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六巻抄について
1
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バックアップ
:2002/02/19(火) 20:21
1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/15(火) 22:12
名前: 独歩 投稿日: 2002/01/15(火) 21:44
さて、六巻抄の発題をさせていただきます。
「六巻抄は何を説こうとしたのか」
まず、この点をフリーハンドで論じ合いたいと思います。
2
:
バックアップ
:2002/02/19(火) 20:22
234 名前: tokumei 投稿日: 2002/02/15(金) 02:06
もう一つ。
自然界にある素因数の暗号化では、17年蝉(ジュウシチネンゼミ)が有名です。この蝉は地中で17年を過ごし、やっと羽化して寿命を全うするのですが、なぜそんなことをするのか今以て不明です。ある説では、寄生虫を避けるためとしています。ここに、蝉を狙うライフサイクルの長い寄生虫が居るとして、地中に発生する時期をずらさなくてはなりません。寄生虫のライフサイクルが2なら、蝉は2の倍数を避けて地中に出ようとします。或は発生しようとします(つまり交尾)。最良の策は、割り切れない長い素数の年月を過ごすことです。17はどの数でも割り切れないので、寄生虫のライフサイクルが仮に2年としても34年間は同時発生することがありません。また、寄生虫はこの蝉に合わせようと毎年発生したとすると、16年間は顔を合わせないで待たなければならない。16年間、宿主のない寄生虫が生き延びるのは大変なことです。
そこで、ある時期にライフサイクルを17年に合わす可く、引き延ばし進化し続けて、16年になったとします。ところが16かける17では272年間は顔を合わすことがないのです。どちらにしてもこの寄生虫は絶滅したことでしょう。
さて、私はこの無始から始まっての数と立宗の750年が何か関連がないかと期待しています。
3
:
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:2002/02/19(火) 20:22
235 名前: Libra 投稿日: 2002/02/15(金) 02:27
独歩さんへ
> やはり、反論されましたか。当然でしょうね(笑)
申し訳ありませんでした。つい書いちゃいました(笑)。
> 実際、その実否はとことんやると六巻抄見直しスレッドからはみ出ますので、
> まあ、やめましょう。
了解です。このスレッドのせっかくの話の流れを、私がおかしくしてしまっ
たようですね。申し訳ありません。
> 229については、少し休んでから後述します。
私ごときの愚考などは捨て置いて、本題の方を進めちゃって下さい。
4
:
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:2002/02/19(火) 21:12
236 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/16(土) 10:13
Libraさん:
> 仰りたいことは分かります。「相即」とか「空」とかいう考えは、正しく使
わないと、すぐにとんでもないことになってしまいます。
そう思います。
> タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)
これはなかなか面白かった。タントリズムが仏教の最終形態でありながら、先祖帰りを通り越して批判しそうに戻ってしまい、ついには仏教とは言えないものになったという批判は、インド学などでも言われていたと記憶しています。なにせバラモンでは、司祭が祈りをやめると太陽も昇らなくなると人々は怯えていたし、死後、祈りを捧げられないと餓鬼となって、さ迷い歩くことになるなどと恐れられていたと言います。ですから、司祭は絶対的な存在で、崇められ恐れられすべてを委ねていた…、学会にいたとき、「先生に逆らうと地獄に堕ちる」と言われていて、石山に来たら「猊下に逆らうと地獄に堕ちる」と、こうなりました。この根源はブラフニズム的宗教観という似非仏教にあったのでした。曼荼羅はタントラですから、これを本尊と言ってしまえば、こういう誤謬は自動的に引き出されていくことになるでしょうね。
> 「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
これも言えています。漢訳の問題、さらにインド人と中国人の根本的な思惟形態の違いも大きな原因にあるのでしょうね。さらに日本には日本教ともいうべき「カミ」という思想が生き続け、神道、仏教、キリスト教という宗教のなかに大きく生き続けています。この“引き算”をせずに語られることが余りに大きいわけでしょうね。
