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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

786鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/15(月) 22:12:59 ID:OTCU79po0
>>782 死を超えたのは悟ってからなのじゃ。
 認識をも厭離しなければ死は超えられないのじゃ。
 個我という観念を生起する認識が残っていれば、自我は又起こり、死もまた起こるのであるからのう。

 衆生を導くために衆生の心について学び、瞑想をしているのじゃ。

 もはや生まれる事は無いのじゃ。
 個我がないからのう。

>>783 一応、昔の記事のコメントも見られるがのう。
 直ぐに返事を望むならばこちらで聞くほうが良いじゃろう。

>>785 良い事じゃ。
 一事に通じれば万事に通じるのじゃ。
 信心銘に専念してわかればみんなわかるということなのじゃ。
 一事に精進するのじゃ。

787避難民のマジレスさん:2014/12/15(月) 23:23:50 ID:NwrrXpyY0
寒い中外にジョギングに行くのは嫌だ、とか腹筋運動は疲れるからやりたくない、とか注射は痛いからしたくないとかはなんなのですか?
これも自我なのでしょうか?

788避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 10:24:30 ID:JagcJSxo0
>>786
了解しました。
では質問があった場合はこちらでさせて頂きます。

と返事しておきながらいきなり質問なんですけど、
「姿勢が大事じゃ」で書かれている丹田の統一ですが、

①これは仙道や気功のような特別な訓練をしている者でなくても、
 ピッタリと揃えば気がのぼり快が生じるのでしょうか。

②瞑想状態ではなく、「こうかな、いやこれかな」などと思考をしながらでも、
 揃えば快は生じてくるのでしょうか。

よろしくお願いします。

789そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/16(火) 19:45:31 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
日常的にはこれといった苦が起こることがほとんどなくなってきました。
それに伴って気付きも増えてきています。

例えば、頭の中で他人のことを考えて、そして頭の中で自分のことを考えている時、
その他人は目の前には居なくて、頭の中だけにいるわけですが、
それと同じように自分というものも実は頭の中だけに居るのだろう、ということです。

また、瞑想中に呼吸の間隔が長くなってほとんど止まった時、
「これは死んでいるようなものじゃないか」と思ったのですが、
してみると、我々が一般に「生きている」と言うのは実はとても観念的なものではないかと。
生が観念なら、死も同様に観念なのだろう。
いわゆる生とか死というものは虚構のようなものだと。

それから、様々なことがどうでもよくなってきています。
以前と同じような出来事があっても、それに対する心の動きがとても少ないです。
そのような自分に対して「ほんとにそれでいいのか?」
と問い質す自分の声もありますが、それは旧い自分の声なのでしょう。

790避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 21:36:39 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。
厳密なやり方ではないまでも縁起の法をやることや、常に「記憶にもとづく観念に過ぎない自我の抱く感情」という見方をすることにより、ずいぶん前から感情の起伏が急低下しており、最近は、他者の発言や態度に感情を動かされることも、自らの行く末について不安を感じることも、どんどん少なくなってきました。
また、感情の起伏や不安を感じにくくなっていることが、そらいろさんが書いてるように、>様々なことがどうでもよくなってきているとも感じられたりします。
これは、かなり楽チンでいいやって感じになっています。それ以上の変容は今のところ特別ありませんが、どうせなら、最後の花が咲くところまで行きたいと思うであります
(´・(ェ)・`)

791鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/16(火) 22:27:18 ID:sPEHpKsg0
>>787 そうじゃ、自我や観念の働きなのじゃ。
 今までの経験からそれらは後には肉体に良いかも知れんが、今は苦しいと判っているから、避けようとするのじゃ。
 何も考えずにやってしまうと意外に簡単なのじゃ。

>>788 ① そうじゃ、本当に姿勢が正しければ下丹田に圧力がかかり、気が上るのじゃ。
       白隠は気功などはしていなかったが、座っているだけで気が昇りのぼせたのじゃ。
       気を下ろす行をして健康になったのじゃ。

     ② それも出来るのじゃ。
        気が昇れば思考は自然に停止するか弱くなるのじゃ。
        姿勢を正す事で初心者でも素早く深い境地には入れるのじゃ。

792鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/16(火) 22:37:06 ID:sPEHpKsg0
>>789 良い気付きなのじゃ。
 境地が深まっているのじゃ。
 そのまま恐れなく進めば永遠の意識に至るじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>790 良い事なのじゃ。
 自然な厭離が起こってきているのじゃ。
 悟りも近付いてきているのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

793787:2014/12/16(火) 23:41:46 ID:NwrrXpyY0
>>791
ありがとうございます。原因がわかりすっきりしました。

794避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 23:48:26 ID:LC3de7YgO
>>792
鬼和尚、ありがとうございます。

鬼和尚に教えてもらった通りにやれば、こんなに楽になれるんだから、みんなやったらいいのに・・・と強く思うであります。

難しいのかもしれないことを、簡単なことのように思わせていただけ、その気になって実践したら、全部自分で実感できることばかりであります。
けど、未だ、三昧も観照も遠くに感じるであります。
けど、がんばりますo(`(へ)´*)o

795そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/17(水) 07:42:45 ID:rzoJTJNQ0
>>792
まだまだ執着も多いですが精進します。
ありがとうございました。

796避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 11:38:01 ID:JagcJSxo0
>>791
和尚、こんにちは。お返事ありがとうございます。

姿勢はかなり重要のようですね。
武道やスポーツなど、体を動かすことなら姿勢の影響は直に感じることはできますが、
精神世界においてもそこまで影響してくるとは思ってもみませんでした。

今までは座ったらとにかく意識を置こうとしていましたが、
これからはまず姿勢をチェックしてみたいと思います。

797避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:10:46 ID:NpBkhqbI0
http://www.kaynotes.com/archives/7976419.html
悟りを開いた人があまり楽しそうでない理由

