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身延相承書と池上相承書について

1管理者:2003/08/12(火) 07:39
スレッドテーマのご提案がありましたので、スレッドを立ち上げます。提案文は以下の通り。

最近、古書店にて買った本「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」によると、身延相承書と池上相承書は後世に作られた偽書であると書いてありました。これは事実でしょうか。

35犀角独歩:2003/08/16(土) 17:34

苦悩乱者さん:

> 私と一緒に,諸経典は,釈尊の真筆(直筆)か?という論争をして見ませんか…

では、管理人さんのご許可を得て、pundarikaへお越しください、ここでは会員制になっており、横槍のない議論が出来ますので。

pundarika
http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/pundarika.html


しかして、シャキャムニがいっさい文字で教えを残さなかったことは周知の事実であって、この点は既に経典成立研究によって明らかになっております。この研究成果を否定するとすれば、文献学、考古学、科学的な知識と実務能力が必要となりますが、わたしにはその素養はありません。いくつかの研究結果を照会するに留まらざるを得ません。
苦悩乱者さんを何を論じ合われたいのでしょうか。この点を、まず、メールなりでご通知願えませんでしょうか。

それと、これははっきりと申し上げておきますが、わたしは議論はしても「論争」はけっしていたしません。争いからは何も生まれないからです。ですから、議論であれば、お受けもいたしましょう。

では、メール乃至 pundarika でお待ちいたします。

36苦悩乱者:2003/08/16(土) 17:34

犀角独歩さん

すみません,ご挨拶を忘れてしまいました。
苦悩乱者です。よろしくお願いいたします。
ご意見を荒々,拝読させていただきました。新しく造語をさせていただきますと「種脱相対門流」では無い旨,お見受けいたしますが,如何でしょうか?私は富士門流と言うより,先ほど造語をさせていただきました様に,「種脱相対門流」を名乗った方が,その立場をより明確にすることが出来るのではないかと思い始めて居ります。

37苦悩乱者:2003/08/16(土) 17:40

犀角独歩さん

>「論争」は決して致しません。

申し訳ありません。議論(むしろ語り合う)と言う意味です。失礼致しました。

それから,ネットでのこうしたやり取りは初めてですので,いろいろ手間取ることもあるかと思いますが,ご容赦ください。

38苦悩乱者:2003/08/16(土) 20:10

犀角独歩さん

メールを送らせていただきました。メールのやり取りも不慣れなので届いているか心配です。

39犀角独歩:2003/08/17(日) 06:27

【31の訂正】

誤)日限
正)日眼

苦悩乱者さん:

メールはたしかに拝受し、また、返信させていただきました。

管理人さん:

突然、お邪魔し、失礼いたしました。

40犀角独歩:2003/08/17(日) 14:23

篤志の方々から数通のメールを寄せられました。
それに基づいて、恐縮ながら、再度訂正します。まず、

「五人所破抄 重須本奥(書)に云く『嘉暦三戊辰年七月草案 日順』
 応永廿二●正月廿九日。
 日代聖人御筆大事の書也重宝有る可き也。
 太夫阿闍梨日円に之を授与す  日任 華押

 日眼見聞 蓮山本の奥(書)に云く、『伝写本云  康暦二庚申年六月四日書畢』。
 本化末弟日眼在御判」

と括るべきであり、「応永廿二●正月廿九日」の日付は、26に問答さんが仰るとおりであろうかと存じます。ですから、

―『五人所破抄』重須所蔵本の奥書に云うには
 「嘉暦三戊辰年七月草案 日順」(となっています)

 応永廿二●正月廿九日
 日代聖人御筆大事の書です。重宝とすべきものです。
 太夫阿闍梨日円に之を授与します  日任(華押) ―

となります。

さて、以上34までの書き込みに対して、この次下の「日眼見聞蓮山本の奥に云く」のわたしの読み下しは間違いであると指摘を寄せてくださった方がありました。その方によれば、この箇所は「日眼著『五人所破抄見聞』(蓮山本)の奥書に云く」であるとのことでした。つまり、ここは

― 日眼・見聞−蓮山本−の奥(書)に云く、「伝写本に云く『康暦二庚申年六月四日書畢』。本化末弟日眼(在御判)」 ―

であると仰ります。現代語に改めれば

― 日眼著『五人所破抄見聞』(蓮山本)で云うのには「伝写本に云うのには『康暦二庚申年六月四日書き畢(おえ)ました』(とあります)本化末弟日眼(在御判) ―

ほどとなります。これは、その通りであろうと、ここに謹んで訂します。
しかし、ここで云う「伝写本」とは、やはり『五人所破抄』を指すわけであり、「康暦二庚申年六月四日書畢」が見聞述作の期日であるとは読めない点は動きません。ただし、他にも考えることはできるかも知れません。しかし、これは前文の「云」を受けるので、著者・眼師が見聞を結ぶ日付ではないことだけは明らかです。

なお、作者が西山・眼師であると思える最大の理由は、この奥書に出る名前からの類推でもあります。代師は興師を継いだ重須2代(蓮師から数えれば3代)ながら、仙代問答を経、西山へ。蓮興を加上して西山3代。任師はそれを継ぐ4代です。それら、西山の系譜を継ぐ原本に「末弟日眼」と記すとき、何れの末弟かと言えば、蓮興代と継ぐ西山上代の末弟と読むのはごく自然のことです。

しかし、この本を写し、さらに万治元年に文を書き加えた「日諦」とは妙蓮寺諦師であると思えます。この点に関連しますが「蓮山」をわたしは大日蓮華山と読みましたが、これには「妙蓮寺を蓮山と呼んでいるのではないのか」という難が寄せられました。この点については、さらに叱正を待つことにしますが、この難を肯定的にとらえ考え合わせると、この書の妙蓮寺における由緒と見えてきます。しかしながら、諦師は「称計すべからず 乃至 吾門弟は正本を尋ぬべし」と実に否定的であり、その前の眼師までの写本の際の書き込みとは趣を異にしております。もし諦師が妙蓮寺であり、この書が妙蓮寺眼師によるものであれば、このような文面にはならないのではないかと怪しめるわけです。

『五人所破抄見聞』を、山口さんの受け売りで、二箇相承、上古存在の金科玉条の如くに扱いますが、富要集を編した亨師は「眼記はもとより本末整正せず」というのであって、二箇相承存在を証左する資料としては、余りにも覚束ないものであると映じます。

以下、『付録』として、奥書の日付から簡単な年表を記しておきます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1328 嘉暦 3. 7 『五人所破抄』日順草案
1380 康暦 2. 6. 4 『五人所破抄』伝写本を書き畢える
1415 応永22. 1.29 日任、日円に『五人所破抄』を授与
1658 万治 1. 9.18 日諦、『五人所破抄見聞』を写し「不称計」と注意を記す
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

たぶん、これで最後に出来ようかと存じます。重ねがさねお邪魔いたしました。

41ガンコ:2003/08/17(日) 15:38
あっ、だめですよ、独歩さん。
いちど乗りかかった船でしょう、スレッドが終了するまでいなきゃ。
おそらく1000回まで書き込めると思うので、MILD SEVENさんのようにコンスタントに書き込まないと終わりませんよ。
それが信仰者の信仰責任というものです。

前置きはこのくらいにして、独歩さんのご説明を拝見しまして、ますます謎が深まりました。

なぜ、すんなりと独歩さんの説明を理解できないのだろうと、いろいろじぶんの内面心理を探ってみたのですが、まあ、先入観というか固定観念というか思い込みというか、ともかく妙蓮寺の日眼師でなければならぬ、という考えに固執しているからなのかなあと、いちおうは思ってみました。
う〜〜ん、なかなか考え方を変えることは難しいものだなあ、と実感しております。

なんとか、おっしゃる意味は理解できましたが、かえって前よりも疑問を強く感じます。それはごく単純な疑問なんですけど、それだけに他に選択の余地がないと思うところです。
独歩さんのおっしゃるには、「日眼見聞」とは「五人所破抄見聞」ではなく「五人所破抄」を見聞したという意味で、「五人所破抄」の蓮山本は日付が康暦二庚申年六月四日になっていると“西山の日眼師”が確認して判形を加えた・・・という理解でよいかと思うのですが、そうすると不思議なことが起きるのではないでしょうか?
まず、日付がごちゃごちゃといっぱい書いてあるけど、日眼師はいつ蓮山本を見たのか書いていない。
というより、西山の日眼師は「五人所破抄見聞」を書いて、最末尾にいろいろと日付を書き込んでいるが、肝心の自著すなわち「五人所破所見聞」の日付をどこにも記していない。
これはかなり不思議かと思うのですが。
まさか、うっかり失念した、なんてことは考えがたいでしょう。もちろん、その可能性もなくはないでしょうけど。
通常、日付と名前と判形はワンセットであろうかと思います。
してみると、「康暦二庚申年六月四日書畢 本化末弟日眼在御判」はワンセットに見えてしまうんですが、やっぱりわたくしの頭は固いんでしょうか?

