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大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう
1
:
大室寅之スレ
:2003/02/25(火) 21:14
とりあえずさあ、2年がかりで2ちゃんネラー全員でまとめたから
こっち↓先に読んだらいいよ。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2315/
↑
上に書いてない事補足したら睦仁は殺されたのではなく1867年7月に御所の政治
を投げて中川宮にまかせて自分は中山忠能邸に引っ込んだんだって。
1868年1月の戊辰戦争まで京都明治天皇は生きていたし大室寅之祐
の方は大阪湾に停泊している船上に鳥羽伏見の戦いの時はいた。
薩長がかったから1868年1月15日に大室が京都御所に明治天皇として向かいいれられた。
一方睦仁の方は倒幕派がもっともきらい睦仁にとってもっとも安全である場所
、比叡山の寺に1868年1月はいり、維新後も僧として生き延びた。(伊藤博文の孫)
大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう
大室寅之スレ
明治天皇に関する情報 お持ちの方はぜひHPの掲示板に書き込んでください。
↓
http://chance.gaiax.com/home/asdthkou/main
明治維新とは要するに後南朝奇兵隊革命のことで田布施の奇兵隊の足軽を伊藤博文が
明治天皇として擁立した事で維新後にその事実を政府が隠蔽したこと。
http://www.asyura.com/2002/dispute4/msg/103.html
即位当初の少年京都明治天皇(写真)
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html
睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)に
は罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。
即位後(明治天皇時代)1868年1月15日からの明治天皇(写真)
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、
口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソ
ーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を
生やされた。明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。
2
:
大室寅之スレ
:2003/02/25(火) 21:26
テスト
3
:
大室寅之スレ
:2003/02/26(水) 02:15
「明治42年に伊藤博文が暗殺されたが、その翌年に南北朝いずれが正系かという史論が生じたときに、明治天皇は自ら乗り出して南朝正系論を正しいとした。
しからば、孝明天皇までの北朝は偽朝であるということになる。」
「昭和四年二月、宮内大臣田中光顕が「実は明治天皇は孝明天皇の子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新というときに急に殺されて崩御になり、世間には、明治天皇は孝明天皇(北朝系)の皇子であり、母は中山大納言の娘、中山慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお育ちになったということになっており、御名を睦仁親王といい、父である孝明天皇崩御と同時に直ちに大統を継いだことになっているが、実は、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇(南朝系)の第11番目の皇子光良親王の子孫で、長州萩で毛利氏が守護してきた。薩長連合には、この南朝の末孫を天皇にすると言う密約があり、これが王政復古御一新を志した勤皇の運動である。」と述べている。
このすり替わった人物が、周防麻郷村麻里府(現山口県田布施町麻郷)に住んでいた大室寅之祐=明治天皇であった。
これを知っていた安政、万延、文久生まれの老人たちは、明治天皇のことを奇兵隊天皇と呼んでいた。 (このことは近衛文麿、李方子、岸信介首相なども知っていたようだ)」
4
:
大室寅之スレ
:2003/02/26(水) 02:20
「孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。
そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。
彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。
大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。
大室寅之祐と、殺害された睦仁親王(孝明天皇の実子)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。
大室寅之祐(明治天皇)と睦仁親王は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。
寅之祐は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲が得意だった(もと、力士隊にいたから当然か)。
睦仁親王は女のように華奢で病気がちで、乗馬ができなかった。
寅之祐は達筆だったが、睦仁親王は字が下手だった。
睦仁親王は幼時、種痘をしたはずなのに、寅之祐の口の周りには5,6個の痘痕があった。
これほど著しい違いがあったにもかかわらず、その正体がばれなかったのは、この時代天皇と接触するものはごく少数の側近だけだから、側近の口さえ封じれば誤魔化せたのである。側近も、優遇されれば生命の危険を冒してまで国民に真実を明かす必要はなかった。生活第一だから。