↑この記事の理解は正しいですか?
修行者は、必ず、この手のジレンマに陥ると思いますが。
悟りを開いた人の立場からコメントをお願いします。

798避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:21:58 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、白隠禅師坐禅和讃も止観の教えを説いたものでしょうか?
再々で恐縮ですが、もしよろしければ解説をお願いできませんか?_| ̄|○

wikiからコピペです。
※原文書き下し

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

799鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:38:02 ID:3LQWQGf.0
>>793 どういたしまして、またおいでなさい。

>>794 そうじゃ、苦しむものに教えたらよいのじゃ。
 すでにサマーディは近いのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>795 どういたしまして、またおいでなさい。

>>796 そうじゃ、姿勢によって瞑想も成功したり失敗したりするものじゃ。
 姿勢はいくら研究してもし足りないぐらいなのじゃ。
 正しい姿勢が判ればサマーディにも速やかにたどり着けるのじゃ。

>>797 正しくないのじゃ。
 我見によって観念妄想に陥っているだけなのじゃ。

 我見が消えれば全てが一つとなり、全ての喜びがあるのじゃ。
 それは一個人の味わえる喜びを超えた無限の喜びなのじゃ。
 我見による個我の喜びではないから、全てが喜び、全てが安楽なのじゃ。

 その境地は我見に陥っていればわからないのじゃ。
 サマーディにでも達すれば、その片鱗を僅かに垣間見ることが出来るのじゃ。

800鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:57:53 ID:3LQWQGf.0
>>798 それは止観の止、座禅を勧めたものなのじゃ。
 座禅からサマーディに至り、悟りが本来のあり方と気付いたという教えなのじゃ。
  
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

 一切の生物は本来、目覚めたものなのじゃ。
 それは水と氷の関係のようなものじゃ。
 水を離れて氷は無く、衆生の他に目覚めた者は居ないのじゃ。

 悟りとは人が進化したり、変化したものではなく、本来の在り方に戻ることなのじゃ。
 記憶に依存した習慣を厭離し、本来のあり方に戻るから、本来の智慧が起こり、死も無い自然の状態に戻るのじゃ。

 それは氷と水の関係のようなものじゃ。
 水からできたものが氷であり、衆生が目覚めれば仏陀なのじゃ。

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず

 そのように衆生は自ら悟りに近い存在であると知らず、法を求めて遠くまで求めようとするのは無知の迷いなのじゃ。
 それは例えば水の中にいて、喉が渇いたと叫んだり、金持ちの家の子が貧乏な家に入って迷っているようなものじゃ。 

 悟りへの門、悟りへの道、悟りへの法は全て衆生自らの中にあるものじゃ。
 なかなか見ようとしない本心にそれらは全部あるのじゃ。
 近すぎて見えず、又執着や不安恐れの所為で観ようとしないだけなのじゃ。

 それは例えば水中で喉が乾いたと叫び、金持ちが貧乏の家に悩むが如くなのじゃ。
 ただ口を開いて水を飲み、財布を開いて金を見れば解決するような悩みを、延々と持っているようなものじゃ。

 悟りとはそれほど自らに近い、己の本心を見る事なのじゃ。
 しかしそれは自ら本心を観た仏陀の感じることであり、未だ迷いの中にある衆生には感知しにくい事じゃろう。

801避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 16:17:19 ID:LC3de7YgO
>>799
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
信心銘、半分暗記しました。

信心銘を何度か読んで思ったことを書いてみます。

物事を認識し、認識対象が確かにあると実感されるとしても、現象としてある物全てが永遠に存在し得ない以上、今あることは確かだったとしても、いずれ無に帰するものとしてあるに過ぎない。

同様に、認識している自分自身の存在も、限られた経験と記憶に基づく観念的存在であり、観念にすぎないものは、夢幻のようなものであり、実体はない。
個としての観念の根底にある、「本心」に気付けば、そこに、個的経験、記憶以前の意識そのものを想定できる。
そこまで、実感としてたどりつければそれが「無我」である。
しかし、認識がある以上認識する主体が前提となり、いかに変容しようとも、残った「自我」の再生の契機となる。
そこで、認識も認識対象もない、有も無もない、善も悪もない、時間もない、「空」を想定することにより、認識を消し去り悟りに至る。

快を求め不快を嫌い、生を求め死を嫌い、善を求め悪を嫌らうのが本質であってもなくても、全てを包含する「空」であるということは、個の根底にある本心の求めるもののみに満たされることになる。

こんな信心銘の理解でも良いでしょうか?

802避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 20:50:40 ID:jfWCoXjM0
>>800
解説ありがとうございます!
今日も続くのでしょうか?楽しみに待ってます☆

803鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:42:59 ID:3LQWQGf.0
今日も続くのじゃ。

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり

 六趣輪廻の原因は、自分の無明、己在りと言う我見の愚かさから来るものじゃ。
 自分の無明から迷いの闇路をさまよい、いつ生死を離れた悟りに至れるのか知れら無いほどなのじゃ。

 六趣輪廻とは、地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天人の六つの生存環境なのじゃ。
 衆生が延々とその輪廻をさまようのも、己が在るという無明からなのじゃ。

 その原因からさまざまな生きる世界が形作られるのじゃ。


 偉大にして広大なる禅定は、いくら称えても称え尽くすことができないものじゃ。
 お布施とか、戒を保つ事とかの完成の行、念仏や懺悔などの修行などの数々の善行も皆この中にあるのじゃ。