42犀角独歩:2003/08/17(日) 18:39

ガンコさん:

わたしは、既に引退したんですから、そういつまでも留まるわけにはいきませんよ(笑)

> 信仰者の信仰責任

何を言っていますか。その信仰責任ぐらいのことは書き終えているはずです。

> …最末尾にいろいろと日付を書き込んでいるが、肝心の自著すなわち「五人所破所見聞」の日付をどこにも記していない

好いところに目をつけていますね。そのとおりです。
わたしが抜き書きしたところは、ですから、『五人所破抄』に関する覚え書きでしょう。

この書は本来、署名がないのだと思います。
第一、この書に署名があるとしたら、いちばん、最後にはきませんよ。本文の終わりに書かれます。末尾は
「誤りの甚しき者を乎 師敵対也法敵対也信受すべからず 南無妙法蓮花経」
で終わっています。もし、署名花押が記されるとしたら、この次行でしょう。
ここに「日眼 花押」と来るはずです。
それから、わたしが抜き書きした文となっていくことでしょう。

例えば、『申状見聞』では「南無妙法蓮華経日蓮大聖人代々等」という末尾文の次行に「日我 判」となっています。

しかし、この書では、その位置に、名も花押(判)もないわけです。これはつまり、冒頭に「五人所破抄見聞  釈 日眼 述」と書いてあることから略されているとも考えられますが、もしこの題と名の記述が後人の書き込みである場合、もっと大胆な憶測も記せます。そもそも眼師の本ではないかも知れません。眼師自身、書写した一人の可能性もあるのではないでしょうか。もちろん、これは憶測です。また、特に相伝や他見を意図しなければ、署名花押に及ぶ必要もないものと思われます。

ですから、最後に縷々記された経緯は、見聞の対象である『五人所破抄』に関する覚書以外の何ものでもないでしょう。

このような類例は他にも見られます。例えば『四信五品抄見聞』では末尾に
「(本初云)具に四信五品書の如し
 長享元丁未十一十六之れを始む左京阿闍梨日教」
とあり、見聞の該当書のみに触れ、ここでも花押(判)は記された形跡はありません。

見聞というのは見て・聞くですから、『五人所破抄』であればその書を所蔵している人に見せてもらって、書写しながら、聞いたことも書き込んでいったものでしょうね。その見聞記録はそれなりに面白いものですが、ともかく、何より大切なのは、元の本、ここでは『五人所破抄』ということになります。ですから、その書について、最後にその所伝を記し置いたのでしょう。

ここまで記しても「康暦二庚申年六月四日」が見聞の日付と見えますか。

43ガンコ:2003/08/17(日) 20:35

独歩さん、どうもありがとうございました。

>ここまで記しても「康暦二庚申年六月四日」が見聞の日付と見えますか。

ええ、まだ考察の余地はあると思うんですが、ただこれ以上は「知ったかぶり」になりますので、なにしろ宗史など学んだことがないものですから、とりあえずもうちょっと勉強してから臨ませていただきたいと思います。まあ、いつになるかわかりませんが・・・

生意気申しますが、引退してもちょくちょく顔を出すのがよき先輩というものです。

44孤独な迷子:2003/08/18(月) 01:09
独歩さん、お帰りなさい。

お元気そうなレスを読んで、一人喜んでます。
  (→変な日本語になってしまいました、すみません。でも、よかった。)

45犀角独歩:2003/08/18(月) 05:50

孤独な迷子さん:

いやいや、お帰りではなくて、ちょっと、記しただけです。
pundarikaでお会いしましょう。

ガンコさん:

研鑽を期待します。それでは。

46ミトラ:2003/08/24(日) 05:46
スレットありがとうございます。

はじめまして、ミトラです。

私が提案しておきながら、 その後、スレットが出来たのを
知りませんでご挨拶が遅くなりました。

みなさまのお話は専門的?なので私などついていけないです。
って、提案しておいて、私の知識不足を知ることとなりました。

身延相承書と池上相承書について、その本によりますと
池上相承書などは、日蓮聖人没日の日付になっていて、とうてい
書けるはずがないとありました。そんな重要な書ならば、もっと
前もって書いていて当然であるとも。
まあ、そんなようなことが書いてありました。

ちょっと余談ですが。
ミトラとは、ミトラ教からとりました。
発音から察しがつくでしょうか、ミトラ→マイトレーヤ→弥勒
という流れです。参考まで以下ページなどおもしろいです。

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/extra006.htm

47愚鈍凡夫:2003/09/19(金) 19:44

「二箇相承」肯定論の方々へ。これを読んで元気を出してください。。

『二箇相承』紛失の由来答
http://gappo.cool.ne.jp/yowa/5904/5904.htm

西山蔵の写本の写真付きです(小さいですが)。
http://gappo.cool.ne.jp/nyumon/gosyougai/nyumetu/nyumetu.htm

セイノッ ⊂(^・^)⊃フレー \(~0~)/フレー

48空き缶:2003/09/20(土) 02:41
空き缶です
二箇相承が偽物ということは、日頂上人の「本尊抄得意抄副書」(佐渡世尊寺に写本のみ有り)も偽物でしょうか。
また「素朴な疑問」でもあげましたが、日順阿闍梨血脈(真筆?:重須本門寺)も同類ですか。

49愚鈍凡夫:2003/09/20(土) 13:53

飯も食ったし、そろそろ・・・・・。 (^▽^;)
空き缶さんへ。
要するに、五一相対の立場から日興師に正統な流れが存在すると言いたいのですか。

ならば逆に問います。
空き缶さんの説ならば、重須には『二箇相承』と呼ばれる天下御免の相承書が2通も存在するわけでしょう(当時という意味)。日順師は興門正統説を唱えるのに、何故これらの文証を引用しないのでしょうか。
『二箇相承』の言葉すら『日順阿闍梨血脈』ないのは何故でしょう。更に、言葉はなくとも、身延、池上の相承の次第の説明があって当然だと思うのですが、それすらないのは何故でしょうか。

それと、『二箇相承書』を真蹟とするのには、下記のハードルを超えなければなりません。
どうか空き缶さん、超えてみてください。

①身日蓮大聖人は湯治のために9月8日に身延山を発っているに、身延不在中の筈の9月13日の日付が何故、身延在中執筆を示す(大石寺版御書底本の日辰本で言う)身延相承書中に有るのか。
②現行の大石寺平成新編と左京阿闍梨日教書写本とで何故、身延相承書と池上相承書の双方の題と内容が入れ替わっているのか。
③日辰本の「身遠山」の「遠」字の写しが間違っているは何故か。蓮祖は多くの遺文に、正しく「身延山」と書かれている。

「   定
 一、弟子六人の事不次第
 一、蓮華阿闍梨 日持
 一、伊与公   日頂
 一、佐士公   日向
 一、白蓮阿闍梨 日興
 一、大国阿闍梨 日朗
 一、弁阿闍梨  日昭
   右六人は本弟子なり仍て向後の為に定むる所件の如し、
   弘安五年十月八日」

とあるのに、10月13日に、蓮祖が日興師に『池上相承書』を与えたことは、矛盾しないか。
⑤蓮祖→日興→日目が正統であるならば、『二箇相承』が重須にあったのは何故か。

今まで言い尽くされてきた疑問点ですが、このハードルを超えてみてください。

50愚鈍凡夫:2003/09/20(土) 14:12

>>49:

訂正
誤→『二箇相承』の言葉すら『日順阿闍梨血脈』ないのは何故でしょう。
正→『二箇相承』の言葉すら『日順阿闍梨血脈』にないのは何故でしょう。

誤→①身日蓮大聖人は湯治のために9月8日に身延山を発っているに、身延不在中の筈の9月13日の日付が何故、身延在中執筆を示す(大石寺版御書底本の日辰本で言う)身延相承書中に有るのか。
正→①日蓮大聖人は湯治のために9月8日に身延山を発っているに、身延不在中の筈の9月13日の日付が何故、身延在中執筆を示す(大石寺版御書底本の日辰本で言う)身延相承書中に有るのか。

です、悪しからず。 m(_ _)m

51犀角独歩:2003/09/20(土) 15:28

> 空き缶さん:

二箇相承・本尊抄得意抄副書・日順阿闍梨血脈の真偽を何でまとめて問うわけですか?

