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鬼和尚に聞いてみるスレ part5
543
:
<削除>
:<削除>
<削除>
544
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2015/06/03(水) 21:05:11 ID:2A0R7gMc0
鬼和尚
仕事の話しをしていて、相手の言うことが、
その人がその人の目先の苦や不安を取り除きたいためだけにその話しをしている、
ということがもの凄くよく分かるようになりました。
以前であれば、私も相手の言うことに対する単なる反応として、何かを言い返すところでした。
545
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/03(水) 21:16:44 ID:4i0eCajE0
>>542
自分を観る事を決意して観察するじゃ。
自分に自分を観る覚悟をさせるのじゃ。
どんなに醜く小さく卑怯な自分でも、隠さず全て開示する決意をするのじゃ。
その意志が無ければ止観も数息観もどんな技も無意味なのじゃ。
逃避するのも自分の意志なのじゃ。
逃避をやめるにはその意志を止めなければ成らんのじゃ。
もはや逃避をせずにどんなに醜く小さく卑怯であっても自分を観ると覚悟して自分を観察するのじゃ。
全ての執着も自分で原因を観る意志があれば滅することができるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>544
良かったのじゃ。
自分の心がわかれば他人の心もわかるものじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
546
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/04(木) 00:55:01 ID:0BkCcnUo0
和尚様
やっぱりある程度己に自我を投射してちょっとイラって生きていた方が不安定で腹に気がたまってたりして充実した時を過ごしませんか?
それは精神の成長となって悟りにもつながるかもしれないように最近思えてきました
どうお考えになられますか
547
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/04(木) 09:11:17 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さんに質問します。
私が思考に気づきながらただそれを厳格に観照し続けたならば、やがて思考はおとなしくなり 観照者は消えて
観照だけが残る残るのでしょうか。
548
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/04(木) 20:52:15 ID:6I0OJoUY0
鬼和尚様
>>542
に回答いただきいましてありがとうございます。
和尚様のブログでも同じようなことを書きましたが、
両方にお答えいただき感謝しております。
言葉というものが、やはり投射を起こす要因であるのは理解ができ
言葉を用いない観察を成功率が低いなりにやり始めました。
言葉を用いないことで、パターン化された投射が止まり、
止観が行いやすくなるのですが、これでよいのでしょうか。
というのも、自分は自我と向き合う必要を感じており、
投射があったほうが自我をより深く見れるのではないかと思いました。
549
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/04(木) 20:57:46 ID:Lb5RB4xk0
>>546
すでに自我を投射しているのじゃ。
それ以外できないのじゃ。
それが観察できれば無我になるじゃろう。
>>547
思考が消えただけではまだ自我は消えないのじゃ。
さらに観察して自我が見られれば観照なのじゃ。
それが出来れば観照も消えるのじゃ。
自我が無ければもはや観照することもないのじゃ。
550
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/04(木) 20:59:21 ID:Lb5RB4xk0
>>548
それでよいのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
自我の投射は今此処でも行われているのじゃ。
それを観察すればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
551
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/04(木) 21:52:19 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん、私は過去に一度だけ観照が起こったことがありましたが
それを自我が後から思い出すという形で認識したのだと思います。
何度も観照が起こらなければ自我がが消える事はないのでしょうか?
552
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/05(金) 05:01:18 ID:rjrCqQY20
追加の質問です。
自我そのものには実体がない事は、自我それ自体は気づいているのです。
それはそれとして、それに踊らされないように安全運転をしているのが今の状態ではないかと感じています。
しかしまだまだ未熟なためいつ何時事故るやもしれませんが…。
自我そのものは運転者として最後まで下車する事は許されない事ではないのでしょうか。
553
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/05(金) 05:06:35 ID:rjrCqQY20
肉体を車に喩えたとしてではありますが…。
554
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/05(金) 15:54:55 ID:BzfDf4WI0
和尚、三十二の体の部分を見つめる瞑想で、
各器官に集中するという方法を知ったのですが、
具体的にはどのように器官へ集中するのでしょうか。
単に意識を器官へ置いておけばよいのでしょうか。
それとも、例えば内蔵であった場合、
この内蔵は粘膜に包まれており…という感じで、思考を使って脳に美しくないものだと理解させていくのでしょうか。
555
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/05(金) 18:31:48 ID:0BkCcnUo0
目を開けた時最初に飛び込んでくるものは何ですか?
556
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/05(金) 20:48:49 ID:Lb5RB4xk0
>>551
>>553
観照が完全に行われれば自我はもはや在り得ないのじゃ。
恐れが生じたとかで途中で中断してしまったのじゃろう。
自我が観念であるとはっきり気づくのが観照であるからのう。
わずかな恐れでもあれば心は気づきも止めてしまうのじゃ。
いまがその最後なのじゃ。
ただ恐れが在れば自我を滅するのはいつかのもっと先のことにしたいと思えるのじゃ。
何度でも自分の心を観察しなおすのじゃ。
恐れを観ればそれも超えて進むことが出来るじゃろう。
>>554
そうじゃ、意識をおいてその働きを感じるのじゃ。
鼻ならば呼吸をしてにおいを感じるのを意識するのじゃ。
眼ならば光を受けていると感じるのじゃ。
考えるのは観察ではないのじゃ。
何も感じられないのならば、何も感じないと意識すればよいのじゃ。
それもまた今此処にある感じに気づいている事であるからのう。
>>555
光なのじゃ。
557
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/06(土) 07:33:00 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん、仰る通り私は恐れているのだと思います。
和尚さんや他の方々のお蔭で私は今、近年にない程心静かに暮らすことが出来て
これまでのこの世界から早く逃げ出したい衝動も起こらず、生まれてはじめて周りの愛する人たちの役に立ちたいと願っています。
身近な人たちを守るために長生きしたいと思ったのも生まれてはじめてのことなのです。
それも自我の処世術だとは思いますが、それに乗るのも悪くないかと思う自分もいるのです。
しかしそれは言い訳でしかないのだと思います。
仰る通り何度でも自分の心を観察し直したいと思います。
ありがとうございました。
558
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/06(土) 11:57:54 ID:BzfDf4WI0
>>556
ご教授ありがとうございました。
引き続き実践に励みたいと思います。
559
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/06(土) 17:37:01 ID:0BkCcnUo0
和尚様から見て優れた人生観や哲学ってどないですん?
