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利水・治水スレ

1とはずがたり:2007/11/05(月) 00:45:52
ダム・堰堤・運河・暗渠etc
公共事業に占めるダムなどの費用は非常にでかいものがある。専用スレで研究・観察。

行革スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1038805069/?KEYWORD=%A5%C0%A5%E0
土建スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1105074193/?KEYWORD=%A5%C0%A5%E0
ダムサイト
http://damsite.m78.com/top.html
ダム便覧
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jdf/Dambinran/binran/TopIndex.html
ダムマップ
http://www.dammaps.jp/

2とはずがたり:2007/11/05(月) 00:47:49

何で合併で利水の必要が無くなるんだ?
それは即ち単独市町村では利水計画が非効率的になってる事に他ならないね。

「男川ダム」建設 中止を正式決定 愛知県
http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/070830_5.htm?from=goo

 愛知県岡崎市の多目的ダム「男川ダム」の建設計画を凍結している愛知県が、同ダムの建設中止を正式に決定したことが29日、明らかになった。同市と旧額田町の合併により利水の必要性がなくなったためで、中止決定を受け、国土交通省は来年度政府予算の概算要求を取りやめた。

 矢作川水系の同ダムは治水、利水ダムとして計画されたが、昨年1月の合併で、同市側から水供給ルートが確保されることになり、利水面での必要性がなくなったとして、計画が凍結されていた。
(2007年8月30日 読売新聞)

3とはずがたり:2007/11/05(月) 01:00:22
長良川河口堰 改めて環境調査 中部整備局
徳山ダム新導水路計画受け
http://chubu.yomiuri.co.jp/news_top/071009_2.htm?from=goo

木曽川水系連絡導水路の建設予定地。右は木曽川。左は長良川(先月19日、岐阜県海津市で、本社ヘリから)=中根新太郎撮影
http://tohazugatali.web.fc2.com/city_planning/news071009_2.jpg

 国土交通省中部地方整備局は、長良川河口堰(ぜき)(三重県桑名市)の水利用による環境への影響などを改めて調査するため、近く学識経験者による検討会を設置する。同河口堰を巡っては、愛知県や名古屋市が徳山ダム(岐阜県揖斐川町)からの導水と一体的な利水を要望しており、堰建設当時に想定しなかった利水が行われる可能性が出てきた。このため検討会では、取水する場所などによって、水質や生物にどんな影響が出るかを調査する。

 同河口堰は毎秒22.5トンの開発水量が設定され、1995年7月に本格運用が始まった。しかし、愛知、三重県と名古屋市が利水を予定している大部分は未利用のままで、実際に使用しているのは知多半島の水道水約2.9トンと三重県の水道水約0.8トンにとどまっている。残りは渇水時の使用や将来の需要増を見込んでいるものの、現時点では水を取水口まで引くための施設が設置されていない。
http://tohazugatali.web.fc2.com/city_planning/news071009_3.jpg
木曽川水系連絡導水路の水の流れ

 水の需要が伸びない中、河口堰専用に新たな取水施設を造るのは経済的負担が大きく困難だ。そこで愛知県と名古屋市は今年1月、徳山ダムの水を愛知県の都市用水や木曽川の渇水対策などに利用する「木曽川水系連絡導水路」を活用し、河口堰の水も流せるよう同整備局に要望した。

 連絡導水路は、揖斐川町の揖斐川上流部から岐阜県坂祝町の木曽川まで建設されるが、最大毎秒20トンの水の一部4・7トンを途中の岐阜市で長良川に流し、さらに堰上流部の同県海津市と羽島市の境界付近にも連絡導水路を設置し木曽川に導く計画で、8月に東海3県と名古屋市などが合意。これまで木曽3川にそれぞれ流れていた水を、上流のダムも含め一体的に利用しようというものだ。

 愛知県などは、この連絡導水路を活用して「河口堰の水」を利用したい意向だが、堰のすぐ上部で取水する建設当時の想定とは、条件が異なることになる。

 河口堰を巡っては、運用開始翌年の96年には、水不足が続き、岐阜県海津町(当時)の長良川から羽島市の木曽川間2.1キロに緊急導水管やポンプを仮設、水を木曽川に流そうとしたほか、2005年にも同様の対策を検討したことがある。検討会は水理学や生物学の専門家ら数人の学識経験者で構成。河口堰の水を取水するために木曽川まで導水する際に、水質や川にすむアユなどの生物に与える影響を調査する予定だ。
(2007年10月9日 読売新聞)

