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minglingましょう

40ニュッサ:2012/01/13(金) 19:52:06
>>39

問題は、その魂に、積極的な意義を認めるかどうかということですね。

ヴィオロンさんと同じく、K氏も、ニーに従って、魂に積極的な意義は認めない
と思います。

自分の信仰は、ニーの範囲に従っていると言っているわけですから。

41暇人:2012/01/13(金) 19:54:41
ttp://www.dr-luke.org/Topics/Manindepth.html
唐沢氏「霊の機能と魂・体の相互作用について」

ニーの『霊の人』に基づいて、"霊精神身体医学"論を構築されたようですね。
唐沢氏を媒介にすると
「① 霊の人(1コリ2:15)、② 魂の人(1コリ2:14;原語)、③ 肉の人(1コリ3:1)です。
霊の人は人の言葉によらず、自らの霊によって御霊の照明の下で神の事柄を判断します。
魂の人(新改訳では"生まれながらの人")は、自らの魂(知・情・意)を用いて、
神の事柄を知ろうとしますが、それは愚かに見え、結局は受け入れません。
肉の人は、自らの肉的性質によって物事を判断し、意思決定し、行動する人です。
霊的なことは霊によってのみ知り得るのです(1コリ2:14)。」

1コリも後ほどギリシア語原文を確認することにしましょう

42ニュッサ:2012/01/13(金) 19:57:37
霊と魂を対立的に見る見方については、

例えば、ペンルイスの「霊の力対魂の力」を参照。

ttp://www.geocities.jp/ogcclib/book6chap1.html

聖霊派やカリスマ派の現象も、この魂の力だという批判を彼らはしています。

43暇人:2012/01/13(金) 20:13:20
>>42
それの第六章がどうやら、ビオラさんの根拠のようですね。

「魂の力」対「霊の力」
第6章 魂と霊の区別 〜フォウセットの注解から〜
ttp://www.geocities.jp/ogcclib/book6chap6.html

>聖霊派やカリスマ派の現象も、この魂の力だという批判を彼らはしています
該当箇所が見当たりません

44ニュッサ:2012/01/13(金) 20:15:37
上記のペンルイスからの引用、

「「魂と霊さえもばらばらに切り離して」。すなわち、霊から動物的な魂を分離するまでに及ぶこと。魂は、人の非物質的性質の低次の部分であり、獣類と同じ動物的欲求の座である。同じギリシャ語が、コリント人への第一の手紙2章14節「生まれながらの(動物的な魂の)人」や、ユダの手紙19節で使われている。霊は人の高度な部分であり、神の霊を受け入れ、人を天的なものに結びつける。「関節と骨髄」。関節と骨髄の両方にまで達して切り離す。

キリストは「人の中にあるものを知って」おられる(ヨハネによる福音書2章25節)。それゆえ、彼の御言葉は、人の最も深い隠された部分、感情、思いにまで達して、霊的なものを肉的で動物的なものから分離し(区別し)、霊を魂から分離する。箴言20章27節も同じである。

レビ族の祭司たちは、ナイフを用いて、緊密に結合している四肢の関節を切り離し、最も深いところにある骨髄(ギリシャ語原文では複数)をも刺し通した。それと同じように、神の御言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在――魂と霊――を切り離し、霊のもろもろの深みをも刺し通す。」


問題は、引用の中の、魂は動物的な低次な部分であり、霊は神的な高次な部分である
とみなす見方です。

例えば、ルターにおいては、肉とは神に逆らう人間存在全体であり、霊とは神に従う
人間存在全体であり、そういう観点をもってパウロを解釈しているのであって、

決して、実体的な区別として、霊、魂、からだを考えているわけではありません。

そして、この実体として、霊、魂、からだを区別して、からだはもちろん、魂を低次と
考え、

霊を高次と考える見方こそ、グノーシス主義やネオプラトニズムの嫌疑がかかるところです。

つまり、東方におけるエヴァグリオスの位置と似ているわけです。

45ニュッサ:2012/01/13(金) 20:23:08
>>43

>聖霊派やカリスマ派の現象も、この魂の力だという批判を彼らはしています
>該当箇所が見当たりません

それについては、ウォッチマンニーが本を一冊書いているのです。
The Latent Power of the Soulという本です。

ttp://www.worldinvisible.com/library/nee/5f00.0634/5f00.0634.c.htm

また、ジェシーペンルイスの「聖徒の戦い」

これらの本の中で、その当時はまだ聖霊運動もカリスマ運動も始まっていませんが、
ウェールズで始まったリバイバルの聖霊的現象を、魂の力という観点から批判して
います。

46ニュッサ:2012/01/13(金) 20:27:43
失礼、「聖徒と戦い」でした。

この本は共著ですが、共著者であり、ウェールズリバイバル指導者のエバンロバーツ
の言葉もこのことを裏書します。

ttp://ogccl.blog10.fc2.com/blog-entry-42.html

特にこの箇所に注意。

「悪霊どもと彼らの方法を知る人なら誰でも、最近のリバイバルの動きを研究する時、すべてのリバイバルが神のものとサタンのものとの混合であること、また、(いわゆる)「異言運動」ほど悪霊どもの働きの割合が多いものはないことがわかるでしょう。」

47ニュッサ:2012/01/13(金) 20:33:25
簡単に言うと、

彼らは、悪霊は魂を通して働くと考えています。

ですから、どうしても、霊と魂を切り分けて分離しなければ、
神の務めにさえも、悪霊の影響が混ざってきてしまうのだと。

ここに至ると、
リーの言うような、魂におけるサタンの内在と50歩100歩の違いしかありません。

魂の外に、悪霊がいて、外から影響を及ぼすか、
それとも、魂の内側にいて、内から影響を及ぼすかの違いでしかありません。

48山谷真少佐:2012/01/13(金) 20:34:39
堕罪した人間の「魂」はサタンの内住の場所、というリー派の教説ですが、乃公的にこう考えてみました。

魂の機能は宇宙的な15の法領域(数学的、法的、音楽的、美的…)に沿って展開してると思われ。これら15の法領域を司っているのが「天使的諸力」(ストイケイア)だ、と乃公は考えます。

すると、魂の機能は、いつも天使的諸力の管理下、監督下、影響下に置かれてる、と見ることになる。

で、天使的諸力は潜在的に悪鬼的な性質を秘めていて、実際、悪鬼化する天使的諸力もいたわけです。こう考えるなら、人間の魂は非再生の状態において天使的諸力/悪鬼の影響下にある、と言えるんじゃないでしょうか。

そう考えて証拠聖句を挙げるとするなら

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、
 不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、
 肉や心の欲するままに行動していたのであり、
 ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」

以上はエフェソ2章の御神言が証拠聖句になるんじゃないでしょうか。

ただし、上記は「悪鬼の魂への内住」まで表現してませんので、リーの教説は行き過ぎかと。

続く2章6節の栄光に満ちた宣言、

「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし
 −あなたがたの救われたのは恵みによるのです−
 キリスト・イエスによって共に復活させ、
 天の王座に着かせてくださいました」

上記は、信者がキリストと結合されて、現状すでに信者は天の栄光の座(神の聖臨在)に参入させられている、と述べています。

信者はすでに神の栄光に参入している、と。ここから、

正教は、「切り分け」が無くても、すでに万物は神の栄光に引き上げられている、と解釈するのでしょう。

一方、リー派は、信者が自覚的に「切り分け」しない限り、信者の魂は占拠され続け、天的栄光を享受することは出来ないとして、「切り分け」を栄光の実体化の必須条件に立てるのでありましょう。