それぞれ別々に考えるべきではないのでしょうか。
それとも、これは相承・血脈の脈絡で束ねて記されているわけですか。

以下は持論です。

二箇相承の真偽論はもはや問題外、わたしは偽書説を支持します。

二箇相承は少なくとも目師とは無関係です。その証拠は石山が自分で作っています。『日興跡条々事』に二箇相承付属の事実が書かれていません。本尊付属も大切かも知れませんが、同等に相承書も大切です。この点が何も書かれていません。もちろん、この書が真書であるなどというのではありません。条々が(誰が書いたかは別として)二箇相承に触れていない事実は目師に(その当時二箇相承なるものがあったかどうかも別として)付属されていない事実を自ずから語っていると言うことです。

また、なかでいう「国主」は今川氏、国主は天皇を言うものではなかった、「本門寺」を重須に指すことを前提にした創作であると思います。
そんなことから、北山が本門寺の安堵を受ける背景で作られた北山創作文書で、愚鈍凡夫さんも再掲されるように、石山とは無関係と当板で語り合ってきたことでした。

本尊抄得意抄副書・日順阿闍梨血脈を考えるとき、両書とも頂師に係るものであること、この点では共通していますね。前書は日宗全でも、どちらかというと偽書濃厚を前提に記載される書でしたね。
後者でいう血脈は、正確には「上行=蓮−興−頂−澄−順」で、ここに頂師が血脈に名を連ねています。この一点を採って、偽書とは言えず、むしろ、当時重須の人脈を表しているように思えます。その背景で“作られた”という段階で真偽論です。ここで副書を二箇相承の上古存在の証拠として挙げるというのであれば、この血脈譜も認めなければならないことになりますね。ここでも目師は外れます。

山口範道さん、『日蓮正宗史の基礎的研究』で都合の好いところで切り出して使うなんて“研究”の名に値しないとは先に記したことでした。

52犀角独歩:2003/09/20(土) 15:38

> 47

愚鈍凡夫さんは人が悪い(笑)

『二箇相承』紛失の由来答』「二箇相承を偽作としたい他山の人もいるが、それは問題にならない。当門流に大聖人以来の血脈相承がなされていること自体、二箇相承書は目前に存在していることを示すものである」

久方に大笑いさせていただきました。
よくまあ、こんな下らないことが書けるものですね。
『大日蓮』に載っているとなれば、石山の公式見解。こんなところの仕事をしていたなんて語れぬ過去の恥だと赤面してしまいました。

53空き缶:2003/09/20(土) 15:57
愚鈍凡夫さん
私は二箇相承偽撰論者ですよ。
加えて「本尊抄得意抄副書」「日順阿闍梨血脈」にも疑問をもっています。
日順阿闍梨血脈には「次に日興上人は・是れ日蓮聖人の付処・本門所伝の導師なり」と有りますね、ここがいまいちひっかかるんです。
真撰偽撰というか、順師の著作そのもへの疑問があります。
日頂師の書簡といわれる「本尊抄得意抄副書」には、日頂上人が二箇相承をみて日興上人に帰依したことが書かれています。しかしこれも写本しか伝わらず、真偽は不明です。
五一の相対も私は支持できません。御遷化記録の精神と反しています。
摘弟意識の違いは五一ではなく、それぞれに違いが有ったと思います。

54犀角独歩:2003/09/20(土) 16:05

> 53

横レス失礼します。
この見解にはわたしは賛同します。

なかなか各個人のお考えの全体を掌握するのはむずかしいと思いました。
この前提での下文信者さんですか。

55空き缶:2003/09/20(土) 16:12
独歩さん
「この前提での下文信者さんですか。」
そうなんです。大穴なんです。

56愚鈍凡夫:2003/09/20(土) 17:28

>>53: 空き缶さん、了解しました。

ただ、空き缶さんのレスは、事情説明をされようとしているのか、自説を展開しようとされているのか、掴みかねるレスが多いのです。(ホンナ、バナナ! ワケワカメの世界) (^_^;)
ここの掲示板の何処でも構わないと思いますので、空き缶さんの主張を小論のような形でなくても構いませんから、纏まった文章にして投稿してくださいませんか。
そうすると、空き缶さんが何を言わんとしているのか掴みやすいと思うのですが。

57れん:2003/09/20(土) 17:46
私も二箇相承については、御書としては信用しておりません。理由はこちらの方々が言われておられる通りです。石山でも目師は勿論のこと、道・行・時・影・有師の文献に全く二箇相承について触れられていないのは不審です。さて、話は変わりますが、京都要法寺の故富谷日震師著「日興上人正傳」によりますと、身延に「弘安五年太才壬午八月三十日、付法第一智徳沙門日興授与之」とある蓮祖本尊が曽存したとのことです。この本尊は明治八年の身延の大火で他の蓮祖の真筆とともに焼失してしまったので、真偽を確かめられないのは返す返す残念です。

58愚鈍凡夫:2003/09/20(土) 17:49

>>52: 犀角独歩さんへ。
あっ、どうもどうも。楽しんで頂けました。
有り難うございます。
「石山嘗めたらあからぜよ!! (▼▼メ))」
との天の声が聞こえるのは気のせいでしょうか。

59空き缶:2003/09/20(土) 21:53
自説について
まとまりがつくように、努力します。ご覧の皆様に分かりやすい、書き込みが出来るよう注意します。今日はちょっと仕事の都合で書き込みが出来そうにありませんので、明日以降でご勘弁願います。

60愚鈍凡夫:2003/09/20(土) 23:13

>>57:
いったい、日興師は何幅の曼荼羅を授与されたのでしょうか。理由は何なんでしょうか。
身延曾存に信憑性を感じますが、「付法第一智徳沙門日興授与之」とは、何を意味するのでしょうか(ひょっとして、唯授一人血脈付法ってことでしょうかね?)。
京都要法寺の故富谷日震師は、いつ頃何処でこのことを知ったのか。
この曼荼羅授与にまつわる経緯が面白そうですね。

61空き缶:2003/09/21(日) 11:01
愚鈍凡夫さん
空き缶説?のまとめについては、もう少し時間を下さい。

北山本門寺に所蔵されている、「聖人等御返事」日興写本には「六人御弟子中下字給たるハ日興外無之」との気になる興師の添書があります。
「字、下し給たる」の「字」が二箇相承に書かれている一字一句を指すと、とらえたみかたも有ったみたいですよ。

これらの解釈は二箇相承に対する真撰か偽撰かの立場によってみえかたが様々のようです。
「付法第一智徳沙門日興授与之」の御本尊がかつて現存したとしても、日昭師にも通称「伝法本尊」の授与があったくらいですから、「高弟」の一人としての証明ぐらいに思っていればいいと思うんですが。

62愚鈍凡夫:2003/09/21(日) 15:09

空き缶さんへ。
お気遣いなく、時間のあいた時に書いて、気が向いた時に投稿下されば良いのではと思います。
ちょっと調べてみたんですが、
「一、甲斐の国蓮花寺の住僧寂日坊は日興第一の弟子たるに依て与へ申す所件の如し。
一、新田の卿公日目は日興第一の弟子なり依て与へ申す所件の如し。
一、富士の下方市庭寺の下野公日秀は日興が弟子なり依て与へ申す所件の如し。
一、駿河の国富士上方の河合少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し。
一、甲斐の国西郡小室の摂津公日仙は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し。
一、鎌倉の住人了性房日乗は日興第一の弟子なり聖人御遷化の後なる間日興書写し与ふる所件の如し。此六人は日興第一の弟子なり」

とあって、端から見てると、
「順不同なら最初に言えよなっ。誰が一等賞かワクワクしてたじゃねえか」 (▼▼メ)
なんて思ったりして(お前だけやって)。 (^_^;)

63犀角独歩:2003/09/21(日) 16:21

愚鈍凡夫さんと、たしか以前、話題にした

文永九年太歳壬申正月元旦 問答第一 行戒智徳筆跡符法の沙門日興に之を授与す (称徳符法の本尊と称す) 京都要法寺。

という漫荼羅がありましたね。
れんさんが挙げる漫荼羅の脇書も興味が惹かれますが、こちらもなかなかの賞賛と感じます。

ところで「付法第一」、「すると第二は誰?」と聞きたくなります。
唯授一人なら第一も第二もありませんからね。
付法第一というのは、「法をいちばん最初に付したのは日興、その次は…」という脈絡を窺わせます。「唯一」と言えば、たった一人でしょうか。

また、これら漫荼羅は付法の意味を篭められているとすれば、なんで、石山以外に伝わるのでしょうか。常識的に考えれば、「付法」と記された漫荼羅を所有する人こそ、その前師の「付法」を譲られた人となります。身延にあったとは、なんか笑いたい衝動に駆られるのはわたしだけでしょうか。「付法」を証する漫荼羅まで、まさか売買、あるいは譲渡されてしまったわけでもないでしょうね。
でなければ、その「付法」の書き込みは相承・相伝・血脈に係ることではなく、なんらかの法義、あるいは秘儀を授けたことを書き示しただけのものと言うことでしょうか。

