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電力・発電・原子力スレ
2103
:
とはずがたり
:2014/04/05(土) 16:44:39
>>2100-2103
祖国復興の第一線
技術面の米国流は積極的に吸収した九電だが、「文化の壁」を乗り越えるのは大変だった。
社運をかけた国内最新鋭の苅田発電所は、昭和31年3月31日までに営業運転を始めることが、佐藤篤二郎社長の至上命令だった。
ところが、米国人の技術指導員には「残業」の概念はなく1日8時間労働をきちんと守る。着工からわずか1年半の工期での完成にも「絶対に無理だ」と口をそろえた。
技術課長だった古賀氏はこう言い返した。
「1日は8時間じゃない。24時間あるんだ。3交代で24時間ぶっ通しで建設を進めることができる!」
古賀氏は戦時中、軍隊で後方部隊に従事し、前線に送り出した戦友は数多く亡くなった。それだけに「祖国復興の戦いでは、第一線で働きたい」との思いが強かったのだろう。
また、日本では監督官庁の通商産業省(現経済産業省)が発電所の図面提出を義務付けていた。これが米国人には理解できない。
「図面は会社の財産じゃないか。アメリカ政府にも提出してない図面を、なぜ日本政府に出す必要があるのか?」
何度、日本の仕組みを説明しても納得してもらえない。九電側は非常手段に出た。ある九電関係者は、全員が帰宅した米国人の仕事部屋に合鍵を使って入り、図面を取り出して、知り合いの青写真屋でコピーを取った。そして原本を翌朝までに仕事部屋に返却。現在ならば裁判沙汰や外交問題になりかねない綱渡りの所業だった。
そんな努力の末、苅田発電所は31年3月31日午後11時40分、全ての検査を完了し、営業運転を開始した。経営陣が定めた期日ぎりぎりだった。
九州から東北へ
全身全霊を込めて米国の技術を吸収しようという九電の技師たちの姿勢は、米国人技術指導員の「日本人」への認識をも改めさせ、やがて敬意さえ抱くようになってきた。
そうなると打ち解けるのも早い。
技師たちが使うハンコを見て「自分たちにも作ってほしい」とねだる米国人もいた。バッカーを「幕火」、アーランは「阿蘭」、アルガーは「有賀」−。そんな風変わりなハンコを作ってもらい、喜んでサイン代わりに使った。
運転開始後、古賀氏は「幕火」ことバッカー氏とゴルフに行った際、こう打ち明けられた。
「日本人はたいしたものだ。技術力はハイレベルで逆に自分が教わることもあった。近い将来、君たち日本は躍進するだろう」
その言葉は、古賀氏の心中にあった、かつての敵国人に対するわだかまりも溶かしていった。
その後、九州に苅田発電所をモデルとした新鋭火力が次々と誕生する。その新しい火は、東北地方にも“飛び火”した。
100人を超える技師が、火力発電所建設に本腰を入れようとする東北電力に請われ、移籍した。彼らは八戸発電所などの建設に大きく寄与した。
全国に名をとどろかせた「火力の九電」。それは苅田から始まった。
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