 その無明から抜け出す法として、偉大にして広大なる禅定があるのじゃ。
 人を悟りに導く法であるから、いくらたたえてもたたえ切れないほどなのじゃ。

 波羅蜜とは完成を意味する梵語なのじゃ。
 菩薩の行として大乗では六の波羅蜜、完成の行を行うのじゃ。

 布施、戒を守る事、耐え忍ぶ事、精進する事、禅定、智慧などの六なのじゃ。
 それらは全て禅定一つによって完成されると言うのじゃ。

 さらに念仏とか懺悔などの修行も、禅定一つで完成されると言うのじゃ。
 禅定を行い、悟りを得れば全ての修行は完成されることになるから、全ての修行は禅定の中に含まれるといって良いのじゃ。

 
今日はここまでなのじゃ。

804鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:44:15 ID:3LQWQGf.0
>>801 そのようなものじゃ。
 後は実践在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>802 そうじゃ、続くのじゃ。
 WKTKして待つのじゃ。

805避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 23:31:22 ID:LC3de7YgO
>>804
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
目の前のあんパンやPCや、それを五感で認識するおのれの存在の確からしさを実感として否定できるとこまで行き着くのは、記憶の断片=観念の寄せ集めとしての自我という理屈の単なる延長戦上では無理でありますね。
それを、 見抜くためには、無分別=空を追求するか、自我が生じる瞬間を観察し切る実践しかないのでありますね。

けど、鬼和尚の説明で理屈も少しづつ、整理できてきた気がするので、励みになります。

806鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:10:17 ID:rs5p.yDE0
今日も続くのじゃ。

一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず

かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し

 一度座った程度の行いでも、積み上げた無量の罪が消えるのじゃ。
 地獄とかの悪い環境に居る者も、その苦しみが何処に行ったのかと思うほどであり、極楽浄土も近くなるのじゃ。
 
 この禅定の法を聴くことが出来たものが、そのありがたさに喜び、称えるとき、限りない福が得られるのじゃ。

 まして自ら実践して、自性をあかせば、自性が無性であると気付き、空しい論を離れるじゃろう。
 原因も結果も一つであると知る、唯一の道が真っ直ぐに開けるのじゃ。

 自性とは本質的な性質とでも言うべきものじゃ。
 人が己と言うものを認識する時、己の本質的な性質によって自らを認識するのじゃ。
 
 己を強きものと思えば、強い性質を持つ者として認識するのじゃ。
 己を弱きものと思えば、弱い性質を持つ者として認識するのじゃ。

 そのような自性が、座禅によって実は無であったと気付けば、もはや一切の思考分別をも離れるのじゃ。
 原因も結果も一つであり、悟りへの道も、もはや容易なのじゃ。


  今日はここまでなのじゃ。

807鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:14:10 ID:rs5p.yDE0
>>805 そうじゃ、観念や戯論をいくら重ねても進歩は無いのじゃ。
 実践する事だけが進歩の道なのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2014/12/19(金) 23:24:43 ID:/Tir5mUE0
wktkするのお
白隠はヒップホッパーじゃのお

809避難民のマジレスさん:2014/12/20(土) 20:59:11 ID:jfWCoXjM0
>>806
昨日も解説ありがとうございました_| ̄|○
禅定で思い出したんですが、以前偶然に下記のような体験がありました。
禅定とは1の状態でしょうか?
それと、なんで2の意識は生まれるんでしょうか?

1何も無かった
2何も無いことを意識した
3言葉が流れているのに気づいた
4言葉から景色が生まれた
5肉体を見つけた
6肉体に入った(?)
7感覚が生じていつもの自分目線に戻った

810鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/20(土) 22:17:56 ID:rs5p.yDE0
今日で終わりなのじゃ。

無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

 無のありようを真のありようとして、行く所も帰る所も今ここにあるのじゃ。
 無の心を真の心として、歌う声も舞う姿も法に合致する。

 サマーディは開けきった空の如くに広大になり、四つの智慧が月の如く輝くのじゃ。
 もはや何かを求める欲望は無い、涅槃寂滅の境地が既に現れている故に。
 今ここが極楽浄土であり、自らが目覚めた者であったのじゃ。
   
 相とは相好というように、一切のものの姿形なのじゃ。
 人は他の物事を全てこの相を元に認識しているのじゃ。
 相とは特徴でもあるのじゃ。

 他と違う特徴を探し、それを以ってそれがいかなるものか分別するのじゃ。
 例えば人ならば鼻がでかい特徴から手塚君とか、腹がでかい特徴から山田君とか認識するのじゃ。

 そのような特徴を抽出する分別が無くなり、一切の相が無となれば、もはや分別は無く、一切が一つであり平等無分別の境地になるのじゃ。
 そこではもはや全てが一つであるから、生死によって行く所も帰る所も無く、一切が今ここにあるのじゃ。

 念とは思うことであり心の働きなのじゃ。
 それが無となれば心も無となり、法と一体となるのじゃ。

 そうであればもはや本来非法である、歌も踊りも法そのものとなるのじゃ。
 
 そしてサマーディによって心に障壁が無くなり、どこまでも突き通って心が明らかになれば、平等性智などの智慧が生じ、悟りも徹底されるのじゃ。
 そうなればもはや一切の欲は消え、涅槃寂静の境地に入るのじゃ。
 
 その境地によって極楽浄土の仏国土は今ここにあり、自ら目覚めた者であったと気づくのじゃ。、
  

 これで終わりなのじゃ。

811鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/20(土) 22:24:35 ID:rs5p.yDE0
>>808 そうかもしれん。
 なかなかの詩人じゃな。

>>809 1は無思考の状態なのじゃ。
 禅の原語であるディヤーナによる状態なのじゃ。
 
 2の意識は常に在るのじゃ。
 何も無くとも、それを認識する意識が無ければ、何も無いとはわからないのじゃ。

 意識が拡大したのじゃ。
 識無辺定とか空無辺の状態なのじゃ。
 集中力が身につけば容易に出来るようになるのじゃ。
 体験に囚われることなく進むのじゃ。

812避難民のマジレスさん:2014/12/22(月) 12:02:08 ID:/1ub1Cio0
鬼和尚、
生じた怒りを原因から滅した時に気づいたのですが、怒りも喜びも、100%自分の問題ゆえに、苦滅によってコントロールすることができるのですね。

ところで、深い瞑想などの時に感じられる安らぎは、物事が心に無い時にあるように感じられます。
これは怒りや喜びと異なり、作られざるものなのでしょうか?

