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富士山本門寺について教えて下さい
97
:
しゅんかん
:2007/03/01(木) 14:01:00
独学徒さん
仕事でお返事が遅くなりました事お許し下さいませ。
>文書、文献・・・
〇とは古文書等の事を指されて要るのでしょうが、私はそれらの書は一切拝見致しておりません。(拝見したいのですがまだ出会えません、独学徒さんのHP以外では)
独学徒さんがご存知で無いと云う事ですから日法師作は疑わしいかもしれませんね。私の言は一般に手に入る近現代の書物に依るものです。先に触れましたが、相当数の日法作、祖師像が存在し疑わしいと思っておりました、独学徒さんの考証を了解いたしました上で唯一可能性が池上に在るのかと思ったしだいてす。池上の祖師像はご存知の様に大正14年に稲田海素氏らが胎内品、造立銘を発見され旧国宝になり現在重文ですね。(日法師作であれば重文等にと記されました処に由来します)この旧国宝→重文により日法師作と云う可能性はあるでしょうか?と思ったしだいです、が他方一木三体ですから可能性無しかもと疑問を抱いているしだいてす。
98
:
顕正居士
:2007/03/01(木) 17:02:23
池上の祖師像は祖滅6年に蓮華阿闍利日持などが発願し造立したと銘文にあるそうです。
しかし仏師が誰であったかは不明のようです。これも伝説では日法なのですが、
祖師像はみんな日法で、幾体あるか見当も付きません。池上祖師像の由来はその通り
らしいから、日法が本当に彫刻の名人で作者であったら、彼の名があっても変ではないと
思いますね。
99
:
彰往考来
:2007/03/03(土) 08:39:40
>96
保田妙本寺蔵大石寺正御影について
富士大石寺から持ち去られ保田妙本寺にあるとされる大石寺正御影の資料を紐解いてましょう。
『鋸南町(きょなんちょう)史』(昭和58年(初版:昭和44年、鋸南町)、国書刊行会、492頁)には
「二、宝物
1宗祖御像御丈け二尺六寸木像座像 一体
弘安二年甲州波木井郡山中において弟子日法彫刻、正応元年日興上人駿河国上野郷に移し、ついで、建武元年日郷上人小泉久遠寺に移し、更に暦応五年当山に移した。
正木日記八月十日の条に言う。
「もとは素彫なりしを元禄十五年日賢上人の代彩色を施し、又明治二年に再び施したるものの如し、彩色庸工の手に成りし為にいたく尊厳を傷つけたるはおしむべし」
今本堂に祀る。」
とあり、保田妙本寺では自寺にある御影について
・弘安2年、日法師の作とされること(ホント?)
・正応元(1288)年に上野郷に移されたこと
・日郷師により建武元(1334)年に一旦小泉久遠寺に移され、さらに暦応5(1342)年に保田妙本寺に移された
と主張されていることが解ります。またこの像の大きさは79センチ(二尺六寸)で大石寺の越前法橋快恵による御影は85センチ(二尺八寸)ですから、保田妙本寺の御影は富士大石寺の御影より6センチほど小さいということになります。元禄15(1702)年の日賢上人の代に素彫に彩色を施し眉間白毫相になったと思われますが原型を留めていませんので、はたして本当に古い御影であるのかという疑問もあります。つまり後世のものにすり替わっている恐れすらあるわけです。
ここで、正応元(1288)年に上野郷に移されたとありますが、これは日興上人の身延離山を指すと考えます。日興上人の身延離山は大まかに言って正応元年説と正応2年説があり、『日興上人身延離山史』(昭和52年4版(初版:昭和36年)、富士学林研究科、143頁)や『富士年表』(昭和56年、富士学林、56頁)の正応2年の項などを読む限り富士大石寺では正応2年説です。正応元年説は「正応元年十二月十六日、即ち『原殿御書』を認められた日、或はその直前頃離山された」(『日興上人身延離山史』137頁)というのが一般的ですが、保田妙本寺第14世日我師の「申状見聞」(『富士宗学要集 第4巻 疏釈部〔1〕』昭和53年、創価学会、112頁)に「正応元年12月5日、身延ヲ御離山」とあるように保田妙本寺では正応元年12月5日説のようです。12月5日というのは同日付の「波木井清長の誓状」(『富士宗学要集 第8巻 史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、10頁)を根拠とします。いずれにせよ『鋸南町史』では身延離山の時に御影が上野郷(現在の富士大石寺)へ移されたとしているわけです。弘安2年の作とするならそうなるでしょうが、疑問符がつきます。