49ニュッサ:2012/01/13(金) 20:42:02
そうですね、ただ山谷さんの考えと異なるのは、

ニーにおいては、再生しても、魂自体が悪しきものであると考えており、
魂は、悪にも善にも働くのではなく、絶えず、悪の法にしか働かないと
考えるところなのです。

山谷さんの考えはどう考えても、グノーシス主義やネオプラトニズムと
無縁ですが、

(リーはもちろん)ニーの考え方は、
それらとの親近性を示しているように感じます。

50ニュッサ:2012/01/13(金) 20:43:16
失礼、悪の法ではなく、悪の方です。

ちょっとお休みしますね。

51暇人:2012/01/13(金) 22:05:20
>>39
>人は創造された時、チリから体を構成され、神が命の息(霊)を吹き込むこと、
>生きた魂になったとあります(創世記2:7)

ヘブライ語テキストでは
「ニシュマット(息を) ハイーム(命の)」=「プノーエン(息を) ゾーマス(命)の」(70人訳)
「レ・ネフェシュ(魂に) ハヤー(活ける)」=「プシュケーエン(魂に) ゾースアン(ザオー現在分詞 生きている)」(70人訳)

ふむ。なるほど。

52暇人:2012/01/13(金) 22:37:58
70人訳 創世記二章
ttp://www.septuagint.org/LXX/Genesis/2

聖霊派【その1:人間の創造】
ttp://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/shukaikowa/09kakikowa1.htm

53ニュッサ:2012/01/13(金) 22:53:58
>>52

聖霊派と書いてあるのは、私の師である私市先生の夏期集会での講話ですね。

先生は、異言は語られますが、いわゆる聖霊派ではなく、無教会の流れですので
一応、言っておきます。

54暇人:2012/01/13(金) 22:59:44
>>41
>「① 霊の人(1コリ2:15)、② 魂の人(1コリ2:14;原語)、③ 肉の人(1コリ3:1)

1コリを確認したが、文脈的には
2章でプシュキコスな人とプネウマティコス(霊的な人)が対比され、同じ対比が
3章ではプネウマティコイス(霊的な人々)とサルキノイス(肉的な人々)という対比となっており
意味的にプシュキコスな人=サルキノイス(肉的な人々)なので、
三者への切り分けは聖書的根拠がない唐沢氏の誤読です

55ニュッサ:2012/01/13(金) 23:11:13
>>54

K氏と言うより、ニーの誤読というべきだと思います。

ただ、ニーの教えは、聖書から演繹できないのです。

むしろ、教えが先にあって、それに当てはまる聖句が引用されている。

しかし、この教えにはまってしまうと、聖書がすべて、この教えを通してしか
読めなくなります。


ちなみに、フェヌロン、ガイオン夫人、ペンルイス、ウォッチマンニーという
流れですが、

フェヌロンやガイオン夫人は、カトリック教会によって、静寂主義(正教のヘシカスム)
とは別物)として異端にされています。

魂の働きを悪としてみなせば、受動的にならざるをえないので、その判断はある
意味、正しい判断と言えるでしょう。

56暇人:2012/01/13(金) 23:11:21
>>53
ttp://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/repreprofile.htm

無教会に参加される前に
フィンランド宣教グループの教会でバプステマ体験されるのです。
その後に、無教会派の小池辰雄門下となり独立されて集会を持たれるのです。

このフィンランドの宣教グループは関西を中心に足跡を残されるのですが
ルーテル派の中の聖霊派グループなのです。

57ニュッサ:2012/01/13(金) 23:19:03
>>56

その経緯については良く知っております。

また、小池先生も、無教会の中の聖霊派とも言ってもいいですしね。

ただ、先生の解釈は、特に聖書主義的聖霊派的な解釈ではなく、むしろ、文献批評学も
取り入れた無教会のメインの流れなので、そう申したわけです。

58暇人:2012/01/13(金) 23:25:28
暇人も聖霊派体験(異言)を持ちつつ文献批判を受容しています
同級生にも同志社神学部大学院を出て聖霊派牧師をしている者もいます。

聖霊派すべてが文献批判を無視しているわけではありません

59ニュッサ:2012/01/13(金) 23:30:05
>>58

暇人さんはキリスト者なのでしょうか?

それはともかく、そういう人が増えることは望ましいです。

聖霊派全てが、文献批評学を無視しているわけではないと思いますが、
それでも、聖霊派のメインは、いわゆる聖書主義的な人たちだという
感覚を私は持っています。

ですから、聖霊派と書かれると、ちょっと私の感覚と違うだけで、
議論するほどのことではないと思います。

60暇人:2012/01/13(金) 23:49:10
>>7

For this body is a similitude of the soul,
and the soul is the image of the Spirit ;
and as the body without the soul is dead,
and unable to do anything at all,
so without the heavenly soul,
that is, without the Divine Spirit,
the soul is dead from the kingdom,
being unable to do any of the things of God without the Spirit.

マカリオス P224

61暇人:2012/01/13(金) 23:56:45
>>59
ニュッサさんの主観はどうあれ
「いわゆる聖霊派ではなく、無教会の流れです」は間違いであり
私市さんは聖霊派です。これはとても大切なことです

ご自身が
「ちなみに私の所属する集会は、無教会の流れを汲む、いわば「無教会聖霊派」とでも言うべき集会」
と書かれておられます。
ttp://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/kowa/nikki.htm

62ニュッサ:2012/01/13(金) 23:58:13
「というのは、このからだは魂と相似しており、
 魂は御霊の像なのであるから。
 そして、魂なきからだが死んでいて、全く何もできないように、
 天的な魂、つまり、神の御霊がなければ、
 魂は王国から切り離されて死んでおり、
 御霊なしには、神に関することは何もできないのである。」

63ニュッサ:2012/01/14(土) 00:03:28
>>61

どうしてそこにそんなにこだわるのか理解できませんが、というのも、私市先生
ご自身のお言葉に「無教会」という文字がありますし、
私自身は、先生の弟子ですし(そうすると、私もまた聖霊派ということになるの
でしょうか?)
また、先生の集会には、リベラル、福音派、聖霊派、仏教の方、まったく何でも
ありなので、
いよいよ?です。

でも、さして大切なこととも思えないので、どうぞ、それで構いません。

64暇人:2012/01/14(土) 00:15:27
ご本人「無教会聖霊派」
自称弟子のニュッサさん「聖霊派ではなく無教会の流れです」

ご本人の無教会批判
「考えてみれば、キリストの教会そのものが、聖霊の降臨によって誕生したのだから、
み霊の働く場こそまさに「教会」そのものであって、
み霊のご臨在するところに「無」教会などということはおよそありえない。
それは会堂さえ建っていればそれが教会だと言えないのと同じくらいの真実である。
私は、このごくあたりまえのことに改めて気付かされた。
おそらくこれも、この聖霊刷新大会が期せずして証ししている大事な真実なのだろう。
そう思いながら私は帰路に就いた。」

65名無しの神学さん:2012/01/14(土) 00:22:52
>>62
魂について「天的な魂」=「神の霊」なのですから
「魂」=「霊」なわけです。
しかしいリーは「魂」と「霊」を切り分けるわけです。
こういう差があるのにmingleだけが一致するから
リーの言説は教父と同じだと主張されるのは無理があるのではないでしょうか

