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欧州情勢・西洋事情

1とはずがたり:2014/05/26(月) 18:46:47
平沼騏一郎や福沢諭吉に限らず西洋・欧州・EUその他あの辺綜合スレである。

前スレhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1116784031/l50より欧洲ネタを独立。

歴史ネタは西洋史スレhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1165050511/l50

3926とはずがたり:2021/10/15(金) 16:21:35
6min2021.10.13
ベルギー・中国ニュース拾い読み 
中国人女性がベルギー最古の貴族に─上流社会の“中国アレルギー”を乗り越えたシンデレラストーリー
https://courrier.jp/columns/263953/
田中淳

中国南部の農村で生まれ育った女性が、パリでハンサムな貴族と出会い、恋に落ち、やがてベルギーの正式な「プリンセス」になった。欧州貴族社会に根強い中国アレルギーを乗り越え、ひっそりと暮らすその中国人「プリンセス」とは……。

中国人女性がベルギー「王子妃殿下」に

中国は20世紀になっても、1912年まで満州族の皇帝が支配する王朝・清朝(大清帝国)だった。辛亥革命(1911〜12年)で清朝が倒れ中華民国が建国するが、ラストエンペラー・溥儀(1906〜67年)を筆頭とする清朝皇室・愛新覚羅(アイシンジュエルオ)家は、1924年まで中華民国政府による宮殿、財宝の温存、年金支給などの優待を受けた。

ただ1924年当時に“元皇族”待遇で暮らしていた者も2021年現在、ほぼ全員亡くなり、現代の中国人にとって「プリンス」「プリンセス」は遠い遠い昔のおとぎ話にすぎない。

そんななか、ベルギー王子に見初められたのは、1984年、広東省五華県の農村部に生まれ育った中国人女性の李然(リー・ラン、37)。

幼少時から成績優秀でピアノが得意だった彼女は、奨学金を受けながら高級中学(高校)、北京語言大学で学び、大学では金融を専攻。同大学は中国語研究の中心で、外国人留学生数が中国最多ということで知られる。

李然は留学生たちと交流するうちに、自分も海外に出て見聞を広めたいと考えるようになり、アルバイトを重ねながら勉強する「工読生」生活で資金を貯め、2006年渡仏。パリ・スクール・オブ・ビジネス(PSB)に留学する。

卒業後、ジバンシィでインターンとして働いたあと、バレンシアガ、フェンディといった高級ファッションブランドのパリ旗艦店に勤務。

2009年5月、フェンディの店舗を、新進気鋭の建築家であるベルギーのシャルル・ジョゼフ・マルコルム・ド・リーニュ王子(41)が訪れた。

そのときたまたま接客を担当したのが李然だった。シャルル王子は彼女を見るや否や、長身で、肉感的な唇、輝く黒髪を持つユーモアたっぷりの様子に一目惚れし、交際を開始。

ふたりは2010年1月に婚約を発表、同年11月に結婚したが、互いの宗教、家庭環境、文化背景があまりにも異なっていることを理由に、欧州中の王侯貴族が一堂に会するリーニュ家伝統の結婚式や披露宴はおこなわず、ひっそり役所に婚姻届を出すのみで済ませた。

貴族社会に根強い中国アレルギー

中国メディアは「欧州初の中国国籍プリンセス誕生!」「欧州に打工妹(出稼ぎ娘)出身の中国人シンデレラ」と賑やかに報じたが、地味婚だったのは、リーニュ家やベルギーの貴族社会では李然の輿入れに対する拒否反応が強烈だったから。

いくら中国が国内総生産(GDP)世界2位の大国にのし上がろうと、李然が流暢なフランス語を話そうと、出自を重んじる貴族社会で彼らは、蔑まれる「貴賤結婚」なのである。

シャルルは「殿下」の敬称と「王子」の称号を持ち、ベルギー最古にして最上級貴族・リーニュ公爵家の一員だ。これらの敬称と称号を使えるのは、ベルギーでは王家(ベルジック家)とリーニュ家だけ。

11世紀から続くリーニュ家は神聖ローマ帝国の帝国諸侯に叙せられ、1601年に当主ラモラルが、神聖ローマ皇帝から「プリンス・ド・リーニュ」の世襲称号を授けられ、「殿下」の敬称の使用を許された。

ゆえにリーニュ家は王室でない公爵家でありながら、現在まで一族は正式に王子/王女殿下、男性の配偶者は妃殿下を名乗っている。

3927とはずがたり:2021/10/15(金) 16:21:55

1830年のベルギー独立革命では、第8代リーニュ公爵のウジェーヌ1世・フランソワ・シャルル・ラモラルが初代ベルギー国王の候補のひとりにもなった。リーニュ家は限りなく王族に近いベルギー最上級貴族なのだ。

李然も結婚後、プリンセス(王子妃)の称号を名乗ることになったが、夫のシャルル王子は、リーニュ公爵家分家の次男坊。一族の中では比較的気楽な立場だ。李然妃との間には2010年に長男アマデオ・ジョゼフ・ガブリエル王子が誕生した。