813避難民のマジレスさん:2014/12/22(月) 20:40:19 ID:jfWCoXjM0
>>810
坐禅和讃の解説ありがとうございました!

まだまだ未熟者ですが、これまでの鬼和尚の解説をよく読んで、修行に励みたいと思います。

814鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/22(月) 22:27:58 ID:twUYCSy60
>>812 そうじゃ、自ら苦も滅する事が出来るのじゃ。
 自ら修行して悟りも得られるのじゃ。

 そのような安らぎは本来のものであり、心で創られた観念ではないと言えるじゃろう。
 日常で緊張している心が解放されたともいえるがのう。 

>>813 そうじゃ、修行に励むのじゃ。
 全ての教えは実践のためのものであるからのう。
 実践が全てなのじゃ。

815避難民のマジレスさん:2014/12/23(火) 15:43:23 ID:t0rzP/K20
大拙の鑑定を根拠つきでお願いします

816避難民のマジレスさん:2014/12/23(火) 17:30:33 ID:YWqLYYqo0
>>814
最近、自我を無くすことの恐れが減ってきているように感じられます。
さらに精進して、まずは自我を滅したいと思います。
ありがとうございました。

817避難民のマジレスさん:2014/12/23(火) 19:28:27 ID:QMm34KcU0
>>816
>まずは自我を滅したいと思います。

自我を滅するということは、場合によっては飢え死にするようなことも
覚悟の上なのですか?

818鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/23(火) 22:30:50 ID:o/6xvB9Y0
>>815 youtubeに動画が在るのじゃ。
 時々動かないのじゃ。見てみると良いのじゃ。
 
>>816 そうじゃ、恐れを超えて進むのじゃ。
 恐れが無ければ悟りも近いのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

819避難民のマジレスさん:2014/12/24(水) 12:25:22 ID:zymYeoR20
>>817
自我を滅したあとで、認識を滅し、それから戻ってきて教えを説くと決めていますので、飢え死にはしないと思います。
たとえ飢え死にするとしても、正しい認識もできずに死ぬよりは、悟りを得るほうを選びます。

820そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/24(水) 20:16:02 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
最近は希薄というか空疎という感覚があります。
何が希薄で空疎なのかと言っても、それが何であるのか言いようのない感じです。
仕事中も瞑想中も同じように希薄な感じです。
修行していないニートの人と比べると、おそらくニートの人の方が濃密だと思います。
「我」という感覚が薄れてきているのかもしれません。
こんなんで良いのでしょうか。

821そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/24(水) 21:21:14 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
もう一つお願いします。
今日、昼食にうどんを食べたのですが、食べながら麺を目にして、
「これは食べ物のうどんで、これから昼食をとるのだ」という認識をする自分と、
食べ物の認識を除外して、言葉にすれば「白、ツヤ、折り重なり」程度に捉える自分の、
それぞれ異なる二種類が重層的に居るような感覚があったのですが、
これはどういう状態なのでしょうか。

822鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/24(水) 22:24:59 ID:o/6xvB9Y0
>>820 条件付けがなくなってきたのじゃろう。
 確固とした世界や社会と言う観念が無くなり、自我から起こる感情も消えてきたからのう。
 そのほうが苦も起こらないか小さいじゃろう。
 むしろ瞑想の喜びを楽しむのじゃ。

>>821 分別が止まってきたのじゃ。
 一つの観念ではなく多層的に観察出来るようになったのじゃ。
 完全に止まった機に自分が観られれば悟道も訪れるのじゃ。

823そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/24(水) 23:39:32 ID:rzoJTJNQ0
>>822
ありがとうございました。

824避難民のマジレスさん:2014/12/25(木) 10:35:52 ID:JagcJSxo0
和尚、こんにちは。

物事に対して思考が自動反応するのはわかってきたのですが、
反応する思考の違いには何か決め手のようなものはあるのでしょうか。

例えば、朝起きて犬の散歩にでも行こうとしたとき、
ある時は何ら気兼ねすることのない思考の時もあれば、、
ある時は何となく面倒だなーという思考になったりもします。

同じ事象に対することなのに、なぜ反応が違うのだろうかと疑問に思ったわけですが、
これらはやっぱり、体調などその他もろもろのことが影響しあった結果なのでしょうか。

825そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/25(木) 18:12:12 ID:mw0Ye.zc0
鬼和尚
私の思考に顕著な思考パターンがあることがわかるようになりました。
その思考は怒りや憤りや悲嘆などの感情を生みます。
それが起こるプロセスを観ると、
個別の具体的な内容はそれぞれ異なりますが、
どれも似通っていて、
自我を守ろうとする防御反応であったり、
それが高じた他者への攻撃であることが、
とてもよくわかります。

826避難民のマジレスさん:2014/12/25(木) 21:11:06 ID:r1bO5aHo0
鬼和尚様
数息観の実践している者ですが、お聞きしたい事があります。
安般守意経にある、数息・相随・止・観・還・浄それぞれの意味
と実践法を教えていただけますでしょうか。
よろしくお願いします。

827鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/25(木) 22:51:01 ID:3O4ezeHw0
>>823 どういたしまして、またおいでなさい。

>>824 そうじゃ、体調や環境などの違いにより、反応も異なるのじゃ。
 体調がよければスポーツは楽しいが、疲れていれば楽しくないようにのう。
 それらも自我によって選択することなく縁によって自動的に起こるのじゃ。

