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鬼和尚に聞いてみるスレ part9

451鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/23(水) 21:27:55 ID:1d4drIFg0
>>448 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>449 そうじゃ、その心構えで観察するのじゃ。
 同じものを観ようとすれば記憶を観ていることになるからのう。
 それでは今まで気付かなかった自分には気付けないのじゃ。
 気付かなかった自分を見る為には新しい何かを観る心構えが必要なのじゃ。

>>450 どういたしまして、またおいでなさい。

452としぼっくり:2017/08/23(水) 21:51:00 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。新しい何かを探すために観察して行こうと思います。

453鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/24(木) 20:27:54 ID:1d4drIFg0
>>452 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

454としぼっくり:2017/08/25(金) 10:09:45 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
逃避を無くすにはどの様にしたらよろしいのでしょうか?

455としぼっくり:2017/08/25(金) 19:05:48 ID:DAY232aw0
>>454鬼和尚さんすいません。改めて質問させて下さい。
逃避しない様にするにはどうしたら良いのでしょうか?

456鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/25(金) 21:42:25 ID:1d4drIFg0
>>454>>455 それには先ず自分が逃避していると気付くことが大事なのじゃ。
 気付かなければしないようにすることもできないのじゃ。
 そして逃避の原因を追究するのじゃ。
 恐れとか、痛みの記憶とか、執着などが逃避の原因になるものじゃ。
 それらの原因から逃避が起こり、原因が無ければ逃避も無いと観察するのじゃ。
 そうすれば逃避もまた止まるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

457としぼっくり:2017/08/25(金) 22:02:16 ID:DAY232aw0
丁寧なご回答本当にありがとうございます。いつも分かりづらい質問で申し訳ありません。早速実践して行きます。

458鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/26(土) 21:40:26 ID:1d4drIFg0
>>457 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

459香雪:2017/08/27(日) 08:32:18 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
認識についてご質問があります。よろしくお願いいたします。

過去の掲示板の中で「阿頼耶識による認識は後頭部や首のあたり」というのを拝見しました。
音を聞いている場合、後頭部や首のあたりで聞いている感覚は、認識が作用しているということなのでしょうか?
今朝の数息観ではそのような感覚を得て、耳で聞くと言うよりも認識が聞いていると感じ思いました。

それから、これも数息観の間だけなのですが、雑音が多い中で数息観をしているので、
勘違いかと思っていたのですが、建物がパチンと鳴るような一瞬の物音が鳴ったりすると、
身体が揺らぐような何かが同時に揺らぐような感じがします。

自我の観照も起こっていない状態なのですが、認識についての感覚を得ることなどあり得るのでしょうか?

460避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 11:08:04 ID:czRftzgI0
思考が自分ではないについて観察と思索で出た結論は以下の感じです。
記憶から認識されて無自覚に生じるのが思考(とその結果起きる感情も)であり、それは身体の作用にすぎない。どんな考えも辛い感情も嬉しい感情もいつまでも続くことはなく、必ずいずれは消える。
本来自分とは消えないものだから、現れたり消えたりするものが自分であるはずがない。よって、思考は自分ではない。
和尚さん、何か足りない箇所はありますか?

461避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 16:42:07 ID:czRftzgI0
過去ログに「深い瞑想や眠りに入る時に過去を辿って生まれる前まで遡れば、過去生が見えてくる」とありました。
時間を遡り知識を使って受精卵になるまでイメージできたとして、それよりまえは何をイメージすればいいのですか?

462としぼっくり:2017/08/27(日) 17:30:12 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
自分を頼りにした方が良いのでしょうか?

463避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 18:14:29 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん、身体の一部を失う事になりそうなのですが
そのことを思うと生じる苦悩をどうやって越えていけば
良いのでしょうか?

464蓮恵:2017/08/27(日) 19:53:54 ID:QZjWADYU0
和尚様
我々の普段、自分の心だと自覚している心が、実際の本心とかなりの解離があると知る機会がありました

自分の感覚が全て正しいと思わず、
常に疑念を抱き続けることも必要なのでしょうか

465鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/27(日) 21:19:19 ID:1d4drIFg0
>>459 認識は常に作用しているのじゃ。
 それに気付くことが肝心なのじゃ。
 気付けば変容が起こるじゃろう。
 起こらないならば気付いていないのじゃ。

 瞑想をしていれば空間にも意識は広がり、敏感になるものじゃ。
 音も自分の中から発したように感じるのじゃ。
 それらにも囚われれば魔になるのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>460 そのような理解でも善いのじゃ。
 後は実践によってそれを観察し、確かなものとして気付くのじゃ。
 そうすれば思考と自分の同一化が完全になくなるのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>461 知識によるイメージではなく自分の感覚を思い出すのじゃ。
 それはよく観察すれば残っているものじゃ。
 恐れが無ければ全て見えるじゃろう。
 
>>462 そうじゃ、自分を頼りにするのじゃ。
 他人を頼ってはいかんのじゃ。
 自分の目的に邁進するのじゃ。

466鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/27(日) 21:26:44 ID:1d4drIFg0
>>463 全ての生き物はいずれ必ず肉体の全てを失うものじゃ。
 それが苦になるのは肉体への執着があるからなのじゃ。
 執着があれば苦があり、執着がなければ苦は無いと常に観るのじゃ。
 そうすれば苦はなくなるじゃろう。

>>464 そうじゃ、常に疑念を持って観察すると善いのじゃ。
 今ここに認識する自分さえも本当に自分であるのか観察してみるのじゃ。
 そうすれば自分がどのようなものであるのか本当に見えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

467避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 22:26:01 ID:czRftzgI0
>>460>>461
はい、できるかどうかわかりませんが、やってみようと思います。ありがとうございました

468としぼっくり:2017/08/27(日) 22:39:41 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。自分を頼りにして行こうと思います。
質問ですが、鬼和尚さんの止観法で悟りを得た人はいるのでしょうか?