66ニュッサ:2012/01/14(土) 00:28:13
一応、自称ではないです。コイノニア会のメンバーの一員ですから。

まず、

無教会というものに誤解があると思います。

無教会は、教会があってはならないというものではなく、
元々の内村先生の考えによれば、
「全世界、全宇宙が教会であって、すべての人がそのメンバーである」という
のが本来の意味です。

ところが、内村門下の塚本ー関根という流れのなかで、
「教会があってはならない」という意味の無教会を打ち出し、それがメインに
なっていったのです。

ですから、私市先生の文章は、内村先生の元々の発想に立って考えると、そのまま
受け取れます。

また、先生自身、フィンランドのペンテコステ派で洗礼を受けられましが、
そこの狭量な考えにうんざりして、

何でもありの、仏教まで包括するという意味で聖霊的な小池先生のもとに
行って、今に至るわけですから、

私市先生の集会にはいろいろな人が来ているのも当然ですし、

あくまで、(内村の言った意味での)無教会かつ聖霊派と言われるのももっとも
なことです。

67ニュッサ:2012/01/14(土) 00:33:25
>>65

同じだと主張していません。私のコメントをよくお読みください。

リーは、歪んだ形にせよ、テオーシスを伝えるものだと言っているのであり、
テオーシスを主張するからと言って、またmingleという言葉を使うからと言って、
それで異端にはならないと言っているのです。

論理の流れを把握してください。

68暇人:2012/01/14(土) 00:36:31
>>65
暇人です。HNが抜けました。

「主が来られたのはこの目的のためであり、
その目的とは、私たちの魂を新しく作り変え、書かれているとおり、神性の参
与者とし、 私たちの魂の中に、天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神
格の御霊を与えることです。私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです。」

give intoは従うというニュアンスと取れないでょうか?
つまり
「私たちの魂が、天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神
格の御霊に従い、私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです」

とすると教父のmingleは、「永遠の命」までであり
神となるリーのmingleとはまったく異質です

69暇人:2012/01/14(土) 00:45:56
826 : ニュッサ: 2012/01/11(水) 10:33:35.08 ID:xEUvrHU5 [10/42回発言] >>825

載せてますね。

あそこを離れた後、彼の言っていることの根拠を徹底的に調べましたが、
神性と人性の混ざり合いについては、マカリオスも言っているし、
(私自身は、混ざり合いという立場はとらないにしても)
ニーとリーは、客観的に読む限り、内的に連関しているしね
(アメリカの研究者もそう言っています)。

827 : サロメ☆ボウディア ◆wHb3.gs/E2 : 2012/01/11(水) 10:34:46.05 ID:qdd5qUeD [7/36回発言] >>826
キリスト教神秘主義否定ですからねw

828 : ニュッサ: 2012/01/11(水) 10:42:30.68 ID:xEUvrHU5 [11/42回発言] >>827

そうですね。教父についても、神秘家についてもほとんど知らないし、
読んだこともないのだと思いますよ。

それで、自分が知っている教えの範疇から出れば、異端だと簡単に、
判断してしまうのでしょう。

マカリオスがmingleと言っているから異端ではない。
唐沢さんは教父がmingleと言っていることをしらない無知なんだ
という流れですけど。。。

70ニュッサ:2012/01/14(土) 00:50:05
>>65

「従う」という訳は、無理があります。

to give into our soul a heavenly soulの目的語はa heavenly soulな訳で

to give a heavenly soul into our soulなのですから。

東方キリスト教においては、はっきり神になると言っています。
ただ、それでも、人間が即神なのではありません。

この接近可能性と断絶が同時に成立しているわけです。

否定神学がありますから、「神になる」といいつつも、
「神ではない」という断絶が保たれます。

リーの場合、否定神学がありませんから、
危険はあるのですが、
さりとて、「神格において、神になるのではない」と言っていますから、
この危険を飛び越えて、異端になったということは無理です。

71ニュッサ:2012/01/14(土) 00:55:06
>>69

それは話をはしょっただけです。

マカリオスがリーと全く同じだとは、はなから思っていません。

ただ、K氏が、マカリオスも東方の神化についても知らないのは事実です。
彼の集会に行き始めたとき、尋ねましたが、スルーされましたので。

72ニュッサ:2012/01/14(土) 01:02:52
あと、曖昧で申し訳ないですが、同じか同じでないかというのも難しいのです。

というのは、

明らかに、表現という意味では、
東方の神化のスタンダードであるパラマスとは表現が違っている、
さらに、マカリオスとは用語が近似しているが、構成は同じではない。

だから、表現は違っているとは断言できる。

しかし、だからと言って、その表現が意味しているものが違うのかと言えば、
速断はできない。

なぜなら、ちらちら言っているように、
西方のキリスト教神秘主義一般も、神とひとつになることを言うわけですが、
そして、それに対して、ロスキーは違う点をあげるわけですが、

だからと言って、まったく違う別物かということは断言できないのです。

違う背景や前提から出発すれば、表現が違うのは当たり前な訳ですが、
表現が違えば、全く、違うものなのか、
それとも、同じものを違う表現で表しているのかそのあたりが難しいのです。

73ニュッサ:2012/01/14(土) 01:09:29
ただ、ひとつ言えるのは、K氏が東方の神化を知っており、
適切に判断しようとするならば、あんなに簡単に判断はできないはずだという
ことです。

たとえば、上に既にあげられているカルケドンを扱った文章の解説でも、
minglingを、神性と人性を物質化して、それが混ざり合っているのだという
解釈をつけて批判しているわけですが、

minglingというものが、そういう、まるで神性と人性をミキサーにかけて、
混ぜ合わせることであるとは思えません。

リーも地方教会の兄弟も、お茶と水の例を出していますが、これはもともと、
キリスト教神秘主義の伝統にある言い方で、異端でも何でもないのです。

74ニュッサ:2012/01/14(土) 01:14:33
アメリカのカルト監視機関であるCRIの所長であるハンクハネグラフが、
地方教会について、異端ではないと言っているのです。

これをK氏は政治的な問題としているようですが、

フラーもCRIもそう判断しているとすれば、

もう少し、熟考する余地はあると思うのですがね。

75ニュッサ:2012/01/14(土) 01:16:36
ちょっと、疲れましたので、今日はこの辺でおやすみすることといたします。

76ニュッサ:2012/01/14(土) 01:29:31
寝る前に、付け加えて言えば、

ルターは、神性と人性の交流というものを言っています。
つまり、キリストの人性はただの人なのですが、神性から人性に交流するために
、人性が神化された人性になるわけですね。

私は、神性と人性のminglingもこれと同じような表現であると考えています。

それが適切な表現であるかは別として、
東方教会の言う神のエネルギーの人性への浸透を、
ルターにしろ、リーにしろ、誤解されても仕方ないぎりぎりの言葉で言っている
だけであると思うわけです。

77名無しの神学さん:2012/01/14(土) 01:33:31
to give into our soul a heavenly soul

ちとタンマ。
これって中学英語の五文系で言うとどうなるの?
V+O+Oぢゃないの?
山谷訳では
「我らの魂に(O)+天的魂(O)+を注入したもう(V)」VOOになっているし
ニュッサ訳でも
「私たちの魂の中に(O)、天的な魂(O)を与える事です(V)」となっているけど。。。

>東方キリスト教においては、はっきり神になる
マカリオスは言ってないですよ。
東方の誰が神になると、どのテキストで言っているのですか?