>>825 良い観察なのじゃ。
 そのように気付く事が多くなれば世間の欲を離れ、悟りも近付くじゃろう。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>826 それらは実践する法というより、進歩する段階なのじゃ。
 最初は数息観をして外の世界の五感を遮断して集中力を高めるのじゃ。
 次には心を集中して法に心が随うようになるのじゃ。
 そして心は止まり、無念無想となるのじゃ。
 心が止まれば観察が出来るようになり、様々な執着から心が離れるようになるのじゃ。
 そして心が一つに還るサマーディに到達し、喜びが湧くのじゃ。
 さらに精進を重ねて対象の無いサマーディにまで達すれば心は清浄となり、悟りも訪れるのじゃ。

 そこまで到達するには中々大変であるが、日々精進すれば全ての境地は向こうから訪れるのじゃ。

828そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/25(木) 23:10:44 ID:rzoJTJNQ0
>>827
ありがとうございました。

829826:2014/12/26(金) 06:22:23 ID:GPo.LjOQ0
>>827
ありがとうございました。
これからも実践を続けていきます。

830避難民のマジレスさん:2014/12/26(金) 06:45:46 ID:6ZZgOq8Y0
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/BOOK-satori.html
鬼和尚様、この人は悟っていますか?
なんとなく、認識は破壊できていないような気がいたします。

831避難民のマジレスさん:2014/12/26(金) 11:17:11 ID:JagcJSxo0
>>827
和尚、お返事ありがとうございます。

>それらも自我によって選択することなく縁によって自動的に起こるのじゃ。

ということは反応そのものに自我はなく、
ただ記憶を参照して関連データにアクセスしているだけということでしょうか。

その機能は脳という臓器の働きにすぎず、
自我は、そのアクセスされたデータに囚われた時に生じてくるようなものと考えておいて問題ないでしょうか。

832避難民のマジレスさん:2014/12/26(金) 19:08:24 ID:wdE6cjYY0
鬼和尚の「今」についての説明が聞きたいです。

833そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/26(金) 21:35:15 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
観察について語ったり論じたり考えたりする時、
「主体と客体」とか「主観と客観」などの二元的なものの存在を無条件の前提として掲げてしまい、
主観なのか客観なのかなどと考えてしまいがちですが、
主観も客観も、生まれたり無くなったりするもでもなく、
分離されたり統合されるものでもないのではないでしょうか。
そもそも主観も客観も観念であって、
本来はそのようなものは無いと言えるのではないでしょうか。

834鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/26(金) 21:54:54 ID:1tAPJlTw0
>>828 どういたしまして、またおいでなさい。

>>829 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>830 悟っていないのじゃ。
 サマーディを体験したようでは在るがのう。

>>831 そのような考えでも良いのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>832 今とは過去を思わず、未来のことを考えずにいることなのじゃ。
 過去に起きた苦をえんえんと思うことから苦はくりかえされるのじゃ。
 そしてその苦をこれからも起こるかもしれないと考えるから不安が起こるのじゃ。

 そのように過去の苦から離れ、又起こるかもしはれないという思考が無ければ今ここに居る事になるのじゃ。

835そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/27(土) 13:39:29 ID:4QKujcG20
>>833に追記です。
私が昔読んだ本で「『甘え』の構造」(土居健郎著)というものがあるのですが、その中に

「われわれはむしろこれから甘えを超克することにこそその目標をおかねばならぬのではなかろうか。それも禅的に主客未分の世界に回帰することによってではなく、むしろ主客の発見、いいかえれば他者の発見によって甘えを超克せねばならないと考えられるのである。」

という文があって「禅的な主客未分の世界」という言葉が長い間強く記憶に残っていました。
しかし、主客というものも実体のあるものではなく、観念の産物なのではないでしょうか。

836避難民のマジレスさん:2014/12/27(土) 17:32:15 ID:epk3cmT20
>>834
和尚、お返事ありがとうございます。
引き続き実践に精進いたします。

837鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/27(土) 22:06:51 ID:QsT8JVWM0
>>833>>835 そうじゃ、本来は無いものじゃ。
 無理に在るとすれば主観だけが在るとも言えるが、それも客観との反対観念として在る言葉であり観念に過ぎないのじゃ。
 観念が無ければ常に主客一体なのじゃ。

>>836 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

838そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/27(土) 23:12:11 ID:4QKujcG20
>>837
ありがとうございました。

839避難民のマジレスさん:2014/12/28(日) 19:56:13 ID:3Acup.qo0
鬼和尚
飛んでいる物体は個体が飛んでいる。
動かない家具はそこに在りつづけると見ていましたが。
そうではなく
静止した絵が全体として変化しているように見える事があります。
全体がカラスの鳴き声と一緒になっています。
瞬間瞬間、何も残るものがありません。
これをもっと味わっても良いですか?

840鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/28(日) 22:47:15 ID:wjwUyevI0
>>838 どういたしまして、またおいでなさい。

>>839 そうじゃ、もっと味わってよいのじゃ。
 認識の習慣性がなくなり始めたようじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

841避難民のマジレスさん:2014/12/30(火) 20:38:55 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
信心銘024まで暗記しました。
信心銘の鬼和尚解説を契機に、他の禅書籍にも関心をもち、今↓のHPを読んでます。
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/index.html

842鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/30(火) 22:39:31 ID:Ji3gX.zY0
>>841 善いことじゃ。
 禅とはディヤーナの音訳の略なのじゃ。
 ディヤーナとはサマーディに至る前の集中状態なのじゃ。
 実践し集中しなければ禅ではないのじゃ。
 おぬしは本当の禅を実践するとよいのじゃ。

843避難民のマジレスさん:2014/12/31(水) 16:36:48 ID:9dZmJJkw0
鬼和尚、いつもありがとうございます。
受動的な瞑想を始めています。
無抵抗のまま、どこまでも明け渡せそうな切りがない感覚で、
開放感で全身が快になります。
この感覚でよろしいですか?