560
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/06(土) 17:44:21 ID:0BkCcnUo0
真にやることがなくなればすることがないがゆえに脱力し思考や感覚もなくなるんすよね?
561
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/06(土) 20:22:22 ID:fDmYjxio0
548です
仰る通りに行を続けます。
やりかたが正しいのか間違っているのか、疑問が沸いてくるので
先達の指導が嬉しいです。
物を認識したときにそれが自分の望んでいるか、好き嫌いかを
判断している己にきづきました
見性のあとに言語能力の喪失や思考できなくなる人間もいる
そうなんですが、これの起きやすさはどのように決まるんでしょうか
さらに欲がなくなって働かなくなる人間もいるそうなんですが・・・
562
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/06(土) 21:05:23 ID:79rLlUrQ0
>>557
良かったのじゃ。
人として善事を行い続けるならばそれもまた道なのじゃ。
老病死を越える道を行けば永遠の安らぎに達するのであるがのう。
自ら悔い無き道を行くのじゃ。
>>558
そうじゃ、実践あるのみじゃ。
またおいでなさい。
>>559
それらが無いことが優れているのじゃ。
なにか固定した思想があれば囚われて進めなくなるからのう。
なにものにも囚われずに進むのじゃ。
>>560
自我があればやる事をつくり、自我を存続させるじゃろう。
自我が無ければやることもなくなるじゃろう。
何でも試してみるのじゃ。
563
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/06(土) 21:07:31 ID:79rLlUrQ0
>>561
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
それは意志によるのじゃ。
話そうとする意志があれば言語があり、動く意志があれば動けるのじゃ。
誓願の力などにより、悟っても意志は起こせるのじゃ。
564
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/07(日) 15:31:02 ID:0BkCcnUo0
和尚様・・・悟ってお暇でしたらネトゲでペアハントしていただきたいのですが
度重なる仕様悪化によって私の引退中に一人での活動が最も効率的な自閉的ゲームになってしまって・・・己の利益を追求する人々を誘えません
565
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/07(日) 15:41:50 ID:IU6lj9DI0
幾つか質問があります。お願いします。
私は人の目を気にしすぎてしまいます。自分がどう見られているのかとても気になります。
こういう自分の反応にはもうウンザリし始めています。これを克服するために原因を知りたいです。
瞑想中は積極的に原因を探しだすのですか?例えば状況を思い出して、自分の反応を観察するようなことですか。
それとももっと受動的というか意識に上ってきたものを観るのですか。
原因がないと苦しみもないと観察する。というのがよくわかりません。
何か楽しいことに集中していて痛みを忘れていたというように、苦の種が思考としてなければ苦しみはないということを観察するのですか?
原因となる思い出を再体験して解釈を正すというようなものとは違いますか。
意識は何重にもあるといいます。コーヒーを入れている自分と、全く関係ないことを思考している自分と確かに何重にもあるのがわかります。
どこに定点を持って観察すべきか迷っていしまいます。手の動きを観察したり、視線を観察したり、思考を観察したりよくわからなくなってきます。
より自分とするものを見つけるのが良いのですか?なにかアドヴァイス下さい。
それからいつも毎度ありがとうございます。
566
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/07(日) 20:46:30 ID:79rLlUrQ0
>>565
それにまつわる過去の記憶を思い出すのじゃ。
昔、何か人の眼を気にする原因となった出来事があったじゃろう。
親に常に恥ずかしくないようにと教えられたとか、外面を良くするように教えられたとかなのじゃ。
その原因から人の目が気になると観察するのじゃ。
もしその原因が無かったらと、イメージして、人の眼がきにならないことをも観察するのじゃ。
始めは手を観察すると良かろう。
それから感覚、感情、思考とより抽象的な捕らえにくいものを観察するのじゃ。
迷ったら手などの肉体を観察することにな戻ればよいのじゃ。
567
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/07(日) 22:03:08 ID:QMm34KcU0
鬼和尚は他人の目などは全く気にならないのですか?
他人からどう思われようが、自分がしたいように行動しているのですか?
568
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/08(月) 03:59:24 ID:0BkCcnUo0
鬼さん、幾多もの不明瞭な質問に答えて下さりありがとうございました
私はこのスレから出家いたします
569
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/08(月) 10:46:19 ID:9jY3uYWM0
鬼和尚、
サンユッタ・ニカーヤ第一篇第八章 断ち切って の第六節 老いない に関して、
〔神曰く、〕
「何ものが、老い、何ものが老いないのか?
(中略)
何ものが、<清らかな行ない>の汚れであるのか?
何ものが、<水を必要としない沐浴>であるのか?
それをあなたにお聞きしたいと思って、ここに来たのですが、われらは
どのようにしたら、それを知ることができるでしょうか?」
〔尊師曰く、〕
「人々の物質的なすがたは老い朽ちる。しかし名で示される氏族は老い
朽ちる事がない。
(中略)
女人は<清らかな行ない>の汚れであり、人々はこれに耽溺する。
苦行と<清らかな行ない>とは、<水を必要としない沐浴>である。
(
それらをすっかり除去せよ。」
とありますが、ダンマパダでのお釈迦さまの言葉、例えば諸行無常や中道の教えなどと矛盾があるように思います。
この違いは対機説法によるものなのでしょうか? それとも時代を経るうちに元の言葉が変わってしまったのでしょうか?あるいは、お釈迦さまがそのときは間違って説法してしまったのでしょうか?