78暇人:2012/01/14(土) 01:39:22
>>73
私はローカルチャーチやニュッサさんは何一つ論証することなしに
教父がmingleと言っているからリーはセーフだと言っているようにしか
思えません。
しかしマカリオスを確認しましたが「魂」についての認識がかくも違い
mingleという語があれどリーとはまったく別です。

またリーは我らと同様、所詮英訳で教父に接した過ぎません。
正教の司祭と文通したからリーが正しいわけでもありません。

結局のところローカルチャーチもニュッサさんも後だしで
教父も言っていると抽象的な主張をされているだけで
きちんとしたテキストの提示がございません

79暇人:2012/01/14(土) 01:43:42
>>76
これもまたまったく後付けでして
ルターは「人が神となる」というぶんみゃくで
「神性と人性の交流」を言ったのではなく
キリスト論の文脈で言っているのです。

くそみそごっちゃにして なぜリーを異端ぢゃないと擁護する必要が
あるのでしょうか

80ニュッサ:2012/01/14(土) 01:45:46
>>77

V+O+Oじゃありません。

into our soulは前置詞+名詞で副詞句です。

で、元の語順はto give a heavenly soul into our soul
つまり、V+O+副詞句だったのが、

副詞句を強調したいために、動詞の後に飛び出したわけです。

>東方キリスト教においては、はっきり神になる
>マカリオスは言ってないですよ。
>東方の誰が神になると、どのテキストで言っているのですか?

どなたかわかりませんが、前述した「キリスト教東方の神秘思想」を
お読みください。

東方では、神化なんて当たり前のことだとわかりますから。

例えば、

最も有名なのは、アタナシオスの「神が人になったのは、人が神になるためである」
という言葉です。

ちょっとは、勉強してください。ぷんぷん、いい加減寝ます(あっ、冗談です)。

81ニュッサ:2012/01/14(土) 01:58:34
>>78,79

いや、むしろ、言いたいのは、なぜ、そこまでリーを異端にしたいのかがわからないのです。

人を異端だと判断することは大変なことでしょう。

現代は、決して魔女狩りの時代ではありませんが、それでも異端だということは相手を相当、
傷つけることです。

しかも、地方教会をかつて異端だと判断したCRIはその判断を取り下げている。

それなのに、なぜ、そこまで異端にしたいのか?

そこまで、異端ということにこだわるということに、私は戦慄を覚えます。

ちょうど、異言ギライの福音派の議論と同じじゃないでしょうか?

ペンテコステ派やカリスマ派が、異言が聖書に書いてあると言っても、
「あなたがたが話している異言が、どうして同じものであるという確証があるのか?」

私が、東方キリスト教や教父を示しても、
「でも、どうして同じものであるという保証があるのか」とね。

同じロジックじゃありませんか?

私は別に、リーが異端でも異端じゃなくてもどちらでもいいんです。
けれど、良心が何かおかしいと思うわけです。

それに、言わせてもらえば、
つまり、マカリオスとの違いに、例えば魂ひとつの考え方の違いをおっしゃって
おりますね。

それで、異端ということになるなら、ニーも異端ということになるのじゃないで
しょうか?

なぜなら、マカリオスとの違いというのは、全て、ニーから来ているものですよ。

ということであれば、そういう結論にならざるを得ないんです。

82暇人:2012/01/14(土) 02:02:36
>>74
旧CRIはきちんとローカルチャーチの危険性を告発していました
ttp://localchurch.web.fc2.com/part2/article1.html#3

ハンク・ハネグラフの時代となっておかしくなったのでしょうね
フラーは統一教問題でもカルトロンダリングの温床となっています。

ちなみに韓国でローカルチャーチは異端です

83ニュッサ:2012/01/14(土) 02:03:39
ロジックが逆なんです、暇人さん。

普通は、異端だと主張するほうが、確たる証拠を示さなければならないんです。
それが、普通のロジックです。

ところが、異端ではないという方が、確たる証拠を示さなければならないと主張
されている。

これでは、中世の異端審問所と変わりません。

暇人さんほどの人なら、これが転倒したロジックであることがおわかりですよね?

84ニュッサ:2012/01/14(土) 02:08:13
>>82

そんなことはいいんです。
それは、本当かもしれませんし、本当でないかもしれません。

では、暇人さんが考える地方教会の異端であることの証拠は何ですか?

神化、それは少なくとも、ギリシャ教父や東方では異端だと思われていないことは
少なくとも示しました。

それが全く同じでないにしても、これで異端だということはできないはずです。

それでは、異端だという決定的な証拠となる教えは何だとお考えなんですか?

85ニュッサ:2012/01/14(土) 02:14:13
私はすぐ異端だという人には、辟易します。

カトリックから見れば、プロテスタントは異端。
プロテスタントから見れば、カトリックは異端。
メインラインから見れば、福音派は異端。
福音派から見れば、リベラルは異端。

きりがないです。

しかも、そのほとんどが誤解に基づいている。

なぜ、信仰のひとつのモデルだと見ることができないのでしょうか。

確たる根拠もなしに誰かを異端だと決めつけることこそ、私は人間の持つ最大の
罪だと考えます。

そして、イエスご自身、異端者の烙印を押されて十字架に死んだわけです。

86ニュッサ:2012/01/14(土) 02:20:16
とにかく、神化以外に、地方教会が異端だという決定的な証拠を示してください。

それが納得の行くものであれば、異端であると認めましょう。

しかし、そうでなければ、異端としない。

これが正常なロジックです。

いい加減、眠ります。おやすみなさい。

87暇人:2012/01/14(土) 02:23:07
>>77
失礼 ハンドルを一々いれないといかんみたいです トホホ
ほう。なるほど副詞句なんだ サンクスです。

「神が人となったのは、人が神になるためであった」を正教が運用しても
信徒は誰一人、自分が神となるんだと思ってませんよ。
ローカルチャーチと違って。
ちなみに親鸞の教行信証の証巻には、なんまんだぶぅの究極は
みんな真如となる。真如は一如である。故に弥陀如来は如より来生し
報・応・化種種の身を示し現わしたまうなりという様態論が展開されている
しかし念仏者のだれひとり自分が将来弥陀如来になるんて思っていない。
ところがリーは「神になる」と主張する。

重大な差があるんですけどねー

88ニュッサ:2012/01/14(土) 02:28:47
>>87

そうすると、異端かどうかは、信徒の意識ということになりますね。
それは、確たる異端の証拠とは言えませんね。

しかも、私が知っていた地方教会の兄弟は、別に、自分が神だと信じているとは
全く思えませんでした。

これは、暇人さんに対する皮肉ではなく、一般に対するものですが、
自分を神だと言わなくても、すぐに誰かを異端だと言うならば、まさに自分が、
すべての判断基準である神として振る舞っていることになりはしませんか?

私は単なることではなく、内実を取ります。

とにかく、異端だという客観的な証拠となる教えを示してください。

89ニュッサ:2012/01/14(土) 02:31:20
付け加えると、その兄弟が自分が神であると思っていないのは、
「神格において、神になるのではない」という歯止めがあるからでしょう。

この歯止めがなくて、自分が直接、神だと言えば、キリスト教的には異端でしょうが、
歯止めがある限り、どう異端にしたくても、異端とは言えないでしょう。

90ニュッサ:2012/01/14(土) 02:33:23
失礼、単なること→単なることばです。

いい加減寝ます。

鬱病持ちには睡眠不足は特にこたえるので。

91暇人:2012/01/14(土) 02:35:13
>>83,84
そこに異端の理由が論究されているでしょう。
それをまず読まれて考察されるべきなのでは?