一方、シャルルの兄でリーニュ公爵家分家の次代当主、エドゥアール・ラモラール・ロドルフ王子(45)はイタリアの女優、イザベラ・オルシーニ(47)と2009年に結婚し、2王女をもうけたものの、跡継ぎに恵まれず焦っていた。このままでは将来、当主の地位はエドゥアール王子亡き後、李然妃の産んだアマデオ王子に受け継がれることになる──と。

幸い2019年にエドゥアール王子・イザベル妃の間に待望の男児、アントワーヌ・タウ・エドゥアール・アドリアン王子が誕生。継承権がアマデオ王子に移ることは避けられた。

一族の長老たちは「中国系に家系が移行せずひと安心」「分家とはいえリーニュ家の当主に中国人の血が入らずよかった」と陰口を叩いた。インスタグラム好きのイザベル妃も、義妹の李然妃と撮った画像のアップは皆無だ。

ほかに香港出身のプリンセスも

欧州の王族に嫁ぎ「プリンセス」の称号を得た初のアジア系女性は、香港出身のアレクサンドラ・クリスティーナ・マンリー(広東語名:文雅麗、マン・ナーライ、57)だ。

アレクサンドラは両親が上海生まれの英国人とチェコ系のオーストリア人で、父方の曾祖母が中国人。ただ金髪碧眼ではなく、豊かな黒髪に切れ長の瞳を持つ、アジアン・ビューティだ。

アレクサンドラは高校まで香港で学び、オーストリアのウィーン経済・経営大学に進学、在学中は日本と英国にも留学した。

卒業後は1990年から1995年まで、香港の投資会社GTマネージメントに勤務。1994年、軍務で香港に寄港していた、デンマーク王子ヨアキム(52)と内輪のパーティーで出会う。

ヨアキム王子は当時25歳、マググレーテ2世女王(81)の次男で海軍中尉、王位継承順位2位(現6位)だった。

当時アレクサンドラは30歳。ふたりの婚約は世界に衝撃を与えた。欧州には10の君主制国家があるが、アジア女性、中華系女性が王族に輿入れしてプリンセスになった例は皆無だったからだ。

しかもアレクサンドラはヨアキム王子より5歳年長の“姉さん女房”。さまざまな雑音のなか、ふたりは1995年11月に挙式しニコライ王子(21)とフェリックス王子(19)の2子を授かる。

3928とはずがたり:2021/10/15(金) 16:22:15
>>3926-3928
アレクサンドラは、陽気で気さくな人柄とデンマーク語を完璧にマスターした知性、公務への意欲的な取り組みで、女王からも国民からも信頼を勝ち得た。

だが2005年に離婚。原因はヨアキム王子の女性問題とされ、デンマーク王室では159年ぶりのの離婚劇となった。

アレクサンドラは離婚に際し、女王より「フレゼリクスボー伯爵」の爵位を賜り、離婚後も2王子の養育権と「殿下」の敬称、「プリンセス」の称号、王族としての歳費を維持したが、2007年、14歳年下のカメラマン、マーティン・ヨアンセンと再婚(2015年離婚)し王族の身分を喪失、敬称と称号、歳費も失い、デンマークの一貴族となった。

欧州で現在、正式に「殿下」の敬称と「プリンセス」の称号を持つアジア人女性はベルギーの李然妃が唯一である。

アジアの血を引く王子がトップモデルに

とはいえ、アレクサンドラは今も王室行事にたびたび招かれ、前夫や女王との関係も良好。現在、スイスの創薬会社フェリング・ファーマシューティカルズの取締役を務め収入を得ている。

長男のニコライ王子は東洋の血が入った身長184cmの端正なルックスを生かし、コペンハーゲンのモデル事務所に所属。バーバリーやディオール オムなどのファッションモデルを務めている。

李然妃の生活はいたって地味だ。社交界で話題を振りまくこともなく、多くのメディアからの取材依頼も、シャルル王子とともにきっぱり断り続けている。

2013年には一家でベルギーから中国の上海市に移住。李然妃は高級ファッションブランドの中国市場セールスマネジャーとして、子育てをしながら仕事を続けている。

2016年にはフェイスブックや新浪博客(ウェイボー)のアカウントを削除した。彼女の動静は表に出てこない。

シャルル王子と李然妃は中国で一度だけ、公的なイベントに出席した。2013年、広東省恵陽市の国画(グオフア、中国の伝統的絵画)民間研究所「蓬莱書画研究院」が主催する展示会に、シャルル王子が自作の水墨画を出品したのだ。国画は夫妻の共通の趣味だという。(Text By Jun Tanaka)

田中 淳 編集者・記者。編集プロダクション、出版社勤務を経て中国北京大学に留学。シンクタンクの中国マーケティングリサーチャーや経済系通信社の台湾副編集長を務め、現在、香港系金融情報会社のアナリスト。近著に『100歳の台湾人革命家・史明 自伝 理想はいつだって煌めいて、敗北はどこか懐かしい』(講談社)。


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