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国道・県道スレッド
1610
:
とはずがたり
:2015/01/23(金) 14:22:32
山岡 次が国道の改修ですか。
山根 そうです。国が手をつけるところは、どうしても県境付近からになりましてね。そこが一番、なおざりにされていますから。県の方々は、どうも東京へ向かう道路は一所懸命に手を入れるのですが、離れていくほうは不熱心(笑)。県境のトンネルなどは遅れがちでした。国道2号の広島県境にちかい笠岡市の金浦湾あたりは軟弱地盤で苦労しました。30号の児島湾周辺の地盤も悪かった。
山岡 地盤の議論は、あまりマスコミにも出ませんが、大切ですね。
山根 東日本大震災でも地盤の問題がありました。千葉県浦安市では、砂地盤が地震で揺すられて液状化しましたね。あの現象は1964年の新潟地震で最初に生じ、深刻な被害を与えました。信濃川左岸では液状化で県営アパートが大きく傾いて、ほとんど横倒しになった棟もありました。震源地に近い信濃川右岸では、新潟空港の滑走路が液状化に見舞われました。95年の阪神・淡路大震災では、神戸のポートアイランドの液状化がクローズアップされましたが、地盤の問題はそれだけではありません。兵庫県南部地震が起きたとき、明石海峡大橋は神戸市垂水区と淡路市岩屋の間にタワーが立てられ、ケーブルを掛け終わったところでした。これからケタを吊ろうとしていたところで、強烈な揺れに見舞われました。明石海峡大橋の基礎と基礎の間を構造線が通っていた。その結果、支柱と支柱の間が、何と1mも伸びてしまった。支柱間が1990mから1991mとなりましたが、幸いにして事なきを得て、完成したのです。地盤に応じて基礎をどうするかは、非常に大きな問題で、それを看過していると、砂上の楼閣になってしまいます。
■政治家を巻き込んだ熾烈な「ルート争い」
…
山根 中国四国建設局のなかに橋梁グループがありまして、先輩方がしきりに四国に渡る島と島の間に橋をかける計画を練っておられた。私は企画部にいて、そのプランを横目で見ながら、ああなるほどな、と感心していたものです。1960年前後に土木研究所の方々が中国建設局にお見えになり、尾道―今治ルートの現地を視察したいということで、私が案内役を仰せつかりました。当初、本四連絡橋のルートは5つありました。A神戸―鳴門、B宇野―高松、C日比―高松、D児島―坂出、E尾道―今治です。BCDはいずれも岡山―香川間なので、技術的、経済的側面からDに絞られていきます。
山岡 …「瀬戸内しまなみ海道」が出来るまでが長かった。やはり問題は政治でしょうか。
山根 3ルートに橋を架けると決めるまでに十数年かかっているんです。1961年8月に建設省と国鉄は土木学会に「本州四国連絡橋調査の技術的検討」を委託します。厳しい自然条件で、世界でも未経験の長大な橋をかけるのです。深い海に基礎を打ち込み、長い距離を、道路と鉄道の併用も含めて架橋する。長径間吊橋の耐風、耐震、耐久性など難題は山積みでした。62年1月から土木学会の調査委員会が始まり、4月には私も本省の道路局企画課長補佐を拝命しまして、調査分野に張り付きました。
一方で、徳島、香川、愛媛の三県は、まずは自分のところに橋を架けてもらおうと、地元選出の国会議員や県知事を中心に猛烈な誘致合戦が展開されました。いわゆる「ルート争い」です。兵庫・徳島は原健三郎さん、香川は大平正芳さん、広島に宮澤喜一さん、愛媛は知事の白石春樹さんたちが、こっちが先だ、と旗をふる。地元からの陳情合戦が続きました。62年7月に河野一郎さんが建設大臣に就任し、「建設省としては、明石〜淡路島〜鳴門を結ぶものから実現するよう計画している。他のルートも順次橋を架けたい」と発言して、大騒ぎになったのです。
山岡 河野一郎さんですか。この連載では、河川や道路、東京五輪の渇水対策でも名前が出てきました。息子の洋平さん、孫の太郎さんからは想像しにくい剛腕政治家。明石―鳴門を優先したのは、阪神経済圏が近く、経済効果が大きい、と判断したからでしょうか?
山根 そうでしょう。ただ、政治が過熱しても、技術的評価は、しっかりしなくてはなりません。実際に橋を架けるうえで、どのルートが最も確実で、安全で、経済的にも有利なのか、各分野の専門家が…議論をしました。5年ちかくの調査を経て、技術的な難易度では、明石―鳴門が最も難しく、児島―坂出がその次に難しい。尾道―今治が最も確実、となった。しかし、明石―鳴門に橋を架けられないわけではない。それで67年5月、本四連絡橋調査委員会は、最終委員会の後に記者会見を開いて、「中央支間長1500m級の吊橋上部構造の建設は、技術的に可能であると考えられ、約50mの水深で大きな潮流のもとでの海中基礎の建設は、今後の調査検討により可能な方法を見出し得るものと考えられる」と正式に発表します。
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