4とはずがたり:2007/11/05(月) 01:04:41
推進5市町村が地元説明会へ 熊本・川辺川利水事業
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1038805069/1424

<上>混迷
 ◆相良村翻意、利水暗礁に
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kumamoto/kikaku/032/1.htm

 「参加する気はない。逆立ちしても払えない」。7月28日夜、相良村柳瀬の集会所。村長の矢上雅義(46)は、ほおを紅潮させ、村や農家の過大な負担などを理由に、川辺川利水事業への不参加を初めて明言した。農家約40人が集まった会場は一瞬、水を打ったように静まり返った。「村長の意思が固いなら仕方がない」。事業に期待していた男性は肩を落とした。
  *    *
 7月15日未明、県庁新館2階会議室。県はこの場で、2003年の川辺川利水訴訟国側敗訴を受けて始まった新計画策定に向けた関係者の協議を打ち切り、農水省が5月に示した新案への一本化を決めた。川辺川ダムを水源とするかどうかを巡り対立が続いた3年以上の話し合いの末、相良村の反対を振り切っての見切り発車だった。

 矢上の不参加表明は、そのわずか2週間後。農水省は来年度政府予算の概算要求で本格着工のための工事費計上を断念したが、関連測量費などを盛り込み、事業継続に望みをつないだ。矢上はさらに言葉を重ねる。「予算原案が固まる12月には、政府に事業廃止の英断を期待したい」。最大受益地・相良村が抜けることで、事業は中止になる可能性も出てきた。
  *    *
 利水事業は球磨川右岸に広がる北部台地に農業用水を供給する。農水省新案では、川辺川上流部に取水堰(ぜき)を持つチッソ(東京)発電所の水路やポンプ、貯水池などを経由し、6市町村の水田や畑1299ヘクタールに水を届ける。相良村は3分の1に当たる470ヘクタールを占め、事業費負担も地元42億円のうち最高の約13億円に上る。

 利水事業の歴史は相良村で始まった。戦後に開墾された同村を中心とする高原(たかんばる)台地。サツマイモや陸稲などを栽培していたが、1960年前後に水田化する利水構想が浮上。68年には、2年前に発表された旧建設省の川辺川ダム建設計画に目的の一つとして組み込まれた。

 ところが五木村の反対でダム建設は進まず、利水事業も停滞。70年代には減反政策が始まり、84年にようやく確定した事業計画では、主目的が水田化から畑地かんがいへと変わっていた。それから更に22年。受益面積は当初の3590ヘクタールから3分の1近くに、受益農家も半数の約2000人に減った。施設規模は変わらないため、維持管理費を払う農家の負担は軽くない。相良村は今、自ら望んだ事業に終止符を打とうとしている。
  *    *
 地元市町村でつくる川辺川総合土地改良事業組合の組合長・園田耕輔(64)(錦町長)は「絶対にやらないといかん」と利水事業に変わらぬ意欲を見せた。8月17日、山江村で開かれた意見交換会でのことだ。相良村を除く5市町村の総意は「事業継続」。九州農政局整備部次長の渡辺昭弘(47)は、地元の熱意を強く感じたものの、「費用対効果など様々な課題がある」と相良村なしでの事業には難色を示した。

 苦慮する地元、農水省。「相良村民の利水事業を求める住民運動に期待する」「村長(矢上)の交代しかない」。揺るがない矢上に、こんな声も聞こえ始めた。

5とはずがたり:2007/11/05(月) 01:05:05
<中>来ない水
 ◆「待つ」農家 代償大きく
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kumamoto/kikaku/032/2.htm?from=goo

 真夏の日差しが照りつける相良村の高原(たかんばる)台地。同村深水の農家渡辺和夫(60)は、茶園の手入れに汗を流していた。高原台地は川辺川利水事業の主な対象地域。事業実現が遅れたこともあり、比較的水を必要としない茶の栽培が進んだ。

 「水がないと肥料が土になじまず、次の肥料を入れられない。干ばつや霜対策など、経営を安定させるために水は必要」。日焼けした顔を上げ、草取りの手を休めて言った。五木村の水没地区から移って24年。高原台地の約10ヘクタールで茶を栽培する。「待たされるだけの利水に、皆が無関心になってきたのは事実」と嘆く。

