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刑事弁護の危機と医療の危機
1
:
キラーカーン
:2008/08/26(火) 23:12:25
コメントの流れをぶった切ります。
犯罪であれ、医療の現場であれ、最愛の人を失った悲しみは遺族にとって変わりません。
そして、その遺族の悲しみは何らかの手段によって癒される必要があります。そのための第一歩が「事実を知る」と言うことであるということも一定のコンセンサスが得られていると思います。ここでいう「事実を知る」とは、
ある時点時点における事実という「点」を理解(納得)できる形で「線(歴史)」として叙述した「物語」
であると私は認識しています。その意味において、この問題は「歴史認識問題」と共通する部分があると私は思います。
ということで、今回も、光市の事件と大野病院との比較が「枕」です。実は
・光市の(差戻審)被告人弁護団と本村氏
・大野病院事件の医者と亡くなった患者の父親
は法律上「同じ」関係にあります。(厳密に言えば、被告人と弁護人との違いはありますが、裁判の当事者としては同一視できます)。また、本村氏となくなった患者の父親は刑事裁判上「犯罪被害者」という同じ存在であるのです。
蛇足的にいえば、大野病院の事件においては、無罪判決が出たため、結果的に「犯罪被害者」ではなくなりました。また、「推定無罪」の原則との関係から、『刑事裁判において「犯罪被害者」は存在しない』との説も存在します
で、双方の裁判とも起訴された罪名については否認していたわけです。しかも、双方とも、弁護人の行為や医師の行為について
・刑事弁護の崩壊(by弁護士:光市の事件)
・医療崩壊(by医師:大野病院事件)
と同様の懸念が同業者である弁護士及び医師の多数からから発せられていました。
しかし、光市の弁護団は強烈な「バッシング」を受け、大野病院事件の医師はそこまでの「バッシング」は受けていません。
それはなぜでしょうか。大野病院事件においては、
「被害者(患者)のため」
という立論を崩してはいませんが、光市の事件においては
「弁護人(弁護士)、被告人のため」
の立論に終始し、「被害者の存在を無視」してからです。
もちろん、「このままでは医療崩壊を招く」という医者側の立論は
「医者の脅迫」
として、批判されることもありますが、その場合でも
「医者のため」
という「被害者不在の立論」であるという「光市の事件に関する多くの弁護士が陥った落とし穴にはまった」からと言うことができます。
では、なぜ、医者はそのような議論が提起できるのでしょうか。私が考えるに、医療崩壊の問題については、「加害者(医者)」と「被害者(患者)」の双方を包含する『医療』という社会的枠組が存在するのに対して、光市の事件においてはそのような枠組みがないからだということができます。
医療の場において、医者(「加害者」)と患者(「被害者」)の接触は必須です。その意味において、医者と患者との対話、意思の疎通は円滑な医療の実施のための必要条件であるということができます。
一方、刑事司法の場において、加害者と被害者が会して、双方の意思の疎通を行う発想そのものが伝統的な刑事司法の場では『存在しません』。そういう発想は「修復的司法」という考え方によって刑事司法に導入されたものであって、現在における日本の刑事司法では存在しないものです。
と言うことで、本来争うべき場所が機能しないために(刑事裁判で争うべきものでないものが)刑事裁判の場に持ち込まれたと言うのが、光市の事件と大野病院事件という2つの事件に接して感じたことです。
と言うことで、、「ミスはある一定の確率で絶対に起きる世界」なので、そのことについて「過失犯」に問うことはやめて欲しいという医者側の問題提起は理解できます。
しかし、その一方で、最愛の人を失った遺族(あるいは一命を取り留めた患者)の蒙った精神的損害は何らかの形で埋め合わせなければなりません。そのためには、何らかの形で『医者の側の無過失責任』を表象する『お詫び』を医者側(医療提供側)から患者側に対して、示す必要があるのではと思っています。
それと併せて、起きた事実を患者側が納得できる形(専門的ではなく、一般的な論理構成と用語使用)で医療側が提示する必要があると思います。そして、それが患者側にとっての「事実を知る」と言うことになると思います。