570
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/08(月) 20:51:01 ID:79rLlUrQ0
>>567
そうじゃ気にならないのじゃ。
法に触れない程度に生きればよいのじゃ。
犀の角のように独り歩むのじゃ。
>>568
どういたしまして、またおいでなさい。
>>569
確かにかなりおかしいようじゃ。
翻訳の間違いとかがあるのかもしれん。
長い間に意味がわからなくなったのかも知れん。
そのようなところは棄ててよいのじゃ。
止観と縁起がわかればそれで悟りへの道は完全に開かれているのじゃ。
571
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/08(月) 20:52:42 ID:IU6lj9DI0
>>566
もう一つ聞きたいことがあります。
苦の原因が、親の発言とか親の世界観などが要因としてあったのなら、
長年の苦しみは親のせいだ、親が自分の評価を下げさえしなかったらと考えてしまいます。
というか今そういう感情があります。この私の考えはすごく子供だと思います。
こういう感情はどうすればいいのでしょう。聞いてばっかで申し訳ないす。
なんとか兆しが見えています。ありがとうございます。
572
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/08(月) 21:39:37 ID:y4sOcl9c0
ttps://www.youtube.com/watch?v=2rd8VktT8xY&list=RD2rd8VktT8xY
この方なんですけど、悟ってますか?
恐ろしく静かで不動な感じがするんですがどうですか?
目の焦点あってないとことか、マハルシそっくりな印象を受けました。
ちなみにこの方は、この後、数か月後に亡くなられたそうです。
573
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/09(火) 12:38:33 ID:6p4ETLTs0
>>570
ありがとうございます。
サンユッタ・ニカーヤの該当部分も、特に古い経典なのだそうですが、
やはり、かなりおかしいようなのですね。
経に囚われる危険を知りました。そのようなところは棄てて進みます。
悟りを得たい人がさしあたり読むお釈迦様のことばは、ダンマパダとスッタニパータで十分ということでしょうか?
574
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/09(火) 21:00:25 ID:V7QCtwwo0
鬼和尚
経典に書いてある通り、ほとんどの人間は死ねば地獄に堕ちると思いますが
地獄に行かない人はどのくらいの確率で居ますか?
また仏教などの瞑想修行をせずに普通に善を積んで天界に行くなどかなり困難なことではないでしょうか?
やはりある程度止観の修行を積まないと善い処に行くのは非常に困難なのではないかと思います
575
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/09(火) 21:31:45 ID:79rLlUrQ0
>>571
怨んでいてよいのじゃ。
無理に許そうとしなくてよいのじゃ。
無理をすれば心に嘘をつくことになるからのう。
それをまた観察するのじゃ。
怨む原因をも観察するのじゃ。
それは親にもっと完璧であって欲しいとか、過去がこのようであったらよいとかの執着かも知れん。
観察によってその原因がわかれば、それもまた自然に消えていくのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>572
悟っていないのじゃ。
疲れていたのかも知れん。
>>573
そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
それでよいのじゃ。
理解が進めばアーナパーナ・サティ経とか小縁起経とかを読むとよいのじゃ。
576
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/10(水) 17:10:35 ID:d1p2ARo.0
>>575
ありがとうございます。
アーナパーナ・サティ経は見つかったのですが、小縁起経は見つけられませんでした。
阿含経典の中の縁起に関する経典、例えば
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480094711/
あたりでしょうか?
577
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/10(水) 20:54:11 ID:79rLlUrQ0
>>576
それかもしれん。
大縁方便経などもよんでみるとよいのじゃ。
観察する方法としらない翻訳家によって意味がわからなくなっているところもあるが、参考になるのじゃ。
全ては自分の心を観察する方法なのじゃ。
578
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/11(木) 11:53:44 ID:BzfDf4WI0
和尚さま
薬物やセックスなどの快楽を得ると、
脳の物質が過剰になったり欠乏したりすることによって普段の生活での快楽を感じることが少なくなってしまったり、
不安やネガティブな感情に陥ったりしてしまうらしいのですが、
禅定によって得られる喜悦や快はこのようにならないのでしょうか。
579
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/11(木) 13:51:48 ID:V7QCtwwo0
鬼和尚
ほとんどの人間は死ねば地獄に堕ちると思いますが
地獄に行かない人はどのくらいの確率で居ますか?
一昨日私の質問を見落とされてたようなので、同じような質問になりますがよろしくお願いします
580
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/11(木) 20:53:04 ID:psqJkcBY0
テーラワーダ仏教会のHPを最近見ておりましたが
「布施などの徳を積みその得を衆生や亡くなった人に回向する」ということが書いてありました。
このようなことは可能なのですか?
581
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/11(木) 20:59:44 ID:79rLlUrQ0
>>578
ならないのじゃ。
それらの快楽は健康を害したり、体のエネルギーを失う故に生活が苦になるのじゃ。
瞑想などによって得られる快はエネルギーを充実させ、健康に成る快であるから気分も良くなるのじゃ。
俗世に興味を失う事はあるかもしれんがのう。
実践あるのみなのじゃ。
>>579
すまんのう見落としていたのじゃ。
半分ぐらいじゃな。
娑婆世界にも善い者も多くいるのじゃ。
やはり宗教などで教育していると善事も行い、善い所に生まれるものも多いじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
582
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/11(木) 21:03:52 ID:lOje8bmY0
>>577
ありがとうございます。
大縁方便経は、長阿含経の中に見つけました。
ざっと読んでみたところ、縁起がたくさん出てきました。
それらは観察例で、お釈迦様の心の中に連想として現れたものとして理解して良いでしょうか?
また、それらの観察例を参考にして、自分の心の縁起を順逆に観察するというやり方で良いでしょうか?