844避難民のマジレスさん:2014/12/31(水) 20:45:39 ID:/gu5sIKA0
今晩は鐘が鳴るのじや
禅定に入り観照を起こすのじや
あの鐘を鳴らすのはわしなのじや

845鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/31(水) 22:12:15 ID:Tt6ns1q60
>>843 そうじゃ、それでよいのじゃ。
 時々、自分が戻ってきそうになるがなるが、そのまま開放すると良いのじゃ。
 恐れを超えれば限界などなくなるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

846避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 00:24:14 ID:LC3de7YgO
ヽ(・(∀)・)ノ明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

847避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 01:03:09 ID:sbMeLyns0
鬼和尚さん、あけましておめでとうございます。
昨年もたくさんの質問に応えてくださって、ありがとうございました。
ありきたりな言葉になってしまいましたが、とても感謝しています。
今年もよろしくおねがいします。

848避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 01:35:22 ID:kpH2I4A.0
鬼和尚、あけおめヾ(゚∀゚)ノ

849龍昇:2015/01/01(木) 03:44:14 ID:w3wQ.Dc60
あけましておめでとうございます
今年も皆様にとって良い一年になりますように

850避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 04:30:13 ID:jfWCoXjM0
明けましておめでとうございます!
昨年は色々教えてくださって本当にありがとうございました_| ̄|○
だんだんと鬼和尚の言ってることがわかってきたので、今後は実践あるのみでいきたいと思います。
今年もよろしくお願いします\(^▽^)/

851避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 08:05:27 ID:kO15HDFw0
鬼和尚、皆様、あけましておめでとうございます。
お正月休みは鬼和尚のブログを隅々まで読んで理解を深め精進します。

852鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/01(木) 21:42:38 ID:uWUQQdpM0
>>846 あけおめことよろなのじゃ。今年もさらに進むじゃろう。
 
>>847 あけおめことよろなのじゃ。良かったのじゃ。
 精進すれば楽になるのじゃ。

>>848 あけおめことよろなのじゃ。今年も精進なのじゃ。

>>849 あけおめことよろなのじゃ。おぬしも良い一年になるように。

>>850 あけおめことよろなのじゃ。そうじゃ」実践すれば楽になっていくのじゃ。

>>851 あけおめことよろなのじゃ。そうじゃ、実践して喜びを食むものとなるのじゃ。

853龍華:2015/01/01(木) 21:47:58 ID:kl1CR23s0
新年あけましておめでとうございます

正しい月は旧暦だと思うのですがお正月!
まじめに坐るよ2015年!
本年もよろしくお願いいたしますありがとうございます

854避難民のマジレスさん:2015/01/02(金) 13:44:35 ID:W/a.g3nY0
和尚、あけましておめでとうございます。
本年もご指導のほど、よろしくお願いします。

年末年始は人との交流が増えるため、
瞑想時になかなか思考の波が静まりません。
しかし今年こそは禅定を得るため、
こういったことも含めて精進していきたいと思います。

今年も一切衆生が幸せでありますように。

855鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/02(金) 22:02:10 ID:YZmi17.60
>>853 あけおめことよろなのじゃ。
 そうじゃ、精進する者に道は開かれるじゃろう。

>>854 あけおめことよろなのじゃ。 
 良い事じゃ。求める者に道は示されるじゃろう。

856避難民のマジレスさん:2015/01/05(月) 12:59:10 ID:fcexXDZw0
鬼和尚、
善行について教えて下さい。
善行の対象は、必ずしも個我を持つ衆生には限らないのでしょうか?
もし怒りで石を蹴飛ばしたとしても、平等性智により、その報いは本人に返りますか?

857避難民のマジレスさん:2015/01/05(月) 20:48:11 ID:b/5GXrxU0
鬼和尚様
随息観についてお尋ねします。
呼吸の出入りに集中する際、頭の中で呼吸音を擬音化する癖が
自分にはあります。それだけでなく、日常で音楽や鳥の鳴き声な
どの音を聞く時も、聞くのとほぼ同時進行で音を擬音化して認識
しているようです。
このような認識の癖も、行が深まれば消えるものなのでしょうか。
また、随息観をする時のアドバイスがあればお願いします。

858鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/05(月) 22:14:02 ID:/zZoA6og0
>>856 帰るじゃろう。
 善行の元は心にあるのじゃ。
 怒りの心によって行った事は、被害者が居なくとも本人に何らかの報いが起こるじゃろう。
 自分の心が常に見ているから誤魔化すことはできないのじゃ。
 粗末にしたものがなくなるとか、そのような事が報いとなるのじゃ。

>>857 それで良いのじゃ。
 それは追唱といって、誰の頭の中にも起こっていることなのじゃ。
 字を読んだり、話をしていても起こっているのじゃ。

 それが観察できたことでよいのじゃ。
 それを消そうとか、消えないかとか思う必要も無いのじゃ。
 今ここにある心に起こっている事を、ありのままに観察するだけでよいのじゃ。
 さらに集中と観察が深まって、認識が消える時にそれも自然に消えるのじゃ。

 どこまでも呼吸に随うがよいのじゃ。
 肉体の生理も無視して集中すればさらに深い境地にいけるじゃろう。

859857:2015/01/05(月) 23:11:54 ID:0DFILKEk0
>>858
ありがとうございました。
さらに実践を続けていきます。

860避難民のマジレスさん:2015/01/06(火) 17:09:41 ID:wH0JIS760
>>858 ありがとうございます。
自分の心が常に見ているのですね。肝に銘じておきます。
ここでの自分の心とは、阿頼耶識のことでしょうか?

