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文部スレ

1とはずがたり:2005/05/22(日) 12:54:46
教育一般。

文部科学省
http://www.mext.go.jp/

3802とはずがたり:2018/10/21(日) 12:18:41
ちょいと謙遜したり偽悪者ぶったりしている研究者の恥じらいなんか誰も忖度してくれないってことだよなw

>1つ目の例は、小柴昌俊教授がノーベル賞を受賞したときに、TVのアナウンサーから「ニュートリノの発見は、どんな役に立つのでしょう?」と聞かれたときの発言。
>「100年たっても、何の役にも立たんでしょうな。ぐわっはっは」
小柴先生素敵だ,惚れそうw

2018.10.17
「研究費をばらまけ」と言ってはいけない本当の理由
研究者の「3大NGワード」対策を教授
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57913?media=bb
近藤 滋大阪大学大学院教授・生命科学者

日本発の論文の数が減少し、日本の大学の研究レベルが国際的に落ちているという、衝撃的なデータが公開されました。日本の基礎科学の危機が叫ばれています。

何とかしなければいけない、と、SNSで盛んに警鐘を鳴らしている研究者もいらっしゃいます。

特に最近は、政府主導の「選択と集中」に対して反対する意見が述べられることが多いです。

その主なものが、タイトルに挙げた、「研究費はばらまきがよい」という意見。他にも、「研究者が好きなことをできる環境を」「役に立たない研究に価値がある」などなど。

だが、どんなに警鐘を鳴らして(鳴らしたつもりになって)も、政府も一般社会も反応する気配はありません。

たまに、ノーベル賞学者が同じコメントを発し、マスコミがそれを取り上げると、研究者は「そうだ! その通りだ!」と反応します。ですが、マスコミの取り上げ方自体が、どうもおざなりな感じで、何も変化が起きる気がしません。

もちろん、政府はまったく反応しない。研究者としては、ノーベル賞学者が言っても駄目なら、もうどうしようもない、とがっくり来る。これの繰り返し。

もう、あきらめるしかないのでしょうか?

だが、あきらめる前に、ここで、ちょっと自問してみましょう。本当に悪いのはマスコミや、一般社会の方だけですか?

もしかしたら、こちらの想いが伝わらないのは、単に、こっちの言い方が悪いのではないか? と。

言ってはいけない「3つのNGワード」
まず、第一に我々が肝に銘じなければいけないのは、「言葉を一度発してしまえば、その解釈は、それを受け取る側に自由がある」ということです。

さらに、「研究者と一般の人との間には、ものを考える背景となる知識体系にかなりの『ずれ』がある」ということを意識しないといけません。

「研究費はばらまけ」
「研究者は好きなことをやればよい」
「役に立たない研究に価値がある」

この3つの主張は、研究者の感覚を持っていれば、確かにうなずけるものです。しかし、「バラマキ」、「好きなこと」、「役に立たない」という語には、ネガティブな意味が含まれており、研究者以外の人は、それにまず反応してしまう可能性が高いのです。

たとえば、政治家が以下のようなことを言ったら、どうか。

「政府は、インフラ整備のお金をばらまくのがよい」
「官僚は、自分の好きな事業だけに集中すればよい」
「役に立たない公共事業に価値がある」

当然、「なに、ふざけたことをぬかしとんじゃ」としか思えないでしょう。

それと比べて、「選択と集中」という言葉の健全さ、ポジティブさはどうでしょう。

それで有効な選択が本当にできるかどうか。実はそっちのほうが効率が悪いかもしれない……。という現実は別にしても、ばらまいたり、好き勝手にやらせたりするよりも、はるかにましに聞こえるはず。

これでは、世間が科学者の叫びに反応しなくても当たり前です。

これら3つの主張が成立するためには、研究者間で共有されている常識と考えが必要で、それをきちんと説明したうえで使わないと危険なのです。

特に、新聞やTVなどで、1つのフレーズだけを切り取られると、言葉の印象のみが強く残り、逆効果になる可能性がさらに高くなる。気を付けなければいけません。

では、どのように言いかえればよいか?

以下に愚見を述べさせていただきましたので、参考にしていただけると幸いです。

3803とはずがたり:2018/10/21(日) 12:19:02

「ばらまき」の本当の意味
よく考えてみましょう。そもそも、我々は、文字通りのばらまきなんか望んでいないのではないですか?

基礎科学における研究費のほとんどは、文科省の科研費(科学研究費補助金)です。

科研費に応募するには、研究計画調書を提出する必要があります。これが専門の科学者の間で査読され、厳しく選別された後に、おおよそ20%が採択されて、科研費が配分されることになります。

しかも、配分額の大きなものは、ほんのごく一部(0.1%くらい?)。これは、選択と集中そのものです。

文字通りの「ばらまき」を望むのであれば、この科研費制度を変えろ、となるはずですが、それを意図した科学者によるコメントはほとんどありません(もっと配分率を増やせるくらいの予算がほしい、というのはありますが)。

なぜか?