583
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/11(木) 21:28:18 ID:V7QCtwwo0
>>581
そうなのですか、自分が聞いた説とは大分違うようですね
人や宗派によっても見解が違ってくるのかもしれません
584
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2015/06/11(木) 22:05:16 ID:2A0R7gMc0
鬼和尚
人と仕事の話しをしている時、自分の喋り方に抑揚がほとんどなくなっていることに気付きました。
話題がつまらないとか興味がないとか、そういうことは関係ありませんし、
無理に抑揚を抑えているわけではありません。
また、相手の言うことに対して自分が返答する時は、以前に比べて何かを思うことがほとんどなくなっています。
それでも話題の目的に添った返答を瞬時にできます。
これは、雑念が少なかったり、観念への囚われが少なかったりするからなのでしょうか。
585
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2015/06/11(木) 22:41:06 ID:2A0R7gMc0
鬼和尚
他人のしたこととしなかったことを見ないのがお釈迦様の教えですが、
私は仕事で他人がやった仕事を見る機会がよくあります。
他人の仕事を見ていて、単にいいとか悪いとかではなく、
その人が過去の記憶や常識、常套手段に基づいていて、
その焼き直しをしているのがよく分かるようになりました。
私は他人のやった仕事を自分なりにやり直す機会もよくあります。
やり直す時、他人には見えていないものが私にはよく見えます。
ここをこうすればもっとよくなる、ということがよく分かります。
記憶や常識、常套手段は一旦置いておいて、
ありのままに観察すればほんとによく見えます。
鬼和尚の言う記憶に依存するということがどういうことなのか、
少しは分かった気がします。
586
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/12(金) 17:05:14 ID:BzfDf4WI0
>>581
ありがとうございました。
興奮による快楽ではなく、リラックスによる快楽のようなものですか。
言葉は同じなのに意味は正反対ですね。
よく言葉に捕らわれるなと聞きますが、改めて実感できました。
俗世の興味はむしろ無くしたい方なので、安心して実践に励めます。
ありがとうございました。
587
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/12(金) 20:52:10 ID:79rLlUrQ0
>>582
お釈迦様はもう既に心の中に何も現れなかったじゃろう。
衆生の為に説いたのじゃ。
それでよいのじゃ。
参考程度にして自分の心の中に現れる縁起を観察するのじゃ。
経とは違うように自分の心の中の縁起があると観察したならば、それを観察してよいのじゃ。
全ての修行者は自らの心の中に起こる縁起を、ありのままに観察するべきなのじゃ。
>>583
宗教の中には自分達の教義などを知らなければ地獄行きとか言うものもあるからのう。
実際に観察してみれば悪い者と善い者が半分ぐらいとわかるのじゃ。
>>584
そうじゃろう。
囚われが少なくなり、心の働きが良くなったのじゃ。
さらに精進あるのみなのじゃ。
>>585
良かったのじゃ。
自分の条件付けがわかれば他人のものもわかるものじゃ。
さらに実践あるのみなのじゃ。
>>586
どういたしまして、またおいでなさい。
588
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/12(金) 21:39:28 ID:79rLlUrQ0
>>580
すまんのう見落としていたのじゃ。
無理なのじゃ。
お釈迦様の教えにも矛盾するのじゃ。
人は自分のした事の報いを受け取るのみなのじゃ。
ダンマパダにはこのように言っておるのじゃ。
165 、 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。
589
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/12(金) 23:22:55 ID:00GAxWQU0
>>588
お答え有り難うございます。
HPよく読むと死者には回向出来ないとありました。私の勘違いでした。
確か死んだものにはコチラからは何も出来ないと勉強していたので
そのようなことができるのか?と思った次第です。
和尚様は以前夢の中で死者に対して供養はできると言うことを書いていたと思いますが
それはできるということですか?
祈りや願いで衆生に徳のエネルギーのみを送ることは出来ないのですね。
ただ行為が出来るだけと。
590
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2015/06/13(土) 00:02:53 ID:2A0R7gMc0
鬼和尚
最近は資産作りに取り組んでいます。
以前書き込んだ方法とは異なる方法です。
そのせいで一日当たりの睡眠時間が以前よりもだいたい2時間くらい減っています。
睡眠不足は感じていますが、まったく苦になりません。
それに朝寝坊することもありませんし、昼間の仕事中に眠くなることもありません。
睡眠不足が苦にならないのは修行の成果でもあると思いますが、
睡眠時間を減らしたまま長期間過ごすのは、肉体の疲労が回復できないと思います。
このあたりのさじ加減はどのように図っていけばよいのでしょうか。
591
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/13(土) 09:57:37 ID:P.PEnNUg0
>>587
ありがとうございます。
心に現れなかったにも関わらず、お釈迦様が衆生のために12縁起を説いたということは、自分の心の中の縁起を観るための良いヒントになるということですね。
以前、ブログで生→老死に関して解説して下さっていましたが、改めて
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死
それぞれの定義を少し詳しく教えて下さいますでしょうか。
592
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/13(土) 21:05:12 ID:ZdlnzaYI0
>>589
今生きている者にも心遣いや優しい言葉で慰める事が出来るように、死者も心を込めて供養すれば慰められるのじゃ。
行いとその報いを他人が変化させる事は生きている者にも死んだ者に対してもできないのじゃ。
例えば現世の法律でも犯罪をした者の身代わりになることなどできないようにのう。
>>590
昼寝するとか瞑想を長くするとよいのじゃ。
少しの時間でも寝たりする事が出来る者は、忙しくても元気なのじゃ。
瞑想によって眠りを補うとか、ヨーガのシヴァアーサナなどをして肉体を休めるとよいのじゃ。
>>591
無明とは自分があるという観念なのじゃ。
行とは分別の働きなのじゃ。
職はそれによって物事を認識する事なのじゃ。
名色は言葉とイメージなのじゃ。
六処は六つの感覚器官なのじゃ。
蝕は感覚なのじゃ。
受は感受することなのじゃ。
愛は愛着なのじゃ。
取は執着し欲することなのじゃ。
有はものごとが有るという観念なのじゃ。
生は生あるものという観念なのじゃ。
老病死は人のもつ苦なのじゃ。
593
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/13(土) 22:34:02 ID:hzMYYWtw0
>>592
死者でも慰めることは出来るのですね。カルマや徳は誰にも渡せないと。
ありがとうございます。
594
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/13(土) 23:06:20 ID:tHj0j65Y0
鬼和尚さん、便乗質問みたいですが死者というのは心の中の死んだ人の存在のことでしょうか?
