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国際関係・安全保障論
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:
■とはずがたり
:2003/02/25(火) 17:23
田原の『日本の戦争』(明治維新から太平洋戦争開戦迄を追っている)読了。
日本の政治的選択のポイント(疑問点)に
① 韓国併合 日本の生存権のために朝鮮半島を勢力圏下に置くのは当時の判断として全うだったとして,保護国化or植民地化の判断の是非
② 軍部のクーデター騒ぎが頻発したのに,クーデターの首謀者達へのあまりに寛大な処置は何故?
③ 第二次大戦への誰の目にも明らかな負け戦を何度か止められるチャンスがあったように思えるが何故止められなかったのか?
1 満州事変の不拡大方針の貫徹(1931)(→結果的には満州国成立に成功)
2 リットン報告書(1932)の満州事変以前に戻ることは現実的ではないという日本に好意的な報告書に基づき戦後処理出来なかったのか?(→国連脱退・孤立化)
3 華北侵攻(1933)を抑えられなかったのか?(→しかし一旦「土唐」沽(タンクー)協定で和平が実現している。冀東防共自治政府成立し華北の東半分を勢力圏下に置く)
4 蘆溝橋事件(1937)・上海事変で中国全体に戦火を拡げる愚を思わなかったのか?
5 英米に対峙する為の松岡の4国同盟案(日独伊三国同盟1940成立+ソ連)が独ソ開戦(1941)で潰えた段階で日独伊枢軸は英米に勝てなくなったのは明らかである。この時点で対中戦争は断念,対中戦争に必要な仏印進駐もしなくて良かった筈。
結局,随所で軍部の暴走を止められなかった(②あたりが原因?)訳であるが,これは大日本帝国憲法体制の大きな欠陥だったか?
天皇親政は天皇一人に責務を負わす天皇制そのものにとっては危険な制度である。
明治体制下では天皇機関説を採りながらも内閣・枢密院・軍部・議会等の諸機関の対立を収拾する役割を天皇が担うように出来ていた。
現実には調整は西園寺らの元老・重臣達が負っていたが,軍部の突出ぶりに抑えが効かなくなったか?というのが今のところの印象。
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