相伝を伝える文献を他山の古写本に頼ったり、付法を伝える漫荼羅が他山にあったり、それだけで、相伝・付法の信憑性を一山に帰すわけにいかないと考えるのは常識的な類推と思えます。

64犀角独歩:2003/09/21(日) 16:33

愚鈍凡夫さん:

『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』の記述は順不同なんでしょうか。
重んずる順番に記されているんじゃないでしょうか。

冒頭の寂日房とは石山塔中寂日房の開基、そして、妙蓮寺開基の家師のことですね。
興師は、家師を目師より上席に置いていたということではないでしょうか。

65犀角独歩:2003/09/21(日) 16:39

【64の補足】

家師=華師です。

66愚鈍凡夫:2003/09/21(日) 19:18

犀角独歩さんへ。
小生は、最後の文の
「此六人は日興第一の弟子なり」
との、取って付けたような気配りを、順不同と考えたいのですが。

67空き缶:2003/09/21(日) 19:34
愚鈍凡夫さん 

『小生は、最後の文の
「此六人は日興第一の弟子なり」
との、取って付けたような気配りを、順不同と考えたいのですが。』

なるほど、日興上人の心配りでしょうか。そういえば「宗祖御遷化記録」の「不次第」と書かれている個所も、どうみても(写真をみる限り)「後付け」と思われる書き込み方ですよね。

68犀角独歩:2003/09/22(月) 11:14

愚鈍凡夫さん:

通常、弟子を書き連ねるとき、それは法蝋の順位でしょうね。
遷化録もその順位になっていますね。
空き缶さんの「不次第」が後付、頷けます。

建治2(1276)年、目師は走湯山円蔵坊で興師から得度され、同年、華師は身延入山、二十家阿闍梨号を受けています。この差は歴然です。

69愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 18:33

同じ、日興師の筆による『宗祖御遷化記録』が入門の浅い順で、『弟子分本尊目録』が日興師との繋がりの深い順ですか・・・・・。
蓮祖の本六と日興師の本六を一概に比較は出来ませんが、今一釈然としませんが。

個人的に、どちらも順不同で序列なしのほうが、遺恨を残さずにいいかなと思いますが。

70犀角独歩:2003/09/22(月) 18:50

愚鈍凡夫さんは、坊さんとの付き合いはないのですか?
順不同が遺恨なしという考え方は彼らにはないでしょう。
師弟子、入門の順位を喧しく言う社会です。
法要をやるのでも、その席順というのは厳しく決まっています。
法蝋の順位を常に意識しています。

本弟子六人の定で「不次第」としたいのは当の本人たちではなくて、その門下であったのではないでしょうか。
わたしは読み解けませんが、遷化記録の葬送次第の役割分担から、その弟子・檀那の序列がはっきりとわかるのではないでしょうか。

71愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 19:06

日蓮宗の住職に知り合いはいますが、あまりこういった話はしません(一般人とは、地雷の埋まっている場所が違うもんですから)。

ただ、絶対的なカリスマ的指導者がいなくなった時のことを考えて「不次第」、「此六人は日興第一の弟子なり」との配慮がなされたのではないかと思うのです(取って付けた感じは否めないですが)。

72犀角独歩:2003/09/22(月) 20:33

愚鈍凡夫さんは、興師を、いまでいう民主平等主義者であったと考えているのでしょうか。

遷化記録の筆者本人である興師が兄弟子二人がいるのにも拘わらずに「不次第」と当人の意志で書いたとしたら、わたしは興師の性格を疑います。しかし、それが蓮師の考えであれば書記に徹したと言うことでしょう。

さて、どちらなのでしょうか。そこから、弟子分与帖の意味も考えられるのでしょうね。

73愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 21:14

『宗祖御遷化記録』が弘安5年10月16日に記され、「日照(日昭?)日朗日興日向の四人の裏判之れ有り」(祖師伝)とありますから、偽造したのでなければ、「不次第」とは総意の上であると言えると思います。
ただ、その後、本六が宗門として纏まることなく、それぞれの道を歩き出したわけですから、日興師は平等主義の弱点を肌で感じていたはずです。要するに、絶対的な師がいなくなると、互いに支え合うことなく、各々の道を歩き出すということを。
それでも敢えて、「此六人は日興第一の弟子なり」とあるのは、平等主義を貫こうとしたのではないでしょうか(飽くまでも、日興師の筆であるとの前提ですが)。
この本六に対する平等主義は、日興師の意志ではなく、蓮祖の遺言だったのかも知れません。
そして、それを頑なに守ろうとしたのかも知れません。

74愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 22:04

>>73:の補足です。
平等主義の弱点として、扇の要がなくなった時、各自がバラバニなるといった弱点がありますが、逆に、危機感を持って1つに纏まる場合もあるわけです。
「不次第」が蓮祖の意志で、「此六人は日興第一の弟子なり」が日興師の意志であれば、後者を選択したのではないでしょうか(或いは、そう願ったか)。

75愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 22:55
>>74:訂正です。

誤→各自がバラバニなるといった弱点がありますが
正→各自がバラバラになるといった弱点がありますが

です。悪しからず。 m(_ _)m

76犀角独歩:2003/09/23(火) 08:49

愚鈍凡夫さん:

重ねて突っ込むようで申し訳ないのですが、
仮に6人を平等に扱ったとしても、多くいる弟子のなかから6人だけを特に選び出すのが平等主義といえるのでしょうか。

77愚鈍凡夫:2003/09/23(火) 09:54

皆さんお早う御座います。
犀角独歩さんへ

> この本六に対する平等主義は、日興師の意志ではなく、蓮祖の遺言だったのかも知れません。

集団指導体制を執り、一極集中を避けたという意味では、個々の責任分担に置いて平等なのではありませんか。
ただ、2つの遺文に出てきた短い文ですから、それだけで判断すべきことではないですし、推察の域を出ないことです。
違う言い方をすれば、10の能力が有る者は10の能力を発揮し、5の能力しかない者は5の能力を発揮する。つまり、能力に応じて自分の出来ることを存分にやる(適材適所という意味で)。そういう意味では平等なのではないかと思います。
これは、日蓮教団がそうであったという意味ではなく、そうであって欲しいということです。

78犀角独歩:2003/09/23(火) 10:28

愚鈍凡夫さん:

> そうであって欲しいということ

ということならば、わかります。

わたしは興師ほど、六老のなかで頑なな人はいなかったと思っています。
厳格主義者、勝劣主義者、その故の孤立とも見えます。
しかし、反面、その排他的とも見える姿勢であるからこそ、五老方に先んじて“日蓮宗”としての発想を誰よりも早く持っていったのだろうとも思えます。
その意味でまるで平等主義者とは見えないので、突っ込みましたが、愚鈍凡夫さんの願望として、論の展開であれば頷けます。たしかにそうあるべきだと思います。

79三学無縁:2003/10/31(金) 22:39
独歩さん

お久しぶりです。
興師の実像というか、わたしは、いまだにつかみかねています。
頑なな人だったのだろうとは思うのですが、融和をも忖度する
人でもあったのでは、と。
上足がたが、波木井氏の信仰や言動を非難して身延に参詣しなく
なったときに、興師は、波木井氏を庇う書状を書いています。
まあ、結局は身延離山したのですから、昭朗常師らの考えが正し
かったということになりますが、興師としては蓮師滅後の門下を
なんとか分裂させないように、と、当初は考えていたと思うのです。
以前、どなたかが言っておられましたが、
五一相対とは、日向VS五老僧
という考え方を支持するものです。
つまり、現在いわれている五一相対は誤りではないかと思います。
典拠となる「所破抄」「門徒存知事」の来歴と信憑性に問題はないだろうか、と。

ちなみに、日蓮教団が、天台宗から名実ともに独立できたのは、江戸時代に
なってからですし、それも神道によるお墨付きによるでした。
鎌倉方の「天台シャモン」の言も、現実に存在する日蓮門下集団を私度僧としない
ための苦肉の策と考えることはできないでしょうか。

80犀角独歩:2003/11/01(土) 15:32

三学無縁さん:

お久しぶりとご挨拶申し上げてよいやら、過日はまことに有り難うございました(これはこのご挨拶までで)

79にお記しのこと。
確かに仰るとおりであろうと思います。

空き缶さんにはお叱りを受けるかも知れませんが、わたしは六老方のなかでもっともはやくから蓮祖教学に新解釈を加えていった一人であると思うわけです。
その典型が御影信仰でした。(この点で愚鈍凡夫さんがこの御影を彫(塑)像ではなく絵像であると指摘された達観に舌を巻きました)また、その流れで、仏像撤廃、漫荼羅を拝むという儀も生じていったのかと想像をたくましくします。

