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現代人が納得できる日蓮教学
126
:
犀角独歩
:2005/08/05(金) 09:45:40
―125からつづく―
> 釈尊や菩薩を内在化
以上の次第ですから、これは観念世界に内在化された空論と、日蓮はとらえていなかったでしょう。
> 理念・観念が不要のものかどうかということとは別問題です。理念も観念も私は必要だと思っています。そのようなものなくして人間は筋目正しく生きられるでしょうか。
これはわたしの文章を誤解して記されているのではないでしょうか。
わたしは理念・観念が不用といっているのではなく、それを漫荼羅唱題で消化して満足する点を突いているのです。
> 菩薩道に対する観念も理念もない者に菩薩道が行えるでしょうか。
行えます。菩薩道という理念・観念があるから菩薩道があるのではありません。菩薩道と、後天的に名付けられた理念・観念と実践が本来、人間に具わっていたからこそ、菩薩道は言われるようになったのです。これもまた主客が逆転しています。
ただ、もちろん、菩薩道が言われるようになったあと、経釈を引いて、それを教えることはけっこうなことですが、それをしかし、一教団内の利得、信者僧侶の搾取の理論として使用することは非難されるべきであるというのがわたしの信念です。また、菩薩道とは対他的…、現代語で言えば、社会的活用ですから、対社会・対個人に向けない単なる理念としての菩薩道など有りえず、もしそのようしか捉えなければ、それはただの空理空論だというのがわたしの言いたいことです。いわば、漫荼羅唱題のなかでしかない菩薩道は、絵に描いた餅に過ぎないというのが、わたしの言いたいことです。
仏菩薩が理念化してしまうのは、漫荼羅唱題で事足りるという自己満足でのことではないでしょうか。
> 道標はあったほうがいい…道標であることを知っていることは重要
しかし、道標はしるべであって、道ではありません。その道を歩かず、道標を拝んでいても前に進まないと言うのが、わたしが記してきたことです。
> 初期仏教はむしろ宗教批判としてあったのではないでしょうか。宗教批判としてあった仏教が宗教へと回収されていった、そして回収された宗教としての「仏教」を今の私たちは仏教と呼んでいるのではないでしょうか
ここは、わたしには何を書かれているのかよくわかりません。
「宗教批判」というのは昭和30年代に読んだ『折伏教典』の主要テーマでした。
シャキャムニはバルナという階級差別でバラモン階級に特権化されていたものを下階級との禁婚で生じたものへ解放したというのが実際のところであったとわたしは認識しています。宗教?を批判というのは何のことであるのか皆目理解できません。
「仏教が宗教に回収」となると想像もつきません。
ここで言語既定をしないと混乱するので、いたしましょうか。
「宗教」という語は、法華経では見られませんが、天台は玄義で、妙楽もその釈で挙げ、伝教も使用します。しかし、日蓮遺文には見らません。この段階での宗教はしかし、いま言われる宗教とは意味を異にしていると思います。現代語の宗教は、天台已来使用されていたこの佛教用語を、西洋の religion の訳語として使用されてしまった段階からその意義と意味は大きく変わってしまいました。
ここら辺の概念規定は乾闥婆さんでは、どのようになっているのかわかりませんので、該当の記述を判読することができませんでした。レクチャーいただければと存じます。
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