私はあなたのリー擁護に付き合い、
よくわからない英語にもかかわらず
あなたと山谷氏の手助けを手掛かりにマカリオスのテキストを確認し
mingleという語があっても、使用方法がまつたく違うということを
確認しました。
「魂」についての考察についてあなたも差異を確認されました。
マカリオスはリー擁護の材料とはなりません。

ということは他の教父の「神になる」も同様であるという推定を私は持っています。

「神になる」と教父も言っている mingleと教父が言っている
だからリーは正しいとはならんのです。

>>85
ログをご確認くださいな
私はローカルチャーチの方たちと3スレ分議論してカルトと結論しています。

>>86
1.他教会を否定して自分たちの集まりだけを正しいと思っている
2.重訳にもかかわらず回復訳を原文に忠実と威張る
3.他教会の牧師が地方教会の説教を密に盗んでいると主張する
4.独自訳(回復訳)を信仰している
5.回復訳のフットノートを信仰している
6.回復訳フットノートの日本語訳が変だ
7.信徒さんらがカルトぽい

92暇人:2012/01/14(土) 02:40:39
それとニュッサさんはローカルチャーチを異端とされるとムキになられますが
他者を異端と呼ぶのは間違っている、と。

ところがニュッサさんは平気で唐沢グループをグノーシス主義と批判されます。
これはダブルスタンダードですよ。

それはともかくとしてニュッサさんのグノーシス定義を教えてください
私の定義は「神格化教義」です。
イエスを神としたヨハネ福音書は私の定義ではグノーシス文書です。
非グノーシス派キリスト教は、義人ヤコブの系統、ペラに移住し
イエスを神としなかったためユダヤ・キリスト教異端として排斥された人たちです

私の認識ではキリスト教もグノーシス派の一つなので
他のグノーシス派と激しくやりあったと思っています。
余談でした。

93暇人:2012/01/14(土) 02:57:01
>>81
統一教と同じくローカルチャーチを危険だと思っているんです。

聖霊派も福音派も危険ですが、
ローカルチャーチは一線を超えているという点で異端でありカルトなのです。

最近の動向として無根拠な異端解除の風潮がありますので
きちんとした論拠のない異端解除には信を置けません。

異言が聖書の異言と同じモノである必要がなぜあるのですか?
祈りや賛美は聖書と同じものでないといけないのですか?

ニュッサさんがマカリオスも「人性と神性のmingle」を言っている。
リーの「人性と神性のmingle」を批判するのは神学的無知だと主張されたので
マカリオスの英文テキストを確認したら、mingleは確かにあったが
リーのmingleとは別物だったという流れです。。
りー擁護の論拠が崩れたわけです

94暇人:2012/01/14(土) 03:30:21
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1141282723/

地方教会の信者さんが313以下で
原文をカトリックに難癖をつけている図だが
これもカルトぽかったです

95ニュッサ:2012/01/14(土) 04:22:51
暇人さん、遅くまでいろいろ書かれていますが、

まず、前提ですが、

私は、異端とカルトとは全く違うと思っています。

世間では、どうやら、異端と言っても名誉毀損にはならないが、
カルトと言うと名誉毀損になるようです。

しかし、正統であってもカルトはあり、誰でも内なるカルト性を抱えているので、
カルトは、正統であってもなくても、誰でもカルトになりうる訳です。

これに対して、異端というのは、ある教えについて、はっきりした根拠に基づいて
判断されるべきものです。

世間では逆でしょうが、教会史を知る私には、異端という言葉はカルトという
言葉より、はるかに重い言葉です。

カタリ派は異端として、歴史から完膚なきまでに根絶されましたし、
オリゲネスやエックハルトなど、異端として、歴史から抹殺されそうになった
人たちはあまたいます。

ですから、異端という言葉は、慎重の上にも慎重に使うべきです。

ところで、91で、暇人さんがあげている項目は、どれも異端だということの
要件は満たしておりません。

これらの項目から、主観的にカルト的ということは可能かもしれませんが、
客観的に異端だと言うことはできません。

ダブルスタンダードとおっしゃいますが、
私のなかで、グノーシス的であることは即、異端ではありません。

そして、私がK氏の教えを、はっきり異端だと行ったことがあるでしょうか?

96ニュッサ:2012/01/14(土) 04:28:49
グノーシスの定義ですが、

私は、グノーシス主義というのは、「人間存在を、分割して、そこに高低の順序をつけ、
分割した一部を救われるべきもの、また一部を滅ぶべきもの」と考えることだと思って
おります。

ただ、それが即、異端だとは思っておりません。

97ニュッサ:2012/01/14(土) 04:40:15
しかも、最初から、マカリオスは例示だと言ったわけです。
別に、そこが正しいと証明する論拠になるとは一切言っていない。
私が言っていないことを、勝手に読み込んで、違うと主張してもおかど違いという
ものです。

とにかく、項目としてあげておられる理由は、単なる実行に関することで、
教理ではありません。

それこそ、暇人さんが私に対して言った、狂気の沙汰です。

なぜなら、上げておられる項目をどう思うかは主観的なことで、
教理の間違いという客観的なものでは一切ないからです。

これでは、異端審問未満です。異端審問では、でっちあげにしろ、
教えが取り上げられるのですが、ここでは、単に実行が取り上げ
られているだけだからです。

これでは、魔女狩りと言わざるを得ないです。

もう、最初から結論は決まっているということになります。

結論は決まっていて、そのための理由でしかありません。

98ニュッサ:2012/01/14(土) 04:54:27
>>93

だから、なぜ、危険なのでしょう?
危険だから危険だとか、異端だから異端だとか、循環論法にすぎません。

今まで、異端だと、それも一部の人に言われていたから異端なのですか?

ナンセンスです。

教えの点でここが異端だとそちらが確証を提出されなければ、
時間の無駄ですからこの議論は打ち切ることにします。

99ニュッサ:2012/01/14(土) 05:14:27
最後に、もう1度、ロジックを確認しますよ。

私はリーが正しいかは知りません。
どちらかと言えば、リーは好きではありません。地方教会に行く気もしませんl。

むきになっているのは、あなたの方ですよ。
異端にしたくて、むきになっているわけです。それは、はっきり申しますが、
罪以外の何ものでもありません。

>「神になる」と教父も言っている mingleと教父が言っている
だからリーは正しいとはならんのです。

むしろ、全く逆です。

あなたがたは、リーは「神になる」と言って異端だと言っている。
しかし、教父も「神になる」と言っているのだから、「神になる」ということで
異端だと言うことは、根拠がなく、無効です。

あなたがたは、リーがmingleという用語をとりあげて異端だと言っている。
しかし、マカリオスもmingleという用語を使っているのだから、mingleという
用語をとりあげて異端だと言うことも、根拠がなく、無効です。

つまり、あなたの言っていることはまったくロジカルではないのです。

もう少し、暇人さんは、まともな議論が出来る人だと思っていましたが、
見当違いでした。哲学科にいるとしたら、相手にされないレベルです。

私が以前、知っていた方々と同じように、事や内容そのものの是非ではなく、
戦いをしていて、自分の陣営に有利なことをしたいだけのようです。

私は、馬鹿馬鹿しいし、そんな戦争に加わるつもりは、金輪際ありませんので、
少なくとも、この場からさっさと撤退します。



よく聞いてください。

100ニュッサ:2012/01/14(土) 06:08:30
ウェスレーは、神化を知っていたが、自身の聖化の教理を、異端だと言われることを
恐れて、神化ではなく、聖化と呼んだ。

しかし、ウェスレーが神化と呼んでいたらどうだろう。
リーと同じ嫌疑をかけられたのではあるまいか?