これは、医療問題に対するエントリなので、光市の事件に関しての「加害者と被害者との対話(和解)」についての方策は割愛しますが、弁護士の方々には、光市の事件に関する弁護団に対する「バッシング」に対して
被害者という視点を組み入れない(被害者を無視した)形での
「刑事弁護の崩壊」という立論をしても、一般国民の理解を得られないとだろうと言うことを申し添えておきます
2
:
キラーカーン
:2008/08/27(水) 23:52:21
>別のところでやってくれませんか、というのが率直な感想です。
>そもそも刑事裁判は埋め合わせのためにあるのではない、
>というのが私の高校レベルの理解です。
確かにそれまでは、このことを前提として刑事司法とりわけ刑事裁判の制度設計がなされていました。したがって、このままの刑事裁判の制度設計では、医療、犯罪を問わず被害者について適切な対応ができないという結論が導かれます。
ここまでは異存がないと思われます。
と言うことで、大野病院事件に代表される「医療事件」については「刑事事件ではなく医療の場でやってくれ(やるべき)」という議論の流れだと私は理解しています。
しかしながら、いわゆる犯罪被害者についてはその「別のところがない」というのが現状です。これまでは、(地縁・血縁)共同体が担うべきところでありますが、現在の日本においてそのような共同体は絶滅の危機に瀕しています。つまり
「別の場」が存在しないのを知りながら「別の場でやってくれ」
と言うことは、建設的な議論にならず、不毛ではないか。挑発的にいえば、
役所で「たらいまわし」にされたうえ、すべての部署で「うちの管轄ではありません」と言われるようなもの
で、犯罪被害者にとってあまりにも酷なのではないかということです。そのことを本能的に察知したからこその「弁護団バッシング」だと思います。
別の場がないのであれば、
1 別の場を作る
2 既存の場を改修して追加任務として付与する
かどちらかの選択を迫られます。
この犯罪被害者に関する「別の場」をどのように制度設計するかという視点を欠いて、現状の刑事裁判の現状維持に議論を局限している時点で、多くの弁護士が唱えている「刑事弁護崩壊」の議論は「被害者不在」となってしまうということです(現在の刑事司法の制度に依拠する限り、被害者不在の議論になるのは当然なので、その枠を超えた議論が求められているともいえます)。
そして、「修復的司法」という考え方はその「別の場」の制度設計に対する一つの答えでもあるのです。
(修復的司法は原住民社会の(共同体)の機能を刑事司法、特に和解と矯正に活用しようと言うのが出発点の一つでもあります。そして、そのような共同体が日本では「絶滅危惧種」になっているため、「被害者の刑事手続への参加」が叫ばれる用になったと言うことも、ある意味、理の当然なのです)。
(ちなみに別の解法として、文春新書の「この国が忘れた正義」という本があります)
一方、幸運なことに、医療については、医療という刑事裁判とは「別の場」が存在しているために、患者(被害者)不在の議論を避けることが可能であり、現に避けられていると思っています。
しかし、その「別の場」が機能しなければ、大野病院事件のように医療、犯罪とを問わず「事実を知りたい」と言う名の下に、(本来刑事裁判の場になじまないのにも関わらず)刑事裁判に持ち込まれてしまったのではないでしょうか。
という問題意識から、医療に関しても「別の場」の確立が急がれていると思います。でなければ、第2第3の大野病院事件が起こる可能性があります。ということで
その1
>裁判外で事実究明がなされ、それに被害者がアクセスできる制度を
>医療過誤、刑事手続にかんして、創設する必要があります。
その2
>本来争うべき場所が機能しないために
>(刑事裁判で争うべきものでないものが)
>刑事裁判の場に持ち込まれた
その3
>「加害者(医者)」と「被害者(患者)」の双方を包含する
>『医療』という社会的枠組が存在するのに対して、
>光市の事件においてはそのような枠組みがない
というコメントをしております。
追伸
motoken01 様
>かなり違うと思いますけどね。
についてそう判断された理由を後学のために教えていただけないでしょうか(できれば、平易な文章で)
レスされるのは義務ではありませんので気の向いたときで結構です。
3
:
キラーカーン
:2008/08/28(木) 23:34:38
>直前の私のコメントを読んだ上での投稿ですか?
