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現代人が納得できる日蓮教学

101犀角独歩:2005/07/30(土) 11:15:58

―100からつづく―

そして、信じ続けたいと思うものがとる態度は、反撃です。謗法であるとか、信心がないとか、そういった類の過剰反応です。ハッサン師の言葉を思い起こされます。

「破壊的カルトは、どんな種類の反対も我慢できないのである。人々は賛成するか(または入会候補者とみなされるか)、さもなければ敵である」(P188)

忠実に従うことが信心であると条件付けられてきた人々にとって疑問は挟むことは、敵対行為にしか分類されないように‘配線’されています。また、その原因は、

「グループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的聖書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、聖書と神意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」(P183)

実際の会の運営側はまったく金銭のためにやっていますが、各地域など小規模な後輩、部下をもつリーダーと呼ばれる地位に就く人々は、その職責も相俟って、自分の影響力の中毒になり、命令や、自分の述べることに反論されることが我慢できない人格的な特徴を持つに至っています。「意味がわからなくても信じること」の中毒はこのような形で現れます。

しかし、物語から脱却し、その精神だけを採るとき、そこには無謬性の卒業がありますから、「かつては自分も通った道だ」という経験則があります。子を育てる成熟した親は、そんな経験値を有効に活用するように、時には叱ることはあっても、菩薩道を見失わないでしょう。わたしが、ここ10年間会ってきた、法華・日蓮を信奉しながら、カルト問題で活動する優秀な僧侶方は、皆、そうでした。

> 個人的な宗教体験を信仰外部の人間に「納得」してもらうことは、やはり困難であると思います。

「神秘的な側面は」というカッコ付ではないでしょうか。
先に挙げた衣座室の三軌などは、納得される要素はあると思います。
苦・空・無常・無我は受容していく課程は、精神的鍛錬と静慮(禅定)を必要です。まして、そこから、対個人、対社会に貢献しようと言う考えを菩薩道とすれば、その覚悟は、それなりの精進なくしては、利己で留まるのみです。

漫荼羅唱題は、インナートリップを目指すのか、対他のための方途としてあるのか、あるいは、その両面かという位置づけで大きく異なってくる点であろうと思います。

> 蓮祖…現実・仮想現実の二分法はなかった

わたしもそう思います。残念ながら、この点では、日蓮の思弁には限界があったとわたしは思います。それは日蓮の責任と言うより、700年昔という限界であったろうと思います。ただ、シャキャムニの思弁で優れているのは、その後、科学その他で覆されるであろう内容を、敢えて、無記として扱わなかった点です。このスタンスを踏み外したときから、いまの我々のメランコリックは始まっていたと思います。日蓮もまた、密教の魅惑に翻弄されていたのかも知れません。


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