469避難民のマジレスさん:2017/08/27(日) 22:50:30 ID:Y5LPInQE0
>>466
やってみようと思ったのですが、執着とは何だろう?とか雑念が湧いて来たり、執着がある状態、執着がない状態というのがイメージ出来ず、上手く行きません。

また、そうは言っても、どうしても無くすのは嫌である、とても自分には受け入れられないとも思ってしまいます。

どうにかして失わずに済む方法があるような気がして、そんな事は無いと分かっているのに、失う事なんて考えたくない気持ちもあります。

470香雪:2017/08/28(月) 18:33:55 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様 ご返事ありがとうございます。
常にということですが、正直とても難しいと感じています。
ですが、今回感じたことを手掛かりすれば、
何とかなるかもしれないとも、また一方では思っております。
変容を目指してがんばります。

瞑想中の知覚に関しては、どこまでも自分の進度を図る物差しとして、
何とか囚われずに進めていければと考えております。
今後も精進しようと思います、ありがとうございました、失礼します。

471鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/28(月) 21:48:14 ID:1d4drIFg0
>>467 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>468 まだじゃろう。
 おぬしが悟れば最初の一人となるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>469 数息観もするとよいのじゃ。
 イメージはしなくてよいのじゃ。
 そのなくすのは嫌とか自分には受け入れられないと言うのが執着の想いなのじゃ。
 失わずにすむ方法があるような気がするのも、考えたくないと思うのも執着なのじゃ。
 それを受け入れ、肯定も否定もせずにありのままに観察するのじゃ。

 手術をできるかぎり遅らせて西式健康法などを精一杯やってみるとよいのじゃ。
 健康になると強く念じれば健康になるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>470 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

472としぼっくり:2017/08/28(月) 23:02:39 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、鬼和尚さんが10年位説法しているのに何故一人も悟りを得た人はいないのでしょうか?

473そらいろ ◆EHlCk/f57s:2017/08/29(火) 02:06:07 ID:1ATs4QSA0
鬼和尚
自殺しようとしている人に対してどのような言葉をかければよいですか?

474避難民のマジレスさん:2017/08/29(火) 17:04:37 ID:Y5LPInQE0
>>471
数息観というか、呼吸法は、何故か苦しくなってしまい、続いた事がありません。

>それを受け入れ、肯定も否定もせずにありのままに観察するのじゃ。

これは、どうすることでしょうか?自分の気持ちを知り、書き込めるのだから、ありのままに観察できているように思います。

475鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/29(火) 22:14:45 ID:1d4drIFg0
>>472 それはおぬし自身がよくわかっているじゃろう。
 自己を見ることの恐れ、悟りへの恐れ、自己が消えるという恐れ、。
 そのような恐れがあるたびに心は逃避してしまうのじゃ。
 それがなければ直ぐにでも誰でも悟りは得られるじゃろう。

>>473 何が問題なのか聞くとよいのじゃ。
 その問題をゆく観察するようにいうのじゃ。
 どんな問題も観察すればとけるものじゃ。

>>474 胸の中心とかに集中するとよいのじゃ。
 もっと詳細に観察するのじゃ。
 それらの想いが在ると知っただけでは観察では無いのじゃ。

 西式健康法もやるとよいのじゃ。
 死人も生き返らせたというのじゃ。

476としぼっくり:2017/08/29(火) 23:40:36 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。精進します。

477鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/30(水) 20:49:55 ID:1d4drIFg0
>>476 そうじゃ、恐れを乗り越えて精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

478避難民のマジレスさん:2017/08/31(木) 18:07:27 ID:czRftzgI0
無我について、本来一切の人の心身の働きは主体無く起こるものであるが、そこに主体があると感じ、主体があると思うのが自我を認識する働きなのじゃ。
これは、思考感情が自動で起きるのを知ることが一つ。もう一つは、身体を空の方などで観察して体が自分の意志でなく勝手に動いている事に気づいて主体がないことを知る。
最終的に歩いたりものを食べることも自動で動いていると分かるくらい身体を観察しないと無我に至らないということですか?

479鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/08/31(木) 20:54:47 ID:1d4drIFg0
>>478 そのように知るのではなく気付くのじゃ。
 知識だけでは厭離は起こらないのじゃ。
 自ら心身を観察して気付くのじゃ。

 実践していつでも気付きが起これば無我になるじゃろう。
 どのくらいで起こるかは本人次第なのじゃ。
 一度観たら起こるものもいるかもしれん。
 何度も観なければならないものもいるかもしれん。
 最後までやり遂げる者に無我の門は開くのじゃ。

480避難民のマジレスさん:2017/08/31(木) 22:04:13 ID:czRftzgI0
はい、私も知識ではなく実感するのが大事と心得ております。感情は体の作用であることはだんだん実感し始めております。
が、身体はまだまだ手の観察を始めたばかりで達成は遠い先のようです。けれど、時折自分の体の一部を物のように感じたり、一瞬体が勝手に動いてるような気がする時があります。
更に集中を深めて観察したいと思います。

481避難民のマジレスさん:2017/09/01(金) 07:31:22 ID:czRftzgI0
思考を観察すると、ある事柄に意識を向けるとそれに関係のある記憶が想起・認識されることで、その事柄についての思考が起きるように思われます。
意志で行っているのは意識を向けることだけなのにそれ以降の作用も自分の意志でやっていると錯覚することで、自分が思考しているのように感じられる。
以上のように観察しましたが、どうでしょうか?

482としぼっくり:2017/09/01(金) 15:06:04 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
観察はどうやってするのでしょうか?

483避難民のマジスレ:2017/09/01(金) 20:41:14 ID:7vAopbZ60
鬼和尚様
道元禅師は悟っているのでしょうか?

484鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/01(金) 21:45:33 ID:1d4drIFg0
>>480>>481 そのような観察でよいのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>482 観たり聞いたり感じたりしたことをありのままに受け入れ、認めるのじゃ。
 自分は今息を吸ったとか、吐いたとかでもよいのじゃ。
 それもまた観察の元になるのじゃ。
 そのようにして心身を観察するのじゃ。

>>483 悟っているのじゃ。
 今もおぬしの心にいるじゃろう。
 観てみるとよいのじゃ。

485避難民のマジレスさん:2017/09/01(金) 21:47:34 ID:czRftzgI0
>481
それは良かったです。また来たいと思います。

486避難民のマジレスさん:2017/09/01(金) 22:23:12 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

487474:2017/09/02(土) 00:04:26 ID:Y5LPInQE0
>>475
鬼和尚さん

>それらの想いが在ると知っただけでは観察では無いのじゃ。

それらの想いが在ると知る事と詳細に観察するとでは、何が違うのでしょうか?

488鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/02(土) 21:51:51 ID:1d4drIFg0
>>485 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>486 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>487 知っただけでは苦や恐れや逃避の反応から離脱できないのじゃ。
 自ら観察して気付いてそれらの苦はなくなるのじゃ。
 例えば道に落ちている縄が蛇に見えたとき、他人にそれは縄だと教えられてもやはり恐れは在るじゃろう。
 自分の目で縄であると確認するまで恐れは心にあり続け、行動も制限されるのじゃ。
 
 同じように人の心にも執着などの想いがあれば、それがあると知っただけではなくならないのじゃ。
 詳細に観察してそれが無意味な習慣とか過去の記憶によるものと気付けばなくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

489避難民のマジレスさん:2017/09/03(日) 06:20:39 ID:4JU0ODqY0
いつも教えていただき、ありがとうございます。
仕事は苦行です。怒りが生じ、苦も生じます。
怒りが生じることで観察のチャンスがあるはずなのですが、
私の技量では観察する余裕はありません。
苦が生じるために、修行への意欲は高まるかもしれません。
しかし、時間の大半を他人のために売り渡すことになります。
金銭的な問題がクリアされているならば、仕事は辞めた方がよいのでしょうか?
このところ、ずっと悩んでいます。

490避難民のマジレスさん:2017/09/03(日) 17:48:25 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
>>482で観たり聞いたり感じたりしたことをありのままに受け入れ、認めるのじゃ。
と仰ってますが、ありのままに受け入れるのが難しいです。どうにか良い方法は無いのでしょうか?

491香雪:2017/09/03(日) 20:45:28 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
ブログ拝読しました。ありがとうございます。
今日も認識について伺いたく思います。
阿頼耶識の認識とは、例えば中空を眺めて焦点を定めない時は10人の人が何をしているか一度に分かる。
そして、そのうちの一人に焦点を定めた時に、自我の観念が起こり消えていく。
このようなものですか?

それから、阿頼耶識を色で無理にでも表すならば白で空観をすると無色透明になり雲散霧消する。
こんなような想像と言うか、妄想をしたのですが、これはもしや意外と本当だったりしますか?
よろしくお願いいたします。

492鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/03(日) 22:03:48 ID:1d4drIFg0
>>489 そうじゃ、しないでよいのじゃ。
 働くのは身を養うためであるからのう。
 金銭があるのならば働かないで修業したらよいのじゃ。
 周りの目がうるさいというならば自分で会社を作って働いているふりをすればよいのじゃ。
 
>>490 その時はありのままに受け入れられないと観察するのじゃ。
 逃避が起これば逃避したと観察し、隠蔽したならば隠蔽したと観察するのじゃ。
 そうすればその反応さえも消えていくのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>491 それはまだ自我の起こらない忘我の状態なのじゃ。
 阿頼耶識による認識は何かがあると感じた時点で既に起きているのじゃ。

 そのような理解でも善いのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

493としぼっくり:2017/09/03(日) 22:29:08 ID:DAY232aw0
ありがとうございございます。実践して見ます。

494避難民のマジレスさん:2017/09/03(日) 23:05:11 ID:Y5LPInQE0
>>492
鬼和尚さん、横ですが

>その時はありのままに受け入れられないと観察するのじゃ。
>逃避が起これば逃避したと観察し、隠蔽したならば隠蔽したと観察するのじゃ。
>そうすればその反応さえも消えていくのじゃ。

逃避や隠蔽を観察できたら、もう二度と、そのことで逃避や隠蔽は起き無いのでしょうか?
何度も逃避や隠蔽が起こる場合は、どうしたら良いのですか?

