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国道・県道スレッド

1611とはずがたり:2015/01/23(金) 14:22:57

山岡 水深50mでの大潮流とは、明石海峡を意識してのことですね。「可能な方法を見出し得る」とは、できると言っているのか、それとも困難だと言っているのか……。

山根 そこを記者が突いてきました。書き方が手ぬるいではないか、できないなら、できないとハッキリ書いたらどうか、とこう聞いてきたわけです。そしたら委員長の青木楠男先生が、神代の昔から、日本列島ができたときから、水深が深く、距離の長いところに橋を架けるのは難しいに決まっているではないか、それをわざわざ、このおれに言わせる気か、と応じて、抑え込んだ。風格がありましたねぇ。

■田中―大平コンビの活躍と、仮谷建設大臣の決断

山岡 河野一郎さんは、総理総裁候補と言われながら、65年に急逝しています。河野亡きあと、ルート争いはいっそう、激しくなったのでしょうね。

山根 そこで、高い見識を発揮されたのが大平正芳さん。67年7月の衆議院建設委員会で質問に立たれました。元々、大平さんは外務委員会の所属で、わざわざ建設委員会で質問に立つのは、建設省のやり方に反対するからではないか、と言われてしました。私も胸をどきどきさせながら、質問を聞いていました。すると、大平さんは、「いまの経済の成熟度からすると本四橋は一つに限らなくてよい。複数を考え、本土と四国の経済の一体化を図るべきではないか」「一本だけ、とするから激しい争いが起こる。将来展望からも複数は常識的だ」とおっしゃった。あの質問で大平さんの大局的にものをみる器の大きさが読み取れた。大きな一石が投じられました。

山岡 大平さんは、よく色紙に「着眼大局、着手小局」と書いていたようです。

山根 この大平質問以降、建設省は具体的な体制に踏み込み、「事業主体は新しい公団」を設けてやるべきだと打ち出し、69年の新全国総合開発計画(新全総)にも、3ルートの建設を図る、と明記されます。そして、ルート争いに終止符を打ったのが、田中角栄さんでした。70年1月、田中自民党幹事長は「本州と四国を結ぶ橋は、3本とも同時に実施設計調査を実施することにした。そのために新しい公団(本州四国連絡橋公団)をつくる。これによって、長年に関係地域による激しい陳情合戦は、本日をもって終わりを告げることになる」と発表しました。3ルート同時スタートを明言したのです。

山岡 田中―大平は、後に首相と外相のコンビで日中国交正常化などの大仕事を成し遂げます。…しかし、田中―大平コンビが活躍しても、まだ架橋へすんなり進んではいませんね。

山根 73年暮れの第一次石油ショックが大きな障害になりました。11月24日に予定していた3ルートの起工式は、「総需要抑制策」の一環として中止されます。

山岡 当時、日本の産業構造は、著しく石油に依存していましたね。石油が入らなくなったら、産業の血液が止まる怖れがあった。田中首相はアラブに特使を派遣したり、資源外交を展開したりで、何とか、窮地を脱しますが、とても本四架橋どころではなかった。

山根 局面を打開したのは、高知出身の仮谷忠男建設大臣でした。仮谷さんは、75年8月、本四連絡橋は、当面1ルートについて、その早期完成を図る。そのルートは鉄道併用として、第三次全国総合開発計画(三全総)で決定する。他の2ルートについては、各橋の地域開発効果、工事の難易度などを勘案して、着工すべき橋梁を、各省庁間の協議で決めると、こう発表したのです。鉄道との併用ということで、岡山―香川間の児島―坂出ルートに絞り込まれました。ただし、神戸―明石ルートでは、まず淡路市と鳴門市を結ぶ「大鳴門橋」を架けて、兵庫県と徳島県、双方の顔を立てる。尾道―今治ルートでは、愛媛県側の大三島橋の着工凍結を解除すると同時に、広島県側の因島大島の着工時期の検討も継続とします。四国出身の大臣として、決断すべきことは決断しながら、政治的な配慮をされました。75年12月、延々と待たされていた大三島橋の起工式が、やっと行われました。寒風が吹きすさぶなか、仮谷さんも起工式に出席されました。そのときにひいた風邪がもとで、翌76年1月、現職の建設大臣のまま急逝されたのです。


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