 ダム計画が発表された翌年の1967年、渡辺は仕事に出ていた関西から五木村に戻った。「すぐにでもダムができるような話だった」。しかし、ダム建設は遅れ、茶を作りながら、生活再建などを訴えた水没者団体・川辺川ダム対策同盟会の運動にもかかわった。

 静岡出身の祖父が茶の指導で赴き住みついた五木村だったが、茶を作るにも借地で土地も狭かった。「五木にいても夢は実現しない。ダムの話がなければ今はなかった」。旧建設省との補償交渉を終え、82年に補償金も使って相良村に家を構え、農地を得た。

 2ヘクタールから始め、借金をして農地を集約し、大型機械も導入。先進地の視察や品種の試験も繰り返し、農林水産大臣賞を受賞するほどになった。

 4日、村内の集会所であった村政座談会に渡辺の姿があった。村長の矢上雅義は事業に参加しない村の方針を伝え、代わりに既設水路の改修や高い水代を払う農家への補助の検討を約束したものの、高原台地の畑への水の手当ては今のところ考えていないとした。「夢も希望もない。決断が早すぎるんじゃないか」。渡辺の声が響いた。
  *    *
 広域農道「フルーティーロード」沿いの高台にある多良木町黒肥地の八城迫(やしろざこ)団地。86年に完成した11・5ヘクタールの国営造成地で、同町の久保次良(83)は10人ほどで桃の栽培を始めた。

 「川辺川ダムの水がくるというから桃を植えた。水を使わんもんは植えちゃならんということだった」。経営を任せる後継者の良国(58)と2人で耕作。盆前には収穫を終え、今は草刈りなどの時期だ。

 「水が潤沢にないとうまい桃はでけん」。配管は敷設されたが水が来ないため、梅雨の雨で育つ早生(わせ)の品種を多く植えることでしのいできた。

 団地は山地で傾斜がきついうえ、日当たりも強く、肥料も水も流れやすかった。「水のない時は木が弱ってね。少量の水ではとても足りない」。雨が降らないと川に出かけて水をくみ、トラックで何往復もしてまいた。薬剤散布も同様だ。

 雨が期待できない収穫時期の遅い品種は、植えるのに適した場所がつかめず何度も植え直した。水分が逃げないように草で地面を覆う工夫もした。「次から次に大問題」。苦労が先立って初期投資がかさみ、一緒に始めた仲間は半数も残っていない。

 農地造成は規模拡大を図る利水事業の一つで、水が来るのが前提。84年から91年にかけて34か所約240ヘクタールを整備し、337人が入植している。九州農政局は17か所で地下水などを利用し、事業実現までの暫定水源を整備したが、必要水量が確保できていないところも多い。

 八城迫団地ができて20年。「水が来ればいい品物ができ、安心して栽培できる」と待ち続けた久保だが、いつになるか分からない。

 水を待つ農家がいる一方で、水は要らないという農家も少なくない。ダム、利水を巡ってもつれた糸は容易にほどけそうにない。(敬称略)

6とはずがたり:2007/11/05(月) 01:05:31

川辺川ダム40年 見えない明日トップ
<下>五木村  
 ◆翻弄され戻らない「生活」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kumamoto/kikaku/032/3.htm

 「取り壊した五木村のわが家は本間で8畳四間続き。だだっ広くて、涼しい風が入ってきまして実に気持ちいい。熊本市の家でクーラーに吹かれ、その夢を見るんです」。五木村水没者地権者協議会の元事務局長・桑原精喜(72)は8月26日、村林業センターに集まった約250人の聴衆に静かに語り始めた。

 川辺川利水訴訟原告団やダム反対の市民団体が村民の思いを受け止めようと初めて同村で開いた「川辺川現地調査」の集会。桑原は離村者の一人として招かれた。「行政の不手際で不信感を抱くようなことが次々と起こった」。ダム基本計画取り消し訴訟を闘った経緯にも触れ、最後に切々と訴えた。「五木村を応援して下さい。温かく見守ってほしい」