しかも、ウェスレーの聖化の教理は、教父たちの神化の教理と同じではない。

すると、暇人さんの言っていることに従うなら、

ウェスレーは正しくないし、異端の嫌疑を晴らすこともできないことになる。


人を異端ということはとても恐ろしいことである。
それは、人にアナテマというのと変わらない。

101山谷真少佐:2012/01/14(土) 10:09:42
乃公のロジックは、こうです。

正教は神化を言うが、それには、カルケドン、両意論、パラミズムの枠が付けられている。

アタナシウスの定式(神が人となりたるは人が神となるため)及びマカリオスのminglingは、上記の枠内で考えなければならない。

後期ルター派がケノーシス・キリスト論からクリプト・キリスト論を経て「属性の融通」に至ったのは、後期ルター派の全部でなく一部であるし、カルヴァン派から「エクストラ・カルヴィニスティクム」(人性と神性のminglingは絶対に無い)の抗弁でもって批判されているので、「属性の融通」によりカルケドンが解除されたことにはならない。

後期ルター派の「属性の融通」は、御子の位格的結合における神性と人性の融通に限定されており、これを「手順を経た三一のパースンであるキリストの霊」と信者とのminglingを正当化するために使うことは出来ない。

ウェスレーは聖化を「信者が神の愛に化されること」と考えたが、これに正教の影響を認めるとしても、正教では「神の愛=エネルゲイアは神そのものではない」と考えているのだから、これを「手順を経た三一のパースンであるキリストの霊」と信者とのminglingを正当化するために使うことは出来ない。

リー派は「手順を経た三一のパースンであるキリストの霊」と信者がminglingした結果が「団体のキリスト」だとするが、団体のキリストとは地方教会だけを指すのであり、諸教派の教会は「背教のバビロン」とするのだから、諸教派がリー派を危険視するのには合理性がある。

信者と神とのminglingを支持する証拠聖句は存在せず、聖書正典に示されているのは、信者と神との「結合」(union)である。

以上が乃公のロジックです。

102暇人:2012/01/14(土) 10:55:49
ニュッサさん 具体的な反論があればお聞きします。

きちんとマカリオスのテキストを読まれて下さい
リーのテキスト、二ーのテキストを読まれて下さい。
聖書を読まれて下さい。

103名無しの神学さん:2012/01/14(土) 11:04:45
>>102
人を馬鹿にするような言い方しか出来ないのか?無駄に年だけ食ってるよなぁ。

104暇人:2012/01/14(土) 11:21:51
>>103
ニュッサ氏の論は結局のところ

「他の人も神化を言っている、mingleを言っている
だからリーが言っても異端ではない」に戻ってしまってます。

ニュッサ氏、山谷氏、暇人が考究した結果は
マカリオスのmingleとリーのmingleが違うという証明だったにも関わらずです

105山谷真少佐:2012/01/14(土) 11:54:29
乃公的には

アタナシウス定式(神が人となりたるは人が神となるため)が取られたアタナシウス著『受肉論』が
エクストラ・カルヴィニスティクム定式(神性と人性の混合は絶対に無い)の主要な典拠の一つとなっている。

という事実でもって「おわった」感を抱いています。

106ニュッサ:2012/01/14(土) 14:01:33

山谷少佐のロジックは、欠陥があります。

それは、

ひとつには、アタナシオスとマカリオスの神化に関する理解を、それよりもずっと
後代の両意論、カルケドン、パラミズムの範囲内に限定していること。

リーの言うminglingが、カルケドンの言うcominglingと同じであることを示せない
こと。

危険視するのは個人の自由だが、だからと言って異端とすることはできないこと。

unionを支持する証拠聖句はないというが、そもそもminglingは神化を示す表現で
あるだろうことを無視していること。それなら、パラマスの本質とエネルゲイアの
区別も証拠聖句は示せないはず。

以上、人の生殺与奪となる異端という判断をするには、あまりに根拠希薄です。
最初に、結論ありきのロジックと言わざるを得ません。

107山谷真少佐:2012/01/14(土) 14:29:24
>>106
>unionを支持する証拠聖句はないというが

minglingを支持する証拠聖句はありません。が、unionを支持する証拠聖句は沢山ありますよ。

108山谷真少佐:2012/01/14(土) 15:05:37
>>106
>本質とエネルゲイアの区別を示す証拠聖句

これなど、どうでしょう?

出エジプト33:20
(主はモーセに言われた)
「あなたはわたしの顔を見ることはできない。
 人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」

同33:23
(主はモーセに言われた)
「わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」

ここに、「神の顔」(ウーシア)と「神の後ろ」(エネルギア)が示されているのではありませんか?

モーセは神のウーシアを見ることは出来なかったが、神の後ろ(エネルギア)を見た。それで、死なずに生きていることができた。

109ニュッサ:2012/01/14(土) 16:05:43
>>108

これがどうして、ウーシアとエネルゲイアの区別の証拠になるのでしょう。
ここから、ウーシアとエネルゲイアの区別が演繹できるのですか?

最初に、ウーシアとエネルゲイアの区別があって、それを単にこの聖句にあては
めただけではありませんか?

これと同程度なら、地方教会の人にも、レビ記の練り粉に油を混ぜるところとか
聞いたことがあります。

それも、私は単なるタイポロジーであって、証拠とは言えないと申しましたが。

つまり、本質とエネルゲイアの区別も、minglingも、聖書から演繹できないのです。
聖書から演繹できないのに、前者を正統、後者を異端とするのはおかしいのです。

そもそも、聖書から演繹できないものを、聖書を用いて異端かどうかを判断すること
はできないのです。

だから、ウーシアとエネルゲイアの区別も、minglingも、神化を表す表現と言っている
ではありませんか。

110山谷真少佐:2012/01/14(土) 17:24:21
粉と油は、粉と油に過ぎません。

しかし、神の顔と神の後ろは、どちらも神ですよ?

111名無しの神学さん:2012/01/14(土) 17:40:13
>>110
詭弁はいいですから、もっと大人な議論をして下さい。

112山谷真少佐:2012/01/14(土) 19:55:12
ウーシアとエネルギアでないとしても、神には、神の本質(神の顔)と神の非本質(神の後ろ)がある、という区別を、ほかならぬ神ご自身がなさっておられる証拠聖句になると思います。

ところで、「神の後ろ」が存在しなかった時、というのは考えられないのだから、「神の後ろ」は永遠に神から出て神と共にありしかも神の本質ではない「神の非本質」ということになります。

そうして、この「神の非本質」に最も近い概念がパラマスのエネルギアでしょう。

113名無しの神学さん:2012/01/14(土) 20:05:32
>>112
何を言ってるんですか?>>110では「神の顔と神の後ろは、どちらも神」と言っておいて、
ここでは「神の後ろ」は「神の非本質」?どこにもそんな聖句はないですよ。

114ニュッサ:2012/01/14(土) 20:27:58
>>112

非本質というのは、誰の用語でしょう。
そういったところで、非本質は、エネルゲイアと相似しておりません。

なぜなら、エネルゲイアは活動における神ご自身ですが、
非本質は、本質でないものということだから、本質でなければ、神ご自身では
ないからです。

まあ、何にしても、この聖句が直接、本質とエネルゲイアの証拠にならないのは
事実です。

それとも、山谷さん、正直なところ、以前は、パラマスの神学を聞いたこともなく、
あなたはこの聖句から、本質とエネルゲイアの区別を知ったのでしょうか

115ニュッサ:2012/01/14(土) 21:01:40
さらに、山谷さん、

「神のご性質にあずかるが、神格における神になるわけではない」ということでは
ずばり、何が問題なんでしょう。

神格における神になるわけではないと、ちゃんとストッパーがついていると思うの
ですが。

端的な答えをお願いします。

116名無しの神学さん:2012/01/14(土) 21:20:13
>>114

非本質とは、先の乃公の文脈では「神のウーシアではないもの」ですよ。

117名無しの神学さん:2012/01/14(土) 21:26:07
>>116
詭弁ですね。あなたは「神のウーシアではないもの」なるものを証明出来ない。

118ニュッサ:2012/01/14(土) 21:26:38
>>116

具体的には、何を指すわけですか?

