したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

大中華世界的話題(その3)

444チバQ:2020/04/12(日) 22:41:52
https://news.yahoo.co.jp/articles/130f03950b8663869d8a8624c2aa293a4a3a73f8
岐路に立つ台湾の国民党の「親中」
4/12(日) 15:00配信


 台湾の最大野党・国民党の主席(党首)に3月9日、立法委員(国会議員)の江啓臣氏(48)が就任した。中国に対する台湾人の警戒感が強まる中、江氏は対中政策を見直し、「親中」イメージの払拭(ふっしょく)を目指す方針だ。だが新たな国民党像を示すのは容易ではない。国民党の立て直しが難しいのは、中国大陸で結党された歴史的な経緯と近年の社会の変化が大きく影響している。【台北特派員・福岡静哉】

 ◇「中国人アイデンティティー」の政党

 江氏は3月7日に投開票された主席の補欠選挙で大勝し、国民党本部で同9日、就任式が開かれた。江氏は「国民党は100年にわたる深遠な歴史と、確かな政権運営の経験がある」と歴史に思いをはせた後、「党は現代化を図らねばならない」と決意を語った。会場となったのは国民党の生みの親である孫文(1866〜1925年)の別名から名付けられた党本部1階の中山ホール。江氏の後ろには、孫文の肖像と「革命いまだならず」という遺言が掲げられている。

 孫文は1911年、辛亥革命を主導して清朝を倒し、「中華民国」を南京で建国した。国民党は、孫文が1919年、前身の政党を改組して結成した。現在は台湾に拠点を置く国民党だが、結党の原点は中国革命の実現にある。現在も正式な党名は「中国国民党」。3月12日に没後95年を迎えた孫文は今も、党の精神的支柱となっている。

 孫文の死後、蔣介石(1887〜1975年)が率いる国民党は、第二次世界大戦後の内戦で中国共産党に敗れた。蔣介石は100万人以上の党幹部や兵士、その家族らと台湾に逃れた。台湾で独裁統治を始め、日本統治時代(1895〜1945年)を生きてきた台湾人に中国人としての教育を徹底した。国民党は「中国人」アイデンティティーを基礎とした政党と言える。

 ◇「反中共」から一転、融和へ

 「大陸反攻」を掲げる国民党にとって、共産党は不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だった。だが蔣介石は75年に死去。80年代後半になって民主化が進み、李登輝氏が総統だった96年に初めて直接選挙による総統選が始まった。2000年には民主化運動の一翼を担った民進党が初めて政権を取り、国民党は下野した。

 国民党が大きな路線転換をしたのはこの野党時代だ。05年、国民党の連戦主席(当時)は、共産党総書記だった胡錦濤国家主席(同)と会談。「1992年コンセンサス」に基づき両岸(中台)の対話を再開▽敵対状態の終結と平和協議を促進▽両岸の経済交流促進▽両党の定期的な意思疎通の場の創設――などで合意した。台湾統一を目指す共産党の思惑と、急成長する中国経済の恩恵を台湾にもたらすことで政治力を高めたい国民党の利害が一致した結果と言えるだろう。

 92年コンセンサスとは、国民党と共産党の窓口機関が92年に口頭で達したとされる共通認識を指す。そのポイントは、中国と台湾が「一つの中国」に属することで一致した点だ。一つの中国を統治する主体について共産党は「中華人民共和国」との立場を取り、国民党は「中華民国」だと解釈した。国民党の馬英九政権(08〜16年)は92年コンセンサスを基礎に中国との関係を急速に改善。人的交流や経済一体化を進めた。

 台湾統一を目指す中国の習近平指導部は、台湾の政権が92年コンセンサスを認めることを対話の絶対条件としてきた。16年に発足した民進党の蔡英文政権は92年コンセンサスを認めない立場のため、習指導部は蔡政権にさまざまな圧力をかけ続けている。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板