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スーフィズムに関するHP
1158
:
名無しさん
:2015/10/30(金) 23:35:45
>>1157
後年イギリス大使となるピコはアナトリアを来訪し、トルコの新たな主役であるムスタファ・ケマルと会談した。
ピコはムスタファ・ケマルにトルコの新体制へのフランスの支援を通知し、ごく短期間の後に、フランス軍は以前占領していたアナトリアの全土から撤退したのだ。
反対に、サイクスは1919年のパリ講和会議の最中に奇妙にもスペイン風邪に罹患し、亡くなったのだ。
彼がイギリス外務省の名でサインした合意によって、パレスティナの土地でユダヤ人国家設立をかかげることが明らかとなったが、この合意はバルフォア宣言として知られている。
1920年4月にトルコでアンカラ新政権(ムスタファ・ケマル)が樹立される一方で、サンレモ会談が開かれ、イギリスはフランスと再度合意に達している。
フランスは、イラクの石油の25%の分け前とシリアと引き換えに、モスルを含むイラクの土地をイギリスに引き渡したのだ。
トルコ国内がバラバラになる一方で、イギリスはトルコからモスルを守るために東アナトリアとイラクにクルド人国家を設立することを考えていたのだ。
1919年イギリスはクルド人を利用してトルコからモスルの油田地帯を守るために英国諜報将校のノエル大佐を派遣した。
第1次大戦中、イスラム教徒のクルド人はトルコを支援していたが、その時イギリスはアルバニアと同じような手口でクルド人に国の設立を約束していたのだ。
しかし、これは容易ではなかったのだ。イギリスは、クルド人たちが協力的でなく、自治能力がなく、敵対的な部族構造による国民感情を考えこの動きを躊躇したのだった。
ローザンヌ条約でトルコがモスルをあきらめた時、クルド人国家計画は終わったのだった。
これらすべてのことが起こっている間、大洋を挟んで常に中立だと思われていたアメリカ合衆国はこれらすべてに関係しつつもカーテンで隠されながら重要な役割を演じていたのだった。
第1次大戦により、ある重要な任務がアメリカに課せられたのだが、アメリカは喜んでそれを受けたのだ。
このようにして、イギリスとフランスが画策した「世界新秩序」の主役はアメリカとなり、アメリカは全エネルギー資源の支配を望んだのだった。
しかし、アメリカにとって、中東のことをよくわかっていないがゆえに、新たな統治者と一緒に引かれた人工的な国境を意のままに操るのは容易ではなかったのだった。
サイクス・ピコ合意によってひかれた国境線は、この地域が将来に直面する未曾有の混乱の伏線であったのだ。
それとは逆に、大国はトルコ人、アラブ人、イラン人に対して優位に立とうとして、常にクルド人問題にこだわるのだ。
参照元メディア:www.dailysabah.com
参照元記事URL:
http://www.dailysabah.com/features/2015/07/10/sykes-picot-the-western-agreement-that-sealed-the-middle-easts-doom
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