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鉄鋼・非鉄金属スレッド

2000とはずがたり:2018/12/25(火) 00:41:40
>>1998-2000
東北硫黄の主な出荷先
パルプ工場
東北パルプ秋田(新屋),石巻(石巻港),北越製紙(焼島),十條製紙八代(八代),伏木(伏木),坂本(肥薩線坂本?),興国人絹富山,山陽パルプ岩国(岩国),国策パルプ旭川(新旭川)

二硫化工場
日東紡福島(南福島),中国産業(?),東京セロファン紙喜多方(→東京と浜松[天竜川のソーダニッカに]の自社工場)

化学薬品工場
大内新興化学工業(須賀川・現在でも安治川口→郡山タで二硫化炭素輸送ttp://butsuryu.web.fc2.com/shiyu-container_tank02.html#ut7c-5010を行っている。)・三笠化学甘木・日本化学福山

農薬工場
全国農協大船・庵原農薬清水

山元価格3万 秋田での工場著値段は30,685円で延岡だと32,732円

二硫化炭素工業
昭和27年当時の地域別生産量は,中国8工場,近畿7工場が集中していてこの両地域で全国生産量の2/3を占めている。

東北7県 6,538
関東・信越 1,608
近畿 12,821
中国 29,660
四国 6,755
九州 6,048

紙パルプ
パルプ工業は硫黄の消費に於いては二硫化炭素に次ぐものであるが,その原料構成に於いて硫黄の占める割合は少ない。
パルプ工業の立地は原木産地及び製品の消費市場に近いこと。

154 名前:とはずがたり[] 投稿日:2013/01/02(水) 11:07:49

二硫化炭素の大手メーカー四国化成工業の社史(『四国化成五十年史』四国化成工業(株)社史編纂室 1997年)に拠ると戦中から昭和20年代の硫黄流通の様子が判って面白い。

同書によると以下の如し。
>世界有数の火山国である日本は硫黄資源に恵まれ,戦前の一時期には海外への輸出も盛んに行われていた。しかし太平洋戦争の進展にともなって平和産業である化繊産業は極めて不遇の地位に置かれ,その影響を受けて硫黄産業の操業も全面的に制約された。1944(昭和19)年には政府の企業整備令によって40数山あった硫黄鉱山は7社9鉱山に整理され,生産高も終戦翌年の46年には2万2,145tと,最盛時37(昭和12)年の24万tの10分の1以下にまで落ち込んでいた。
>一方,需要産業である化繊や紙・パルプの業界は,戦後の需要復興の波に乗って急速に生産を伸ばした。その結果,"黄色いダイヤ""硫黄飢饉"と形容されたように,硫黄は貴重品と化した。需要者(二硫化炭素メーカーを含めて)は硫黄会社や山元に殺到し,激烈な争奪戦を展開した。まだ出来立ての硫黄を需要者差し回しのトラックが先を争って運び出すという騒ぎで,もはや山元(鉱山)在庫も消費者在庫もなく,生産即消費という状況が続いた。
>硫黄は戦時中から引き続き統制下にあり,公定価格が定められていたが,諸物価の高騰とともにしばしば改定された。46年には980円/t(売手指定置き場渡し)であったのが48年には13,280円/t(バラ買手工場貨車乗せまたは本船渡し)と実質12倍になったが,品不足を反映してヤミ値はその2〜3倍が常識だった。このため需要者は硫黄鉱区があると聞くと直ちに現場も見ずに開発資金を出し,またそれに付け込むニワカ山師の跳梁により,手痛い損害を受けた話も数多く残されている。


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