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国際関係・安全保障論
5638
:
東北を速やかに日米共同統治の自治領に移行すべきだ
:2025/02/26(水) 00:04:51
〓従って東北の蝦夷(えみし)が源義経を担いで源頼朝の平家追討に積極的に加勢したのとは状況が まるで異なるのである。
〓後三年の役(1083年〜1087年)で勝者となったものの朝廷から私闘と看做された藤原清衡は、源八幡太郎義家の後ろ盾によって辛うじて奥州の覇者の地位を維持することができた。
〓根っからの無法者(『無性』)と藤原摂関家の帰依する法相宗が敵視する東北の蝦夷(えみし)が、こともあろうに“藤原氏”を名乗って奥州の覇者の地位に立つことを正真正銘の藤原摂関家が認めなかったのは当然と言えば当然だった。
〓要するに奥州の覇者たる藤原清衡の地位は朝廷(藤原摂関家)から公認されたものではなく、専ら『清和源氏の家来』として築かれた。
〓このような経緯から、源平合戦に際し、藤原秀衡は主君である清和源氏に加勢したと考えられる。
〓もっとも坂上田村麻呂以前から大和民族に対する反抗を繰り返す東北の蝦夷(えみし)の素行を熟知していた(法相宗に帰依する)藤原摂関家の助言により、勇猛ではあるが根っからの無法者である東北の蝦夷(えみし)を戦目付の梶原景時が厳しく監視していた。
〓だが困ったことに源義経が壇ノ浦で平家を壊滅させると、すっかり舞い上がって東北の蝦夷(えみし)を買い被った後白河法皇が源頼朝への征夷大将軍宣下を渋り、東北の蝦夷(えみし)を率いる源義経を重用しようとしたので、(法相宗に帰依する)藤原摂関家の後援を得た源頼朝が蝦夷(えみし)を討伐した(1189年)。
〓東北の蝦夷(えみし)の支配を蝦夷(『俘囚の上頭』)である(“藤原氏”を仮冒する)秀衡に任せることならば渋々ではあるが黙認もするが、大和民族の象徴である天皇の後ろ盾となる軍隊の主力を、法相宗の徳一国師によって根っからの無法者(『無性』)と断じられた東北の蝦夷(えみし)に委ねることは断じて認められないという藤原摂関家の判断が背景にあった。
〓源平合戦の時と異なり、鎮守府大将軍たる北畠顕家に東北の蝦夷(えみし)が付き従ったのは専ら大和民族に対する略奪や暴行を北畠顕家によって黙認されていたからだと推察される。
〓以下の『太平記』の記述が そのことを裏付けている。
>《元来無慚無愧の夷共なれば、路次の民屋を追捕し、神社仏閣を焼払ふ。総此勢の打過ける跡、塵を払て海道二三里が間には、在家の一宇も残らず草木の一本も無りけり。》
出典:『太平記19巻 追奥勢跡道々合戦事』
〓二・二六事件の後、憲兵隊(『統制派』)を率いて軍部を掌握した東北の蝦夷(えみし)である東条英機を、藤原摂関家の近衛文麿が陸軍大臣として入閣させ、東条英機の希望通り、狂人ヒットラーのナチ党と反米・極右軍事同盟を結んでしまった。
〓藤原摂関家の帰依する法相宗の徳一国師が伝えた「東北の蝦夷(えみし)は根っからの無法者(『無性』)」という渾身の“家訓”を軽んじた近衛文麿は東条英機によって破滅させられた。
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