逃避や隠蔽を観察出来れば、その反応が消える仕組みを教えてください。

495487:2017/09/03(日) 23:25:52 ID:Y5LPInQE0
>>488
ご回答ありがとうございました。

>詳細に観察してそれが無意味な習慣とか過去の記憶によるものと気付けばなくなるのじゃ。

詳細に観察するとは、どうすることですか?無意味な習慣と分かっていても中々無くなりません。

496としぼっくり:2017/09/04(月) 15:08:07 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
ありのままがわからないです。ありのままとは一体何なのでしょうか?

497香雪:2017/09/04(月) 19:08:20 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
ご返事ありがとうございます。なるほどこれが忘我なのか、と納得できました。
阿頼耶識はやはりとても難しく、そもそも自我は空と念じたところで心身共にざわめいてる始末です。

しかし、このたび教わったことを手掛かりにして、阿頼耶識は白のような想像も加味しつつ、
最後まで実践していこうと意を新たにできました。

ありがとうございました。

498鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/04(月) 20:32:23 ID:1d4drIFg0
>>493 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>494 完全に観察されるまでは起こるじゃろう。
 完全に観察されれば起こらなくなるのじゃ。

 何度も観察するのじゃ。
 観察が出来ればそれが自分ではなく、自分のものではないと気付くからなのじゃ。
 自己同一化がなくなるのじゃ。
 逃避や隠蔽していた自分という観念が客観的に観察されてなくなるのじゃ。
 客観的に観察されたものは自分ではないからのう。

>>495 それを何度も観察するのじゃ。
 そうすれば自然に詳細に観察する事になるのじゃ。
 何度も観察して気付けばなくるのじゃ。
 知識ではなく気付くことでなくなるのじゃ。
 それには何度も観察するしかないのじゃ。

499鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/04(月) 20:34:18 ID:1d4drIFg0
>>496 ありのままとは何の付け足しも省略もしないことなのじゃ。
 怒りが起これば怒ったと観察する事なのじゃ。
 怒らなかったとか、これは小さい怒りとか思えばありのままではなくなるのじゃ。
 それがありのままなのじゃ。

>>497 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

500としぼっくり:2017/09/04(月) 21:46:25 ID:DAY232aw0
いつもすいません。勉強になりました。ありがとうございます。修行続けて行こうと思います。

501蓮恵:2017/09/04(月) 22:12:47 ID:fDmYjxio0
鬼和尚さま

この世界の全ては意識でできているのでないでしょうか。

同一同体であり、不可分の意識です。
観念が生じれば分割されますが。

分割がなければ意識が材質というよりも、世界そのものが一つの意識であるというか

502避難民のマジレスさん:2017/09/05(火) 05:57:08 ID:fpGbb5P20
>>492 ご教授ありがとうございました。
いろいろな観念に捕らわれていて、自由な行動ができません。
働くべきだ、などといった社会通念も自己観察で滅することができますか?
原因として思い当たるものが多すぎます。

503避難民のマジレスさん:2017/09/05(火) 17:49:44 ID:Y5LPInQE0
>>498
縄が蛇かどうか見極める勇気が無い場合、自分は逃避しているといくら観察しても
見極める勇気は得られないのではないでしょうか?

504としぼっくり:2017/09/05(火) 18:05:39 ID:DAY232aw0
お礼に続けて申し訳ないです。
質問ですが、観察が中心なのでしょうか?

505sage:2017/09/05(火) 20:44:25 ID:vd1QzfGM0
観照が起こる条件について確認させてください。

観照が起こるためには、前提として自我を捨てる覚悟を持ち「体の各パーツや思考など」に対する
自己同一化を観察により厭離させる必要があり、ほとんどすべての対象への自己同一化が消滅したとき
観照が起こり、無我になる、で合ってますか?

微妙な違いとかがあれば指摘してくれると助かります。

そして、鬼和尚の教えでいうと観照が起こるためには
「自己同一性が付与された対象を観察して厭離すること(自己同一化の観念を厭離させること)」が直接的に必要なのであって
「「褒められるのは良い」とか「学歴がないのは悪いことだ」というような自我の種々の好悪の観念などは厭離させる必要性はない(観照を起こすという観点からのみ見た場合)
ということで合ってますか?

506鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/05(火) 21:35:31 ID:1d4drIFg0
>>500 どういたしまして、またおいでなさい。
 
>>501 そうじゃ、全て意識なのじゃ。
 分別がなければ一つであることが感じられるのじゃ。
 それは知識ではなく感じることなのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

>>502 出来るじゃろう。
 旅に出るなどの今の環境から離れることで、それも観察できるようになるじゃろう。
 他人から離れることで、他人からの条件付けもわかるようになるのじゃ。
 実践してみるとよいのじゃ。

>>503 逃避していると観察できたならば既に蛇を観ているのじゃ。
 それもまた反応のひとつであるからのう。
 実践によって確めるのじゃ。

507鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/05(火) 21:41:18 ID:1d4drIFg0
>>504 そうじゃ、観察によって悟りは訪れるのじゃ。
 集中の瞑想はそのための集中力を身に付ける役に立つだけなのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>505 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践によって確めるのじゃ。
 またおいでなさい。

508避難民のマジレスさん:2017/09/05(火) 23:46:30 ID:Y5LPInQE0
>>506
鬼和尚さんは、下記のように言っています。

>質問ですが、鬼和尚さんが10年位説法しているのに何故一人も悟りを得た人はいないのでしょうか?

