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化学・薬品産業総合スレッド

1荷主研究者:2003/12/07(日) 23:23
これまで「石油・LNGなど=エネルギー総合スレ=」で扱ってきた化学系のネタを独立させます。

社団法人日本化学工業協会
http://www.nikkakyo.org/

石油化学工業協会
http://www.jpca.or.jp/

化学工業日報
http://www.chemicaldaily.co.jp/

石油化学データベース
http://kaznak.web.infoseek.co.jp/new.htm

1748荷主研究者:2016/11/12(土) 18:45:24

http://www.kagakukogyonippo.com/headline/2016/10/17-26631.html
2016年10月17日 化学工業日報
【戦後70年 激動の化学】 リーダーの証言 / ダイセル 小川大介相談役 《上》

 安定性と将来性を併せ持つ化学企業として、各方面から高い評価を集めているダイセル。その基盤は、就任初年度の1999年度から9期連続で増益を達成した小川大介社長(現相談役)の時代に築かれた。小川氏が実践したのは、ユニークで高い技術力を持つ事業への選択と集中だ。「他社と同じことをやっていては収益は上がらない」。

 現在のダイセルの事業をみると、自動車エアバッグ用インフレータ(ガス発生装置)、タバコ用フィルター原料(アセテート・トウ)、液晶保護フィルム用原料の酢酸セルロース(TAC)、光学異性体分離(キラル)事業など、屋台骨を支える主力製品に世界シェアトップクラスの製品がずらりと並ぶ。どれも小川氏が社長時代に思い切って経営資源を投入した事業だ。

 大型投資やM&A(合併・買収)といった重要案件の決断では、即断即決を旨とした。「考えを巡らせるばかりで決断しないのが一番まずい。できるだけ時間をかけないで判断してきた」。一体、何が判断基準だったのか。小川氏は、「経営者に大切なのは感性、感覚であり、僕は感覚的に判断してきた」と応じてから「ツキもあった。でもツイているように見える人は、実は陰でいろいろ勉強している。だからツイている人の感性は当たるんですよ」と付け加えた。小川氏のその感性は、社長就任の前からダイセルに大きな影響を及ぼし始めていた。

PS事業の蹉跌

 「昔のよしみで酒でも飲もう」。97年、前年の取締役経営企画部長から1年で常務に昇格した小川氏に、電気化学工業(現デンカ)の松上孝専務から連絡があった。「松上さんとは有機化学品の酢酸営業担当時代に交流があった」。会うと、話はダイセルが93年に新規参入したばかりのポリスチレン(PS)事業に及んだ。電気化学はPS業界の雄で、シンガポールにも工場を持っている。国内だけの生産能力でみても、年産5万トン強にすぎないダイセルの4倍以上だった。「ウチでもPS事業はガタガタなのに、君のところは大丈夫なのか」。

 松上氏の指摘どおりだった。「新規参入で規模も小さく、製造プロセスにも優位性はなかった。当社のPS事業の存続が難しいことは、社内の人間も理解していた」。

 ダイセルは1919年(大正8年)、国内の大手セルロイドメーカー8社が事業統合し、大日本セルロイドとして創業した。食器、眼鏡フレーム、文具、玩具、写真フィルムなどに大量に消費されていたセルロイドは、人類が初めて実用化した熱可塑性樹脂だ。その流れを汲む合成樹脂事業では、82年の堺工場の事故により重合プロセスを手放しており、事業付加価値の向上を狙って、PS重合からの垂直事業展開を図ったものだった。

 しかし、バブルが崩壊して失われた20年が始まる90年代は、化学業界にとっても苦難の時代だった。とくに汎用樹脂は、韓国、台湾など周辺国での事業化が相次いだことや、折からの円高もあり国際競争が激化した。結果として国内では業界再編の嵐が吹き荒れた。

東洋スチレン

 松上氏は小川氏にPS事業の統合を提案した。「その提案を児島社長に上げ、統合を進めようということになった」。98年度にはスチレン事業で40億円を超える損失を出す中、電気化学との協議を進め、99年、新日鉄化学(現新日鉄住金化学)も加えた3社でPS事業を統合し東洋スチレンを設立した。

 「松上さんは本体の電気化学から離れ、『俺は東洋スチレンの人間だ』という考えで事業統合を進められたので、われわれも乗りやすかった。ただ、資産の簿価を落として事業移管するなど、当社も相当出血した」。

 ダイセルがPS事業に費やした資金は総額500億円を超えていた。しかし、小川氏はこの決断が後にダイセルが進める事業の選択と集中に大きく寄与したと指摘する。「スチレン事業から手を抜けなかったら、他の戦略事業を伸ばすことは難しかった」。

1749荷主研究者:2016/11/12(土) 18:46:10
>>1748-1749 続き

ダイセル式生産革新

 小川氏が経営企画担当として手掛けた仕事に次世代化学工場構築プロジェクト(後の生産革新プロジェクト)がある。ダイセル式生産革新は今や、21世紀型のモノづくりイノベーションとしてその名を轟かせている。しかし、用役、原料、製品などのパイプラインが複雑に絡み合う化学工場で、生産性を革命的に改善することは想像をはるかに超える大仕事だった。若手の技術者が中心となり、主力の網干工場で実施するそのプロジェクトは、「社内に摩擦を引き起こした」が、これを支持し若手を支援したのが経営企画時代の小川氏だった。

 「最終的に決断した児島社長は立派だったが、役員の間でも意見が分かれていた。結構な投資も必要だった。それでもプロジェクトを発案し推進した小河義美さん(現取締役常務執行役員)など若手は、このプロジェクトに相当な覚悟を持っていた」。人生を賭けて会社を改革したいと訴える社員の覚悟を、小川氏の感性は見逃さなかった。「彼らの目の光を見たら、わかるじゃないですか。逆にこれができなかったら、優秀な人材が会社を辞めてしまうという危機感を持った」。

 「まずは、簡単で泥くさいことから始めた」というそのプロジェクトは、後にグローバル競争を打ち勝つ強靭な生産現場をダイセルにもたらしたばかりか、社内の意識変革に大きな力を発揮したという。「初めはみな、お手並み拝見とばかりに冷ややかに見ていた。しかし、実際に生産革新を進めるとトラブルが減ってくる。現場の負荷が減り安全性も高まる。それを見て、われわれもやるか、応援しようかという人達が少しずつ増えていった。当社の意識改革を促す大きな契機となった」。

負の遺産

 経営企画担当常務としてのメインの仕事は、2000年度からスタートする10年間の長期経営計画作りだった。小川氏は、ダイセルの将来に危機感を持つ30代、40代の若手を長期計画作りに参画させ、合宿を重ねながらダイセルの未来の姿を描いていった。PS事業は再編に漕ぎ着けたとはいえ、ダイセルはそれ以外にも「負の遺産に苦しんでいた」。食品添加物事業では、米国向け輸出で内外の大手メーカーが関連するカルテルの嫌疑がかけられた。ライフサイエンス事業では、「大きく期待していた製薬会社の大型新薬向けの原体事業がとん挫した。上市までされたのに副作用問題で、それまでの投資がフイになった」。

 こうしたさなかに児島社長に呼び出された。後任社長を託されたのだ。取締役に昇格してからまだ3年。55歳だった。


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