100
:
彰往考来
:2007/03/03(土) 08:40:19
>100 の続きです。
さて御影が保田妙本寺に移された時期ですが、『鋸南町史』では建武元(1334)年に一旦小泉久遠寺に移され、さらに暦応5(1342)年に保田妙本寺に移されたとしていました。ところが、佐藤博信氏の『中世東国日蓮宗寺院の研究』(2003年、東京大学出版会、52頁)には、「(御影像が)当時すでに妙本寺に存在したことは、そのお首切れの共切れに、表は題目、裏は暦応5(1342)年に富士(大石寺蓮蔵坊)から安房(妙本寺)に遷座されたことを示す日郷自筆の墨書銘があることからも、明白である。御影像を奉安する御影堂は、同年に創設したと考えられる。以上、鎌倉修郷師の御教示。」とあり御影像は日郷師が暦応5(1342)年に富士大石寺から保田妙本寺に遷座したとしています。日郷自筆の墨書銘が正筆であるなら日郷師が御影を富士大石寺から保田妙本寺に持っていったということになりますが墨書銘が正筆であるかどうかは不明です。いつ誰が持っていったかはともかく、〝大石寺御影〟は現在富士大石寺御影堂にある嘉慶2(1388)年10月13日に仏師越前法橋快恵により作られた等身大の御影像より古いことだけは確かでしょう。
〝大石寺御影〟が鎌倉時代の作であるという説は否定されるというが私の主張で若干考証します。私が〝大石寺御影〟を鎌倉時代のものではないと考えるのは、この御影が強装束(こわしょうぞく)であるからです。
確実に鎌倉時代の肖像画とみられるものに強装束(強衣装ともいいます)は少ない(まずないでしょう)のです。例えば、神護寺に所蔵される「伝・頼朝像」は「鎌倉時代の遺品として極めて貴重なもの」(森暢『鎌倉時代の肖像画』1971年、みすず書房、1頁)とされ歴史の教科書にも載っていましたが、「頼朝像は十四世紀中ごろのもので足利直義が自分と尊氏の肖像画を神護寺に納めたものである」(北脇洋子『日本史のなかの世界史』1998年、三一書房、53頁)と、「伝・頼朝像」は鎌倉時代のものではないという説が現在では有力になりました。北脇洋子氏は同書で「そうすると神護寺にある三像、つまり今までは頼朝・平重盛・藤原光能といわれてきた像は、おのおの足利直義・尊氏・足利義詮の像と変更されることになるが、その根拠などについては米倉迪夫氏の著書(引用者注:米倉迪夫『絵は語る4 源頼朝像 沈黙の肖像画』1995年、平凡社。同書は2006年に平凡社ライブラリーで『源頼朝像 沈黙の肖像画』として再刊。平凡社ライブラリー版は『絵は語る4 源頼朝像 沈黙の肖像画』の第2刷(初版第1刷に若干の訂正を加えたもの)を底本とする)を読むことをお勧めしたい」(『日本史のなかの世界史』53頁)と「頼朝像は十四世紀中ごろのもので足利直義が自分と尊氏の肖像画を神護寺に納めたものである」というのが米倉迪夫氏の説であることを紹介しています。米倉迪夫氏の同書を紐解いてみると、同一時期に描かれたとされる藤原兼経両像のように摂関大臣図では強装束であるのに対して藤原兼経出家後の僧侶図では柔装束(やわしょうぞく)であるなど、所属する社会集団によって差がある(米倉迪夫『源頼朝像』2006年、平凡社ライブラリー、60頁)と指摘されています。つまり鎌倉時代では祖師像を含む僧侶図は通常柔装束なのです。祖師像などの法体像で装束の描き方は、鎌倉時代は一般に丸みがあり室町時代へいくにつれて直線的になるという特徴があります。従って保田妙本寺の〝大石寺御影〟の製作年代が鎌倉時代とは考え難く、作風から南北朝(1336〜1392年)時代か室町時代初期の作品と考えます。“日郷自筆とされる”墨書銘に暦応5(1342)年とあり、この年に保田妙本寺の御影堂がつくられたことから、〝大石寺御影〟が暦応5(1342)年のころの作である可能性もあると考えます。暦応5(1342)年であれば保田妙本寺蔵の〝大石寺御影〟が現在富士大石寺御影堂にある嘉慶2(1388)年10月13日に仏師越前法橋快恵により作られた等身大の御影像より古いという考えとも矛盾しません。
by 彰往考来
101
:
しゅんかん
:2007/03/03(土) 17:30:56
日法師作の御影像の多さに端を発した理由ですが、独学徒さんはじめ、顕正居士さん、彰往考来さん、
のご教示により日法師作の御影像は現在の処、一つも存在し得ないとの説、一々に納得致しました
しだいでございます。
独学徒さん、
>「不動愛染感見記」が文化財・・・
〇「大変勉強になりました」
>文書なり文献なり・・・
〇「とは、文書なり文献なりをもって論じなさいと解釈いたしました、勉強させて頂きました
有難うございます。」
顕正居士さん、
>彼の名があっても・・・
〇私も同感です。刻まれているだろうと思っていました。
彰往考来さん、
>身延離山の時に御影が上野郷(現在の富士大石寺)へ・・・
〇「七七日御仏事御入堂之れ在り」が身延離山時の御影にあたると思うのですが石山がどの様に
云っているのか私にはまだ答えが見出せていません。
>御影が強装束・・・
〇なるほど、この時代による差異は多くの事柄で見てとる事が出来ますね、建築、焼き物
図画、織物等。見識の深さに驚くばかりです。
独学徒さん、顕正居士さん、彰往考来さん、私の初歩的な疑問に懇切丁寧なご教示を戴き
ありがとうございました。
「独学徒さんに於かれましては、私のミスに付いても訂正ご教示を入れていただき
恐縮しております」
管理人さんはじめ皆様方、この板は「富士山本門寺について教えて下さい」でありました、
日法師の御影を長く論じた事をお詫びいたします、大変申し訳ございませんでした。
102
:
鳥辺野
:2007/03/04(日) 21:25:57
彰往考来さん
>強装束
なるほど、そういった点で室町時代作と。私は不勉強なもので弘安二年は無くとも、正応元年造立くらいなのかな?等と思っておりました。大変勉強になりました。ありがとうございます。どうぞこれからも御教示ください。
103
:
独学徒
:2007/03/04(日) 22:23:37
彰往考来さん、
鳥辺野さん、
強装束について、資料が手元に無いので、ネットでググッてみました。
以下のHPの記述などは、彰往考来さん御紹介の論考とは違った見方のようです。
http://www.pref.chiba.jp/syozoku/e_bunka/bunkajyouhou/bunkaisan/choukoku/choukoku/sirahama24.html
本文中に「強装束は平安時代末にあらわれ、鎌倉時代に普及した。」とあります。
このような考えですと、むしろ「強装束」は鎌倉時代作成の可能性が高いといえますね。
但し、保田の御影が眉間白豪相であることを考えれば、宗祖在世中の作成は無いだろうと思います。
平賀の「本地白毫高祖尊像」の云われのように、首から上だけ古くから伝わる地蔵菩薩等の仏像から取ったというなら話は別ですが。
104
:
鳥辺野
:2007/03/04(日) 22:54:49
独学徒さん
有難うございます。それにしても・・・。これは私の個人的な意見となってしまいますが、「宗祖在世中造立」というのはやはりおかしいと思います。蓮祖は誰よりも久成の釈迦佛を大切に思われた方です。それを差し置いて自分の像を造って奉れ、はないと思います。あるとすれば日興師や日朗師をはじめとした弟子たちの時代ではないでしょうか?蓮祖ほどの方なら「そんな物造る暇あったら法華経広めてこい!」と言われそうですが(笑)日興師らは大本門寺建立の時法華経を広めた功労者として本堂に崇拝の対象として安置しようとしたのではないかと思います。尚私個人的には御影像安置派ですので本堂、仏壇等に御影は有って良いと思います。
105
:
れん
:2007/03/05(月) 07:37:31
横レス失礼します。
身延の日蓮御影の件ですが、日蓮遷化後すぐの造立に関しては、直弟子の記録には無いので後世の伝説に過ぎないと思います。
日順雑集には「身延山には(中略)聖人御在生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり」とあり、「日尊上人御一期図」によると日蓮三回忌には身延に御影堂が建立されていたことが知れるので、日順雑集と合わせて考えますと、日蓮の住房を日蓮遷化後に御影堂に作り替え、その中に安置した日蓮御影の建立の願主も日興であることが分かります。この御影が保田妙本寺の正御影とするのが、同寺学頭の鎌倉日誠師の御見解と思います。