>>それはおぬし自身がよくわかっているじゃろう。
 自己を見ることの恐れ、悟りへの恐れ、自己が消えるという恐れ、。
 そのような恐れがあるたびに心は逃避してしまうのじゃ。
 それがなければ直ぐにでも誰でも悟りは得られるじゃろう。

逃避しているならば、逃避していると観察すれば、逃避は消えるんですよね?
しかし、それだけでは、自己を見る事が出来ない、自己が消えることの恐れを
乗り越えられないのではないですか?

逃避が無ければ直ぐにでも悟りを得られるのに、誰も悟りを得られていない
=誰も逃避が無くなっていないという事ですよね?

逃避している事を観察しても逃避は無くならないと言う事の証明のように
思えるのですが?

また、世の中には自殺者が居ますが、この人たちは、自己が消える恐れを
乗り越えているのに、どうして悟りが訪れなかったのでしょうか?

509sage:2017/09/06(水) 18:10:05 ID:vd1QzfGM0
>>507
ありがとうございます。

あと、阿頼耶識を厭離するっていうのは、膨大な阿頼耶識の働きのほんの一部でもとらえられたら、
膨大な規模を誇る阿頼耶識のすべてが消滅するんですか?

例えば「今、目の前の物体をコーヒーカップだと阿頼耶識により認識している」、という過程がとらえられたとして、
たったそれだけで過去から現在に至るまでに蓄積された膨大な観念のすべて、諸々の悪感情や想念のすべてが
消え去る、というのは少しむしが良すぎる感じがするんですが、、

510避難民のマジレスさん:2017/09/06(水) 18:59:58 ID:czRftzgI0
ある思考・感情があるとして、その原因を観察するのが苦滅、原因から思考・感情に至る過程を観察するのが悟りの修行でいいですか?

511進路探訪者:2017/09/06(水) 19:26:04 ID:DIiPmWc60
ご無沙汰しております。

最近は、感覚と感情と自分が区別されるものだと分かりました。

嫌な感覚があり、怖いという感情が芽生えても、逆に感覚と感情を力技
で意識すると、それがはっきりしたものであるので、逆に自分そのもので
はないということが理解できました。

しかし、①刺激が強すぎると、たちまちその刺激に感覚から感情、自意識
の何から何まで囚われ区別できず、どうしようもありません。

また、②いきなり嫌な刺激に直面すると、それが感情にまで達するとして、
それを自意識と力技で区別する時間がありません。現実とは時間の流れが
速いので結局感覚に自意識が支配されてしまいます。

この2点につき、何とかならないでしょうか。

512としぼっくり:2017/09/06(水) 20:29:51 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

513鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/06(水) 20:46:44 ID:1d4drIFg0
>>508 それはまだ逃避を観ていないのじゃ。
 多くの者が悟りを求めながら悟りを回避しているのじゃ。
 それが逃避であると言うことにも気付かないのじゃ。
 
 悟りを求めない者は自己が消える恐れがなくても悟れないのじゃ。

>>509 阿頼耶識の働きはとめることが出来るようになるのじゃ。

 例えば目が見えなくなったら今見ている膨大な視点も全て消えるじゃろう。
 空を見ていても目が見えないだけで空は全て消えるのじゃ。
 そのように認識が変容すれば認識された観念的存在は全て消え去るのじゃ。
 しかしなくなったのではないのじゃ。
 いつでも使うことも出来るのじゃ。

>>510 それらはまだ苦を滅するだけなのじゃ。
 さらに根本原因が自分があるという無明であると観察して自分を滅するのが悟りの修業になるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

514鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/06(水) 20:56:33 ID:1d4drIFg0
>>511 二つとも数息観などを行い、不動心を身につければ無くすことができるのじゃ。
 心が動揺することがなくなるからのう。
 不動の心で何事も観察できるのじゃ。
 一日五分でも効果は出るじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>512 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

515避難民のマジレスさん:2017/09/06(水) 22:54:22 ID:Y5LPInQE0
>>513
では、どうすれば逃避を見られるようになるのでしょうか?

悟りを求めていないと、どうして自己が消える恐れが無くても、悟れないのでしょうか?

516としぼっくり:2017/09/06(水) 23:28:56 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
観察に集中すれば良いのでしょうか?

