したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

神の存在/不在と科学の範囲

1macska:2006/12/24(日) 20:28:24 ID:VdHL1C4M
こんにちはです。ブログはたまに読んでますが、今日偶然本サイトの方のQ&Aを見かけて疑問を抱きました。

> Q. 進化が正しいとすると、神さまはいないのでしょうか?
>
> A. いるともいないとも言えません。神がいるかどうかとい
> う問題は、科学の範囲外です。進化が正しいかどうかという
> 問題と、神がいるかどうかという問題は別問題です。進化論
> と信仰を両立させている科学者はたくさんいます。

この記述ですが、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」という言明が常に正しいとは思いません。

神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。たとえば、現実社会において奇跡を起こしたり悪人に罰を与えたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の「神」であれば、その存在は(実際に証明もしくは反証は難しくても)原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうるのではないですか。

逆に言うと、「神がいるかどうかは科学の範囲外」という言明は、少なくともわたしたちが生きる今の現実社会にいかなる形でも関与しないタイプの神か、あるいは「自然法則」や「全宇宙」をただ「神」と呼び変えている場合に限ってのみ言えるはずだと思います。

もちろん、進化論が正しいというだけで「奇跡を起こしたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の神」が反証されるわけではないですが、かといってそうした反証が科学の範囲外というのは言い過ぎではないかと。

2名無しさん:2006/12/25(月) 01:01:15 ID:btsR02m6
こんにちは
神様とはまーなんでしょうねー。
どんな神様でも人知を超えた存在で、様々な奇跡や現象はその顕れではないでしょうか。
科学は人知の範囲でしか世界を捉えられないので、それで神様を計る事は出来ないでしょうね。

3macska:2006/12/25(月) 07:30:53 ID:VdHL1C4M
うーん、つまり名無しさんは奇跡を信じるわけですか?
しかし奇跡というのは、死後の世界とか宇宙の果てとか、
わたしたちの知覚がどうしても及ばない世界の話ではなくて、
わたしたちが今生きている地上の世界で何かが起きるという意味ですよね。

例えば、伝承によればモーセという人は海を割ったとか、
イエスという人は水をワインに変え、死者を蘇らせたとか。
あるいは、マリアが処女であるにも関わらず懐妊したとか。

これらの「奇跡」は古い時代の話なので検証するに足るだけの証拠がないですが、
もし証拠が発見されれば、例えばイエスの DNA が発見されれば、
それは原理的に科学的検証を受け付ける現象であるはずです。

証拠が不十分であるために科学的な判断がつかないことと、
原理的に科学には絶対に判断できないことは、区別されるべきです。

例えば「人生の意味」というのは、科学がどんなに進んでも判断できません。
しかし「奇跡があるかどうか」というのは、実際に奇跡とされる事象についての十分な証拠があれば、
科学的手法によって検証できるはずです。

4ミケ:2006/12/25(月) 08:55:44 ID:KO.P9.dA
それは奇跡とは言わない気が。。。

5ミケ:2006/12/25(月) 09:52:19 ID:KO.P9.dA
一応、↑の補足説明。
宗教的な意味で言う奇跡とは、『起こらないはずのことが起こる』です。
もしメカニズムを解明できたならそれは『起こるべくして起こるもの』となり、
奇跡ではなく奇術・手品と呼ばれるものです。

イエスやモーセのDNAが手に入ったとしても、奇跡の検証は不可能ですよ。
彼らに海を割ることや水をワインに変えることが遺伝的能力によって可能だった場合、
彼らが行ったのは手品だったのでしょう。(奇跡はなかった)
しかし、不可能だった場合(っていうかそう考えるのが当たり前)、
まさしく『奇跡』が起こったかもしれないし
そんな事実自体なかったのかもしれないし、
手品が行われたのかもしれない。

同じように、
キリスト教のような『何でもできる』タイプのカミサマもまた検証不可能。
なぜならヤツらは、
証拠を捻じ曲げることや隠滅することさえできるから(設定上ね)。
光速を変えることができたり、時間を操作することまでされてしまうと、
科学的な検証などできません。

6えめ:2006/12/25(月) 10:20:12 ID:btsR02m6
>>2はボクです
とりあえず宗教的な意味に限定して「奇跡」ってなんでしょーねと
自分は奇跡って言うのは現象に対する「意味(解釈)」やと思うんですが。
例えば
雨が降るのは気象学では何処までも確率の問題だけど
雨乞いしている人には神の恵み「奇跡」でしょ?

