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国際関係・安全保障論
4688
:
とはずがたり
:2017/09/12(火) 18:49:44
トランプ大統領は常々、「過去20年でわが国は15億ドルも北朝鮮に捨ててきた」「私は北朝鮮への対応でアメリカの過去の政権のような失敗は繰り返さない」などと発言している。
だが、クリントン政権以降の20数年の米朝交渉を見てきた私に言わせれば、現在までのところ、トランプ政権は過去のどのアメリカの政権よりも、北朝鮮に対するアプローチが稚拙である。
北朝鮮の核とミサイル能力は、これまでになく強力だ。これでは、今後の米朝交渉は必ずや、北朝鮮ペースで進んでいくことになるだろう。
現在の金正恩政権は、初代・金日成政権の大胆さと、2代目・金正日政権の先軍政治を併せ持つ政権である。つまり、外交手法こそ多分に単純だが、この上なくおっかなくて手強い相手なのだ。
ここで、今回の米朝危機の教訓に満ちている過去の二つの米朝交渉を振り返ってみたい。1968年のプエブロ号事件と、1993年から翌年にかけての第一次北朝鮮核危機である。前者は金日成が主導し、後者は金正日が主導した。
【プエブロ号事件】
1953年の朝鮮戦争休戦後、金日成は政治的に、ソ連派、延安派(中国派)、南労党派(朴憲永派)をすべて粛清し、独裁体制を確立。経済的には、社会主義陣営の2大巨頭だった中ソの対立を利用し、両国から巧みに援助を引き出した。
そして1961年に発足した米ケネディ政権が、ベトナムへの軍事介入を目指すようになると、金日成はその間隙を突くように「戦争準備を強化せよ!」と国内で号令をかけ、「全人民の武装化」を始めた。「米帝から国を守る」というのが建て前だったが、国家予算の5割以上を軍事費に充てたことから見ても、アメリカがベトナムに気を取られている隙に、再び南侵しようと企てたのではなかろうか。
1965年には「主体(チュチェ)思想」を提唱し、政治的自主、経済的自立、軍事的自衛の名の下に、全国民を「金日成の弾丸」に仕立て上げていった。
そして満を持して起こしたのが、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領暗殺未遂事件だった。1968年1月21日、北朝鮮のヒットマン31人が「青瓦台」(韓国大統領府)を囲んだ。だが手前で発覚し、激しい銃撃戦の末、29人が射殺され、1人が自爆した(韓国側は68人死亡)。唯一、逮捕された金新朝(キム・シンジョ)少尉の供述によれば、朴正煕大統領を暗殺し、韓国国民を蜂起させて南北統一を目論んでいたという。
この事件の時、日本海側の元山(ウォンサン)沖で朝鮮人民軍の電波収集に出ていたのが、アメリカ海軍の情報収集船プエブロ号である。朝鮮人民軍はこの船を拿捕し、82人のアメリカ兵らを人質に取った。
ジョンソン大統領は、第二次朝鮮戦争を覚悟し、空母3隻と最新鋭の戦闘機200機を朝鮮半島近海に派遣した。
この時、金日成はモスクワのブレジネフ書記長に援助要請を出し、ソ連の後ろ盾を得て第二次朝鮮戦争に打って出ようとした。第一次朝鮮戦争(1950〜53年)は、ソ連軍より劣る中国の後ろ盾を得て戦ったため、朝鮮半島を統一できなかったと、金日成は考えたのである。
慌てたのは、朝鮮半島でアメリカ軍と戦争などやる気がなかったソ連である。直ちに、金日成にモスクワ訪問を要請したが、金日成は「戦争準備中」を理由に拒否。ソ連のコスイギン首相はジョンソン大統領に宛てて、北朝鮮との戦争を回避するよう求める書簡を送った。「北朝鮮に強い圧力をかけることは、かえって問題の解決を難しくする」と説いたのだ。このあたりの展開は、プーチン大統領がトランプ大統領を説得している現在と同じである。
一方、ソ連が味方についてくれないと悟った金日成は、アメリカ側に、プエブロ号の領海侵犯に対する謝罪を求めた。「これはわが国のプライドの問題だ」と主張したのだ。
米朝交渉は11ヵ月に及んだ。その間、プエブロ号の人質82人は拷問を受け、命の危険が迫っていた。このあたりは、アメリカ人4人を拘束し、うち一人のオットー・ワームビア氏が今年6月に解放後、死亡した事件に通じるものがある。
結局、アメリカは同年のクリスマスを目前にして、第二次朝鮮戦争を断念。「ただ人質を解放させるためだけに」北朝鮮側が用意した謝罪文にサインした。人質は全員、解放されたが、プエブロ号はいまだに、平壌の普通江(ポトンガン)沿いの祖国解放戦争勝利記念館前に「戦利品」として展示されている。
この事件から得られる、現在に通じる教訓は、以下の通りだ。
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