あと、知らないで悪を為したことも報いを受けるとのことですが、その悪を知らないのは表層の心だけで、奥深い心は善悪を判っているということなのでしょうか?
それとも、他に為したのと同じことを平等性智が自分に対して為すということでしょうか?

861鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/06(火) 21:50:53 ID:F4Z0hQac0
>>859 そうじゃ、実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>860 それは平等性智なのじゃ。
 本来の智恵が誰の心にもあり、見ているのじゃ。

 衆生は本来ひとつであり、他人も自分のひとつなのじゃ。
 例えば手が足を攻撃したら血が出て手も動かなくなるじゃろう。
 そのように本来ひとつなのであるから善悪の観念が無くとも、他人にしたことは自分に帰るのじゃ。

862避難民のマジレスさん:2015/01/07(水) 12:51:47 ID:qYQvs9ck0
>>861
ダンマパダでお釈迦様が何度も繰り返し、善を行うことを勧め悪を行うことを諌める理由がわかりました。
また、私がダンマパダ1を十分に理解していないこともわかりました。

さらに、考えと言葉と行動に気をつけつつ行に励み、本来ひとつであることを確かめたいと思います。
ありがとうございました。

863鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/07(水) 21:57:25 ID:6FmcCiu20
>>862 良かったのじゃ。
 善を行い続ければ心も清くなり、幸福と安楽が常に付き従うじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

864そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/08(木) 18:03:28 ID:AV7N7e4w0
鬼和尚
日々様々な気付きがあります。
これは誰が気付いているかというと、私が気付いているわけです。
しかし実は私がと言うよりは、誰であるとは呼べない者が気付いているのではないでしょうか。
つまり私は、その誰であるとは呼べない者と繋がっているのではないでしょうか。
同様に、他の人も皆繋がっているのではないでしょうか。

865避難民のマジレスさん:2015/01/08(木) 20:37:36 ID:W/a.g3nY0
和尚、こんにちは。

昔だと不安や怒りに飲まれていた事柄に対して、
最近ふと気がつくとなんとも思わなくなっていることがよくあります。

煩悩が落ちるというのは、あからさまに
「はい落ちた、いま落ちた、ほらほら落ちた」という具合ではなく、
気がつくといつの間にか落ちていた、というような感じなのでしょうか。

866鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/08(木) 20:47:46 ID:6FmcCiu20
>>864 そうじゃ、良い気づきなのじゃ。
 意識は本来、自分とか肉体に縛られているものではないのじゃ。
 自他の区別の無いところに気づきはくるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>865 そうじゃ、気づきは自覚できるが、その結果は後からわかるものじゃ。
 かつては苦を起こす原因となっていた観念も、気づいた後に苦の原因であることから離れるのじゃ。
 記憶がなくなった訳ではないが、苦はもはや起こらないのじゃ。
 それが厭離なのじゃ。

867そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/08(木) 23:16:21 ID:hw5NmCB20
>>866
ありがとうございました。

868避難民のマジレスさん:2015/01/09(金) 10:34:56 ID:W/a.g3nY0
>>866
和尚、お返事ありがとうございました。

なるほど、煩悩がその場で無くなるのではなく、
煩悩の原因となっていたものから離れるのですね。
だから同じ記憶を参照しても反応は起こらないわけですか。
とても腑に落ちました。

引き続き実践に励みます。

869避難民のマジレスさん:2015/01/09(金) 19:12:46 ID:JUIzF8vA0
鬼和尚
ご飯を食べる時に「そういえば受容的なってこんな時もできるのかな」と
思ったら妙な感覚になって笑ってしまいました。
食べていることに自分が一致してるというか一緒になっていて、
食べる人でなくて、食べる事が対象でない感じですよ。
自分が噛み砕きそのものになってます。

870鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/09(金) 22:08:08 ID:MOldaCw.0
>>867 どういたしまして、またおいでなさい。

>>868 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>869 かなり進歩しているのう。
 対象と一体になるサマーディに達したようじゃ。
 もはや出世間の定と知識が芽生えているのじゃ。
 さらに精進するのじゃ。

871鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/09(金) 22:21:56 ID:MOldaCw.0
また2ちゃんねるが書き込めないのじゃ。
おかしなことじゃ。

872素人A:2015/01/10(土) 15:11:54 ID:gOqWUDAs0
2ちやんに連絡できないから思いついた事鬼さんに聞こう。般若心経では感覚器官は実態では無い
と言っているけど感覚器官でも視覚や聴覚はテレビや映画で実態の無い世界をドラマで実現している
是から触覚も体験できるバーチャルなドラマ?ができ誰かの身に触覚で身体に入れたら
痛い体験ができ痛いのはいやで体験に引き使われてしまうのか?観るだけですよ
お客さんでは観光気分で温泉に行く気分だが触角まで実現されたら幻どころでは無い
もしかしたら今観ている現実はバーチャルで痛い感覚はどこから来たのか
玄沙和尚は旅に出ようとして足の指を思い切り痛い思いしてこの痛さは何処から来た
のかと考えたそうだし。私等痛い思いがないと真剣にならないし何聞きたいのか
感覚でも色々な違った作用があると言う事かちょっと暇なので相手してもらいたい野鴨
2ちやんはつながらないしでも私は独りでいつも会話しているしでもたまには

873鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/10(土) 21:17:20 ID:mQhlK7fM0
>>872 そうじゃ、痛みは本来は肉体の異常を知らせる警報に過ぎないのじゃ。
 しかしそれが一度経験されて記憶になると、痛みそのものが怖くなり、いつまた痛くなるかと不安をも引き起こすようになるのじゃ。
 本当の痛みより、痛みへの恐れと不安が苦になるのじゃ。