 桑原は村中心部の頭地地区で3代続く商店を営んでいた。家族の病院通いの都合もあり、村内の代替地ではなく、5年前にやむなく熊本市に移り住んだ。

 「今の暮らしはのんきですよ」と桑原。パソコンを始め、仲間もできた。時々、村を訪れると、寂れていると感じ、店を閉めたことを申し訳ないとも思う。同時に、「若い時期をダムに振り回された。ほかに何か達成できたのでは」とふと考えることもある。
  *    *
 1966年7月に川辺川ダム建設計画が発表されてから40年。当初反対していた村や村議会は、強く迫る国や県の姿勢に、村の振興を重視して容認に転じ、96年にダム本体着工の協定書に調印した。村では、ダム建設に伴い移転対象となった約500世帯のうち、3割は村内6か所の代替地に移ったが、7割は離村。人口は過疎化と相まって、65年の約5000人から、3分の1以下の約1500人にまで減った。
  *    *
 集会には正調・五木の子守唄(こもりうた)の歌い手、堂坂ヨシ子(89)も姿を見せ、哀愁を帯びた独特の調べを会場に響かせた。「若い人や子どもも子守唄を上手に歌います。でも、唄の意味を分かっとる人はもうおらんでしょうな。今の五木にそれをしのばせるものはなくなってしもうたからね」とつぶやく。堂坂も代替地で暮らす。

 移転がほぼ完了した村の新しい中心、頭地代替地には新しい住宅が並び、道路も整備された。そこから見下ろすかつての頭地地区は、最後の1世帯が暮らし、消防署などわずかな施設が残るのみ。時折、工事用の車両が激しく音を立てる。

             *                            *

 川辺川ダムの目的の一つとして、実現が遅れてきた川辺川利水事業。今度は利水事業がダム建設を足止めにする。川辺川利水訴訟での国側敗訴、確定しない新たな利水計画、相良村の事業不参加表明……。利水にダムを使うかどうかの結論も出ず、ダム計画は宙に浮いたまま。本体着工の見通しが立たない中、ダム建設を前提とした五木の村づくりは進まない。

 別の水没者団体・川辺川ダム対策同盟会の会長を務めた村議会議長の照山哲栄(74)は「小さい五木村が孤立無援でダムに反対した苦しみは言葉では言い表せない。今、『ダム反対』と言う下流域の人はそのころ何をしてくれましたか」と拳を握る。「これ以上長期化すると、村は駄目になる」。焦りにも似た思いは強まるばかりだ。

 照山だけではない。2001年に人吉市に移り、家族6人で暮らす五木水没者対策協議会の元会長・松本泰人(81)も憤まんやる方ない。「なんしとっとだろうかと言うごたる。人を移転させて。こっちは仕事もなかし、出費もかさむ。五木が暮らしよか。ダムでけんなら五木に帰っていくたい」

 ダム問題に翻弄(ほんろう)されてきた五木村。人々が元の生活に戻るすべはなく、どんな明日を迎えるか見えないままだ。

 (敬称略)

7とはずがたり:2007/11/05(月) 01:06:53
>>4-7

(この連載は内村大作と前田剛が担当しました)
  ◇     ◇
 ◆川辺川ダム建設を巡る主な動き
1966年7月 建設省(現国土交通省)が川辺川ダム建設計画を発表
1976年3月 建設省がダム基本計画を告示
     6月 五木村水没者地権者協議会がダム建設基本計画の取り消しを求め、熊本地裁に提訴
1984年4月 五木村水没者地権者協議会と建設省が和解
1996年10月 本体着工同意に伴い五木・相良村と建設省、県が協定調印
1998年6月 建設省がダム基本計画を変更
2000年9月 川辺川利水訴訟の熊本地裁判決で原告農家が敗訴
    12月 建設省が土地収用法に基づく事業認定を行い、官報に告示
2001年2月 球磨川漁協が総代会で漁業補償契約案を否決
    11月 球磨川漁協の臨時総会で漁業補償契約案を否決
    12月 国交省が県収用委員会に漁業権などの収用を申請
2002年2月 県収用委第1回審理
2003年5月 川辺川利水訴訟福岡高裁判決で農林水産省が敗訴し、確定
2004年8月 利水事業で、九州農政局と県は従来3010ヘクタールだった対象面積を1378ヘクタールに縮小する方針を表明
    11月 県収用委がほぼ1年ぶりに再開
2005年8月 県収用委が国交省に収用申請取り下げを勧告
     9月 国交省が収用申請を取り下げ
    12月 利水事業で、農水省が、ダムを水源とするダム案と川に堰(せき)を設ける非ダム案を提示
2006年3月 利水事業で、県が川からポンプなどで直接取水する独自案を策定
     5月 農水省が、チッソ発電所施設を活用する新利水案を提示
     7月 県が農水省新案一本化を裁定
        相良村長が利水事業不参加を表明
2007年11月 農林水産省が参加自治体の同意の期限と設定。


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