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利水・治水スレ

6とはずがたり:2007/11/05(月) 01:05:31

川辺川ダム40年 見えない明日トップ
<下>五木村  
 ◆翻弄され戻らない「生活」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kumamoto/kikaku/032/3.htm

 「取り壊した五木村のわが家は本間で8畳四間続き。だだっ広くて、涼しい風が入ってきまして実に気持ちいい。熊本市の家でクーラーに吹かれ、その夢を見るんです」。五木村水没者地権者協議会の元事務局長・桑原精喜(72)は8月26日、村林業センターに集まった約250人の聴衆に静かに語り始めた。

 川辺川利水訴訟原告団やダム反対の市民団体が村民の思いを受け止めようと初めて同村で開いた「川辺川現地調査」の集会。桑原は離村者の一人として招かれた。「行政の不手際で不信感を抱くようなことが次々と起こった」。ダム基本計画取り消し訴訟を闘った経緯にも触れ、最後に切々と訴えた。「五木村を応援して下さい。温かく見守ってほしい」

 桑原は村中心部の頭地地区で3代続く商店を営んでいた。家族の病院通いの都合もあり、村内の代替地ではなく、5年前にやむなく熊本市に移り住んだ。

 「今の暮らしはのんきですよ」と桑原。パソコンを始め、仲間もできた。時々、村を訪れると、寂れていると感じ、店を閉めたことを申し訳ないとも思う。同時に、「若い時期をダムに振り回された。ほかに何か達成できたのでは」とふと考えることもある。
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 1966年7月に川辺川ダム建設計画が発表されてから40年。当初反対していた村や村議会は、強く迫る国や県の姿勢に、村の振興を重視して容認に転じ、96年にダム本体着工の協定書に調印した。村では、ダム建設に伴い移転対象となった約500世帯のうち、3割は村内6か所の代替地に移ったが、7割は離村。人口は過疎化と相まって、65年の約5000人から、3分の1以下の約1500人にまで減った。
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 集会には正調・五木の子守唄(こもりうた)の歌い手、堂坂ヨシ子(89)も姿を見せ、哀愁を帯びた独特の調べを会場に響かせた。「若い人や子どもも子守唄を上手に歌います。でも、唄の意味を分かっとる人はもうおらんでしょうな。今の五木にそれをしのばせるものはなくなってしもうたからね」とつぶやく。堂坂も代替地で暮らす。

 移転がほぼ完了した村の新しい中心、頭地代替地には新しい住宅が並び、道路も整備された。そこから見下ろすかつての頭地地区は、最後の1世帯が暮らし、消防署などわずかな施設が残るのみ。時折、工事用の車両が激しく音を立てる。

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 川辺川ダムの目的の一つとして、実現が遅れてきた川辺川利水事業。今度は利水事業がダム建設を足止めにする。川辺川利水訴訟での国側敗訴、確定しない新たな利水計画、相良村の事業不参加表明……。利水にダムを使うかどうかの結論も出ず、ダム計画は宙に浮いたまま。本体着工の見通しが立たない中、ダム建設を前提とした五木の村づくりは進まない。

 別の水没者団体・川辺川ダム対策同盟会の会長を務めた村議会議長の照山哲栄(74)は「小さい五木村が孤立無援でダムに反対した苦しみは言葉では言い表せない。今、『ダム反対』と言う下流域の人はそのころ何をしてくれましたか」と拳を握る。「これ以上長期化すると、村は駄目になる」。焦りにも似た思いは強まるばかりだ。

 照山だけではない。2001年に人吉市に移り、家族6人で暮らす五木水没者対策協議会の元会長・松本泰人(81)も憤まんやる方ない。「なんしとっとだろうかと言うごたる。人を移転させて。こっちは仕事もなかし、出費もかさむ。五木が暮らしよか。ダムでけんなら五木に帰っていくたい」

 ダム問題に翻弄(ほんろう)されてきた五木村。人々が元の生活に戻るすべはなく、どんな明日を迎えるか見えないままだ。

 (敬称略)


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