517避難民のマジレスさん:2017/09/07(木) 02:30:31 ID:vd1QzfGM0
>>513

509です。そうですか、一部さえ観られればそれで大悟に至れるんですね、
しかし、自分に観照が起きて、いざ認識を滅するぞ、という段階に立った際にきちんと認識を
滅するという手順を進められるか不安です。
本来は今の段階の自分がそんなこと思案する必要もないんでしょうが、、
というのも「認識を厭離する」ということが、鬼和尚の説く教えの中で今の自分自身にとっては最も想像しづらくピンと来ないプロセスなんです。

例えば、手を観察してそこから自己同一化の観念を厭離するというのはわかります、観察する対象がきちんと
目の前にありますし、そのあとの手順も、単に手を観察して観察の作用により厭離が起きればいいだけですし、
あるいは善悪の観念のような観念であっても、その観念の真偽を突き詰めていったら最終的には滅することができる、ということも学びました。

思考に対する自己同一化の厭離の手順も手を観察する際と似たようにすればいいのだろうと思います。

しかしながら、「認識を厭離させる手順」というのがどうしてもまったくピンときません、
阿頼耶識が記憶から認識するプロセスを観察する、っていったってそのプロセスは手のようにどこかにわかりやすく置いてあるわけではないじゃないですか、、
手から自我が厭離される様は無理に図として表そうとすれば脳内にイメージが浮かびますが、認識が厭離される様は手順のイメージが浮かびませんし想像もできません、
「認識のプロセスをとらえる」という様は何となく想像がつきますが、それを観察できた後にその認識するプロセスが?阿頼耶識全体が?
どんな風にどこからどこへ(どこなんていうのもたぶんないのでしょうが)どのように厭離され本来の認識が無事にそれにとって代わるようになるのかというところが
もっとも不明瞭です。

こんな状態の自分でも、いざ観照が起きて認識を滅する段階に立って認識の働きを観察することができればどうすれば認識が厭離されるか
というのは勝手にピンとくるものなのでしょうか?後から理解がついてくるようなものなのでしょうか?

観照が起こる→阿頼耶識の認識プロセスを観察できた→自分「ああ、こんな感じで厭離されるのね」→認識を厭離できた

こんな感じで簡単で自然な流れとして進むようなもんなんでしょうか?

518避難民のマジレスさん:2017/09/07(木) 07:21:48 ID:czRftzgI0
>510
そのように修行します

519進路探訪者:2017/09/07(木) 20:59:12 ID:DIiPmWc60
>514

ご指導ありがとうございます。

あれからまだ修行の実践は行っていないですが、感情というのが実は
その全てが重要ではなく、余分な感情があるから人は苦を感じると思い
至りました。

自分が法に則った言動をしていれば、仮にそれにケチをつける者がいても、
それに対して不安や恐怖で押しつぶされません。

もちろんそれらの感情はあるし、無くならない気がしますが、相手が単に
無理筋なことをいっているだけという「理屈」に集中すれば、自分の正しさに
納得が生まれ、不安や恐怖に負けないようになる気がします。

だから不安や恐怖から逃げるのと集中は外からは似てるけど違うというのも
分かってきたような気がします。

これで成長できているのでしょうか。

520鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/07(木) 21:40:17 ID:1d4drIFg0
>>515 自らの本心を真摯に観察する以外にないのじゃ。
 自分は本当に悟りを求めているのか、常に自分に問いかけてみるのじゃ。
 本当に悟りを求めていなければ到底悟れないのじゃ。
 山に登るのに強い意志が必要なのと同じなのじゃ。
 自己が消える恐れなどの一つの障害がなくなっただけでは一つの岩を乗り越えたと言うぐらいなのじゃ。
 自らの本心を受け入れ、死を超える道が修行しかないと知れば実践する気にもなるのじゃ。

>>516 そうじゃ、観察に集中するのじゃ。
 集中すれば観察できるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 
>>517 そうじ、無我になれば自然に出来るようになるものじゃ。
 もはやそれ以外に観るものはないからのう。
 後から知識によって認識を厭離したとわかるのじゃ。
 実践によって証明するのじゃ。

>>518 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

521鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/07(木) 22:03:47 ID:1d4drIFg0
>>519 実践しなければ成長は無いのじゃ。
 知識ではなく観察による気付きによって成長もするのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

522としぼっくり:2017/09/07(木) 22:12:22 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。実践して行きます。

523鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/08(金) 21:53:50 ID:1d4drIFg0
>>522 そうじゃ。実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

524避難民のマジレスさん:2017/09/09(土) 14:26:38 ID:vd1QzfGM0
>>520

わかりました、どうもありがとうございました。

525避難民のマジレスさん:2017/09/09(土) 20:12:44 ID:vd1QzfGM0
自我が消える恐怖というのは自分が消えることを心底のレベルで受け入れるだけでは完全に
消えることはないのでしょうか?

肉体を自己と同一化している観念が消えない限り自我が
消える恐れも消えないのでしょうか?つまり「自分を肉体だと思っている」限り自我が消える
恐れも消えないんでしょうか、、

526鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/09(土) 21:51:29 ID:1d4drIFg0
>>524 どういたしまして、またおいでなさい。

>>525 そうじゃ、観察が完全でないと消えないのじゃ。
 原因が肉体を自分と思っていることならば、その原因から観察する事で消えるじゃろう。
 それによって自我の投影も肉体から厭離されるじゃろう。
 実践によって確めるのじゃ。

527避難民のマジレスさん:2017/09/10(日) 06:03:11 ID:fpGbb5P20
>>506ご教授ありがとうございました。

別の質問なのですが、最近は腕時計型などの活動量計なるものがあり、
睡眠の深さを計ったりできるそうです。
この装置は、止の行の進捗具合の目安として使うことができますでしょうか?

528避難民のマジレスさん:2017/09/10(日) 10:29:23 ID:czRftzgI0
苦滅はその苦を消すことはできても対症療法に過ぎず、自我が無限に作られ続けることまで抑えることはできない。しかも膨大な苦を消し尽くすのは無理。
根本的に自我による苦を消すには悟りしかないと気づいたのですが、合ってるでしょうか?

