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大中華世界的話題(その3)

2162チバQ:2022/08/04(木) 19:18:38
 最初は大統領との同行に勇んで出かけたが、週1回の会見をはじめアクセスする機会がいくらでもあるので正直、質問もさほどなくなってくる。そのうち週末に予定が入っていると、大統領からの誘いを断ることさえあった。今から思えば、失礼かつ贅沢な話である。

 茶目っ気もあった。マルコス一家追放が決まった瞬間に飛びあがって喜んだ様子を再現するお決まりの「エドサジャンプ」を毎年2月25日の「革命」記念日で披露した。ドゥテルテ前大統領のように暴言や突拍子もない発言をするわけではなく、記者とのやりとりはさほど面白みのあるものではなかったが、時におやじギャグも発していた。

 ジャーナリストにとってフィリピンは当時、ありがたい国だった。大統領がこれだから政府高官や国会議員らもマスコミの取材に寛容だった。

 国際報道の経験などまったくなく、「事件の多い国だから」という理由で大阪の社会部からいきなり特派員となった私にとって、外国の政府というのはこうした記者対応をするものだと思っていたが、とんだ勘違いだった。その後、フィリピンでもこれほど胸襟を開いた大統領はおらず、当時はアジアの他国と比べても透明度は極めて高かった。

■阪神・淡路大震災時には率先して寄付

 大統領就任時のフィリピン経済は、ピナトゥボ火山の噴火などの災害や政情不安でどん底の状態だった。「アジアの病人」と呼ばれ、停電は毎日数時間続いた。ラモス氏は「開発独裁に頼らぬ発展」を掲げ、国営企業を相次いで民営化し、外資を積極的に導入した。発電所建設に力を入れて落ち込んだ経済を立て直した。イスラム反政府勢力や共産勢力との和平にも尽力した。

 午前4時に起きて新聞をチェック、切り抜きに指示を書き込んで部下に渡す。毎朝のジョギングを欠かさず仕事は深夜に及んだ。フィリピン人らしからぬワークホリックだった。

 途上国での勤務経験のなかった私の目に当時のフィリピンは、とんでもない国に映った。停電、遅刻、汚職にクーデター……。しかし後から振り返れば、ラモス時代はこの国にとって最も政情が安定し、順調に経済発展した時代だった。「革命」後、最も業績を上げた大統領だった。

 また、私が好感を抱くのは、マルコス、アキノ、エストラダ、アロヨ、ドゥテルテと歴代大統領が子息を国会議員にして地盤を継がせてきた中で、ラモス氏だけが5人の子どものうち1人も立候補させなかったことだ。フィリピン憲法は「政治王朝」を禁じている。しかし、政権トップがこの規定をないがしろにしてきたことが、この国の政治の宿痾となっているからだ。

 1995年1月、阪神・淡路大震災の報が届くと、翌日の会見で月給を被災者に寄付すると宣言した。「ピナトゥボの噴火や3000人以上が死んだバギオの大地震の際、日本の人たちがわれわれを助けてくれた。今度はわれわれの番だ」と内外のフィリピン人に義援金を呼び掛けた。

 従軍慰安婦問題の解決を目指して1995年7月に設立されたアジア女性基金にもいち早く理解を示した。

 マニラに着任した当時、私には軍歴の政治家=権威主義者という固定観念があったが、ラモス氏は必ずしも当てはまらなかった。官僚制度が発達していないフィリピンで唯一、キャリアシステムが機能しているのは軍である。そこで培った組織運営のノウハウが政権運営でも活かし、ステディ・エディー(堅実なラモス)と呼ばれた。


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