三学無縁さんが「漫荼羅を拝んでいたのであろうか」と目から鱗が落ちる疑義を私に告げて下った日のことを終生忘れません。これは蓮師漫荼羅とは抑も何なのかという命題に強引に引き戻される強烈なパンチでした。

「天台沙門」という点については、わたしは「法華宗」の意味するところから、先に記しました。元来、法華宗とは天台宗を指すのであって、当時、法華宗とコミットメントすればそれは天台沙門にほかならないのではないのかという意味です。では「法華宗」が実質的に天台宗と分別されて(日蓮)法華宗として独自の地位を確立できたのはいつ頃から、案外、この辺がわかると興師/他五老の五一相対が言われるようになった時期が見えたりするのではないのかと勝手な期待を懐いたりしています。

たしかに私度僧という観点から見ることも可能ですね。

81空き缶:2003/11/02(日) 03:09

空き缶です。

最近随所で、私の名前(ハンドル)を見かけるようになりましたが、ここの皆様と比べますと教学研鑚がまだまだで、恥ずかしい限りです。

話は変わりますが、有師も化儀抄の中では「法華宗」という宗名を使っていると思いますが、いかがなもんでしょう?

日隆上人の影響でしょうか?

82犀角独歩:2003/11/02(日) 15:21

空き缶さん:

そこここに勝手にお名前を知るし申し訳ありません。
ただいま、わたし強烈なウイルス爆弾を食らい、データ用のコンピュータが死んでしまい、その修復に大わらわ、ついては文献資料などを提示できない有様です。故に隆門との脈絡はれんさん、愚鈍凡夫さんなどにお応えいただければ有り難く存じます。

けれど、書籍資料で、わたしが日蓮系の「法華宗」の呼称に疑義・興味を持ったのは、「比叡山延暦寺 沙門 圓信 記」の『破日蓮義』を読んでからでした。
原文が漢文体なので、そのうち、延べ書きにして自分のHPにアップしようと思っていますが、この冒頭から

「日蓮黨類所談法華経法門三國伝来様慥可申也
 若無三國相承者 不可立宗名
 汝號法華宗事 甚不可然
 法華宗者 天台宗名也」
(日蓮党類は法華経法門の三国伝来のさまをたしかに申すべきなり
 もし三国の相承無くんば宗名(法華宗)を立つべからず
 汝法華宗と号すること、はなはだしかるべからず
 法華宗とは天台宗の名なり)
  ― この延べ書きでよろしいでしょうか、顕正居士さん ―

とガツンと始まっています。概略すれば、(天台)法華宗の名を承けるために伝教師は海を渡り、大陸に赴いた。それ故、中国天台から「法華宗」の名を承うけた故にそれを名乗る。しかし、日蓮一党はその相承も受けず勝手に「法華宗」を名乗ることは甚だ不可である、こんな感じで始まっています。比較的読みやすい漢文体で、返点もあります。一読をお薦めします。

まあ、今の創価学会が「大聖人直結」とか言い、その継承を無視して、半世紀ばかりの歴史で、700年前の蓮師に繋がっていると言っているのを批判しているようなものです。
この書、面白い、読み応えがあります。

83顕正居士:2003/11/03(月) 08:37
独歩さん。

一行目の「所談」が抜けています。

日蓮党(の)類の談ずる所の法華経の法門は三国伝来の様をたしかに申すべきなり

二行目、三行目は「の」を送ったほうがよいでしょう。

もし三国の相承無くんば宗の名を立つべからず
汝の法華宗と号する事(は)甚だ然るべからず

日蓮法華宗も三国四師の「外用相承」を立てます。これは伝教大師の著述からの
「経巻相承」の意味でしょう。比叡山の師は俊範法印らしい(『日大直兼問答』)が
遺文には名がでてこない。「外用相承」は天台の正統に立つ意味だから、「教相」
の解釈は天台宗と同一土俵になる。だから江戸時代に談林が出来て自前で台学
をやる以前は学僧は比叡山に留学していた。
「日蓮はいづれの宗の元祖にもあらず」だからほんとうは「日蓮宗」というべきでは
ないが、天台宗と区別するために次第に日蓮宗を名乗るようになったのでしょう。
二つの法華宗が別の宗派であるといっぱんの人達にわかったのは天文法華の乱
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/tenmonhokkenoran.html
の以降だろうという人もいます。

84犀角独歩:2003/11/03(月) 09:30

顕正居士さん:

小生、相変わらず、雑駁な漢文読みをやっておりますね。
お恥ずかしい限りです。さらに勉学に励む所存です。
ご指導、有り難うございました。

85顕正居士:2003/11/03(月) 16:08
漢文の訓読というとこのスレッドに関係することがあります。
『一期弘法書』
http://gappo.cool.ne.jp/nyumon/gosyougai/nyumetu/nyumetu.htm

国主被立此法 者 富士山 本門寺戒壇 可被建立也

「国主此法ヲ立テラルレバ 富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ 建立セラル可キ也」と
日蓮正宗系の書籍では訓読しているとおもう。「本門ノ戒壇」はわかるが、
「本門寺ノ戒壇」とは何か?「富士山本門寺二戒壇ヲ」であるはずである。

伝教大師の1-法華宗公許 2-戒壇建立の順序から考えて、まず「本門法華宗」が
公許されて、その中心の寺院が「本門寺」と称する(延暦寺を「迹門寺」という意味)。
次に戒壇が勅許されて東大寺(爾前)、延暦寺(迹門)と並ぶ本門の戒壇となる
(園城寺の密教戒壇建立と同じ考え、というか真似である)。
『三秘抄』には
「勅宣並御教書を申し下て尋似霊山浄土最勝地可建立戒壇者歟」とある。
「霊山浄土ニ似タラン最勝ノ地」とは「本門寺」のどれかである。富士山のてっぺん
とかの意味ではない。『三秘抄』は富士派で作られた書ではない。だから、違うよ、
北山の本門寺の意味である。続く文も「可待時而已事戒法謂是也」(『三秘抄』は
「可待時耳事の戒法と申是也」)で、『三秘抄』成立後の創作だろう。

日蓮正宗系の書籍で「富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ」と訓むのは大石寺の戒壇でなくて
ならないからだが、変なよみ方が顕正会や本門正宗を発生させたともいえるので、
送り仮名一字、なかなか笑えないことが時におこります。

86犀角独歩:2003/11/04(火) 09:53

顕正居士さん:

富士山とは山号であり、本門寺は寺号であると考えればよろしいのでしょうか。
富士山本門寺との呼称は北山・西山。二箇相承は、その北山にあったとされる文書でした。となれば、該当はまさに北山本門寺。その「北山本門寺に戒壇を」という文意であるということですね。
いつも慧眼には驚かされますが、このご指摘も流石と申すほかありません。

> 園城寺の密教戒壇建立と同じ考え、というか真似

非常に不躾で恐縮ですが、質問をさせていただけますでしょうか。

富士系では、園城寺下文があったと伝わります。
この実否はさておいて、ここで「園城寺」の名が挙がる背景はご指摘の模倣と関係していると考えられるものでしょうか。

87顕正居士:2003/11/04(火) 12:12
日蓮聖人がまだありもしない「富士山本門寺」なんて書くものか、なんですが。
ヴァーチャルな紛争においては有効であったようです。

「永正年間大石寺日鎮師は『富士山本門寺なる號は本門戒壇建立以後初めて
公称すべきものなるにも拘はらず重須が本門寺と號するは興師の正意にあらず』
と主張したから重須本門寺日國師は小泉久遠寺日継師と共に之を領主今川氏親に
訴へ、斯くて氏親の前に於て対決となったその時重須方から呈示したのが
所謂二箇の相承である、其時氏親は其等を以て真書として左の判決を下して居る。

従日蓮聖人的々相承並本門寺々號支証明鏡之上領掌無相違者也 仍状如件*

永正十二年乙亥(祖滅二三四)六月二十六日 修理大夫 書判 本門寺日國上人」
早川一三『富士日興上人身延離山の研究』(ニチレン出版121頁)
*日蓮聖人より的々(ちゃくちゃく)の相承並に本門寺々號の支証、明鏡の上は
領掌相違無き者也。仍って状くだんの如し。

園城寺申状と下文というのは富要集に在りますが、NBさんのところには未入力で
いま内容を確かめられません。記憶では後醍醐帝の新政後に日目師上奏の際の
ものだったと。この間にここで議論があって、日蓮聖人の在世にも上奏があった
とか。何か混乱があるように感じました。園城寺の悲願は延暦寺からの完全独立
で、具体的には戒壇建立。勅許を得たが落成すると比叡山兵に焼かれ抗争幾百年。
建武新政の際に、延暦寺から独立を目指す同志に好意的な答申があっても変では
ないかも知れません。ほんものだったらですが。