529避難民のマジレスさん:2017/09/10(日) 14:20:06 ID:czRftzgI0
HPに集中法が書かれていますが、これと制感の法とはどんな関係がありますか?
先に集中してそれから制感するとさらに集中度が上がるのでしょうか
どちらかだけでは不十分でしょうか

530鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/10(日) 21:20:12 ID:1d4drIFg0
>>527 できるかもしれん。
 計ってみるとよいのじゃ。
 いろいろ試してみるのじゃ。

>>528 そうじゃ、そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践するがよいのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>529 制感は集中の助けになるものじゃ。
 外で物音がするたびに集中が途切れたら瞑想も出来ないからのう。
 感覚を制御して集中を深める効果があるのじゃ。
 鋭敏すぎて外の刺激に反応しすぎる者が制感をするとよいのじゃ。
 しなくても集中出来る者はしなくてよいのじゃ。
 自分に合わせて法を選ぶのじゃ。

531進路探訪者:2017/09/10(日) 22:03:07 ID:DIiPmWc60
>>521

ご返信ありがとうございます。

しかし、日常の仕事での会話の中でさえ何か掴んだ気がします。

自分の感情に怒りや恐怖、不安もあるけど、他方で相手を諭したり、
相手の悪い点を指摘したいという感情もたしかに全て存在している。

問題はどう感じるかではなく、どれを選び取るか、その時にどれを
とるべきかを、きちんと自分の意思で納得して選び取ろうとすること
が大事な気がします。

これが不動心と同じ感覚なのだなと納得したと考えています。

532避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 01:46:10 ID:YAWI8URw0
無我になる→そのまま今に集中する(観察)→サマタ瞑想の第四禅定の状態になる
体感として言葉にしにくい領域だと思うけど認識を滅するってこんな感じの事?
無我になった状態でただ集中(観察)してればその内体感できるって事でいいの?
(この段階だと「する」っていうより「ある」とか「いる」だと思うけどまぁ便宜上)

533避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 03:45:08 ID:YAWI8URw0
初歩的な質問で悪いけどそもそも阿頼耶識って何?
それと自我を消した後ただ心の作用を観察してればいいの?

534避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 04:25:15 ID:YAWI8URw0
認識(阿来耶識)から関連付けされる記憶の観察?
533の心の作用の観察は忘れて

535避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 07:16:22 ID:czRftzgI0
>529
今までの問答で何をするかはわかっているので、実践するだけです
どうもありがとうございました

536避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 18:05:30 ID:YAWI8URw0
>>532〜534の質問はやっぱり答えなくて良いです
自己解決出来ました

537避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 18:29:00 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
気づきが起こるまで観察し続けるしか無いのでしょうか?

538避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 18:32:31 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん

このサイトの人↓は悟っていますか?
http://houtokuji.a.la9.jp/jikonokaiketsu.html

539鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/11(月) 20:53:00 ID:1d4drIFg0
>>531 善かったのじゃ。
 それにも囚われずに進むとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>535 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>537 そうじゃ、観察は気付くためにあるものじゃ。
 気付くまで観察し続けるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 
>>538 悟っていないのじゃ。
 仏教とは関係ない感情の高振りを書いているだけなのじゃ。
 無意味なのじゃ。

540避難民のマジレスさん:2017/09/11(月) 21:01:16 ID:vd1QzfGM0
525です、ありがとうございました。

541避難民のマジレスさん:2017/09/12(火) 05:51:58 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚
私は性格的に理論的に物事を見ていく傾向があるので、語らせてください。

見えるものと見えないもの
目の前に林檎があるとして、それは、感覚、知覚、知性、知識などによって受け取られた仮象です。だから、本来は林檎など無いと言えますね。
しかし、人間が認識するとき、林檎は生まれる。
また、「林檎」が「割れた」とか、形態の変化も見ますが、これも、人間的な解釈であり、それ自体は本当は変化していないと言えます。変化は人間がそう見るからそう見えるだけで。
林檎が現象であれば、勿論、我々自身も同じですね。林檎が割れたが言語現象ならば、私の死も仮象に過ぎません。認識の世界(有の世界)があるならば、それを支える認識を越えた無の世界のようなものがあるはずです。その無こそが我々自身では無いでしょうか?

542避難民のマジレスさん:2017/09/12(火) 05:58:40 ID:o7TfOr0I0
結局、無自体は認識出来ないので、無以外の見える世界だけを見ていくと、切り絵のように無の輪郭が見える。・・おしいとこいってますか?
鬼和尚が言われる、悟りとは、この無の領域を知ることではないでしょうか?
我々や世界の実体が「無」なのであれば、何かに生まれ変わるとか、不死であることなども、納得できるんですよね

543避難民のマジレスさん:2017/09/12(火) 12:45:07 ID:t8PlW.qA0
鬼和尚さん、苦滅について教えてください。

例えば、会社など組織の中でうまく楽をした人がいて、その分、自分が労力を払わないといけない時、すごく苦が生じます。
原因は、他人のせいで自分の生存のためのエネルギーが減ってしまうと思ってしまうことと、不公平感です。
こういう場合は、どう観察すれば原因がなかった場合を想定できますか?
なかなか他人のせいじゃないとも思えないし、不公平でも仕方ないとも思えないので、苦を滅することができません。
どうしたら良いでしょうか?
もやもやして疲れてしまいます。

544香雪:2017/09/12(火) 18:43:07 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
認識についてのご質問です、よろしくお願いします。

眼耳鼻舌身意に接触する前の段階が観えれば認識を観たことになるのでしょうか?
記憶からイメージもしくは言葉が想起され、それを空と観ることはできるようになりました、時々。
以前に伺った際には、何かがあると感じた時点で既に認識は作用しているとのことでしたが、
これは、何らかの気配を感じているが、記憶への依存が起こる前に観るということですか?

545鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/12(火) 22:00:24 ID:1d4drIFg0
>>540 どういたしまして、またおいでなさい。

>>541>>542 そうじゃ、無であればそこには我々も無いじゃろう。
 無自己なのじゃ。
 そして無認識に至って大悟徹底なのじゃ。
 想像すらも超えたその境地に進むのじゃ。

>>543 苦がなくならないのならばその原因は正しいものではないのじゃ。
 自分の本心を飾らずに受け入れるのじゃ。
 例えばそれは実は自分自身が楽をして他人に労力を払わせたいと思っているからかもしれん。
 その真の欲求と逆になるから苦になるのかもしれん。
 そんな欲求が無ければ苦にはならないと観察するのは容易なことじゃ。
 どのようなものであっても自分の本心を飾らずに受け入れ、観察する以外にないのじゃ。
 
>>544 無我にならなければ認識は見えないのじゃ。
 我があるのに認識を観ようとしても我が邪魔をするのじゃ。
 認識主体である自我がそれを見ることはできないという観念があるからのう。
 先ずは無我を目指すがよいのじゃ。

546香雪:2017/09/12(火) 22:14:11 ID:nV2bV5Bs0
鬼和尚様
なるほどやはりそういうものなのですね。
自我を消していくのもやはり手探りな感じですが、
おっしゃられる通り、一つ一つ片付けて無我を目指していこうと思います。
ありがとうございました。

547543:2017/09/13(水) 00:23:00 ID:0GihLr0IO
>>545
鬼和尚さん、ありがとうございます。

じつは今日この質問をした後で、その人と相対する場面があり、私は何故かその人に別のことを訴えていました。
自分では些細なことだと思って過ごしてきたことで、労力とは関係ない、ちょっとした精神的なストレスになっていたことについてです。
その事を何故か相手に話しながら、その時は自分でもあれ?と思っていたのですが、話が終わってみると、労力についての苦が消えていました。

つまり、その直前まで不満に感じて苛ついていたり、このストレスの原因だと思考していたことが、さっぱり外れていました。
本心では労力についての不満があったのではなくて、別の些細なことにものすごいストレスを感じていたみたいです。
実際はそのストレスで疲れていたようで、疲れまでとれてしまいました。

それでちょっと混乱しそうなのですが、これはどういうことなのでしょうか?
これが感情や思考は自分ではないということですか?
つまり、思考や感情も本心とは関係なく勝手にやっているだけということでしょうか?
でも、些細なことにストレスを感じていたという本心?も大層なことではないので、何だか勝手な動きのような気もします。
本心とは一体何のことなのでしょうか?

548避難民のマジレスさん:2017/09/13(水) 10:43:58 ID:vd1QzfGM0
行為者の感覚が消える地点、すなわち「自分が行為を行っているんだ」という誤った感覚が消える地点は
鬼和尚が「観照」と呼んでいる現象が起き、無我に至ったのと同じ地点でしょうか?

また、そうであるなら「行為者なんて元からいなかった、ということがわかった」とおっしゃっている非二元の先人達は
鬼和尚の教えでいう「観照」が起き、無我に至った人である(無認識まで至ったかはわからないが少なくとも無我までは)、と判断していいのでしょうか?

549鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2017/09/13(水) 22:34:46 ID:1d4drIFg0
>>546 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>547 それはまだおぬしが自分の本心を把握していないということなのじゃ。
 自分が今知っていることより他に本心があり、それを知らないのじゃ。
 本心とは偽らない心なのじゃ。
 自分の心を偽っていれば本当は自分がどのように感じ、どのように反応するかわからなくなるのじゃ。
 偽らない心を受け入れ、見るようにすれば本心はわかってくるのじゃ。

>>548 そのような理解でよいのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

550543:2017/09/14(木) 00:56:37 ID:FocWw5K20
>>549
鬼和尚さん、ありがとうございます。
そうか、この状態は自分が、何をどう感じどのように反応するかがわかっていない状態なのですね。
そう思って今回のことを捉え直してみると、自分で些細なことと決めつけていたことは、本心にとってはとても重要なことだったということになります。
自分の価値観や性格はそこに強く影響されるものだったわけです。

私は自分のことがわかっていなかったせいで、その些細だと決めつけていたことが大きな苦の原因になることが推測できませんでした。
自分のことをわかっていれば、すんなり今の苦の原因がわかって解決も早かったはずです。
自分の知らなかった面を知ることができたことに、今ようやく気づきました。

たぶん他にも自分で気づいていない自分の本心があるはずなので、探っていきます。
今回は自分でも意外でした。
鬼和尚さんに質問しなければ、苦がなくなってそれで終わってしまっていたと思います。
ありがとうございました。


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