日法作の日蓮御影としては岡宮光長寺所蔵のものは日法作として信用出来るのではと思います。
106
:
鳥辺野
:2007/03/07(水) 00:50:39
れんさん
>岡宮光長寺
同寺の二世は日法師ですものね。
107
:
れん
:2007/03/08(木) 10:20:21
鳥辺野さん
岡宮光長寺蔵の日法師作と伝承されている蓮祖御影は美濃氏の著書に写真が掲載されていたと記憶しております。大変素朴な感じの木像で、こちらは日法師の物かもしれないと思いました。
108
:
鳥辺野
:2007/03/10(土) 14:46:46
れんさん
蓮祖の御影(画像も含めて)ってひとつとして同じような物が無いですよね。もしかすると最初に造られたものは本当に素朴な造りだったのかもしれませんね。
109
:
れん
:2007/03/10(土) 19:34:45
鳥辺野さん
木像を見るかぎり、正直いいまして、それぞれ違うというのが印象ですが、絵像で言えば、先ずは中山法華経寺の御影でしょうか?石山の鎌倉末期の御影や讃岐本門寺の御影も顔形が似たりよったりですから、これらの古い御影の絵像から推測する限り蓮師は丸っこい顔付きの方であったろうというのが個人的な感想です。
興師は正応元年(1288)の原殿書で「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人奉書候へとも、未た木像は誰も不奉造候」と本門本尊が久成仏であることを示されておりますが、興師直弟では「戒壇安置は漫荼羅の図の如く仏像安置」に変容し、さらに室町中期頃には富士門僧が言うところの本門本尊が久成仏から蓮師御影に置換されています。
富士門流において日蓮御影が本門本尊とされていった裏には、素朴な祖師信仰の継承と、富士門僧が仙波等で摂取したであろう中古天台の「本因妙修行とは常不軽の立行也」(玄義私類聚)「俊範御義に云わく、釈尊の本因の行とは不軽菩薩也」(等海口伝抄)といった思想から蓮師の「日蓮は是れ法華経の行者也。不軽の跡を紹継するの故に」(聖人知三世事)等の自覚を再解釈していき、久成仏の因位名字即の姿を蓮師の相に観るに至り、日蓮御影本尊という考え方に行き着いたものと愚考しております。
110
:
鳥辺野
:2007/03/10(土) 20:28:58
れんさん
私は中山の絵像の表情は保田妙本寺の御影の顔に似ているという印象を受けました。と云うより、彰往考来さんが99で説明されたように、妙本寺が大石寺御影を元禄十五年と明治二年に彩色を施した時、中山の絵像の顔に似せて化粧をしたのでは?と私は思いました。
>本門本尊が久成仏から蓮師御影に置換
その件私も同感でございます。
111
:
彰往考来
:2007/03/10(土) 21:25:02
>107 れんさん
美濃氏の著書にある写真を富士教学研究会
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/1/11/
に投稿しましたので参考にしてください。
彰往考来
112
:
彰往考来
:2007/03/11(日) 17:24:38
>103 独学徒さん
強装束について富士教学研究会の談議所
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html
#TH_ST11
に私の所見を投稿しました。
管理人さまへ
本来ならばこのスレッドに所見を投稿すべきですが、画像を添付したほうが理解しやすいので独学徒さんの談議所に投稿しました。ご了解ください。
彰往考来
113
:
れん
:2007/03/11(日) 19:32:52
>110 鳥辺野さん
保田の正御影が江戸時代・明治時代に彩色が施されたとのこと、案外、鳥辺野さんの仰るように、中山の絵像の御影の彩色を参考にされた可能性はあると私も思いました。
>111 彰往考来さん
ご教示有難うございます。光長寺の御影も江戸時代ですか…。としますとやはり確実に日法師の“彫刻”にかかる御影というのは存在しないということになりますね。やはり日法師が彫刻の名手という伝承は所謂伝説の域を出ないということになりますね。
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