88犀角独歩:2003/11/04(火) 14:36

87 顕正居士さん:

有り難うございます。
たいへんに参考になりました。

89空き缶:2003/11/04(火) 15:13
空き缶です。横レス失礼します。

以前、愚鈍凡夫さんからの情報で、「園城寺申状」は西山本門寺にあるとのお話でした。(ぶっだわーるど参照)

確か大石寺の日精師「富士門家中見聞中」にも西山に在ると書かれています。(日蓮正宗聖典P661)
この記述中にある「園城寺申状」と「御下文」と「大石持仏堂の御本尊(日興書写)」の内、「大石持仏堂の御本尊(日興書写)」は「日蓮聖人歴代門下曼荼羅御本尊集」に、西山本門寺所蔵として写真が掲載されています。

もしかしたら、「園城寺申状」と「御下文」も西山本門寺に在るかもしれませんね。

90空き缶:2003/11/04(火) 15:38
「ぶっだわーるど」の記載を転載いたします。

【寺院名】富士山 本門寺(ほんもんじ)

--------------------------------------------------------------------------------
【宗派名】日蓮系単立 本山
【別名】西山本門寺
【住所】静岡県富士郡芝川町西山671
【本尊】日蓮聖人の曼荼羅
【開山】日代上人
【開基】大内安清公
【由緒】本門寺は初め日蓮大聖人の六老僧のひとり、日興上人によって重須の地に開かれた。日興上人が遷化した後、日代上人が法灯を守っていたが、在山11年にして地頭石川妙源と信仰上相容れないものがあり、西山の郷主大内安清の屈請により、康永3年(1344)10月13日、現在地に堂宇を建立し、富士山本門寺として開基した。以後今川、武田氏の外護を受けて隆盛を極めたが、14代日悟上人の時、出火により山内の大半を焼失、勢力が衰えた。16代日映上人の尽力により、寛永10年(1633)現在の本堂が建立され、水戸光國公の外護もあり、20代日圓、21代日意上人の時代に再び栄えた。百数十町歩の領域に七堂伽藍が完備し、駿河屈指の名刹といわれた。以後嘉永(1848-54)、安政(1854-60)の大地震により多くの諸堂を失い、明治維新の世変等もあり、今は境内の規模に往時を偲ぶだけである。現在復興中である
【寺宝】紺紙金泥法華経等国宝 3点/方等三昧経等重美13点/日蓮聖人御舎利/日蓮聖人真筆 万年救護本尊/日興上人御舎利/日興上人真筆・本尊/園城寺申状/大柊(天然記念物)/その他多数あり

ちなみに、「お虫払い」は例年4月18日だそうです。

91犀角独歩:2003/11/04(火) 16:25

あ、やはり、空き缶さん、登場されましたね、園城寺、この件が出れば投稿されると楽しみにしていました。

92空き缶:2003/11/04(火) 18:09
犀角独歩さん

お久しぶりです。西山関係の方にも登場していただきたいですね。お知合いの方はいらっしゃいませんか?

93犀角独歩:2003/11/05(水) 19:11

おっとっと。空き缶さん、ごめんなさい。返事、遅れました。
そうですね。西山系といまは一口に言っても複雑ですが、つてはあります。
ただ、ネットに登場されるかどうか。
関係ありませんが、わたしが想起しているのは、学会からの方ではありません、念のために。

以前、皆で身延から、西山、石山、北山と歩きました。
そのうち、空き缶さんともご一緒したいものですね。

94空き缶:2003/11/05(水) 21:34
犀角独歩さん

「ぶっだわーるど」の記載をみますと、少なくとも「園城寺申状」はあるとなっています。

チョッと期待してます。

95れん:2003/11/11(火) 19:14
空き缶さん。西山本門寺の園城寺申状について興風第十一号「日興上人全集」正篇編纂補遺によりますと、八・諸宗要文の解説に「西山蔵正本の外見を撮った写真を見ると、本書は一巻の巻子本で、その巻緒に小片の布が結い付けられてあり、そこには日興上人御消息壹巻・園城寺申状・第三十二番という文字が認められる。この『園城寺申状』とは正慶二年二月十三日の日付と日目・日仙・日善の三師の加判を持つ『日興上人御遺跡事』の中で日蓮聖人御影と御下文と共に上野六人老僧が守護すべきものとして列挙されている。これらは後世大石寺三箇の大事と称され

96れん:2003/11/11(火) 19:29
るものであるが、日蓮聖人御影以外の二つにかんしてはその実体がほとんど不明のようで、堀日亨上人も、この二文書はまったく西山系でいずれの時代か紛失して現今は空筺のみが存在しておるのであり、…と言われている。よって、この『園城寺申状』と本書『諸宗要文』がいかなる理由で結びついているのかも全く不明である」とあります。この記事によると、西山本門寺においても園城寺申状も御下文の正本も写本も現存せず、それを納めていた空筺のみが現存し、その中に興尊自筆の諸宗要文が納められている由です。右ご参考までm(__)m

97れん:2003/11/11(火) 19:55
あと参考までに記しますと石山日因師撰三四月会合抄に「日有上人の御物語に云く、興師は能く能く高祖の仏意を得させ給ふ、江州薗城寺の天下えの申状は叡山に迹門の理の戒壇を立つ上は薗城寺にも又迹門の事の戒壇を立つべき申状也、然る間是こそ末代本門の事の戒壇立つべき証拠なれとて大石寺の重宝と仰せられ給ふ也云々」と記述があり、三井園城寺の戒壇建立の申状とその勅許の下文を本門事戒壇建立の証拠として大切にしていた旨の有師の説明があります。この場合の園城寺申状も不明ですが、下文には正元二年正月四日の官宣旨が該当します。なお、継命

98れん:2003/11/11(火) 20:17
新聞社刊行の「日目上人」には前記の日有師の御物語について「おそらく本門戒壇の認可を朝廷に求めるに当たって、この園城寺申状をひな型に書くよう相伝されていたのではなかろうか」と説明しています。ただし、有師の別の聞書には「四十二度の御天奏、先七度は日蓮聖人・日興上人の御使なり。後三十五度は御身に当て給ふ也」(聞書拾遺)「日蓮聖人も武家に奏し玉ふ、日興も只武家に訴へ玉ふ。ここに日目上人元めて国王に奏し玉ふ」(連陽房聞書)とありますから、興師本尊の「最前上奏仁」の授与書からみて目師の蓮祖在世の天奏も史実と思います。

99犀角独歩:2003/11/11(火) 20:52

れんさん:

横レス失礼します。
「日目上人元めて国王に奏し玉ふ」と記される『連陽房聞書』は時代が下ってのものですが、これに信憑性ありと れんさんはされるということでしょうか。

「最前上奏仁」は興師の筆に係るわけですが、上奏の時期はいつとお考えになりますか。また、もし目師が「最前」であるとすると、日蓮門下一般で言われる像師の帝都弘教より先であり、通日蓮宗史は書き換えられるとお考えになってお出でですか。

変な突っ込みをするつもりはありませんのでお考えを披瀝いただければ幸いです。

100れん:2003/11/11(火) 21:24
独歩さん。有師の聞書は蓮祖滅後二百年前後の成立であり、これに依憑して史実を立てるのは無理がありますが、少なくとも石山では有師の代までそのように伝承されてきたということは押さえておくべきだと存じます。上奏の時期は、石山の伝承を採るなら蓮祖在世なら弘安五年、滅後なら弘安八年(日興跡条々事、但し存偽)ですですね。興師より仙師授与の本尊に「正応三年十月八日、僧日仙授与之、日仙百貫房者賜聖人異名也、日興上奏代也」とあり、目師授与の本尊の「最前上奏仁」に引き付けて考えますと、最前上奏は少なくとも正応三年以前と考えられる

101れん:2003/11/11(火) 21:38
と思います。興師の目師への「最前上奏仁」の御筆によって通日蓮宗史が書き換えられるかどうかとなりますと、もっと当時の史料を綿密かつ慎重に精査した上で確説を立てなければならず、これは後日の研さんの課題とすべき問題と存じます。m(__)m

102れん:2003/11/11(火) 21:44
訂正
誤、但し存偽→正、但し存疑文献
誤、ですですね→正、ですね

103犀角独歩:2003/11/11(火) 21:49

れんさん:

有り難うございました。
参考になりました。

104空き缶:2003/11/11(火) 23:09
れんさん・犀角独歩さん

西山関係の書籍は出版されていないんでしょうか?私は手元に一冊もありませんが。

よくよく考えてみれば、西山に「薗城寺申状」が現存しているのであれば「日蓮聖人真蹟集成」に出ているはずですよね?

