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スーフィズムに関するHP
1156
:
名無しさん
:2015/10/30(金) 23:35:08
サイクス・ピコ:中東の運命を決めた西側諸国の合意 | カッパドキアプレス
http://cappadociapress.net/turkey_news/2015/07/19/1400
ホーム >トルコのニュース >dailysabah紙ニュース
サイクス・ピコ:中東の運命を決めた西側諸国の合意
Posted on by cappadociapress0 Comments
第1次大戦中、連合軍はオスマン帝国を打ち破り戦後のヨーロッパ植民地時代の布石として中東の地図を塗り替えたのた。
彼らは(連合軍)は自分たちの利益を守るために、この地域の特性を無視し、彼らの政治によって人工的な国境を引き、今日まで続く紛争の種をまいたのだった。
フランスとイギリスは、以前にはオスマン帝国と常に良好な関係にあったが、双方とも貿易や外交的目的を超越した、中東支配の確立という意図を持っていたのだ。
この構図は、彼らのライバルであるロシア帝国に対抗してオスマン帝国を支援するという政治的な理由からであった。
19世紀の終わりに向けて風向きが急に変わり、ロシアとイギリスの関係がかなり改善したのだ。
イギリスはロシアと交渉し、オスマン帝国についてはもはや良くは考えなくなったのだった。
イギリスは、オスマン帝国が中東を手放し、オスマン帝国が弱体化した国家として存在し続けるか、完全に解体するよう仕向けるたくらみを始めたのだ。
スルタン・アブデュルハミドは、イギリス、ロシア、フランスとの関係維持に努めたが、同時に支援者を探し、同盟者としてドイツが浮上したのだ。
しかし、中東に関するドイツの思惑も他の国のものとさほど変わらなかったのだ。
スルタン・アブデュルハミドは1909年に廃位され、オスマン帝国はドイツびいきの者たちに乗っ取られ、ドイツが支配するようになった。
オスマン帝国の未来はドイツと同盟し、イギリス、フランス、ロシア間の同盟国に敵対して第1次大戦に参戦したときに完全に変わってしまったのだ。
オスマン帝国が戦争に勝つかそうでないかにかかわらず、多くのことを妥協せねばならないことは明白であったのだ。
数年後、5世紀にもわたりオスマン帝国支配下で暮らしてきたアルバニアのイスラム教徒たちは、オーブレイ・ヘルベルトなどイギリスの諜報将校たちの組織的な成功によって独立を勝ち取ったのだが、バルカン半島での新国家設立により、オスマン帝国はアドリア海との関係を断ち切られたのだ。
そして、同様のたくらみが中東でも実行されていたのだった。
統一と進歩委員会(CUP)によって、待望の機会が与えられたのだ。
民族主義者たち(主に青年トルコ党の統一と進歩委員会員)が戦時中に汎トルコ主義を実践したことで、特にアラブ人と他のオスマン社会で不満を生んだのだ。
オスマン帝国支配下でメッカの自治太守であったフセイン・ビン・アリは統一と進歩委員会(CUP)の支配体制と衝突し、フセインの息子のアブドゥラーの助けを借りて、フセインはイギリスと連絡を取ったのだ。
フセインは1916年に統一と進歩委員会(CUP)が反宗教的な行為を行っていると警告し、2つの通達を発した。
フセインは反逆者と断定され、シリアの統治者ケマル・パシャの命により、アラブ寄りの自立民族主義者に加えて、フセインの親族と義理の息子に対する処刑が実行されると、フセインとオスマン帝国の関係は断絶されたのだった。
この段階で、エジプトのイギリス事務所のアラブ局に赴任し、アラビア人をイギリス側につかせ、第1次大戦中にアラビア民族独立運動を巻き起こすよう命じられた諜報将校アラビアのロレンスが登場したのだ。
ロレンスはイスタンブールで何年も高級官僚として勤務したフセイン・ビン・アリとオスマン帝国議会にいるフセインの他の息子たちと連絡を取り、反乱の見返りとしてアラビア半島に沿って、シリアからイラク、イェメンまでに及ぶアル・ハシム・アラビアイスラム帝国の創設を約束したのだった。
その間、アル・アヒドという名のアラブ人民族主義者が彼らを支援したのだ。しかし、戦争初期にイギリスはフランスにレバノン、パレスティナを含むシリア領土の割譲を約束したのだ。
大戦中、トルコ専門家であるアラブ局のオーブレイ・ヘルベルトは、イギリスはもはやフランスを必要とせず、反トルコのためにアラブ人を利用するよう統一と進歩委員会(CUP)を嫌うフセイン・ビン・アリと交渉する必要があるという報告を用意していた。
彼の報告では、シリアはアラブ人に与えられるべきだとされている。
その間、フセインはイギリスのエジプト統治者と折り合いがつき、彼の息子と共に1916年11月にアラブ人反乱を開始したのだった。
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