119ニュッサ:2012/01/14(土) 21:31:37
普通に考えるとね、

神の本質(ウーシア)とは、「神であること」だから、
非本質は、「神ではないこと」になる。

そうすると、神のうしろというのは、神ではないものになる。

本質とエネルゲイアは両方とも神ご自身だから、まったく違うわけですよ。

120山谷真少佐:2012/01/14(土) 21:47:23
神はモーセに「神を見たら死ぬ」と言われました。

神は、神の顔をモーセにお見せになりませんでしたが、しかし、神の後ろをお見せになりました。

モーセは死にませんでした。

では、神の後ろとは、いったい何でしょう?

乃公はすでの乃公の考え方を示しました。

121暇人:2012/01/14(土) 21:49:07
>>115
ttp://localchurch.web.fc2.com/PDF/God-man.pdf

「神から生まれた存在として,私たち神-人(複数形)は単に神聖な命を持つだけでなく,神聖な性
質も持っています。神に感謝します。聖書の66巻において、一つの節があります−2ぺテロ1:4、す
なわち私たちは神聖な性質に与るものであり、それは神の御性質です。そのような節には印をつけて、
いつでも引用できるようにすべきです。私たちはカメではありません。私たちはカメの性質を持ってい
ないからです。私たちは人です。私たちは人の性質を持つからです。しかし私たちはまた神から生ま
れました。私たちは神の息子たちであり子供たちです。よって、私たちは神の性質を持っています。
私たちが神の御性質を持つのであれば,私たちは神ではないでしょうか?実際,私たちはその命と
性質において神なのです。しかし神格においてではありません。」

正確には
「実際,私たちはその命と性質において神なのです。しかし神格においてではありません。」

ここで私が疑問なのは
新生したキリスト者は神性において神だが、神格において神ではないと
神を神性と神格とにリーは分割されているが、これはどういう意味なのであろうか
ウーシアとエネルゲイアとの区別ではないのは明らかであるし。
単に神性=「いのち」と神格「存在者」との区別なのであろうか
だったら、「神になる」という強調のいみがわからない

122暇人:2012/01/14(土) 21:57:03
中世思想原典集成2収録のアタナシオス著『言の受肉』を今読んでいるのだが
「アタナシウス定式(神が人となりたるは人が神となるため)」はまだ出てこない。

今のところ、神が人となったのは、
人が自由意思で堕落したので「いのち」が「死」へと堕落した。
「死」を「いのち」へと救うために、総てを創ったロゴスが
肉をまとい「死」を経験することで、すべての死を滅ぼし
「いのち」に導くためだとある。
アタナシウスの論点は「死」を滅ぼして「永遠の命」を得せしめる為ですね

123山谷真少佐:2012/01/14(土) 21:59:54
ウーシアとは、それ自体で存在するもの。

エネルギアとは、ウーシアに依存するもの。

神の顔は、それ自体で存在しますが、神の後ろは、神に依存するものです。

よって、神の顔はウーシア、神の本質。

神の後ろはウーシアに依存するがウーシアそのものではないもの、つまり、エネルギア、神の非本質、ということになります。

124暇人:2012/01/14(土) 22:41:37
>>106
>ひとつには、アタナシオスとマカリオスの神化に関する理解を、それよりもずっと
>後代の両意論、カルケドン、パラミズムの範囲内に限定していること。

この論点の意味がわからない。
1.正教も神化を言っている、だからリーは異端ではないという論説に対して
 正教には「両意論、カルケドン、パラミズム」があるという限定を指摘することは大切だ
2.アタナシオスとマカリオスの神化が「両意論、カルケドン、パラミズム」から逸脱している
ということなのであろうか?

>リーの言うminglingが、カルケドンの言うcominglingと同じであることを示せないこと。

カルケドンはそもそも単性論というかキリストに於いて神性と人性が合一されて一体となる事に対して
「人性」と「神性」とが混合されないと説いたのだから、
リーの言うキリスト者における「神性」と「人性」の混合とは別テーマですよね
ただリー自身がカルケドンを意識して「合一」をさけ
「茶葉」と「御湯」の性質はそれぞれ独立したままと弁護しされたように
「人性」と「神性」のminglingと聞くと我々はただちにカルケドンを想起してしまう

125暇人:2012/01/14(土) 22:46:38
聖書に基づくならば、unionなのに
リーは、これを否定してunionをminglingと読み変え
これが真理であり神秘だとした。

なぜ聖句どおりのunionではダメであったのであろうか

126山谷真少佐:2012/01/14(土) 23:10:28
アタナシウス『受肉論』の中に、「ご在世当時のキリストの肉体に神性が全部収っていたわけではなく、キリストの肉体の外部、宇宙の外部にもキリストの神性が遍在していた」と言ってる箇所があって、そこは、エクストラ・カルヴィニスティクム(神性と人性の混合は絶対に無い)という立場の根拠にされていたと思います。

アタナシウスの「神が人となりたるは人が神となるため」の定式は、上記と照らし合わせて考えるのでなければなりません。

127ニュッサ:2012/01/15(日) 00:18:12
いっぱい書かれていますね。

私は、私のペースでゆっくり書く事にします。

神の後ろとは、ルターの言うように、すでに啓示された神でしょう。
神の御顔とは、まだ隠された神のことです。

128ニュッサ:2012/01/15(日) 00:31:24
あとは、後代のものを持って、その前の時代を説明するのはおかしいという
のはこういうことです。

つまり、神化というのは、まず経験であって、その説明というものは後からつけ
足されたものだ。

これは、パラマスの説明の経緯がそうです。

トマスの影響を受けたギリシャ人バルラムが聖山アトスを、「神を見る」という
ことで批判し始めた。

それに対し、パラマスはやむを得なく、論争することになり、そのなかで、
本質とエネルゲイアの区別を言い出したわけです。

だから、経験が先にあり、その説明は後から生まれたものだ。

そういう点から考えると、アタナシオスやマカリオスを、後代のものから、
説明を加えるのは、解釈の原則を犯していると言える。

はっきり、言って、読み込みということになるわけです。

そして、リーの神化についての説明自体、神学的になされていない。
非常に、プリミティブなものです。

だから、それを、彼と直接、関係のないものを持ってきて、異端だということ
は、これは解釈からはずれるわけです。

総じて、言うと、異端であるということを言うには、積極的な理由が必要です。

それなのに、異端でないことを証明せよとは、異端という結論ありきの馬鹿げた
論理です。

129ニュッサ:2012/01/15(日) 00:34:10
>「人性」と「神性」のminglingと聞くと我々はただちにカルケドンを想起してしまう

「想起してしまう」。なるほど、だからそれは主観に過ぎません。

客観的なものではありませんし、異端の証拠にもならない。

130ニュッサ:2012/01/15(日) 00:36:29
>>125

それは、神化を説明するためでしょう。

同じことです。unionでいいのに、パラマスは本質とエネルゲイアの区別を持ち出した。
リーはminglingを持ち出した。

神化を説明するためです、それ以上のものではありますまい。

131暇人:2012/01/15(日) 00:44:00
中世思想原典集成2 p134
アタナシオス著『言の受肉』54-(3)でようやく発見。
「実に、この方(ロゴス)が人となられたのは、我々を神とするためである」

