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国道・県道スレッド

1614とはずがたり:2015/01/23(金) 14:29:16
>>1613-1614
>山岡 水深50mでの大潮流とは、明石海峡を意識してのことですね。「可能な方法を見出し得る」とは、できると言っているのか、それとも困難だと言っているのか……。
>山根 そこを記者が突いてきました。書き方が手ぬるいではないか、できないなら、できないとハッキリ書いたらどうか、とこう聞いてきたわけです。そしたら委員長の青木楠男先生が、神代の昔から、日本列島ができたときから、水深が深く、距離の長いところに橋を架けるのは難しいに決まっているではないか、それをわざわざ、このおれに言わせる気か、と応じて、抑え込んだ。
なんだこの青木某はw

>山根 そこで、高い見識を発揮されたのが大平正芳さん。67年7月の衆議院建設委員会で質問に立たれました。元々、大平さんは外務委員会の所属で、わざわざ建設委員会で質問に立つのは、建設省のやり方に反対するからではないか、と言われてしました。…大平さんは、「いまの経済の成熟度からすると本四橋は一つに限らなくてよい。複数を考え、本土と四国の経済の一体化を図るべきではないか」「一本だけ、とするから激しい争いが起こる。将来展望からも複数は常識的だ」とおっしゃった。あの質問で大平さんの大局的にものをみる器の大きさが読み取れた。大きな一石が投じられました。
ばらまきじゃんかよ,何が大局観だ┐('〜`;)┌

>…69年の新全国総合開発計画(新全総)にも、3ルートの建設を図る、と明記されます。そして、ルート争いに終止符を打ったのが、田中角栄さんでした。70年1月、田中自民党幹事長は「本州と四国を結ぶ橋は、3本とも同時に実施設計調査を実施することにした。…これによって、長年に関係地域による激しい陳情合戦は、本日をもって終わりを告げることになる」と発表しました。

>73年暮れの第一次石油ショックが大きな障害になりました。11月24日に予定していた3ルートの起工式は、「総需要抑制策」の一環として中止されます。

>局面を打開したのは、高知出身の仮谷忠男建設大臣でした。仮谷さんは、75年8月、本四連絡橋は、当面1ルートについて、その早期完成を図る。そのルートは鉄道併用として、第三次全国総合開発計画(三全総)で決定する。他の2ルートについては、各橋の地域開発効果、工事の難易度などを勘案して、着工すべき橋梁を、各省庁間の協議で決めると、こう発表したのです。鉄道との併用ということで、岡山―香川間の児島―坂出ルートに絞り込まれました。ただし、神戸―明石ルートでは、まず淡路市と鳴門市を結ぶ「大鳴門橋」を架けて、兵庫県と徳島県、双方の顔を立てる。尾道―今治ルートでは、愛媛県側の大三島橋の着工凍結を解除すると同時に、広島県側の因島大島の着工時期の検討も継続とします。
如何にも自民党的・日本的な(名)裁定ですな。

>四国出身の大臣として、決断すべきことは決断しながら、政治的な配慮をされました。75年12月、延々と待たされていた大三島橋の起工式が、やっと行われました。寒風が吹きすさぶなか、仮谷さんも起工式に出席されました。そのときにひいた風邪がもとで、翌76年1月、現職の建設大臣のまま急逝されたのです。

>山根 …鈴木善幸内閣で、「第二次臨時行政調査会(第二臨調)」が発足し、行財政改革が本格化します。当然、本四連絡橋建設の財政負担も俎上にあがる。80年11月に伯方大島大橋の架橋地点に視察にいらした渡辺美智雄大蔵大臣は、「なんでこんなところに橋を架けるんだ」と言われましてね。私がご案内していたのですが、「利根川よりもこっちのほうが短いんですから」と申し上げたら、「ああそうか」と。そのうち臨調の行革で、「1ルート、4橋に当面限定する」と決まり、神戸―鳴門ルートの鉄道併用案も消滅します。

此処迄は神戸鳴門の鉄道併用橋構想は生きてたんか。。勿体ないなぁ。。


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