誰もが等しく認識できる事象の成り立ちを、誰もが等しく認識できる方法で解釈しようとするのが科学と言う道具じゃあないですかねー
だからこそ数学を用いたり反証可能性(間違っていると言える余地)が必要になってくるんじゃないですか。
そしてその範囲は狭い。それらの手法が用いられない分野に科学が口を出す事は出来ないし、逆に反証可能性が必要ない物を科学的な事実として扱う事も出来ない。

奇跡と言う解釈は科学のカテゴリーの中にはないと思うんですよ。

一つの現象の解釈に於いて科学と宗教はそれぞれ手法(ルール)が違いますから、二つを混同すべきではないですよねー。

 聖書の記述は全て科学的事実を記していると考えるのは科学にとっても宗教にとっても不毛ですよね。

7NATROM:2006/12/25(月) 12:54:23 ID:???
「進化は科学的に正しいんだから神はいないんだよ!」という乱暴な主張はしていないことを理解してもらうために、QandAはなるべく単純にざっくりと書きました。確かに不正確です。たとえば、「地球を6000年前に作った」かつ「地球が46億年前に出来たように見える証拠をつくるようなことをしない『人間を騙さない』神」の存在は、科学上の証拠で否定できますね。

古い地球の年齢の証拠に誠実に向き合うと、若い地球の年齢をあきらめるか、何らかの意図によって古い地球の年齢の証拠も作ったとするか、神様の意図は人間にはわからないとするかでしょう。いずれにせよある特定のタイプの神様は否定できます。そんなことで否定できるしょぼいカミサマなんて神じゃないような気もしますが。当初の意図を反映しつつ、より正確にQandAを書き直すとしたら、こんな感じでしょうか。


> Q. 進化が正しいとすると、神さまはいないのでしょうか?
>
> A. いるともいないとも言えません。進化が正しいからといって、
> 必ずしも神を否定する事はできません。進化論と信仰を両立させ
> ている科学者はたくさんいます。

8macska:2006/12/25(月) 13:46:14 ID:VdHL1C4M
NATROM さんに分かりやすい例を出していただいて助かりました。
たしかに科学が「神」を一概に否定することは不可能ですが、
実際に広く信仰されている、ある特定の「神」であれば、
科学的証拠によって否定できる場合が多々あるわけです。

また、科学的証拠によって否定できない場合、
それはただ単に「今ある証拠によっては否定されない」のか、
「原理的に、絶対に否定できない」のかというのでは、区別されるべきです。

奇跡を起こしたり、悪者に天罰を与えたり、お祈りにこたえてくれたり、
ヒトと何らかのコミュニケーションをしてくれるタイプの「神」は、もし実在するなら、
自然法則に介入して物質なりエネルギーなりに影響を与えているわけですから、
それを原理的に科学の範疇の外側であるというのはおかしいはずです。

9藤野:2006/12/25(月) 15:26:22 ID:s98zuevg
神様の存在と奇跡が結びついているようだが、神と奇跡は本質的には関係がない、というか、どうでもいい。奇跡は神の本質ではなく、あったとしてもそれは、付随に過ぎないし、なくても済む事だとだ。
進化論と神の関係は、進化が目的を持った進化か偶然的進化であるかを問うたときに問題になってくる。環境による自然淘汰による進化は、進化の付属的要素であり、進化のもっと本質には、インアンドアウト、つまり、最初から目的性を持った進化があったと考えると、その目的性を誰が与えたかと言うことになり、それは、神の問題と関係がある。つまり、
進化論と神は多いに関係があるのだ。しかし、アウトアンドイン、つまり、環境への適応による進化としてのみ進化を捉えた場合、神の存在はどうでも良くなる。
これは、人生観にも影響するのであって、環境が人間の成長の主要因だと、人間の主体性とか、人間の生きる目的とかは重要でなくなり、これは、人間観にも影響を与えるから、自然淘汰による進化説は問題にならざるを得ない。インアンドアウトか、アウトアンドインか。どちらが進化の主要因かと言うことを我々ははっきりさせる必要がある。