595
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/14(日) 10:40:44 ID:OdMybscU0
>>592
ありがとうございます。
識は阿頼耶識、行は末那識と理解して良いでしょうか?
また、私が通常行なっている苦滅の法の縁起では
触→受→愛→取→苦
というようなものが多いように思います。
自我を観る場合にはさらに微細になり、
触→受→識→行→名色(認識対象)→識→行→六処→識→行→自我(六処に投射)
というような縁起になるのでしょうか?
識と行の順番が分かりません。
あと、無明は自分があるという観念ですから、自分という観念(=自我) とは厳密には違いますよね。
鬼和尚は説いていますが、お釈迦様が12縁起で自我を縁起によって観るように説かなかったのはなぜでしょうか?
当時の人々は自我に相当する言葉を持っていなかったのですか?
596
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/14(日) 21:20:45 ID:79rLlUrQ0
>>593
そうじゃ、自らの心と行いを清めるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>594
死者は生きている者と同じように、心の中の観念としてあり、存在としてもあるじゃろう。
心の内と外に境界を作れば迷いと成るのじゃ。
全ては意識であり、生きながら意識の表れである人が、死んでも意識の現われとしてあるのじゃ。
肉体と言う現に見えるものが無くとも、意識としてあり続けるのじゃ。
生きている者には夢とかでしか会えないから、心の中にのみあるとか思うのじゃ。
内も外も同じと知れば死者もまた意識の現われなのじゃ。
>>595
そのような理解でよいのじゃ。
それはおぬしの心の中にだけ起こっている働きである故に、他の誰もわからないのじゃ。
それを自らの注意深い観察によって明らかにするのじゃ。
それがおぬしだけが出来る、おぬしだけの道なのじゃ。
そのようなものじゃ。
昔の人は王様とかバラモンが死ねとか言うと命令どおり死ぬような
共同体による幻想観念が人の肉体をも支配していたからのう。
個人的な自我などは近代の産物とも言われるのじゃ。
597
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/15(月) 02:29:43 ID:QMm34KcU0
>>595
>個人的な自我などは近代の産物とも言われるのじゃ。
それはよくいろいろな人が言っていることですが、一部のインテリたちの
間違った見解ではないでしょうか?
お釈迦様の時代から、個人的な自我を持っていたからこそ起きる
さまざまな確執や争いがあったはずで、「俺が〜」、 「私が〜」 という
個人的自我が目覚めていなければ 「悟り」 を目指す意味もないはず
です。
ソクラテスの周りでもそうですし、孔子様の周りもそうですし、日本の昔
の社会を見ても、弥生時代頃からは個人的な自我が出て来ていると
思われます。
598
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/15(月) 05:07:51 ID:tHj0j65Y0
>>596
> 心の内と外に境界を作れば迷いと成るのじゃ。
そのあたりもっと観察してみたと思います。ありがとうございます。
599
:
素人A
:2015/06/15(月) 06:43:52 ID:IWxIjSAg0
ブラフマンいや仏教では編だ如来が編み出した正解いや世界だから求めれば阿弥陀になる空、それから枝分かれして法も変化
に変換されて此の世うになつた私たちの不味い煩悩も元を正せば阿弥陀の性格が影響している。暢気に南無阿弥陀仏と難解も
唱えれば救うのか?いい加減な阿弥陀仏貴方の不味い考えでこの世うになつた。でも阿弥陀さんが我々とたいして代わらん人
だと解れば、人のいい私としては何とか役に立とうと思うけど?頭も知恵もないし、阿弥陀さん皆でアートため息つけば少し
は気が晴れて空には満点の星の輝きがある風景だ。浄土真宗やキリスト教は考えが唯物論のようで、毎日とななえれば毎度
コントロールされて唯仏論になつたのに効き目なく唯物論のいま。死んでも修業は至難だろう?でも我々じゃ証が無い世ね、
でも此の世も元々の阿弥陀の応用というかパクリから出来ている法と思えば、即死してもあまり代わり映えのしないと思うが
正解いや世界だと妄想する。嘘でも何でも毎日現れればほんとになる。よくわからん正解は無とは何もないということでは
無いようだし私の能力では無理解という事か、つまり私の頭や目や身でぼんやり身ても一部しか身縁し今朝も妄想?
600
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/15(月) 17:07:20 ID:wzaF4XgM0
>>596
自分の心の中がどんな縁起になっているのか、観られるのが楽しみです。
これまで生まれ変わって過ごしてきた時間のうちで、今が最大のチャンスだと思います。
このチャンスを活かして自己の観察に励みます。
お答えくださりありがとうございました。
601
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/15(月) 21:29:28 ID:79rLlUrQ0
>>597
それらの多くは同族的な帰属意識でも起こるものじゃ。
わが国とかわが民族のためとかじゃな。
未だにそれを自我の一部として受け入れている者もいるじゃろう。
どこにも帰属しない本当に独立した個人の観念こ現代でも珍しいものじゃ。
それも論じるべきものではなく、観察によって気づくべきものなのじゃ。
>>598
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>599
それらは頭で考えるものではないのじゃ。
ひたすら集中し、感得するものなのじゃ。
集中すれば一体になった感覚が得られるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。
>>600
そうじゃ、それはおぬしだけが出来る未知への挑戦なのじゃ。
少しずつでも進めばやがて悟りはやってくるじゃろう。
それまで精進あるのみなのじゃ。
602
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/15(月) 22:04:42 ID:TuyaCvks0
和尚様
愛する物の別れが苦しい場合もやはり原因がなければその苦が
生じないと観るのでしょうか
また私が想像ができないので、お聞きするのですが
そのような愛着の存在しない人生とはどのようなものでしょうか
603
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/16(火) 21:15:44 ID:79rLlUrQ0
>>602
そうじゃ、そのような場合は執着が原因となるじゃろう。
執着が無ければ愛別離苦もないと心の中に観察するのじゃ。
執着が無くとも愛はあるのじゃ。
昔、一休和尚が説法の折に見かけた美人に一晩付き合えとなんぱしたのじゃ。
その美人は人妻であったから断り、旦那に告げたのじゃ。
旦那は一休の信奉者であったから、せっかくだから行って見よと言ったのじゃ。
人妻が一休の家に行くと、もうその気がうせたから帰ってよしとか言ったのじゃ。
それを聞いて旦那はさすがは一休和尚じゃ、とますます尊敬したのじゃ。
そのように愛はあっても執着が無いから苦も無いのじゃ。
604
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/17(水) 00:34:34 ID:aO61iQho0
例えば、鬼和尚さまの生活している家に1000匹のゴキブリが出たとします。
寝ている時にも口の中に入ってきたり、飯を食べている時も茶碗の中に侵入したり。
そういう時、鬼和尚さまはどう対処なされますか?慈悲をもってバチンと叩き潰されますか?
