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Airline & Airport(航空会社・航空路線・空港)スレ

3069荷主研究者:2011/07/10(日) 21:54:13
>>3068 続き

元機動隊員「燃えた車が突っ込んできた」

 一方で、警備にあたった機動隊員はどのような思いだったのか。

 「『荒れる現場』の経験もない21、22歳のころ。暗くなったころに燃えた車が突っ込んできた。火の海になって左右を見渡す余裕もなかった。ただ、怖かった」

 元機動隊員の警察幹部は開港当日の昭和53年5月20日、空港周辺のフェンス沿いにあるゲート付近で警備中、ゲリラの襲撃にあった。

 この警察幹部は「火炎瓶が飛んでくると、パッと周囲が明るくなって、ヘルメット姿のゲリラがいっぱいいることに気付く。守れと指示されれば守るだけだが、盾を構えて必死だった」と振り返る。

 ゲリラを鎮圧し、夜が明けた21日午前、警察幹部は空に機体を見つけた。ロサンゼルス発アンカレジ経由の一番機だった。「『やっと飛行機が飛んだ』とほっとしたことを覚えている」と当時に思いを馳(は)せた。

 警察幹部はその後、何度も空港警備に就いたが、徐々に反対派との衝突は減り、「おとなしくなってきた」と感じたという。

次第に下火となっていった闘争

 実際、開港後も反対派は“廃港”を訴えながら成田闘争を継続。バルーンを空中に浮かばせて飛行機の往来を阻害したり、ゲリラなどの活動を展開してきた。

 しかし、反対派の住民が国側との話し合いを模索し始め、支援セクトと方針をめぐって決別。武力による闘争は次第に下火となっていった。

 平成に入り、石毛さんらは国側との話し合いを本格的に始め、解決に貢献してきた。反対派と国などの公開シンポジウムや住民を交えた円卓会議も開催され、現在は「共生」の道を歩んでいる。

 「一言で片づけることはできないが、今となっては苦しかったがよく耐えた。全員が命がけの時代だった」。石毛さんはこう振り返った。


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