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現代人が納得できる日蓮教学
82
:
乾闥婆
:2005/07/25(月) 16:02:09
>>78
>しかし、一般の人は、その教義のなかから、神話的な要素を除外視し、「博愛」の精神と実践を評価しているのに過ぎません。その部分が人々を納得させるのでしょう。わたしが「納得」の要素として考える一つです。
このような視点は非常によく腑に落ちます。信仰外部の人間に「納得」される部分とはまさに、そのような要素を置いてないでしょう。
>わたしの恩人である浅見定雄師がご自身ハーバードで学んだ神学者でありながら、「何を信じているのかを問題にするのではなく、何をしているのかを問題にする」という優れた視点でカルト門田を解決してこられたのも、この視点でした。
そのように、信じている対象から分離した地点でカルト問題を考えておられる浅見氏の言葉は至言であると思います。浅見氏の本は旧約聖書に関するものを随分前に一冊読んだことがありますが、その後ホームページ上で、創価学会のカルトとしての側面を指摘した文章を読み、目の開かれる思いをしたことがあります。
>ここで紡がれる「物語」はしかし、個人の信仰という枠を超え、仮想現実という妄想から現実社会の被害を及ぼします。
そうですね。オウム事件は非常に強い驚きでありました。なぜこのような稚拙な物語に人々は回収されてしまうのであろう。当時文学を志していた私にとって、その無力を思い知らされる事件でもありました。物語を物語として認識する理性を、人は持ち得ないのでしょうか。そのような理性こそ、宗教が個人の受容にとどまり、社会的被害へ至ることを抑制する視点であると思っているのですが。
>危険を行使する宗教は、もはや、宗教ではなく、社会的に見れば、単なる犯罪集団であるからです。宗教と名を置けば何をやってもよいという屁理屈は通りません。
これは宗教という名称の範疇をどのように見るのか、ということになるのだと思いますが、私は危険を行使する宗教も宗教だと考えています。もちろん宗教という名のもとに何をやってもいいということではありません。不法行為は取り締まられ裁かれなければなりません。当然です。しかしそれらをなしたのは宗教であり、宗教とはそういった行為へと拡散する危険性を抱えている存在であるというのが、私の宗教観です。オウムもちろん宗教です。宗教集団にして犯罪集団だった、ということだと考えています。
>反対にお聞きしますが、乾闥婆さんは、鰯の頭を仏壇に飾って拝みますか。
夜、口笛を吹くと蛇が出ると信じますか。ミミズに小便をかけると局部が腫れ上がると信じていますか。もし、信じていれば、話になりませんが、もし、信じないとすれば、何故でしょうか。わたしがいう最低限の説得性とはそのような意味です。
なんとなく分かったような気がしますが…。私が曼荼羅へ向かうことの説得性は、法華経の霊山会の再現とそこへの参加、という点にあります。これは私にとって、この信仰形態の説得性を有しています。鰯では霊山会がイメージできません。そういったレベルでの説得性ということでよいのでしょうか。確かに説得性のない状況設定の物語では読者は「納得」しません。
>わたしは、この記述は、虚偽であると思いますよ。
たしかに「数ある宗教の中で、なぜその宗教を自身の信仰として選んだ」とは一種のレトリックを含んだ表現となってしまっています。申し訳ありませんでした。ただ科学的根拠を挙げたりして詰めてゆくのではない受容とは、結局のところ飛躍を含む行為であると考えています。飛躍を含まない宗教受容はないのではないかと考えています。
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