いちりんさんのサイトなどを拝見すると、しかし、こんな問題意識をもたれた方がいらっしゃるので、見識のある方は、やはり気付いていると思うわけです。
縁起・空という言葉を使えば大乗仏教だ、ではなく、その根本的な思惟が板につかないとだめだということでしょうね。しかし、「空」は本当にむずかしいですね。第一、「空」と文字に書いた瞬間、言葉で説明した瞬間に実在化が生じてしまうわけです。
> しかし、だからと言って、「空とか相即などと言うのはやめよう」と言うわ
けにはいかないと思うのです。重要なのは、「相即」とか「空」とかいう考え
を〝正しく使う〟ということではないでしょうか。
そうですね。「言語道断・心行所滅(原語の道を断ち、心の業を滅するところ)」という限界を常に意識していくこと、まあ、厳格には正しく使えないという限界をまず知ることでもあるでしょうね。それでも正しく使おうと努力するしかありませんね。
> 「報身」についても同じように考えます。
ここは、まあ今後ともゆっくりと(笑)
> 〝真理は「無始無終」であるが、ただ真理があるだけでは「仏」はまだ存
在しない。「真理」を「智慧」としてさとって、衆生を導く存在が出現
した時に「仏」はこの世に誕生するのである〟
Libraさんの常套句ですね(笑)
これがまた、無始のうえに五百塵点が置かれる意義であると考えています。
> つまり、「真理」が「法身如来」になったのは、それを「智慧」としてさとって、衆生を導く存在である「仏」が出現した時点であると。
言われることは、わかるような気がします。すると、法性、真如と法身は違うということでしょうか。
>> 難しいことを書くこと自体、もう罪悪視するような傾向があります。
> これは実感としてとてもよく分かります(涙)。
仕様がないと思うわけです。釈迦滅後1000年(聖人の考えでは1500年)部派によって構築された膨大な概念を、さらに中国仏教の誤謬を、さらに日本教の混入を、さらには中世の汚染を、さらに現代思想の混入を選別していこうとするわけですから。まして法華経は難解難入といい、学ぶのに難信難解でありながら、随自意というのでしょうから。しかし、Libraさんもお感じになられると思いますが、この思惟は、実に興味尽きるものではなく、そして、楽しく、思惟するほどに心洗われ、わかるほどに元気の出る作業ですね。私にとっては生きがいです。
> 私ごときの愚考などは捨て置いて、本題の方を進めちゃって下さい。
何をおっしゃいますか。よろしくお付き合いいただければと存じます。
5
:
バックアップ
:2002/02/19(火) 21:13
237 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/16(土) 10:18
tokumeiさま:
数学から相承までですか。また、深秘を記号と。構造主義のようで興味が涌きます。
私の尊敬するある方は、当初、仏教を学んだけれど、さらに知りたくなって精神医学に転じました。その方の仏教の説明は実に説得力があります。
数学で仏教が説明できるとしたら、これはまさに永遠の真理たりえるでしょうね。思惟を期待します。
6
:
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:2002/02/19(火) 21:14
238 名前: 無明 投稿日: 2002/02/17(日) 10:11
独歩さま
ありがとうございます。
寛師説を聖人・天台の祖意から見直すという本来の目的感から自ら脱線してしまいました。ややこしくなるので、これらの点はまとめてあとで考えたいと思いますが、いかがでしょうか。
仰せのとおりです。六巻抄の見直しが主題ですので他日御高見を拝聴いたしたいと心から願います。
三五の問題で三は因位をあらわし、五は釈尊の果位をあらわしているとみれないでしょうか。六或示現ではとも思うのですが。
これは、どうでしょうか。的外れの応答しないために、もう少し詳しく再掲していただけますか。
三五の問題で三は因位をあらわし、五は釈尊の果位をあらわしているとみれないでしょうか。六或示現ではとも思うのですが。
これは、どうでしょうか。的外れの応答しないために、もう少し詳しく再掲していただけますか。
浅学でありますので、定見がないため、北川師の考えを記します。
「法華取要抄」には、三者三千塵点劫。諸京経或明。釈尊因位或三祗。或動喩塵劫。或無量劫也。 略 又諸仏因位与釈尊因位糺明之。諸仏因位或三祗或五劫等。
釈尊因位既三千塵点劫巳来。娑婆世界一切衆生結縁大士也。此世界六道一切衆生他土他菩薩有縁者一人無之。