そもそも鬼和尚さまは、ゴキブリに恐怖心はありますか?
605
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2015/06/17(水) 19:28:20 ID:2A0R7gMc0
鬼和尚
私はよく、
ある特定の思い、考えをするとき、
きまって身体がこわばるのを感じます。
これは、自我が強烈に投射されているということなのでしょうか。
606
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/17(水) 21:01:26 ID:79rLlUrQ0
>>604
身動きしたときに潰してしまうかも知れんから追い出すのじゃ。
何も恐れはないのじゃ。
ゴキブリは人を噛む訳でもないのに恐れるのは習慣から来るものじゃ。
本当は体も清潔だと言うからのう。
観念から来る恐れを観察してみるのじゃ。
>>605
そうじゃろう。
その考えに何か強い思い入れがあるのじゃろう。
過去の記憶から来るものかもしれん。
良く観察してみるのじゃ。
607
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/18(木) 21:41:33 ID:fP2nC2Nc0
いつも教えていただき、感謝しております。
花粉症などのアレルギー症状は、
肉体の免疫反応が、何らかの理由により、
正常に働いていないことから起こるものと考えられます。
このような症状が現れている時、
鼻がむずむずするなどといった肉体の感覚を観察することで、
くしゃみ鼻水炎症といった症状は改善しますか?
それとも、症状は改善しないけれども、苦がなくなるのですか?
608
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/19(金) 18:47:38 ID:aO61iQho0
>>606
ゴキブリが怖くないんですかw
僕は超苦手です。黒いテカリ、俊足、飛翔、嫌悪感が凄いです。
自我を観察していきたいと思います。有難うございました。
609
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/19(金) 19:04:35 ID:QfX3qKd.0
そもそも生命として生まれるという概念がすべての苦の原因ということですか?
苦から脱出するには要は生まれなければいい?
少なくとも人間界以下に生まれなければいい?
老病死にも色々なレベルがあると思いますが不治の病、殺される、
又はどうしようもない事故、災害での死は前世の業とは関係ないのでしょうか?
それともやはりそれまでの行いの結果として起こるのでしょうか?
これはどのような行いをしても避けられない生命として元々包含されているもの
であって不幸な病や死 などは行いに関係なく誰にでも起こるということでしょうか?
610
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/19(金) 21:18:23 ID:79rLlUrQ0
>>607
観察するだけならば症状は改善しないのじゃ。
しかし集中していると気が集まって血行が良くなり、改善する事もあるのじゃ。
観察よりも集中がいるのじゃ。
観察出来れば苦はなくなるじゃろう。
>>608
そうじゃ、そのような感覚こそ観察してみるのじゃ。
強い感情は観察が容易になるのじゃ。
何でも試してみるのじゃ。
>>609
生あるものという観念が無ければ良いのじゃ。
観念が無ければ苦は無いのじゃ。
そのような事が起こる可能性がある世界に生まれる事が報いなのじゃ。
そこで起こることの一つ一つが報いと言う事でもないのじゃ。
偶然もあるじゃろう。
たんなる不養生で病になることもあるのじゃ。
全てが報いではないが、それが起こる環境にしか生まれなかった事が報いなのじゃ。
611
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/20(土) 17:39:18 ID:6EUkWmiQ0
>>610
>生あるものという観念が無ければ良いのじゃ。
>そのような事が起こる可能性がある世界に生まれる事が報いなのじゃ
生まれる環境が一番業に関わってくるのですね。それは意志と言うか好みでは選べないと。
ありがとうございます。
612
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/20(土) 21:14:41 ID:79rLlUrQ0
>>611
そうじゃ、それが行いの報いなのじゃ。
善いことをすればそのような事も無い世界に生まれる事も出来るのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
613
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/21(日) 07:18:58 ID:fP2nC2Nc0
>>610
教えていただきありがとうございました。
集中とは、数息観をすることでしょうか。
数息観をすると、花粉症などのアレルギー症状が
緩和しますか?
