駕してしまうのです。・・・人間を動かしている第三の動機は、
略奪の衝動です。これはよほど抑えがたいものであるらしく、世界という舞台の上でーおよそ紀元前二千年以来ー世界史
という芝居の筋書きを作ってきたのはもつぱらこの衝動だといえましょう。これはおそらく食いつくし消費しつくそうと
する生物エネルギー的な延長にあるものとして解釈されるかもしれません。しかしここにみられる動機づけは、そうした
根本的な生物的衝動とは全く異なっています。それは目に由来する衝動であり、消費するのではなく所有しようとする衝動
なのです。このことを典型的に示している文章は聖書の中にもふんだんにみいだされます。(もうすこし続くのか)
233
:
素人A
:2018/02/13(火) 09:04:29 ID:gOqWUDAs0
法華転法華(つづき)・・いわゆる「法華に転ぜられる」と言うのは、心が迷う事である。心が迷うというのは、とりも
なおさず「法華に転ぜられる」という事である。要するに、心の迷うことは「法華に転ぜられる」に外ならない。その意味は万
事悉く心の迷いであるとしても、そのありのままの相(すがた)は法華に転ぜられているのである。この転ぜられているという事
は、喜ぶべきことでもなく、期待するべきことでもなく、得るのでもなく、来るのでもない。その外には ありようが無いのだ
から、二もなく三もないのであって、ただ一仏乗あるのみである。ただひたすら 真心の一片 があるのみである。そういう訳
で、心の迷いを悔やんではならない。汝等の振舞うところがそのまま菩薩道なのである。もともと菩薩道は、このようにして諸
仏にまみえてきたのである。衆生が開示され、悟入するのはひとりひとりが法華に転ぜられているのである。火宅にも心の迷い
があり、門にも心の迷いがあり、門の外にも心の迷いがあり、門の内にも心の迷いがある。心の迷うままに門内門外、ないし門
や火宅などが現われているのであろうから、白牛車の上の開示悟入となるのであろう。?まあそれはそうであるけど我々は僧
ではないし色々な此処路の修行使用。物がないと心は彷徨いまとめられないし心が迷走するから心を収めるためには良い行いを
し人の言う事も聴こう。私の方が正しいとか言い張るのは何の勝ちもない
虹を追いかけて
https://www.youtube.com/watch?v=FdLY3GBYXOw
234
:
素人A
:2018/02/14(水) 09:09:20 ID:gOqWUDAs0
・・ひとりで菩提樹へ歩み寄りそこで<不動の地点>に身をおき東に向きました。そのとき彼の前に時間を働かす力の神が姿を現
しました。その三つの名前は「欲望」、「死」、「社会的義務」です。この神はその最初の様相たるカーマとして三人の華やか
な娘たち<欲望><歓喜><恋慕>を見せましたが゛祝福されたものはいささかも心を動かしませんでした。次に神は恐れを呼び起こ
す姿をとりました。たちまち食人鬼の軍勢が現われて、武器や火や山までも祝福された者の上に投げつけたのですが、釈尊はま
ったく動じませんでした。すると飛んできた武器は空中で花の捧げ者に変容したのです。最後に<地上の義務>の神ダルマ、この
世を支配する神が出てきて、詰問しました。自らの王国にまつたく無関心にそこに座っている権利がおまえにあるのか。と。す
ると未来の仏陀はただ右手を動かし指先で大地にふれただけでした。そのとき一つの声が天地に響き渡りました。汝のよこしま
な試みを止めるがよい。おとなしく去るがよい。その徳によってこの中央の場所に到達した<偉大なる存在>がその決心を捨てる
ことはけつしてないであろう。するとその神は、娘たちと軍勢とともにすがたを消しました。そしてその夜<祝福されたる者>は
(1)超越的なビジョンの眼(2)諸生の彼方にある生の智(3)万物が相互依存において生成するという縁起の法、という三つの
理解を得たのです。それゆえ彼はいまや「覚者」つまり仏陀の根源となりました。それから釈尊は世界の中にあつて目覚めた
ままとどまり神秘的な道の教師となつたのです。?写したけど私の書く行が詰まつている仏と蛇で仏陀あれ字が違う
詰まり下りいにクダラナイ ?私は書く別の思いや悩みや遊びや煩悩に取り組まれて仕事は?適当に暇で5ちやんは暇を見つけて
今まで書いたメモをコピーした
235
:
素人A
:2018/02/15(木) 10:08:24 ID:gOqWUDAs0
ショーペンハウアー自身の決定的な貢献は次の認識にあります。私たちの外的な目は時空の場の中のみかけの現象しか見かけ
ませんが、しかしこれらの現象全ての内的経験は、意欲する主体としての彼、彼女、ないしそれ自身の経験なのです。この内
的経験はー私たちには隠されていますがー実際は、アートマン=ブラフマンすなわち普遍的自己のエネルギーの経験なのです。
ただそれは幻影である個人自身の死の恐怖および幻影としての生存への欲望によつてサンサーラ(時間的な幻影の影)に繋がれ
ているのです。つまり(生の意志)の衝動は自分自身としてのアートマンの経験ですが、それはーショーペンハウアーの認識で
はー「同情」(慈悲)の洞察という形でのみ生起します。それは菩薩の性質に他なりません。彼は有名な論文「道徳の基礎につ
いて」の中で次の問いをだしています。(続く)?後はアートマンに私ても申告な問題で忙しく何も考える余裕はありません
さあいいかげんな棚卸棚卸
236
:
素人A
:2018/02/16(金) 08:36:52 ID:gOqWUDAs0
道とは何は〔76〕上堂「何かしゃべつたものかどうか、道を体得した上での発言なら、一日中
しゃべつてもみな道にかなつているが、道を体得しないままでの発言なら、一日中みな俗物である、
まあ言ってみよう、道と物とは一体か別か」。 ゾクゾクして答えるのは落とし穴に嵌るのか?
