[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
現代人が納得できる日蓮教学
150
:
乾闥婆
:2005/08/07(日) 00:06:28
>>126
>わたしは理念・観念が不用といっているのではなく、それを漫荼羅唱題で消化して満足する点を突いているのです。
そういう傾向は確かにあるのでしょう。私は理念の具現化といった信念さえあれば問題ないのだと思っていましたが、そもそも久遠実成の仏も地涌の菩薩も理念でないのであれば、そのような信念は必要ないのでしょう。事実へ向かい合うだけのことなのですから。必要な信念があるとすれば、事実へ向かい合うことによって生じる苦難に屈しない、という信念なのでしょう。
>行えます。菩薩道という理念・観念があるから菩薩道があるのではありません。菩薩道と、後天的に名付けられた理念・観念と実践が本来、人間に具わっていたからこそ、菩薩道は言われるようになったのです。これもまた主客が逆転しています。
もちろんそうなのですが、そのような人間に備わっている行為衝動に観念や理念が付加されることで、はじめてそれらの行為は社会化されていくのではないでしょうか。理念・観念は人類が生み出した効率のよい道具です。もちろんその道具が一部の教団に悪用されることは許しがたいことではありますが、であるからといって、理念なき社会は是とされないと思います。あったほうがいいのです。犀角独歩さんも「わたしは理念・観念が不用といっているのではなく」といわれているとおりに。
>シャキャムニはバルナという階級差別でバラモン階級に特権化されていたものを下階級との禁婚で生じたものへ解放したというのが実際のところであったとわたしは認識しています。
すみません。知識不足のせいか、よく分かりません。「バラモン階級に特権化されていたものを下階級との禁婚で生じたものへ解放した」とはどのような内容を言っていらっしゃるのでしょうか。
犀角独歩さんも以前言っていましたが、
>>101
「ただ、シャキャムニの思弁で優れているのは、その後、科学その他で覆されるであろう内容を、敢えて、無記として扱わなかった点です。このスタンスを踏み外したときから、いまの我々のメランコリックは始まっていたと思います。日蓮もまた、密教の魅惑に翻弄されていたのかも知れません」。そのような無記の態度や、無我の思想が、当時の他の宗教に対する批判としてあったのではないかといいたかったのです。宗教へ回収されるという表現も、仏教が八正道、四聖諦にとどまらず、十二因縁や六波羅蜜、最終的には密教へと変遷してゆく過程のことを指したつもりでした。
宗教という用語を私はreligionとして使用しました。その定義はもちろん難しいものではあろうと思いますが、その思想に絶対性・超越性を持つものを宗教と私は考えています。最初期の仏教にはそのような絶対性を相対化する側面が強いと感じたのでした。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板