それは、「ばらまき」の反語である「選択と集中」の意味を考えるとよくわかります。

基礎研究者の多くが反対している「選択と集中」は、「研究費配分の権限を持っているが、科学に対して正確な理解と知識がない者」によって、「近い将来、儲かるかどうか」を基準に行われる「選択と集中」です。

研究者たちは、それにより、特定の分野以外が切り捨てられることに反対しているのです。

行き過ぎたものでなければ、選択と集中はある意味当然。科研費はそういうシステムです。

大事なのは、非専門家の思いつきではなく、「科学者の相互評価システム」にまかせろ、ということ。

そのほうが絶対に間違いが少ない。そして結果的に、広い分野に配分されることになる。こうしたことから、「ばらまき」という表現が出てきたのだと思います。

残念ながら、言葉の選び方が良くなかったのでしょう。

money正しい「選択と集中」でばらまくべき Photo by Christine Roy on Unsplash
信頼できる専門家にまかせたい
専門家にまかせろ、というのは、当然の理屈なので、ある程度の説得力はあると思います。

たとえば、「あなたは、株の運用や投資を、素人に任せたいですか?」と聞けば、誰だって「専門家がいい」と答えるはず。

また、これまでの成果を見れば、日本の科研費制度はかなり良くやっていたことは明らか。

かつて2000年に、「50年でノーベル賞受賞者30人!」と文科省がぶち上げ、それを聞いた多くの人が「そりゃあ、無理だろう」と突っ込んだことがありました。ところが、あれから18年たってみると、年に1人の割合で受賞しており、楽勝ペースなのですから。

ただ、やはり大前提として、科学者が、一般社会から信頼されていることが前提となります。信頼がなければまかせてもらえません。

そこで問題となるのが、「科学者は好きなことをやればよい」「自分が面白いと思うことをするのがよい」というコメントです。これがまた疑惑を生む。

「好きなことなら、自分のお金でやれよ」という突っ込みが浮かんでくると思いませんか?

で、ここでもう一度、胸に手を当てて、考えていただきたい。

そもそも、プロの研究者であれば、研究対象がなんでもいいだなんて、まったく思ってないでしょう。それどころか、研究を始める時に、いや、始めたあとでも、それをやることの意義、意味、価値について、必死に考えているじゃあないですか。それを、日常的に議論していますよね。

だから、この「好きなことをやればよい」というのは、一般の人が受け取るのと意味が違うのです。

「好きなことをやればよい」の正しい意味
では、研究者が「面白い」と感じるポイントは何なのか? それはおそらく、分野も国籍も関係なく共通で、以下のようなものです。

世界の誰も知らなかった現象。

不可能を可能にする技術。

常識を覆すアイデア。

無関係と思われていたさまざまなものを統一できる理論。

要するに、研究者というものは、未来を変える可能性のあるものが大好きなのですよ。

そもそも、科学は本質的にイノベーションを志向するものです。多くの科学者にとっての「イノベーション」は、「現在の科学体系」に対するイノベーションであり、一般の意味とは少し違います。それは確かです。

しかし、科学におけるイノベーションの多くが、一般社会にも革命的な変化を及ぼすことは、これまでの歴史が証明している通りです。

3804とはずがたり:2018/10/21(日) 12:19:24
>>3802-3804
だから、「科学者は好きなことをやればよい」の正しい意味はこうなります。

「個々の研究者のイノベーションマインドにまかせて、できるだけ自由にやらせたほうが、結果として真のイノベーションを生む確率は高くなる。かつて計画経済よりも、個々の経済活動にまかせたほうがはるかに効率が良かったのと同じように」

これなら、一般の方からも、反発を受けることはなかろうと思います。

「役に立たない」の2つの意味
お察しのように、実は、これが一番の難物です。

「役に立たないことはしてはいけない」は一般社会の常識なので。

科学者が、この言葉を肯定的に使う場合、2つの意味があります。

1つ目の例は、小柴昌俊教授がノーベル賞を受賞したときに、TVのアナウンサーから「ニュートリノの発見は、どんな役に立つのでしょう?」と聞かれたときの発言。

「100年たっても、何の役にも立たんでしょうな。ぐわっはっは」

これは、謙遜や自虐ではありません。

「100年ぐらいで実用化できるような、そんじょそこらの発見じゃないんだぜ」

という意味。豪快です。ちょっと普通の研究者には真似ができません。

ですから、たいていは、もう1つのこんな意味で使われています。

「現在、何の役に立つのかわからず、脚光を浴びていなくても、ちゃんと価値はある」

なぜそう言えるのかというと、科学というものが、個々の研究の集合体ではなく、1つの“科学体系”として存在しているためです。

すべての現象は、共通の自然法則の下にあり、そのため、背後で緊密につながっています。1つの現象に対する新しい理解は、同じ分野の他の研究すべてに影響を及ぼすし、まったく異なる分野の研究に、革命的な進展を促したりすることもよくあります。

ですから、科学の進歩は、バラバラに起きるのではなく、科学体系全体として進んでいくのです。

そして、もう1つ大事なことがあります。新しい科学的イノベーションの多くは、まったく予期しないところからやってくるのが常、ということ。

だから、今現在、何の役に立つかわからないという分野であっても、ないがしろにはできません。むしろ、そのような引き出しをたくさん持っていることが、科学体系としての強さにつながるのです。

そうなると、気まぐれな「選択と集中」より、「広く浅く」のほうが、より、安全かつ効率的であるのは当然です。

科研費を申請できるようになるには、大学や研究所内にポストを得ることが必要だから、それだけで、かなりの「選択」をかいくぐってきていることになります。

だから、そうした研究者たちに「広く浅く」をやっても、無駄なバラマキにはなりません。

理解してもらえるように言い換えてみた
以上をまとめると、

「研究費はばら撒け」 → 研究者間の相互評価に任せろ

「好きなことをやればよい」 → 研究者の「好きなこと」はイノベーションだ

「役に立たなくてよい」 → 科学は総合力であり、幅の広さが力である

となります。

現代の科学研究には、一般社会からの理解と支援が欠かせません。理解してもらえるような情報を提供するのは、我々の責任です。

SNSをやっている研究者の皆さん。あなたのコメントを誰が見ているかわかりません。そのコメントが正しい意味で伝わるように、細心の注意を払ってください。

著名な科学者の皆さん。あなたたちの責任はもっと重大です。言いっぱなしではだめです。ちゃんと、皆さんのコメントが実効力を持つように、力を尽くしていただくことを希望します。

(著者ブログより転載)


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