出口さんの霊界物語ネタは聖書やキリスト関係や日本の神神や霊界天国地獄の話だけどどんな
出鱈目でも道にかないなるほどになるけど。さあとってない他の人が正しい話語っても何か道に
かなっていないのはなぜか?この世の身という衣とったらその人の心しだいの世界という。
いまは身に守られて修行しているとして、心だけでは世界はこころもとない。心が何も思わない
ときはみなシーンとして平等に聖者句の静寂の正解鴨 今朝はこれから色々急がされるぞう
霊界物語
https://www.youtube.com/watch?v=AUczeiBEMWA
237
:
素人A
:2018/02/16(金) 22:25:07 ID:wVAiAl6o0
ひとは心という珠しい号を自在に運転できる世うに
この世うという自動車教習所で心の運転技術を学ぶんだろえなあ
心とはエネルギーだから免許のない心我道路に飛び出したら
こころの衝突だらけ交通事故の地獄の世界なの鴨 心もルールと
技術を身に付ける必要がある
238
:
素人A
:2018/02/17(土) 09:27:32 ID:wVAiAl6o0
「父母誕生境地前の一句をもって来い。有名な人の本の丸写しではだめだ。」と言われた香厳さんは再三努力して何か
をひねり出そうとしたがどうても出来無い。深く我が身をうらみこれまで蓄えてきた本を開いてさがしたけれども、
ただ茫然とするだけである。ついに彼は本を焼き。「絵に書いた餅は腹の足しにはならない。私は誓うこの世で仏法を
会得しようしは望まないただ食事の給仕僧になろう」と。あるとき彼は大いにもうした「私は心が暗くてとても体得
する事はできません。和尚どうか私に教えてください。」大い「教えてやっても良いがそうしたらお前は後で私を恨む
だろう」と。このようにして年月をへて大証国士の庵のあった草庵に住むことになり竹を植え友としていた。あるとき
道路を掃除した折に小石を箒で飛ばして竹にあたった。カーンと響きをたてた。同時にかれは、かつねんとして大悟
したという・・・・?長いので写すの疲れた
239
:
素人A
:2018/02/18(日) 10:08:08 ID:gOqWUDAs0
・・精神は経験のさまざまな中心ないし元型的な段階を通じて向上する、という考えがありますね。人は餓えと貧欲という元初的
動物としての経験から出発し、性的な情熱を経て、色々な種類の肉体的・物理的な熟達や支配に至る。これらはすべて経験能力を強
める段階です。しかしそのあと、経験が心臓の中心に達して、他人や他の動物に対する慈愛の念が目覚め、自分と相手とがある意味
では同じ生命を共有している存在だと自覚するとき、精神のうちに全く新しい生命の段階が展開します。こうやって心が世界に開か
れる。処女降誕はまさしくそのことを神話的に象徴しているのです。それは健康、生殖、力、そして少しの楽しみといった単なる肉
体的な目的を追求する原初的な動物的存在でしかなかった人間のなかに、精神的生活が生まれたことを意味します。だがここでまた
別のものにぶつかる。こうした思いやり、他者との調和、さらに進んで他者との一体感を抱くということ、心のなかに新たに宿った
原理ー私たちが尊重し、それ仕えるべき善としての、エゴを越えた原理ーとの合一を経験することは、まさしく疑いも無く、宗教的
な生命や経験の初まりです。そしてそれがあらゆる時間的な存在などその影にすぎない、一者としての存在を十分に経験したいとい
う、命をすりへらすような探求へと人を導くかもしれません。さてあらゆる存在の究極的な基礎は二つの意味で経験できます。一つ
は形象の経験であり、もうひとつは、形の無い、あるいは形を越えたものの経験です。あなたは神を形のあるものとして経験すると
き、その結果として神を見る。まず主題があって対象ができる。ところが究極的な神秘の目標は、自分と神との合一体験です。そう
なると二元性は超越され、形象は消えてしまう。もはやそこには誰もいない。ーあなたも神もあらゆる観念を超えたあなたの心は、
あなた自身の存在の基礎にとの合一によつて消滅してしまう。?本の書き移しで藤井六段の手は見えない
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