したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

国際関係・安全保障論

791片言丸 </b><font color=#FF0000>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/01/27(木) 19:24:01
http://www.mizuho-ir.co.jp/research/seoul041108.html
高麗王朝を倒した朝鮮王朝の初代王、李成桂(太祖)によって1394年にソウルが韓半島の都となった。当時の名前はソウルではなく“漢城”と呼ばれていた。朝鮮王朝初期から文禄の役(1592年、日本の侵入)までの漢城の人口は約11万〜12万人程度であったと推測される。しかし、文禄の役と丙子胡乱(1636年、清の侵入)等で破壊された漢城は戦乱後、復旧に約100年かかった。

17世紀以降のソウルは漢江 を中心に商業の中心地として繁盛し、全国からの物資が集まる経済の中心地となっていった。

1910年には、日本占領下に置かれるとともに、漢城府から京城府へ改名され、首都ではなく、京畿道の一つの郡として降格された。まだ日本の支配が続いていた1936年には、京城都市計画が発表され、増加一辺倒だった人口を収容するために周辺の高陽郡、金浦郡、始興郡の一部をソウルに編入させた。

1945年の8月15日、日本から独立した後、京城府は再び韓国の首都として復権となり、名前も京城府からソウルに変わった。ソウルとは漢字語ではなく純粋な韓国の言葉であり、首都という意味をもつ。また、1948年の大韓民国政府樹立の翌年からはソウル市ではなくソウル特別市となった。首都として他の都市とは差別する意図があってようだ。この時期にまた周辺地域の一部がソウルに編入され、ソウルの面積は従前の2倍となった。人口が約160万人に達していたこの時期からソウルは大都会と化していった。しかし、隆盛もつかの間、1950年6月に勃発した韓国戦争(朝鮮戦争) によってソウルはまた、戦火に包まれ廃墟と化した。こうした波乱の時代を終え、1960年代と1970年代からのソウルは、名実ともに現代的な大都市として成長することとなった。

「京城」は差別語か
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuyondai
 1970年代だったと記憶するが、ある作家がその著作のなかで「京城」に「ソウル」というルビをふったところ、それは朝鮮人への差別であると糾弾されたことがあった。

 なぜ「京城」が差別語なのかというと、それまで朝鮮では首都を「京城」と呼ぶことはなかった、植民地支配の際に日本がこのような地名を強制した、今や北朝鮮も韓国も「ソウル」であるのに日本人が違う名称を使うというのは蔑視感の表れである、という論理であった。

 果たして、日韓併合以前に朝鮮人は自分の首都を「京城」(朝鮮語読みではキョンソン)と呼ばなかったというのは事実かどうか。

 手近にある本を捜して見ると、これは直ぐに見つかった。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、李氏朝鮮側に柳成竜という高官(日本の左大臣・太政大臣にあたる左議政・領議政)がいたが、彼はこの時のことを記録した『懲䑛録』を著し、後世への戒めとした。この著作の中では、自国の首都について「京」「京師」「都城」とともに「京城」を頻繁に使っているのである。つまり、朝鮮人自身は「京城」を使わなかったというのは、歴史事実に反するものである。

 また中国では日韓併合以前から現在に至るまで、一貫して朝鮮の首都を「漢城」と呼んでいる。これは北朝鮮でも韓国でも使っていないものである。朝鮮人自身が使わない首都の呼び名を中国は今なお使っている。しかし北も南もこれに抗議したことはない。

 日本人が「京城」を使った場合にのみ、差別だと大騒ぎになる、ということである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%83%AB%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B8%82


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板