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製紙産業スレッド

714とはずがたり:2016/01/07(木) 13:48:47
山行がの掲示板に貼ってあった。
すげえw

四日市製紙専用鉄道の大型吊橋・富士橋
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2003/23-0083.pdf

中身を適宜wiki等で補いつつ抜粋。

王子エフテックの前身の王子系四日市製紙は水力立地(当時,原材料のボロ・ワラから木材へ石炭蒸気から水力(水車動力)へ動力が移動(退行?)したという・・山林立地という訳らしい)で現在地(富士川と芝川の合流点)を選択1898年に工場設立とのこと。一方の富士製紙は入山瀬に工場を建設(1890),鈴川〜入山瀬に富士馬車鉄道を敷設する(1890)。富士は1898年以降王子を抜いてトップ企業になる(その後王子も巻き返して1912年にはトップに返り咲き,更に結局富士製紙と樺太工業も吸収し,その後の戦後の3分割に至るのはご承知の通り)。四日市製紙はそのライバル,富士身延鉄道+富士製紙連合に対抗すべく岩渕〜芝川に専用鉄道敷設を計画,実際に芝川付近に架橋したものの,第一次大戦の影響でイギリスより蒸気機関車が到着せず,馬車鉄道として建設した。

身延線の建設に関しては西岸の富士川鉄道のち駿甲鉄道更に甲駿鉄道(岩渕から興津へ起点変更,岩渕は四日市製紙専用鉄道に期待)vs東岸の富士身延鉄道の争いになったが富士川鉄道が日清戦争後の混乱で免許を失効する一方で富士馬車鉄道を買収して先んじた富士身延鉄道の勝利となる。

技術上の面もあり,1914.3着工で1915.1に開通した馬車鉄道は芝川工場〜有無瀬川西岸に止まり,残る岩渕迄の2/3の行程は牛馬車による代行輸送を強いられている。一方で富士身延鉄道とは1913.12に協定が結ばれる事になった。1915.3には芝川駅まで延伸開業がなり,貨物輸送は身延線経由となってしまう。

その後,毎回申請して認められてきた専用鉄道竣工期限の延伸願が原内閣に依って拒否されてしまい,富士橋も1919.9に台風対策に落橋させられてしまい,更に富士製紙と四日市製紙が合併する事になり(この辺も暴れん坊だらけの製紙業界の伝統に違わず色々あったようである。)結局廃止されてしまう。王子を三井に追われて辞めた大川氏だが結局最終的に富士製紙・樺太工業を王子に譲る形になった。wikiに依ると浅野セメント(後の日本セメント、現・太平洋セメント)、札幌ビール、東洋汽船、日本鋼管など80余の企業経営に携わり「大川財閥」を作り上げた,とあるのでピンと来たが調べると矢張り鶴見線の大川駅は大川氏由来であった。


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