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スーフィズムに関するHP

1157名無しさん:2015/10/30(金) 23:35:37
>>1156

外交においてダブルスタンダードを演じていることに気づきつつも、イギリスは中東に対して他の政策を実行したのだ。
マーク・サイクスは、カソリック協会の外交官の息子で、イェズス界の学校で訓練を受けたのだが、彼はオスマン帝国内で特権を有した外交官であり、代理大使であった。

彼はイスタンブールに滞在したが、サイクスは今日のいわゆる政治家や歴史家には見えないが、1つ重要なことに気づいていたのだ。
「アブデュルハミドの退位は暴君の失墜ではない。これは社会と見識の崩壊であるのだ。宗教を基盤とした帝国の威信と伝統に代わり、無神論、唯物論、自由が受け入れられたのだ。」

「イスタンブールは1時間で変わった。民衆の心の支えであるイスラム教と軍隊の勢いは突然なくなったのだ。」

「カリフと聖職者とコーランは判断することを止め、もはや心の源泉とはならなくなった。」とサイクスはかつて言っているのだ。


第1次大戦中ガリーポリ、エジプト、アデン、イラクで諜報員として、サイクスはイギリス支配の下で石油備蓄の確保とパレスチナにユダヤ人国家建国に責任があったのだ。


イラクでオスマン帝国に対するイギリス側の軍勢が敗れて2週間後の1916年5月16日、サイクス・ピコ合意がロンドンで行われた。

この合意によれば、フランスは、トルコのアダナ、アンテップ、ウルファ、マルディン、ディヤルバクールに加えて、シリアとレバノンを獲得し、パレスティナとイラクはイギリスに割り当てられている。

ロシアについても触れられており、トルコのトラブゾンと、エルズルム、ワン、ビトリスが約束されていたのだった。

アラビア半島中で小さな委任国家が樹立される予定で、トルコのイスケンデルン(イスカンダル)は自由交易港とされ、一方で、イェルサレムは自由都市とされた。

サイクスは、トルコ寄りからシオニスト寄りに役割を変え、パレスティナにユダヤ人国家設立の道を開いたのだった。

こんなわけでパレスティナは「3つの陣営から約束の土地」と言われるのであり、結局のところ、アラビアとヨルダンとイラクはフセイン・ビン・アリと彼の息子のものとなったのだ。


アラビアがイギリスの強力な味方であるイブン・アル・サウドに与えられた時、フセイン・ビン・アリは、だまされたことに気づき、イギリスの言うことが正しいと信じたことが間違っていたのだと気づいたのだった。


大戦末期に、フセイン・ビン・アリの2人の息子がイラクとヨルダンの王になったが、彼はキプロスに追放されたのだった。


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