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国際関係・安全保障論
883
:
とはずがたり
:2005/03/10(木) 01:09:17
毛沢東もだまされた!信頼のオランダ政党、実はおとり
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050309-00000218-yom-int
中国共産党に信頼されたオランダ・マルクス・レーニン主義者党は、諜報(ちょうほう)機関が作った“おとり政党”だった――。
オランダ北部フローニンゲン近くのホテルで、白髪交じりの紳士が1970年代を振り返る。
元諜報機関幹部フリッツ・フクストラ氏(58)だ。同氏は、守秘義務を破り、元諜報員として初の暴露本を昨秋出版し、物議を醸している。
同党は「毛沢東主義」を掲げて1969年に誕生。中国共産党のオランダ国内への浸透ぶりをつかむのが狙いだった。諜報員ピーター・ブーベ氏が「クリス・ピーターセン」の名で書記長におさまるなど、党中枢20人の半数は諜報員だった。
本物の共産主義政党、オランダ共産党は指導者の独裁色が強く、かつ親ソ連派で、左翼・極左学生らに疎まれた。「親中派」のおとり政党はあっという間に支持を広げ、在ハーグ中国大使館の信頼を獲得した。
これを知った米中央情報局(CIA)がニクソン米大統領(当時)の72年の電撃訪中の直前あたりから、オランダ当局に協力を求めてきた。作戦は次第に中国の本音を探るものに変質していった。
「確か74年、ブーベは中国に招かれ、北京で毛沢東や周恩来と握手した。最高指導者の信頼を得た訳だ」とフクストラ氏。中国はおとり政党に「多額の資金援助」までしていた。「ブーベは見事に本家をだました」
また、諜報機関は、当時、中国とかかわりの深かったアルバニア、カンボジア両国との親善団体を装った「オランダ・アルバニア財団」「オランダ・カンボジア財団」もでっち上げて、おとり作戦を実行。ニセ政党とあわせて「モンゴル作戦」と名付け、中国系の反体制派の監視を続けた。同党は、CIAが独自に十分な情報を入手できるようになった80年ごろ、役目を終え自然消滅した。
フクストラ氏にとって、最も印象に残っているのは、過激派対策という。要人暗殺などテロを繰り返していた西独赤軍と連携するオランダの過激派組織に諜報員を多く潜り込ませた。「実業家暗殺計画や銀行強盗計画などすべて未然につぶした」。誇らしげな表情は一瞬だった。「だが、74年には日本赤軍の在ハーグ仏大使館占拠事件も起きた。今日、イスラム原理主義過激派の脅威がけん伝されるが、70年代から80年代の方がはるかに深刻だった」
本を書いたのは「冷戦時代の隠された面を証言し、誤った諜報機関像を修正したかった」からだ。だが、レムケス内相は出版に不快感を示し、訴追の構えを示している。
それでもフクストラ氏は動じていない。「出版は国家の安全を脅かしていない。情報源は明かしていない。訴追の理由は、ないのです」。こう言うと、コーヒーを飲み干した。(オランダ北部フローニンゲン近郊で 鶴原徹也)
(読売新聞) - 3月10日0時58分更新
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