614
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/21(日) 17:15:31 ID:HF1Z5IZA0
鬼和尚、
以前己の追求に関して、
> 先ずはその自分という感覚がどのようなものであるか見極めるが良いのじゃ。 常に観られるようにするのじゃ。
> そして主体という観念がそれにどのような影響を及ぼしているかとか、何が原因でそれが強くなったり弱くなったりするかとかを、追及し観察すると良いのじゃ。
との回答をいただきました。
結局主体という観念があるときには、自分という感覚に、「それは実際に自分が行なっている」というような現実感を与えていると観察しました。
さらにそれが強くなったり弱くなったりするのは、集中の深さと浅さが原因となっているようです。
試しに自分のイメージを呼び起こしているときには、主体の観念は、現実感が感じられる主体の感覚として、思い出している行為に投射されており、想起された自分のイメージ自体の現実感は強くないです。
このように自我の観察には進歩が見られているようですが、未だ自我の観照には至りません。
もしかして、しっかりと観察できているのではなく、おぼろげながら観察したことについて推論を加えて答えを得ているのではないかという疑念があります。
そのように観察ではなく観念の遊戯に陥っている場合は、ご指摘いただければありがたいです。
またもし何かアドバイスなどがありましたら、お願いします。
615
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/21(日) 20:54:10 ID:79rLlUrQ0
>>613
数息観は集中力を身に付けるためのものなのじゃ。
集中は文字通り患部に意識を集中するのじゃ。
そうすれば血行が良くなって良くなる事も在るじゃろう。
原因がわかって治る事もあるじゃろう。
試してみるのじゃ。
>>614
推論しているのかも知れん。
それでも少しは自分が見えているじゃろう。
自我の観念によって起こる事も観てみるのじゃ。
自分があると思えば、自分の好みも起こり、好む事への執着も起こるものじや。
そして好むものへの執着によって苦も起こるじゃろう。
それら全ての縁起が観られれば全体を観た事になるのじゃ。
そして自分と言う観念が無いとき、自分の好みもなく、好むものへの執着も無く、苦もないと観察するのじゃ。
そうすれば観念との自己同一化も消えるじゃろう。
616
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/22(月) 20:30:03 ID:fP2nC2Nc0
いつも教えていただきありがとうございます。
>観察するだけならば症状は改善しないのじゃ。
>しかし集中していると気が集まって血行が良くなり、改善する事もあるのじゃ。
>観察よりも集中がいるのじゃ。
>集中は文字通り患部に意識を集中するのじゃ。
言葉の定義上で、私に混乱があります。
観察・・・患部の感覚に意識を向ける
集中・・・患部に意識を集中する
このふたつの違いがよくわかりません。ご教授お願いいたします。
617
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/22(月) 20:36:37 ID:79rLlUrQ0
>>616
集中している時は感覚は無視してよいのじゃ。
実際に強い集中のサマーディでは肉体の感覚が無くなり、針を刺しても平気に成るのじゃ。
ただひたすらに患部に集中するだけなのじゃ。
気が集中して患部は熱くなるじゃろう。
試してみるのじゃ。
618
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/23(火) 12:56:52 ID:9jY3uYWM0
>>615
自我の観念によって起こる事も観てみました。
自我の観念により、かなりの自由が制限されていることが分かりました。
1人で過ごす分には、もはや自我を持つ事には何のメリットもないようです。
ただ、やはり観察して得られた結果に推論を加えているようにも感じられます。
縁起だと、
気づき(そうか!)→推論(だとすると…)
でしょうか。
推論は思考ですので、推論が起こっているのかどうかも観察して確かめようと思います。
ありがとうございました。
619
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/23(火) 21:13:31 ID:79rLlUrQ0
>>618
そうじゃ、全てを観察するのじゃ。
推論も観察できれば止まるじゃろう。
それでこそ推論するものも観られるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
620
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/24(水) 21:03:32 ID:fP2nC2Nc0
>>617
患部である鼻は感覚なしでは捉えられないようです。
集中力が足りないのだと思います。
もっと集中力をつけてから再チャレンジしたいと思います。
ご指導ありがとうございました。
621
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/24(水) 21:08:21 ID:ZdlnzaYI0
>>620
そうじゃ、何でもやってみるのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
またおいでなさい。
622
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2015/06/25(木) 01:19:09 ID:SUG5z7PM0
>>592
ヨーガのシヴァアーサナを毎日続けてみました。
肉体の疲労は軽減するような感じがします。
それと、私は10年前から慢性的に皮膚に湿疹ができていたのですが、
このヨーガをやり始めてから、それが少しずつ消えていっています。
いろいろな皮膚科に診てもらったのですが、原因は分かりませんでした。
塗り薬を継続して使ってきましたが、完治に至っていなかったものです。
これからも続けてみます。
ありがとうございました。
623
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/25(木) 21:46:09 ID:79rLlUrQ0
>>622
良かったのじゃ。
安静にしていれば肉体の治癒力も最大限にまで発揮されるものじゃ。
肉体の細胞は極小の働きで肉体を治療しているから、安静にしなければうまく働けないのじゃ。
安静になる姿勢こそ万病に効く薬と言えるのじゃ。
さらに続けると良いのじゃ。
624
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/26(金) 12:34:50 ID:EO4mNeKg0
鬼和尚、
鬼和尚の言う「一つの意識」と凡夫の持つ観念の関係についてお教えください。
観念は実体ではないので、一つの意識には入らないのでしょうか?
625
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/26(金) 21:33:09 ID:DsxvzEZE0
>>624
観念も意識の現われではあるのじゃ。
それは本来智慧の基盤として働くべきものなのじゃ。
言葉とイメージによる記憶が観念を形作っているのじゃ。
それを自我が無い状態で働かせれば、真実をありのまままに知るための道具となるのじゃ。
しかし自我があれば観念を実体と混同し、それに執着したり、好悪によって真実を歪めて迷いの元となってしまうのじゃ。
そのように意識の表れであり、真実を知る道具として仕えるのが本来の観念なのじゃ。
626
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/27(土) 18:17:54 ID:2eLvpbuk0
>>625
ありがとうございます。
実体感の有無は、その対象に自我が投射されているかいないか、特に主体の観念があるかないか
で決まるように思うのですが、それは正しいでしょうか?
例えば、自分のイメージを想起してみても、それはイメージであり、実体感は感じられません。
もしそうだとすると、なぜ、主体という観念が認識から起こされたときに、それを実体とを混同してしまうのでしょうか?
もうそろそろ、自我の牢獄から出たいものです。
627
:
無
:2015/06/27(土) 20:20:28 ID:jgzvPgN.0
鬼和尚。この世界は夢であり、アーラヤ識の投影でまちがいないですか?