これについて、北川師は「日蓮聖人教学の研究」で、過去三千塵点劫における釈迦菩薩と我々と法華経を媒介として必然的な関わりがあることを述べられ、釈尊が菩薩という因位において我ら衆生に法華経の縁を結ばれた 中略 本門寿量品において釈尊の果位として五百塵点劫が明かされる
によったものを省略して記載したものでした。
「清澄寺大衆中」は身延曽存で石山系では真蹟に数えますが、他門下では別れています。やや慎重に扱いたいところですが、この文の「我」と「先」が何を意味するのかが問題になります。けれど、常識的に読めば寿量品の「我」、つまり、釈尊です。では「先」を“(五百塵点)以前”と読めば、無始古仏と整合性を示すことになりますでしょうか。
北川師は真跡主義をとられていると思います。曾存も含むという意味でもあります。
ここで北川師は、同遺文を踏まえ、「これらのことから聖人は五百塵点劫を始めがあり終わりがあるという常識的時間観念でとらえられていたのではなく、久遠無始と解釈されたのである。そのことを「開目抄」には発迹顕本によって釈尊の本因本果が明らかにされた次下に
九界も無始の佛界に具し、佛界も無始の九界に備わりて、真の十界互具、 一念三千なるべし
と断定されている。これは聖人が顕本された時間を久遠無始という観念で把捉されていたと推測できる。したがって五百塵点劫の意味は顕本の本、無始と同義に解釈されるべきものであろう。」と記載されています。
7
:
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:2002/02/19(火) 21:15
239 名前: 無明 投稿日: 2002/02/17(日) 10:36
独歩さま
つづき
久遠無始と解釈するのはよいのですが、では逆に、ならば法華経では、ここに敢えて五百塵点という表現を用いなければならなかったのでしょうか。
そうです。ここがまさにポイントです。独歩さまが御高見の一端を披瀝されましたので、浅学である私は、浅井麟師の論文、北川師の本では把握の仕方が異なるので、両氏の考えに対して是非とも独歩さまの卓見をお聞きしたいという趣旨で記載させていただいたものです。
無始の古佛という言葉は聖人に始まる用語ではないでしょうか。是非、日蓮教学の学識者の通説に対する独歩さまの御高見を批判的にお示しいただけるとありがたいです。
報中論三については、独歩さまの考えが正しいのかも知れません。要麟師は天台教学を踏まえた通説的説明をされていますが、独歩さまの仰せのように聖人にはそこまでのお考えはなく三身円満の釈尊というお考えだったとも思います。
聖人は「寿量品の仏」を正意の本尊とみなされ、三身ともに無始無終の佛格とみなされていた、それが久成三身すなわち無始無終という「一代五時鶏図」のお考えだったのでしょう。
すみません。私の定見がなく参考文献の引用になってしまっていまして。
無始の古佛と己心の釈尊が同一か異同があるのか。そこのところを独歩さまの考えを中断させてしまいまして、申し訳ありませんでしたが、ここのところを平易にご説明願えれば幸甚です。
8
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バックアップ
:2002/02/19(火) 21:16
240 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/18(月) 14:56
無明さま:
> 無始の古佛と己心の釈尊が同一か異同があるのか…ここのところを平易…
端的に申し上げれば、この点を聖人は明確にされなかったのではないでしょうか。
もしかすれば、極一部のお弟子には明かにされておられたのかもしれません。しかし、確実な資料でそれを知ることができないのが現状です。
古仏について真蹟から拾えば
・三身円満の古仏(開目抄下)
・無始古仏(本尊抄)
・過去古仏
の三点のみです。無始無終の三身円満をもって古仏と記されていることはわかります。私自身は五百塵点成道の釈尊を本尊、無始の古仏を三身円満であると考えるのです。しかし、実際のところ、計り知れない過去にそのような仏が“居た”と言った実在性を議論すべきではなく、法華経の文から本尊を選定し、さらに三身古仏を己心法の中に観ていくことを聖人は記されているのではないのかというのが一応、結論です。
極端なことを言えば、永遠の過去に仏が居たか居無いかという実在論、いわば有論に執して論ずるべきではないのではないのかという思いもあります。
一念三千という止観によって観る仏法界は、しかし、印度応誕で観るべきではなく、五百塵点の成道の仏と観、さらに無始三観円満古仏を観法したという聖人の思惟が披瀝されたものであるいうのが私の現段階の結論です。
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