105みかん:2003/11/11(火) 23:48
空き缶さん
>>104
http://www.jbook.co.jp/product.asp?PRODUCT=1361799
西山関係の本としては、西山の僧侶が書いたこういうのがありますが、一般書であり、あまり参考にならなかったです。

また別の西山の僧侶が書かれた本などが自費出版され、神保町の東陽堂などで見かけることがあります。

106空き缶:2003/11/12(水) 01:29
みかんさん

ありがとうございます。

107犀角独歩:2003/11/12(水) 12:03

104 空き缶さん:

そうですね。
れんさんも書かれていましたが、空箱しかないので、富要を開いても亨師が慨嘆が伝わりますね。

108空き缶:2003/11/12(水) 15:30
犀角独歩さん

肩の力が抜けてしまいますが、日興・日目両上人の真筆遺文にその名が出てくることから、過去に現存したとは思うんですが。

今わずかな期待を胸に、西山のお虫払いにいってみようかなと思っています。誰でも入れるんでしょうか?

109犀角独歩:2003/11/12(水) 16:17

108 空き缶さん:

> 日興・日目両上人の真筆遺文にその名が出てくる


あれ、そうでしたか。
先月末、ハードディスク1台、10ギガ分のデータを消滅してしまったわたしは、実はここ半月は放心状態。初心に戻ってお尋ねしますが、どこに出ているのでしょうか。

> 西山のお虫払い…誰でも入れるんでしょうか?

入れますでしょう。
けっこう、濃い人たちが集っているようですが。
何年か前、石山教学部の若手が参詣しているところを、学会に撮影されて写真が流されたなんてことがありました。

静岡の日蓮宗のお坊さんに誘われて、去年だったかも行こうとしたら、突然の中止。この次は行こうと思っています。あそこの寺院はしかし、もったいないですよね。あのままでは朽ち果ててしまいます。

110空き缶:2003/11/12(水) 16:28
犀角独歩さん

以下「れんさん」の書込みです。

「西山本門寺の園城寺申状について興風第十一号「日興上人全集」正篇編纂補遺によりますと、八・諸宗要文の解説に「西山蔵正本の外見を撮った写真を見ると、本書は一巻の巻子本で、その巻緒に小片の布が結い付けられてあり、そこには日興上人御消息壹巻・園城寺申状・第三十二番という文字が認められる。この『園城寺申状』とは正慶二年二月十三日の日付と日目・日仙・日善の三師の加判を持つ『日興上人御遺跡事』の中で日蓮聖人御影と御下文と共に上野六人老僧が守護すべきものとして列挙されている。」

ここから、日興上人→諸宗要文・日目上人→日興上人御遺蹟事の二書をもって、上記のように申しました。

「日興上人→諸宗要文」は該当個所が日興上人の筆かどうかは、未確認でしたね。

111犀角独歩:2003/11/12(水) 16:40

空き缶さん:

昨日のご投稿でしたね。
なんとも間が抜けた質問をしてしまいました。
失礼いたしました。

> 日興上人御消息壹巻・園城寺申状

これはいったい誰の文字なのでしょうか。
あ、これは むしろ、れんさんにお尋ねすべきところでしょうか。

というより、以前の議論をわたし繰り返しているかも知れません。
もし、そうであれば、既述をお教えいただければ有り難く存じます。

112れん:2003/11/12(水) 21:08
独歩さん。「日興上人御消息壹巻園城寺申状」が誰の筆なのかは、正本も御筆写真も拝したことが無いので分かりません。
空き缶さん。西山本門寺のお虫払い法要に参加して実地に拝観・調査すれば「園城寺申状」についてなにか新事実が明らかになるかもしれませんね。私も一度は保田妙本寺や西山本門寺のお虫払い法要に参加して、上代の古文書を調べたいのですが、学会所属の身では無理でしょうね。

113空き缶:2003/11/12(水) 21:19
れんさん

学会所属だったんですか。以外でした。
他の掲示板では、学会系の論師が「戒壇本尊」を否定していますし、興風談所系の資料に明るいので、私はてっきり正信会の方かと思っていました。

少なくとも、保田も大丈夫ですよ。出入り自由です。
一度、日曜日正午からの正御影の御開扉におこしになってみてはいかがでしょうか。
お色直しされているので、とても700年前のものとは思えないと思いますが、一見の価値はあると思います。山門前に駐車場がありますので、そこに車を止めて真直ぐ階段を上がってこられると御堂があります。御開扉料などは徴収していません。安心してお越しください。

114れん:2003/11/12(水) 22:16
空き缶さん。保田妙本寺の方は大丈夫なのですね。安心しました。空き缶さんからの折角のお薦めですので、一度、妙本寺さんの日曜日正午からの正御影の御開扉に行ってみようと思います。私は車の免許を持ってないので泊まり掛けになると思いますが…。空き缶さんは私が学会所属であることに驚かれたようですね。まあ、学会員であっても私のような変わり種もいるということです。m(__)m

115犀角独歩:2003/11/12(水) 23:26

れんさん:

ここでは“変わり種”は大歓迎ですよ(笑)

116空き缶:2003/11/13(木) 00:51
れんさん

泊りがけですか、うーん、実は周辺には他に何も無いと言っても過言ではないでしょう。
ロープウエイ、道の駅、海ぐらいでしょうか。この季節では、家族と来ても家族に報いる術が無い場所です。
チョッと足を伸ばせば「かもがわシーワールド」、清澄寺、誕生寺、等がありますがいまいちですか?清澄寺はご存知の通り道善房の墓所があります。誕生寺は拝観料がかかりますが、宗祖真筆曼荼羅が常時展示されているはずです。
そうか車が無いとなると、こうした動きも厳しいですね。なんせ、御開扉はその一回きりで勤行で約30分程度、続いて住職の話15分程度(その時々で若干違いますが)の1時間弱の御開扉なんです。御閉扉のあとはすぐ鍵を閉めてしまいます。
あとは、つまらないかもしれませんが日郷上人の墓所ですとか、客殿も自由に入れます。客殿は常時御開扉したままだったと思います。
宜しければMSNコミュニテイ−「大本山妙本寺」を見学してみて下さい。境内の写真をアップしています。
有意義な1日になられることを、願っています。

117犀角独歩:2003/11/14(金) 09:36

112 れんさん:

「日興上人御消息壹巻園城寺申状」のこと、有り難うございました。

横レスになりますが、西山にしても、どこにしても、個人として参列するのであれば、所属などまるで関係ありませんから大丈夫です。もちろん、石山は戒厳令下の法要みたいで、券・ワッペンがなければ境内地にすら足を踏み入れることもできません。

118れん:2003/11/14(金) 19:22
空き缶さん。独歩さん。寺院参詣についてのご教示まことに有難うございます。私も保田妙本寺や西山本門寺に参詣する時は、富士門流の法門を考究する一個人として参詣させていただきます。m(__)m

119れん:2007/03/23(金) 20:00:43
「日進聖人仰之趣」の「上野白蓮阿御房…ありし也」の次下の文が直人氏のHPに出てました。「仰之趣」を所持してない私には参考になりました。
ただ戴けなかったのは「実に白蓮阿を日円も師弟の契約無」とあったことで、これは当時の身延山側の主張を知るには面白いですが、日興自筆の現存する弟子分本尊目録には「一、甲斐国南部六郎入道者日興第一弟子也。仍所申与如件」とあり、師であった日興の申請により日蓮より漫荼羅を授与された事が見え、写本文献ながら原殿御返事には「日興か波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事…」とあり、南部実長をはじめ波木井の一族や家臣は日興の教化で日蓮の門下に連なったことを知らせています。日興が身延に登山した際の波木井実長の自筆の書状にも「さてわたらせ給候ことハ、ひとへにしやう人のわたらせ給候と思まいらせ候に候」とまで述べているなど、当事者間の確実な文献を見ると、日興と日円(波木井実長)に師弟の契約があったことは史実であり、それを“無”と言い切った「仰之趣」のこの項に関しては史実に忠実な主張ではないと判断せざるを得ないと思いました。私の認識としては身延沢は輪番で門弟が入り墓所への勤仕がされる予定であったが、早い時期の輪番制の崩壊とともに、弘安八年頃、波木井実長の帰依僧であった日興が他の本弟子の許諾を得て身延に常駐した…という観測で、もちろん、偽書である二箇相承の説など採りませんが、してみると「仰之趣」もここら辺の微妙なところは、やはり門流意識が顕著で、注意して読み解くべき文献の様ですね。