私の読解力ではこの語がどういう意味でここに提出されたのか よくわからない。
唐突な印象を受けます。
49でギリシアの神であるヘラクレスやディオニュソスより、ロゴスの優位性を
色々と論証し、それが直前まで続き、53でロゴスの神性の証明は
十字架にかけられたイエスがギリシアで今や神として礼拝されており
かつてのギリシアの神々が捨てらているからだという。
これらは人間の業(わざ)ではなく神の業だという。この業とはエネルゲイアのことか?
そしていよいよ54で見えない神を観たいと思うならば、神の業によって
理解知るべきだという。
キリストの死に依って不死がすべてのものに及び、ロゴスの受肉において
万物に対する摂理と、その実践者であり形成者である神のロゴスとその方が知られたことを
讃嘆せよとあり、(4)と続く。

132暇人:2012/01/15(日) 00:52:57
「実に、この方(ロゴス)が人となられたのは、我々を神とするためである」
の続きは
・この方が肉体を通してご自分を現されたのは、
見えない父の認識(エンノイア)を我々が得るためである
・この方が人々の侮辱を耐え忍ばれたのは
われわれが不滅を受け継ぐためである
・この方は苦しみ得ぬ方、朽ちざる方、ロゴスそのもである神として
 いかなる点でも損なわれることのない方であったが
人々ためにこれらの苦悩を耐え忍ばれたのであり、
ご自分の受苦不能性によって人々を守り救われたのである

133暇人:2012/01/15(日) 01:08:19
野呂芳男「神の死の神学」で
ttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/1595/1977kamikan.html
>>132k
「受苦不能性」を批判されておられる

今のところアタナシオスの「我々を神とするためである」から
「永遠の命」という意しか見いだせないのだが
それ以上の意味をアタナシオスは想定していたのであろうか

134ニュッサ:2012/01/15(日) 01:13:07
ちなみに、先に言っておきますが、
アタナシオスを上げたのは、神化について、東方では当然のこととなっている
例として、あげたわけです。

決して、リーと同じことを言っているという意味であげたのではありませんからね。

また、リーと同じことを言っていないと言いがかりをつけるのはやめてくださいね。

神化は経験です。そして、その経験を説明する説明はたくさんある。

西方では、その説明を、信条として、決まったかたちに決めますが、東方では、
最低限の信条を決めて、あとは、それぞれ、その説明は自由だ。

そういう意味では、むしろ、表現なのです。

まあ、だんだん、疲れてきました。
実りのある議論はできそうもないですし、一致した着地点も得られそうもないで
すし、そろそろ離脱することに致します。

ただ、繰り返しますが、
リーが異端であるという積極的な理由は提出されていないのです。
これと違う、あれとも違う、だから異端だという論理矛盾です。

それをいくら積み重ねても、異端だということにはならないです。

これ以上、知りたければ、
サロメさんの言うように、リーのテキストをもって、正教会の神父に尋ねて
ご覧になるのがよいです。

以上。

135暇人:2012/01/15(日) 01:24:12
アタナシウス『受肉論』の中に、
「ご在世当時のキリストの肉体に神性が全部収っていたわけではなく、
キリストの肉体の外部、宇宙の外部にもキリストの神性が遍在していた」と言ってる箇所

集成2 p121 アタナシオス著『言の受肉』42-(7)の後半にありますね
議論としては41あたりから続き、結論部分ですね

42-(7)
また人間全体にくまなくいき渡っている精神も、肉体の一肢体-私の言わんとするのは舌の事である-
によって知られるが、だからといって、それによって精神の実態が縮小されるとは誰も言わない。
同様に、万物に内在される言(ロゴス)が人間の[肉体]という道具を用いたとしても、
当を失したこととは思われないのである。上述のように、
まさしく肉体を道具として用いられたにせよ、
まさしくこの方(言ロゴス)は[宇宙]全体の内に存在しておられるのである。

136暇人:2012/01/15(日) 02:25:17
>>128
冗談ですが、「後代のものを持って、その前の時代を説明するのはおかしい」
のであればアタナシオスやマカリオスの件を千年後のパラマスから例示されている
ニュッサさんの立場からするとはどうなるのでありましょうか。
私の立場からすると「わりやすく」するためされている例示だから無問題ですが。

さてパラマス。
ttp://morfov.blog79.fc2.com/blog-date-201105.html
ここを参考にしますと、

「人間は、神の「ウーシア(本質)」には触れることができないが、
神の「エネルゲイア(活動)」には触れることができるというものです。」
にまったく違和感がありませんです。

ttp://www.mesogeia.net/orthodox/hesychasm.html
ttp://www.ozawa-katsuhiko.com/10christ_hikari/christ_hikari_text/christ_hikari09.html
このヘシュカズムを読んで想起したのは沈黙の祈りでインナーライトを体験される
クェーカー派に似ているなということと仏教の瞑想や聖霊派の祈りに類似しているということです。

カラブリア出身の修道士バルラームとありますので、イタリア出身ですね。
ギリシアにもおられたことがあるようですが。
バルラームの攻撃以前から、アトス修道院では「神の現れである神秘の光」と
考えていたので、バルラーム批判を受けてパラマスが
「ウーシア」と「エネルゲイア」という理論で反論されたわけですが
これはむしろ、批判があった為に、経験が理論化されたという進化だと思いますね。

それでこのことが
「アタナシオスやマカリオスを、後代のものから、
説明を加えるのは、解釈の原則を犯していると言える」とどうリンクするかわからないです。

例えば親鸞を理解にするにあって、蓮如や歴代の解釈に沿って説明を加えると
これは江戸教学(伝統教学)になりますが、学問にならないという意味での
学問的解釈の原則を犯しているということならば理解できますが
今やっているのは「伝統神学からの逸脱の確認」ですので
ニュッサさんの方向性は混同あるいは混乱があるように思います。

137名無しの神学さん:2012/01/15(日) 08:49:45
山谷先生

「神の顔」を見たら死んでしまい、「神の後ろ」を見たら死なないという根拠は何でしょうか?
「神の後ろ」は「神の非本質」などというのは、拡大解釈ではないでしょうか?
神学論争も結構ですが、神の御言葉を我田引水の道具に貶めてしまうのは感心しません。

士師記13章22節
マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言った。
士師記13章23節
だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。

138山谷真少佐:2012/01/15(日) 09:31:29
マノアに顕現したのは「不思議」という名前の天使ですよ。

天使は神のウーシアでも神のエネルギアでもなく、被造物です。

139名無しの神学さん:2012/01/15(日) 09:41:18
山谷先生

当時の人々は天使を見ただけでも死ぬと思っていたほどのようです。
「神の後ろなら見ても死なない」と言える根拠はどこにあるのでしょうか?
ウーシアやエネルギアという専門用語使って誤魔化すのではなく、日本語で回答願います。


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