一応目は通しました。その上での投稿です。当該投稿は
>被害者や遺族への慰藉は、(中略)他の方策を模索した方が効果的だと思います。
という結論を否定したものではありません。あり得る解だと思います。それが先の投稿の
>他の場を作る
と言うことに該当します。
ただし、そういう解決策を提示せずに、現行の刑事裁判の制度論に終始して、被害者視点を無視した「弁護士視点の物語」だけを正しいものとして主張することが批判されているのだと思います。
ちなみに、修復的司法の「修復」という意味には、その「慰藉」という意味もこめられています。そして、殺人事件というような「被害を完全に回復する方法がない」事件に対する修復的司法の限界も学問上は問題となっています。
>至極まっとうな対応をすれば
現在にもまして、今後はそうは行かない可能性もあります。
「検察審査会」という制度があります。これは、有権者名簿から無作為に抽出された「一般人」により、不起訴になった事案について不起訴処分が相当か否か判断されると言うものです。検察審査会での決定は検察庁を拘束するものではありませんが、司法制度改革でも検察審査会の決定に拘束力を持たせようとする動きがあります。
そうなれば、検察がいくら不起訴決定をしても、検察審査会で不起訴相当と言う決定が下れば問答無用に刑事裁判の場に持ち込まれることになります。
これまでの私の投稿は
1 人事を尽くしても避けられない医療事故というものがある
2 そういうものについては、(現在の刑事裁判の制度趣旨から考えて)刑事裁判の場で処理するのは不適当
3 また、そのような刑事裁判の場で被害者感情が慰藉される可能性は少ない
4 医療事故については、刑事事件以外で処理の受け皿になりそうな場がある
という点については、
DoukiHousou さんやnervenarztと殆ど差はないと思います。
しかし、nervenarztは私の投稿に対して明らかに不快感を抱いています。それはなぜでしょうか、私が考えられる理由としては、
同様の結論を「被害者視点の物語」で組み立てていることでしょう。
nervenarztさんがそのハンドルのとおり医者であるのであれば、同じ結論を
「医者視点の物語」
として組み立てるでしょう。
つまり、視点が異なれば、同じ結論であっても理解を得るハードルは高くなります。「被害者視点の物語」が「被害者以外(例:医者)視点の物語」を組み立てた人には理解されないこともあるでしょうし、その逆も然りでしょう。
ということで、「医者視点の物語」だけでは医者以外の理解を得られるとは限りません。そうなれば、上述のように検察審査会で「起訴相当」という判断が出されると言うこととなります。
おそらく、 亡くなられた妊婦の親族は「被害者視点の物語」を構築できなかったのでしょう。そのことをもって「事実を知りたい」という言葉が出たのではないかと推測します。その「物語」が構築できなかった理由として
1 構築する能力がなかった
2 構築するための材料を医者側から提供されなかった
3 頭の中に、すでに「物語」ができていたが、それに合致する材料が得られなかった
の3つが考えられます。
「物語」を攻勢する材料は患者側より医者側の方が圧倒的に多く持っています。「医者視点の物語」はそれとして、「被害者視点の物語」を構築できるような材料を、医者と患者との無用な対立を惹起しない形で、提供できる「説明能力」が求められていると言うことだと思います。
佐伯啓志氏の著書に、先の大戦で死んだ日本兵士を偲ぶ、生き残った兵士が、その兵隊の死に対して
「何か意味がないと思わなければやってられない」
というないようの述懐をしているという部分がありました。
亡くなった妊婦の親族が求めているのはその「意味(「物語」)」だと思います。種々の理由でその「意味」が見出せなかったのでしょう。
4
:
キラーカーン
:2008/09/11(木) 22:52:16
「刑事弁護活動は,本質的に反権力的活動であって,国家権力と対峙すべき弁護士の活動」と,国費によって運営され,法務省の監督を受ける法テラスという組織とは,本質的になじまないのではないかという疑念である。
『日本司法支援センターの健全な発展を期する決議』「関東弁護士連合会決議(2006年(平成18年)9月22日)」の提案理由より
(「」は引用者付加)
http://www.kanto-ba.org/decla/h18k2.htm
より。
これは、弁護士会即ち弁護士自身の意見表明(正確には、関東弁護士連合会に参加している弁護士会(=弁護士)の見解ですが、関東弁護士連合会も事実上追認しています)であることから、弁護士の行う刑事弁護活動あるいは人権擁護活動において「反権力イデオロギー」が大きな比重を占めていることは間違いないでしょう(この点において顕著な地域差があるとは思えません)。ほかならぬ当事者の発言ですから、弁護士の刑事弁護観については、これを出発点とせざるを得ません。