120独学徒:2007/03/23(金) 21:28:21

れんさん、

「日進聖人仰之趣」の該当箇所は、読み下し方が正しくないように思います。
少しお時間を戴きますが、後ほど「談議所」の方に室住翻刻の該当箇所をアップします。
(但し私は室住先生の古文書解読にも、全て信をおいているわけではありません。)

121独学徒:2007/03/24(土) 00:03:02

>120
自己レスです。
>読み下し方が正しくないように思います。
読み下し方は合ってました。私の見た場所が間違っていました。
謹んで訂正致します。

122れん:2007/03/24(土) 19:26:20
独学徒さん
談義所にて御提示の「仰之趣」の当該部分、拝見いたしました。
当該文には、日蓮から日向に身延沢の譲りがあったとありますが、今日にいたるまで、日蓮から日向への譲状のごときは存在してませんね。無論、日興に対するそれも存在しません。確実な記録である日興筆の宗祖御遷化記録に「墓所寺六人香花当番時」云々とある通り、墓所寺(後の身延久遠寺)を六老僧を中心に門弟が当番で守護し仏事を奉修することが日蓮の遺志であったろうと思います。輪番制の崩壊による日興の常駐はあったものの正応元年に顕在化した波木井氏に対する教化に関する日興と日向の対立、地頭波木井氏も、それまでの日興との師弟関係を反古にして「我は民部阿闍梨を師匠にしたる也」とするにいたったので、「泣く子と地頭には勝てぬ」で、日興は身延を離山したのでしょう。
原殿御返事において「身延沢を罷出候事面目なさ、本意なさ難申尽候へとも、打還案し候へは、いつくにても聖人の御義を相継進て世に立て候はん事こそ詮にて候へ…日興一人本師の正義を存して本懐を奉遂候へき仁に相当たって覚候へは、本意無忘候」と、身延を離山しても師日蓮の法門を守ることを選ぶと記した日興には、少なくとも「仰之趣」が記す如き身延の後住を自ら望んだということはなかったでしょうね。

123顕正居士:2007/03/25(日) 01:06:34
「日進聖人仰之趣」ははじめて見ましたが、送り仮名が変ですね。
あの送り仮名はもともと本にあるのですか?
「クレヨ」も変ですね。「ツケヨ」とかなら意味が通りますが。

124独学徒:2007/03/25(日) 11:47:10

顕正居士さん、
私も室住先生の古文書解読が、全て正しいとは思えません。
とはいっても、私も全く読めるうちに入りませんので、古文書解読の専門家に再翻刻を熱望しています。

125れん:2007/03/25(日) 16:19:13
顕正居士さん
私も独学徒さんと同意見で、「日進聖人仰之趣」に関しては、改めて鮮明な影本の公開と古文書解読の専門家による再解読・再翻刻が必要な文献であると思います。原本を精査すれば、顕正居士さんが疑問を呈された箇所を含め、本古文書について新たな知見を得ることができるのではと思います。

126通りすがり:2007/04/23(月) 19:56:57
六老僧を定め六人で団結して身延山久遠寺及び墓所を守るように遺言された事は記録に残る事実ですが然るに御存知の通りそれは五人に於いては守られる事はなく又、日興上人に唯受一人血脈付法の儀(二箇相承等)という正式な史実はなかったように私は感想を持ちます。二箇の相承については京都要法寺あたりの政争の具であったように感じます。正しくは日興上人のみ唯一人、法を身を以て深く会得し、遺言を守り貫いたという事ではないでしょうか。いずれにしても注法華経を持ち去り、聖人生涯所持の立像仏を持ち去り、墓所をおろそかにした五人に対して、遺言も教えも厳格に守り通した方は日興上人だけであった事は隠し様のない史実ではあります。m(__)m

127犀角独歩:2007/04/23(月) 22:05:01

> 教えも厳格に守り通した方は日興上人だけであった事

そうでしょうかね。理由はともあれ、日興は、日蓮の墓を捨て去ったのではないでしょうか。
仏像、注法華経を持ち去ったというより、日蓮の墓を捨てたというほうが、わたしは納得がいきませんが。

128天蓋真鏡:2007/04/25(水) 00:14:38
横レス失礼します。●相承書が偽物ならどこからどこまでが事実なのでしょうか。●弟子・日興は重須談所で戒壇堂に当たる法華根源、日蓮御影、・天照神宮を建立して日本仏教の規範を示したのでしょうか?

129マハー:2007/04/27(金) 18:26:12
>>128
天蓋真鏡さん はじめまして 
本門寺棟札について、少し気になったものですから横レス失礼致します。
私は日蓮が神仏習合の影響を色濃く受けていたと思っていますので、
天照太神の堂の建立は勿論不思議とは思いません。しかしだからこそ、「神宮」というのは納得が行かないのです。
神宮と呼ばれる社殿は、香取、鹿島、伊勢の三つでしょう。
日興も知っていた筈ですから、自らが建立した堂に神宮名をつけるのは不自然だと思います。
史実ならばとても疑問です。

130通りすがり:2007/05/02(水) 15:58:45
独歩様、私の感想如きで大変恐縮です。状況の変化に伴い様々に変更される事はあるでしょうから私如きには何とも判断は出来ませんが、只一つ言える事は聖人御在世中、二度の配流に同行し給仕していた方は日興上人及びその弟子達であり重要な秘書であったのも日興上人であった事は確かです。

131犀角独歩:2007/05/03(木) 08:22:04

通りすがりさん

こちらの決まりですので、「さん」付でお気軽にどうぞ。

> 聖人御在世中、二度の配流に同行し給仕…日興上人及びその弟子達であり重要な秘書であったのも日興上人であった事

日興上人の再評価というのは、近日で観れば、堀日亨さんから、高木豊師、興風談所の評価が日興賞賛にバックするという形で、一部日蓮宗や、学者にもあります。しかし、わたしはこの点は、もう少し、見直す必要があると思います。何より、興風ではなく、蓮風といくのが筋である考えます。

「秘書であった」という点は、遺文収拾や、日蓮漫荼羅への整理、書き込みからも、そうは言えるかも知れません。ただし、弟子6人の構成から考えるとき、日蓮のみならず、兄弟子である日昭・日朗を超えての位置ではなく、この2人に対しても同じく補佐的な役務を担っていたと見るほうが自然ではないでしょうか。

他のスレッドで引用しましたが『御遷化記録』を読めばわかりますが、葬儀の中心者は日昭・日朗です。それを日興は書き付けて記録を作るという関係です。ここから汲み取れる教団の弟子六人は「不次第」としながら、厳然と法蝋の順位が遵守されているということです。

日興以下にとって、不本意であったはずの、身延墓所からの仏(釈迦立像)教(注法華経)の持ち出しを遮ることができなかったのは、このような上下関係が反映していたからではないでしょうか。それがその後、「盗み取る」といった表現に変わるのは、派祖意識の高まりからの変遷であろうと思えます。

132通りすがり:2007/05/14(月) 10:28:39
独歩さんのご見解大変勉強になります。
二人に対しても同じく補佐的役割を担っていた<同感です。弟子の立場からすれば兄・弟の様な関係は大なり小なりあったとは思いますが『不次第』とありますので聖人御在世中、たとえ教学的な理解や精神的な強さ弱さに差などがあったとしても聖人は弟子六人に上下の様な扱いはされていなかったと思っています。しかし日昭、日朗の二人は『宗祖御遷化記録』の『御遺言に云く──』という幾つかの点から見れば遺言をいち早く守らなかった或は守れなかったのではないかと感じます。些細な事かもしれませんが妙法蓮華経宗が分裂してしまった一つの要因として数えられると思います。独歩さんのご意見を聞き『盗み取る』という言い回しはいささか後世の伝言ゲーム的なすり変わり感を持ちましたが事実確認をはっきりと知りたい重要な所であるとは思っています。
聖人滅後の分裂についてはまた違った角度からの論議があるとは思いますがこのスレッドから大分逸れてしまいますので又機会があれば宜しくお願いします。

133天蓋真鏡:2007/05/14(月) 14:45:25
マハーさん、間空いてすいません。日蓮聖人は天台密教を法華一乗に変えたいと定めたはす゛。天台密教に神仏習合が入るなら考えの対象に入ると考えます。神霊等どのように考えていたのか。東大寺、延暦寺の次世代の戒壇を法華経の本源を示す戒壇を立正安国の際に望んでたなら、神宮を改めて建てなくても良い様に感じます。

134天蓋真鏡:2007/05/14(月) 15:24:45
通りすがりさん、犀角独歩さんの遣り取りが一段落着いた様なので。 日蓮聖人が取り敢えず 戒壇堂の代わりに著した修行の道具、三国四師をも表した法華経行者の心「漫荼羅」があれば、相承書や墓守番は要らないのではと思いました。


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