 そして痛みがあればこの痛みがこれからも続くかと、さらに苦を増やしたりもするのじゃ。
 そのように痛みよりも、痛みへの恐れと不安が苦になることをよく観察して気づくのじゃ。

874避難民のマジレスさん:2015/01/10(土) 22:46:25 ID:o2sAVcZE0
鬼和尚さま
うたたねをしていると急に昔住んでいた家が映像で詳細に頭に浮かびました。
実際にその場所にいるような感じでした。

今までも瞑想中に忘れてたことや場所が詳細に思い出されることはありましたが、
今回は実際その場所にいるように歩いて見て回ってたのですが、
あまり詳細に見ていると向こう側へ引きずり込まれるような感じで、怖くなって起きてしまいました。
ちなみにその家はもう取り壊されてありません。

昔同じようになったとき、幽体離脱したような感覚だったこともあります。
自分が自分からスポっと抜けてその場所に出たような。
抜けるときは幽体離脱、頭の中で見てるときは透視でもしてるような感じです。

同じような感じで自分と関係した過去の誰かなどを思い返すと悲しいような気持ちになります。
その人ともう会えなかったり失われた過去に対しての執着からだと思うのですが、
自分の記憶、過去への執着をなくしていく過程で起こることなのでしょうか。

悟った方はなんでも思い出せるようなことを聞きますが、
記憶や過去への執着が本当になくなると、逆になんでも思い出せるようになるんですかね。

875避難民のマジレスさん:2015/01/10(土) 23:42:29 ID:43oZw7ok0
>>870
鬼和尚、ありがとうございます。
精進いたします。

876避難民のマジレスさん:2015/01/11(日) 07:30:27 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
自我の観察について教えてください。
観察をしていて気付いたのですが、思考をしている時に生じている自我イメージと、観察をしている時に生じている自我イメージは異なるようです。

順観と逆観により自我を観察する時には、○○がある時に自我があり、○○が無いときに自我が無いと観察するのですよね。
この場合、思考によって生じる(特有の)自我イメージが、思考が無いときには生じないと観察すれば良いのでしょうか?
もう少し詳しくお教えください。

877素人A:2015/01/11(日) 09:24:25 ID:gOqWUDAs0
鬼さんありがとう 個人の自我も問題だか 社会が人間の本能や感覚を利用して
コントロールするのもある野鴨で.まうそうやつてこの世は動いていくけど
ほつとけ内仏もあるという事は信じて行きますか?大乗ぶだあ

878そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/11(日) 13:40:31 ID:hw5NmCB20
鬼和尚
背中の上の方から首の後ろの辺りにかけて、心地よさの塊のようなものがあります。
瞑想中のみならず、日常的にその存在を感じます。
様々な気付きは、この辺りからもたらされているようにも感じます。
これは、下記の引用のように、鬼和尚が言われている意識と同じものなのでしょうか。

>68 2 名前: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM Mail: sage 投稿日: 2014/03/14(金) 20:20:07 ID: kaXJvxhM0
>肉体の首や脊髄のあたりに在る意識なのじゃ。

879鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/11(日) 21:36:03 ID:mQhlK7fM0
>>874 そのような事もあることじゃ。
 まだ少し執着が残っていることを思い出しているのじゃ。
 完全に執着が無くなればそれもなくなるじゃろう。
 記憶は残っているのじゃ。
 執着による孤独感などはなくなるのじゃ。

 苦があれば思い出したくないことは心によって制限されるのじゃ。
 苦が無くなれば思い出したくないことも無くなるのじゃ。

>>875 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>876 思考によって起こるイメージが、思考が無いときは起こらないことをそのまま観るのじゃ。
 起こらないことを自分で観想してはいかんのじゃ。
 起こらない事をそのまま、ありのままに観るのじゃ。
 もし自我のイメージが起こったならば、起こったことをそのままに観察するのじゃ。
 思考が無い事を観察するのも難しいことではあるがのう。
 実践あるのみなのじゃ。

880鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/11(日) 21:49:31 ID:mQhlK7fM0
>>877 そのような事もあるじゃろう。
 しかし人が自らを深く内省し、老病死を免れないと知れば悟りへと向かうものじゃ。
 その最高の境地を目指すことができる環境ならば、不自由ということも無いのじゃ。

>>878 そうじゃろう。
 意識は肉体の位置によって違ったりするのじゃ。
 さらに観察すればもっと気づくこともあるじゃろう。

881避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 00:48:45 ID:o2sAVcZE0
>>879
そうですね。
記憶は根深いなと思います。
執着がなくなるにつれまた奥の記憶や執着が出てきますね。
地道に実践しようと思います。ありがとうございました。

882そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/12(月) 09:16:33 ID:hw5NmCB20
>>880
ありがとうございました。

883避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 14:22:13 ID:xQpSahzw0
>>879 ありがとうございます。
自我の観察の場合、自分で何かをするのではなく、起こったことをそのまま観察するのですね。観察しようとする意志をも放棄する必要があるということでしょうか。

また、思考が無いことを観察するのが難しいというのは、どういうことでしょうか?
意志により思考を止めるのではなく、思考が無いときに思考によって起こるイメージが無いことを(偶然)観察しなければならないのが難しいということですか?
それとも他に理由があるでしょうか?

884避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 20:56:23 ID:/T06nax.0
日頃の日常でも訓練するためにグルジェフのいう

885鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/12(月) 20:59:24 ID:mQhlK7fM0
>>881 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>882 どういたしまして、またおいでなさい。

>>883 いずれは観察する意志もなしに観察できるようになるじゃろう。
 それをしようと意識する必要も無いのじゃ。
 修練の結果できるようになるものであるからのう。

 そのようなことじゃ。
 通常の人間は思考が無い状態を意識することも難しいものじゃ。
 思考が無い状態に容易に到達できるならば、観察もできるじゃろう。


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