もちろん、このような「不都合な真実」から目を背け「イデオロギー」を理由として反論を放棄されることは自由です。
という訳で、上述のように、弁護士の大部分が正しいとしている
反権力活動であって国家権力と対峙すべき
という「公理」から、刑事裁判は
>検察(法務省=国家権力)vs被告人のガチンコ勝負
>(いわゆる2当事者対立主義)
であるべきという結論が導き出されます。このような考え方からすれば、本年制度化された「被害者参加制度」に代表される「犯罪被害者」の刑事裁判への参加は
>いかなる形であれ、決して認めることは出来ない
ということ(国家権力とのガチンコ勝負において、犯罪被害者は「邪魔者」(あるいは「敵の味方」)以外の何者でもない)になり、これまで(改正前)の「犯罪被害者」の存在が設定されず、刑事裁判においては、犯罪被害者(の感情)などは無視すべきという法体系こそが正しい刑事手続法制であ
るという結論になります。
だからこそ、犯罪被害者団体である「あすの会」の代表幹事を務める弁護士が
>「(弁護士業界の)裏切り者」(「反射角」『読売新聞(6月6日付西部本社版)』より)
と罵倒されたのも弁護士業界から見れば当然のことなのです。そして、このことは、今般制定された犯罪被害者参加制度に弁護士の圧倒的大多数が反対したということからも裏付けられます。
したがって、刑事裁判の基本的構造については本来何の問題もなく、「犯罪被害者保護基本法」や「犯罪被害者参加制度」に代表される昨今の犯罪被害者寄りの法律改正は
弁護士として、そして、刑事弁護の観点からは「決して容認出来ない」改悪であり、それに賛同する弁護士は弁護士業界の「裏切り者」
以外の何者でもないという結論になります。このことから、大多数の弁護士にとって、議論すべき「法律(法制度)の問題点」など存在しないという結論になるので、弁護士の方々は法律(法制度)の議論については一貫して拒否していたのです。
しかし、そのことを表立って表明すれば、一般国民の理解を得られないことは明らかです(というよりも、そのことを感じ取っているからこその一般国民による弁護団批判です)から、
>あなたとは議論しない(あなたの立てたスレでは議論しない)
という理由にならない理由で議論を拒否していたのです。
5
:
キラーカーン
:2008/09/11(木) 22:53:06
別の観点からすれば、法制度の議論に踏み込むことは
1 あるべき法制度からすれば「不適法」である行為を「現行法の不備」を理由として「無罪放免」にすることは弁護士の職業倫理上許されるのか(言い換えれば、法律のプロである弁護士が法律の抜け穴を利用して脱法行為を行うことは推奨される行為とされるのか)
2 現在の法制度に不備があることが明らかであるのであれば、可能な限りその不備を埋めるような解釈・運用をすべきではないか。刑事裁判における被害者への配慮を弁護士側が頑なに拒否する理由は何か。(日弁連は、死刑制度に関しては死刑廃止の前段階として、「死刑の執行停止」という「運用上の死刑廃止」を唱えているので、被害者保護についても同様の立場を採ることは可能)
という論点を惹起することになります。
「法律に反しなければ何をしてもかまわない(=懲戒事由に当たらない)」というのが弁護士法に言う「社会正義の実現」、あるいはこの掲示板で安田弁護士他の擁護派が主張している「法の遵守」と定義すれば(実際に安田弁護士他の擁護派はそのように主張していましたが)安田弁護士他を弁護する論理的な筋は通りますが、そんな論理は現実的妥当性がありません。まさに、脳内法制度、俺様法制度の極致です。
それこそ橋下弁護士が「煽った」
>一般常識と弁護士業界の常識との乖離
を実証しただけになるのです。そして、それこそが、これだけの弁護団批判が巻き起こった大きな理由の一つでもあるのです。
ということで、「法律に反しなければ何をしてもかまわない」、「法律の抜け穴を利用しないほうが悪い」というメッセージを弁護士業界は日本社会に向けて発信してしまったのです(後者については「究極の弁護」と評した橋下弁護士もその責を負ってもらいます)。極論すれば、「道義的責任」や「倫理的責任」というものは制裁を科す理由にはなりえない。「法的責任」のみが制裁を科されるに値する責任である(=完全に違法でなければ懲戒理由にならない)ということを意味し、言い換えれば
>法律は最低の道徳
という法格言を弁護士業界及び安田弁護士他の擁護派は完全に捨て去ったことを意味するのです。
で、このような批判を避けるためにも、安田弁護士他の擁護派は「法制度の議論を拒否」することが「ディベート」の戦術として有利になるので、法制度の議論を一貫して拒否していたという結論になるのです。
というわけで、余談的に言えばそのような「厳罰化」(道義的、倫理的責任(社会的制裁)の意味が減少・消滅したのであれば、その分を刑罰という法的責任に加算する)の流れが加速しているのです。
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