「忠節なる臣民」とか「赤子」とかおだてられながら牛や豚のように酷使され、鉄砲玉となって戦争の犠牲になった人々は、国家のために死んだのではなく、天皇暗殺という”大逆罪”を犯した伊藤博文の隠蔽工作の犠牲者なのである。」
5
:
大室寅之スレ
:2003/02/26(水) 02:46
「大室寅之祐の弟、庄吉(1853〜1926)の孫、大室近祐(1905〜1995)は祖父庄吉から聞いた話として、
「わしが12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」
という。
石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。
このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。『明治維新の生贄』(鹿島、宮崎、松重 共著)新国民社刊 によると、
北朝の孝明天皇父子を暗殺し、後醍醐系の南朝の後裔を擁立して王政復古を図ろうというプランを最初に考え出したのは、大日本史編纂グループを中心とする水戸藩主斉昭、水戸藩勤王党の藤田東湖、会沢正志斉らと、斉昭の子の慶喜であり、
また「成破の約」によって協力を誓った長州藩の吉田松陰が主宰する松下村塾のグループであった。
南朝の後裔と自称する熊沢天皇を推す水戸勤王党の行動派は、元治元年三月、藤田小四郎らに率いられて筑波山に挙兵したが、すでに将軍後見役として登用され、幕政の中心に坐った一橋慶喜に裏切られて処刑された(天狗党の乱)。慶喜はこのときの裏切りで志士の信用を失い戊辰戦争では朝敵にされた。
南北朝時代、九七代後村上天皇の末子で兵部卿の師成親王は南朝の吉野から逃れて堺の城に籠城していたが、城主大内義弘が挙兵した応永の乱(1399)のとき足利義満に攻められて義弘が敗死したため、その弟の弘茂は義満と和睦して残兵をまとめて船で本国へ引き揚げた。
このとき、九六代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王とともに乗船して周防へ下向した。
船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市)の地頭曾我兄弟が居たから、これと話し合って光良親王を揚井津で下船させた。
光良親王は曾我兄弟の世話で、古代長門水道(柳井水道)の名所、麻里府の熊毛郡麻郷村大室に館を構えて住みついた。
親王は世を忍ぶために姓を大室と名乗り、石城山の朝鮮式山城を聖城とする、曾我(長尾)氏と大内氏に護られて、南朝の皇統を連綿と伝えたのであったが、それより約四六〇年ののち二三代目(?)の大室寅之祐を、「南朝の後裔」として世に出そうとしたのが、忍者頭であった中忍の吉田松陰であった。
ちなみに師成親王は、弘茂と共に三田尻で下船して山口に到り、滝の法泉寺(現山口県庁北)に入るや直ちに剃髪して笠源恵梵となって義弘の菩提を弔いながら弘茂やその兄の盛見らに和歌の道を伝授して世を去った。
大室家がある麻郷村(田布施町)と林利助(伊藤博文)の出身地束荷村(大和町)は隣村といえるほど近くであったから、松陰は最初から、大室家との連絡係を伊藤に命じていたのであろう。」
6
:
大室寅之スレ
:2003/04/25(金) 00:24
お気に入りのサイト
即位当初の少年京都明治天皇(写真
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html
◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真)
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html
萩にマンジュウつくりにいってくると寅之祐(当時寅吉 数え16歳 1850年1月10日生れ)
が麻郷で行方知れずになったのが1865年1月。
マンジュウつくりに行くとは死体の山を築くと言う意味。ようは人きりしに行くという意味で
功山寺挙兵の意味。(詳しくは功山寺挙兵後の1865年1月になるが。。)
高杉が長州藩の主導権握ったのが1865年2月。
大室寅之祐は伊藤の子分で奇兵隊の力士隊の足軽だった。
1868年1月10日に睦仁が比叡山の寺に入った。
鳥羽伏見の戦いで勝ったから1868年1月15日大室寅之祐が明治天皇に即位。
睦仁は1867年1月に明治天皇に即位してたのに
7
:
大室寅之スレ
:2003/07/28(月) 01:33
実は全く別な方面からの資料があり、
大室寅之祐=明治天皇説には全面的に賛成ですが、
内容を公開することは、大変に難しいです。
とりあえず、世論が沸き立つその日まで、
地道にやっていくしかないと思ってます。
8
:
大室寅之スレ
:2003/07/29(火) 02:13
>>7
実は大室寅之祐は南朝の末裔大室弥兵衛の息子などではなく、
廻船業者 地家作蔵(岩崎弥太郎のような大物キャラの)の息子
だといいたいわけ???
9
:
大室寅之スレ
:2003/08/06(水) 01:10
>>8
全く違う資料群とだけ・・・
今は如何に世論を沸騰させるかですよ。
10
:
大室寅之スレ
:2003/09/05(金) 14:51
天皇家の苗字は地家です。
山口県田布施町麻郷地家出身だからです。
地家寅吉がかぞえ5歳の時、父地家作蔵が離婚し
母 スヘについて行きました。その年に後南朝の末裔
大室弥兵衛とスへが再婚いたしました。だから地家寅吉
は大室寅吉となりました。
1867年10月下旬行方知れずになっていた寅吉は大室寅之祐
と名を改め京都から麻郷に亡命するため1度は故郷田布施町
に帰ってきます。
薩長の軍隊を麻郷に集め王政復古の大号令を1867年12月9日に
麻郷村井神の高松八幡宮で岩倉らとしめやかに執り行い
1868年1月に京都に向かって鳥羽伏見の戦い後、薩長勝利
によって
1868年1月15日京都御所で大室寅之祐を明治天皇と改め
そこから先は史実どおりです。
大室寅之祐は元奇兵隊の足軽で伊藤博文の力士隊に所属
していましたから伊藤は明治天皇の上司でした。
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