[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
| |
大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう
5
:
大室寅之スレ
:2003/02/26(水) 02:46
「大室寅之祐の弟、庄吉(1853〜1926)の孫、大室近祐(1905〜1995)は祖父庄吉から聞いた話として、
「わしが12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」
という。
石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。
このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。『明治維新の生贄』(鹿島、宮崎、松重 共著)新国民社刊 によると、
北朝の孝明天皇父子を暗殺し、後醍醐系の南朝の後裔を擁立して王政復古を図ろうというプランを最初に考え出したのは、大日本史編纂グループを中心とする水戸藩主斉昭、水戸藩勤王党の藤田東湖、会沢正志斉らと、斉昭の子の慶喜であり、
また「成破の約」によって協力を誓った長州藩の吉田松陰が主宰する松下村塾のグループであった。
南朝の後裔と自称する熊沢天皇を推す水戸勤王党の行動派は、元治元年三月、藤田小四郎らに率いられて筑波山に挙兵したが、すでに将軍後見役として登用され、幕政の中心に坐った一橋慶喜に裏切られて処刑された(天狗党の乱)。慶喜はこのときの裏切りで志士の信用を失い戊辰戦争では朝敵にされた。
南北朝時代、九七代後村上天皇の末子で兵部卿の師成親王は南朝の吉野から逃れて堺の城に籠城していたが、城主大内義弘が挙兵した応永の乱(1399)のとき足利義満に攻められて義弘が敗死したため、その弟の弘茂は義満と和睦して残兵をまとめて船で本国へ引き揚げた。
このとき、九六代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王とともに乗船して周防へ下向した。
船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市)の地頭曾我兄弟が居たから、これと話し合って光良親王を揚井津で下船させた。
光良親王は曾我兄弟の世話で、古代長門水道(柳井水道)の名所、麻里府の熊毛郡麻郷村大室に館を構えて住みついた。
親王は世を忍ぶために姓を大室と名乗り、石城山の朝鮮式山城を聖城とする、曾我(長尾)氏と大内氏に護られて、南朝の皇統を連綿と伝えたのであったが、それより約四六〇年ののち二三代目(?)の大室寅之祐を、「南朝の後裔」として世に出そうとしたのが、忍者頭であった中忍の吉田松陰であった。
ちなみに師成親王は、弘茂と共に三田尻で下船して山口に到り、滝の法泉寺(現山口県庁北)に入るや直ちに剃髪して笠源恵梵となって義弘の菩提を弔いながら弘茂やその兄の盛見らに和歌の道を伝授して世を去った。
大室家がある麻郷村(田布施町)と林利助(伊藤博文)の出身地束荷村(大和町)は隣村といえるほど近くであったから、松陰は最初から、大室家との連絡係を伊藤に命じていたのであろう。」
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板