10名無しさん:2006/12/25(月) 15:27:41 ID:s98zuevg
神様の存在と奇跡が結びついているようだが、神と奇跡は本質的には関係がない、というか、どうでもいい。奇跡は神の本質ではなく、あったとしてもそれは、付随に過ぎないし、なくても済む事だとだ。
進化論と神の関係は、進化が目的を持った進化か偶然的進化であるかを問うたときに問題になってくる。環境による自然淘汰による進化は、進化の付属的要素であり、進化のもっと本質には、インアンドアウト、つまり、最初から目的性を持った進化があったと考えると、その目的性を誰が与えたかと言うことになり、それは、神の問題と関係がある。つまり、
進化論と神は多いに関係があるのだ。しかし、アウトアンドイン、つまり、環境への適応による進化としてのみ進化を捉えた場合、神の存在はどうでも良くなる。
これは、人生観にも影響するのであって、環境が人間の成長の主要因だと、人間の主体性とか、人間の生きる目的とかは重要でなくなり、これは、人間観にも影響を与えるから、自然淘汰による進化説は問題にならざるを得ない。インアンドアウトか、アウトアンドインか。どちらが進化の主要因かと言うことを我々ははっきりさせる必要がある。

11RYU_TI_SYU ◆R9HFpK4NlY:2006/12/25(月) 21:51:31 ID:???
>>10
>人間観にも影響を与えるから、自然淘汰による進化説は問題にならざるを得ない。

貴殿が問題と思っているんじゃったら問題にしてればええんじゃないのか?

科学ごときで人間観が変わるんじゃったらコロコロ変わってればよろしい。

12macska:2006/12/25(月) 23:52:23 ID:VdHL1C4M
> 奇跡は神の本質ではなく、あったとしてもそれは、付随に過ぎないし、
> なくても済む事だとだ。

それはその通り。

わたしが言うのは、奇跡を起こすなどして現実世界に介入するタイプの神は、
実際に検証できるだけのデータがあるかどうかは別として、
原理的には科学的検証の対象となり得るということです。
「神」なら何でもかんでも「科学の範囲の外」と決めつけるのはどうかと。

逆に、現実世界に介入しないタイプの神については、
「科学には(原理的に)肯定も否定もできない」というのが正しいです。

神の存在を奇跡と結びつけているわけではなく、
奇跡を起こすタイプの神とそうでない神を分けて記述しているのです。

13谷庵:2006/12/26(火) 05:20:45 ID:???
サンタクロースなんて科学的に間違いだ、と言っても仕方がないと思いませんか。
「ママは死んだけど、お星様になって僕のことを見守っているんだ」なんて非科学的だと言うのも野暮でしょう?

心のありようも信仰も人それぞれだから、科学なんかで踏み込む必要はないと思いませんか。
NATROM 氏の記述は、そうした管理人としてのスタンスを表しているのだと解釈しています。

私自身、この掲示板に来るまで、「科学主義」に毒されていたという自覚があります。
そう言う意味で、この掲示板と、常連の皆様には感謝しています。

14えめ:2006/12/26(火) 09:03:21 ID:ZdVvf7ak
>>12
貴方のイメージする奇跡を定義してくださいな

15えめ:2006/12/26(火) 10:06:33 ID:ZdVvf7ak
まるで現実に介在しない神っているの?
思うこと→想像だって一つの現実でしょう?

16カクレクマノミ:2006/12/26(火) 13:42:08 ID:0WtuOZo2
「奇跡」だとか「介在」だとか抽象的に議論するからややこしいんだと思います。
たとえば、「ある手順で雨乞いをすると確実に雨を降らせてくれる存在」「すべての生物を完璧に最適に作った神」は反証可能であり、科学で取り扱うことができます。

しかし、普通「神」と呼ばれるようなものは、もっと気まぐれでいい加減です。雨乞いをして雨が降らなくても、何かが神の怒りを買ったのだろうなどというアドホックな言い訳で済まされてしまいます。(シャーマンが、「雨は降らなかった…我々の神は存在しないのか!」と言い出すことはまずないでしょう。)
生物が非適応的な形質を持っていても、創造以後の堕落などと言って済ませてしまいます。

そのような神の存在はほとんど反証不可能なので、科学で取り扱うことはできません。

17macska:2006/12/26(火) 14:01:01 ID:VdHL1C4M
>>13

順序が逆ですよ。
わたしはことさらに神の不在を主張しているわけじゃなくて、
「神の存在あるいは不在について科学は一切何の見解も持てない」
という言説は非科学的だと言っているのです。
少なくとも、疑似科学を批判するサイトに載せる文章ではないのではないかと。

正しくは、「神一般の存在は証明も反証もされていないけれども、
現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、
その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる。
現実に介入しないタイプの『神』であれば、それは科学が対象とする問いではない。」

