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国際関係・安全保障論
4868
:
さきたま
:2018/02/10(土) 22:31:15
>>4866
ネトウヨどもの品性下劣さには反吐が出る。
真に国を思う右翼であるなら、有事に国体を護るべき自衛隊でのここ数年の死亡事故多発をみて、
日本の安全保障、危機管理を憂慮すべきところ。
安倍シンパのネトウヨ名無しさんはコピペしない記事でしょうから、貼っておきます。
陸自ヘリ墜落
事故の被害者に心ない非難 沖縄の米軍機トラブルでは冷酷な失言も
2018年2月10日
https://mainichi.jp/articles/20180210/mog/00m/040/010000c
佐賀県神埼(かんざき)市で5日に起きた自衛隊ヘリ墜落事故で、家を失った住人がネット上で罵声を浴びている。沖縄で相次いでいる米軍ヘリの不時着や部品落下の事故では「それで何人死んだんだ!」と国会でやじが飛んだ。基地のそばで不安を抱えて生きる人びとへの想像力が、失われかけていないか。【福永方人、和田浩幸/統合デジタル取材センター】
「許せないとか何様」「イースター島にでも越しとけ」
自衛隊ヘリが墜落した際、家に一人でいた11歳の女児は軽傷で奇跡的に難を逃れた。翌日、父親の「許せないですよね」というコメントが新聞で報じられると、ツイッター上に非難の投稿があふれた。
<は? 許せないとか何様? 墜落して亡くなった隊員の事考えねーのかよ>
<わざと落ちた訳じゃないと思うし許せないの意味が分からん>
<わからんでもないが死ななかっただけいいじゃないか>
<「許せないですよね」じゃねーよ。イースター島にでも越しとけ>
<平和ボケも過ぎたものだ まずは国のために死んでしまった人を追悼でしょ>
これらを批判する声も投稿されている。
<人の心はないのか?>
<自分の家に落ちてきても、同じことが言えるのか>
中には、有事の際に批判が封殺される可能性を示唆する意味深長な投稿もある。
<時の権力者の判断で自衛隊員の生命が失われるような事案が起こっても、自衛隊員が死んでいるんだぞ、自衛隊批判とは何事か、黙れ、と言われるんだろう>
亡くなる間際に「ハトポッポ」
戦後、本土でも沖縄でも軍用機墜落に巻き込まれ住民が死亡した例は多数ある。
横浜市で1977年9月27日、米軍厚木基地を離陸した偵察機が住宅地に墜落した事故では、土志田(どしだ)和枝さん(事故当時26歳)と3歳の長男裕一郎ちゃん、1歳の次男康弘ちゃんの母子3人が自宅で全身やけどを負い、子供2人は間もなく死亡。和枝さんも治療の末、4年4カ月後に亡くなった。偵察機の乗員2人はパラシュートで脱出して無事だった。
「お水をちょうだい。ジュースをちょうだい」。裕一郎ちゃんは全身に包帯が巻かれ、病院のベッドで苦痛を訴え続けたが、次第に衰弱。最後に声を振り絞って「バイバイ」と言い、息を引き取った。同じ病院で治療を受けていた康弘ちゃんも、家族の懸命の呼びかけに口をかすかに動かした。「ポッポッポー、ハトポッポー」。お風呂で父親に教わったばかりの童謡。間もなく兄の後を追った。
母の和枝さんは一命を取りとめたが、皮膚移植手術は60回を超えた。治療に専念してもらう配慮から1年4カ月間、子供たちの死を知らされなかった。「心配でいても立ってもいられない」。当時の和枝さんの日記には、この世にもういない息子たちを案じる思いがつづられていたという。
横浜市中区の「港の見える丘公園」に、母が2人の子を抱く「愛の母子像」がある。和枝さんの死から3年後の85年、父勇さんが市に掛け合って設置された。
黒焦げの児童を長いすで運ぶ
米軍基地の集中する沖縄で数々起きている住民巻き添え事故の中でも、とりわけ悲惨な記憶として語り継がれているのが、本土復帰前の59年6月30日、石川市(現うるま市)の宮森小学校に戦闘機が墜落した事故だ。児童11人を含む17人が死亡し、210人が重軽傷を負った。
ミルク給食の時間中だった。
「爆発のような衝撃音とともに校舎が大地震のように揺れ、間もなく炎と黒い煙が立ち上りました。校内は蜂の巣をつついたようなパニック状態になり、黒焦げになった男の子が長いすに乗せられて運ばれていきました」。事故当時、同校の5年生だった佐次田満(さしだ・みつる)さん(69)=うるま市=は、事故から約60年たった今もなお、惨状が目に焼き付いているという。
宮森小の事故を伝える活動に取り組むNPO法人「石川・宮森630会」会長の久高政治(くだか・まさはる)さん(69)は言う。「事故の遺族や目撃者は今も6月30日が近づくと動悸(どうき)で眠れなくなる。60年たっても恐ろしさにおののいています」
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