628
:
無
:2015/06/27(土) 20:55:04 ID:CBNb7nl20
アーラヤ識から送り込まれてくるイメージ(世界観)を変える方法はあるでしょうか。
629
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/27(土) 21:25:59 ID:POreMENg0
>>626
そうじゃ、それらによって自己同一化が行われていれば実体感かもあるじゃろう。
その観念との自己同一化は習慣によって起こるものじや。
今思い浮かべたイメージには実体感が無くとも、何度も思い浮かべていればそう感じるじゃろう。
それも慣れるにしたがって自己同一化が起こるからなのじゃ。
そしてそれが習慣によるものであるから観察によって瞬時に滅する事も可能なのじゃ。
生来のものであれば観察やその他の手段によっても滅する事は出来ないがのう。
>>627
そうじゃ。
そのような理解で良いのじゃ。
各自の記憶によって作られた幻影なのじゃ。
>>628
それも記憶や知識が改まれば変わるじゃろう。
昔の人は世界がお盆のようであり、ふちから海水がこぼれていると思っていたのじゃ。
今は宇宙があるとしているが、それも実は知識でしかないのじゃ。
今までの宇宙論が実は間違いであったとかでも変わるじゃろう。
630
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/28(日) 20:16:14 ID:I70fPQRo0
>>629
主体の感覚がどのように起こってくるのかをもっと詳しく観察できるように、普段からさらに縁起の観察に励むようにします。
ありがとうございました。
631
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/28(日) 20:41:55 ID:POreMENg0
>>630
そうじゃ、自我の抵抗もあるから見難いが勇気を持って進むのじゃ。
進み続ければ悟りは訪れるじゃろう。
またおいでなさい。
632
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/29(月) 20:40:49 ID:y4sOcl9c0
自分は最近、文章を書くことに興味があるんですが、
書くことにおける悟りの境地とはどのようなものなのでしょうか?
633
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/29(月) 21:22:47 ID:POreMENg0
>>632
それも他の道と同じく何度も書くうちに忘我になるじゃろう。
忘我では思いもよらぬ書もかけるじゃろう。
そして忘我から無我になり、融通無碍に書けるようになるじやろう。
更に書くことも忘れ、文字もなくなるじゃろう。
一切を忘れて滅し尽くして悟りは完成されるじゃろう。
その時にはもはや書くことも、書くものも無いのじゃ。
使い終えた法として捨て去られるのじゃ。
634
:
避難民のマジレスさん
:2015/06/30(火) 17:54:44 ID:Rd7bBL2U0
>>633
結局どの道を選んだとしても行き着く先は同じだということですね。
返信ありがとうございました。
635
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/06/30(火) 21:17:25 ID:MSCg2gco0
>>634
そうじゃ、極め尽くせば同じなのじゃ。
途中でやめれば何にも成らないのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
636
:
避難民のマジレスさん
:2015/07/01(水) 07:56:00 ID:w3pMYdIY0
お絵かきあてゲームというオンライン対戦型ブラウザゲームがあり、
ランダムに出題されるお題にしたがって順番が回った一人が絵を描き始め他の参加者全員でそれを早い者勝ちで当て得点とするのですが
どのような訓練をしたり、意識の配分をすれば描き始めのうちに絵のお題を推定できますでしょうか
637
:
避難民のマジレスさん
:2015/07/01(水) 16:25:29 ID:U/LsaFRw0
前世を覚えている方がもっと善を積んで次はもっといい環境に生まれようと
すると思いますがなぜ殆どの人は前世を記憶してないのですか?
思い出しては何か都合がわるいことでもあるのでしょうか?
産まれた環境に絶望して悪を起こすほうが多いと思います。
産まれた環境が前世の自業自得とわかってれば進んで悪を起こそうと思わないと
思うのです。
来世にいいところに生まれたいと願って善をするのがダメということでしょうか?
来世に悪いところに産まれたくないという強制的な恐怖心から行う善ではあまり意味が
無いということですか?
638
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2015/07/01(水) 20:41:32 ID:POreMENg0
>>636
相手の心に集中して自分が書いてるような気でいればわかりやすくなるじゃろう。
自分が描く気でいれば描き始めからわかるものじゃ。
心が離れると判らなくなるじゃろう。
試してみるのじゃ。
>>637
それは恐れがあるからなのじゃ。
自分が生まれる前に記憶をさかのぼるのは誰でも恐ろしいものじゃ。
死んだときの事を思い出すからのう。
特にひどい死に方をしていれば恐れもひどくなるものじゃ。
自らの心を観察してみるのじゃ。
それでも良いのじゃ。
善を積めば善いところに生まれるじゃろう。
喜ぶものが多ければ善も多いのじゃ。
気にせず善を積むと良いのじゃ。
639
:
避難民のマジレスさん
:2015/07/02(木) 01:00:04 ID:GI6xw29U0
やっぱり根底に寂しさ みたいなものが強くあります
640
:
避難民のマジレスさん
:2015/07/02(木) 06:02:51 ID:4hkv64.20
ありがとうございました 次回から試してみたいと思います
641
:
避難民のマジレスさん
:2015/07/02(木) 09:02:32 ID:JBWg8Yus0
>>638
>それは恐れがあるからなのじゃ。
>気にせず善を積むと良いのじゃ
私は心身的に虚弱のようで生まれつき家庭環境も悪く性格も決して良くないと思います。
現在も正直無職で経済的にも全くダメで自分が一体何をしたためにこの環境に
産まれついたのかわからないと自暴自棄になりそうです。
私は前世は何を行ったのでしょうか?教えてもらえますか?
642
:
避難民のマジレスさん
:2015/07/02(木) 20:58:22 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは(´・(ェ)・`)/
瞑想中の幻覚や幻聴、あるいは神仏の実在感等は無視すべき事柄であると思いますが、それと、同様に内心の実感であるところの、観照できたことによる無我の実感は区別がてくものなのでしょうか。
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