>>12

わたしは、奇跡というものを(1)何者かの意志によって引き起こされた、
(2)現実世界における、(3)自然法則に反する現象、と定義しています。

現実に奇跡と呼ばれているものは、まだ奇跡だと確定しているとは思っていません。
それは未だに解明されていない自然現象かもしれないし、何かの錯覚や誤謬かもしれない。
わたしが主張していることは、奇跡が「現実世界における現象」である限り、
それは原理的に科学的検証の対象となり得る事象であるということです。
もちろん実際には証拠が不十分だったり、われわれの技術が追いつかなかったりして、
検証が限りなく不可能であることが多いですが。

>>15

ある人が他の人(や動物や存在やモノ)のことを心の中で想像することを、
普通は想像された相手が現実社会において自分の心に介入してきたとは言いません。

>>16

では、「どんな病気にでも効く薬」とやらをわたしが売り出したとしましょう。
ところが、それを摂取してもまったく効かない。
それに対してわたしが「それは誰かの心がけが悪いからだ、
わたしの薬は周囲の人間の心がけによって影響を受けるのだ」と応えたとします。
この場合、わたしの薬は宗教でしょうか、それとも疑似科学でしょうか。

わたしがポストホックにどんな言い訳をしようと、薬を売ったわたしは詐欺師扱いです。
わたしの裁判では、科学者が「この薬には効き目がない」と証言するでしょう。
しかしそれが「雨乞い」とか「祈り」だったら、科学者は「自分には何も言えない」と言うわけですか?
ダブルスタンダードじゃないかと思うのですが。

18RYU_TI_SYU ◆R9HFpK4NlY:2006/12/26(火) 22:06:42 ID:???
奇跡と神は分けたほうがええんじゃないじゃろうか?

たとえ、ある奇跡がただの科学現象だったとしてもそれはただ、奇跡は奇跡じゃなかったというだけで、
その神が実在するかどうかとは別の話じゃないじゃろうか?

19名無しさん:2006/12/26(火) 23:51:45 ID:Zs9mFctg
■地上のことと、天界のこと

佐倉哲氏のホームページ(ttp://www.j-world.com/usr/sakura/index.html)にある見解で
私にとって「深く深く頷けたことば」があります。
それは「地上のことを云うとき、そのことばは検証にさらされる」という意味の説明です。

すべからく、この世界、つまり地上にある「ことば」というものは私たちニンゲンの属性であり
価値であり、意味であると云えるでしょう。もしかすると実際に「歴史的事実として」神と名乗る
存在がニンゲンと接し、なにがしかの奇跡を行った、あるいは伝えたのだとして、それを記録し
他者に伝える術は「ことば」にほかなりません。

つまり、過去にあったとされる様々な「神の業」は、それらが実際にあったなかったに関わらず
すべてことばによって伝達されています。この不完全なことばという「道具」は、それ自体に
事実を担保する能力はありません。「私は神に会った」といくら述べても、それはなんの根拠も
持たないひとつの「命題」に過ぎません。よって、ことばは検証という過程を経て「確からしさ」を
獲得していくのでしょう。

科学的手法において見る限り、ことばによって記述された言明はすべて検証の対象となります。
経典であろうと聖書であろうと、ことばで記述された文書はすべて検証することができるし、
現代においては映像であろうと音声であろうと同様です。

私たちニンゲンは恐ろしく無知で粗野で「間に合わせ」の道具しか持っていないのですから
非常に不完全な「ことば」が検証され、矛盾や嘘、誤った記述が指摘されたとしても
そこで失われるのは「ことばの信憑性」に過ぎず、果たして奇跡が本当にあったのかどうか
あるいは、神が存在するのかしないのか、という事象が、根底から崩れるということはないでしょう。

私たちが検証できるのは、せいぜいそれくらいのことです。

20NAN:2006/12/26(火) 23:52:23 ID:Zs9mFctg
むぐぅ…>19は私です。

21えめ:2006/12/27(水) 00:12:14 ID:iiQXStbI

検証って
検証のルール(公正性)の基準に至る同意はどうするのよ
って問題が生じませんか?
科学は確かに公正性を纏っていますけど、相手のルールとして同意されなければ
淡雪のように儚い代物ですよ。
「確かに科学としてはそうでしょう。それがなにか」見たいな
科学以上にリアリティを持った思考体系は山ほど存在します。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板