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国際関係・安全保障論

1896千葉9区:2009/08/14(金) 22:18:38
http://mainichi.jp/area/tottori/news/20090806ddlk31010665000c.html
この国のすがた:09解散・総選挙/3 拉致 /鳥取
 ◇後ろに追いやらないで
 米子市の拉致被害者、松本京子さんあてに今年3月、郵便物が届いた。定額給付金の支給を知らせる通知書だった。存在を忘れられていなかった。京子さんの名前を見て兄孟さん(62)はうれしさがこみ上げた。「帰ってきたら、これを何に使うのだろう。何を買いたいと言うだろう」と想像するだけで心が少し晴れた。

 行方不明当時29歳だった京子さんはもう60歳。結婚して子供がいるかもしれない。給付金で孫におもちゃを買ってやろうとするかもしれない……。孟さんと母三江さん(86)はひたすら帰りを待っている。

 地元中学を卒業後、裁縫工場に勤めていた京子さんは、77年10月21日午後8時ごろ、普段着姿で現金も持たずに「編み物教室に行く」と自宅を出て、そのまま行方不明になった。ちょうどそのころ、自宅から約200メートル離れた民家の裏庭で京子さんらしき女性と男2人が一緒にいるところを住民が目撃している。男は声をかけた住民を殴り、3人とも海岸の方向へ走り去った。現場には、京子さんのサンダルが片方だけ残されていた。米子署が捜査に乗り出したが手がかりが見つからないまま時が流れた。

 しんがしっかりして明るく、職場でも人気者だった。編み物教室に通い、三江さんのためにセーターを編んでプレゼントしたこともあった。そんな京子さんの突然の失そう。「あの日以来、家族にとって“普通の日”というものがない」と孟さんはいう。

 転機は97年。特定失踪者問題調査会常務理事の妹原仁さん=米子市=が知人の警察官から「米子でも拉致があるかもしれない」と聞きつけた。妹原さんは3年かけて京子さんについて調べ、00年8月に孟さんと会った。孟さんも87年の大韓航空機爆破事件などから北朝鮮の関与を疑っていた。

 02年9月の小泉首相の訪朝で事態が一変した。政府は10月の日朝国交正常化交渉で京子さんの所在確認を北朝鮮に求めたが、04年になって「入国を確認できない」との回答が返ってきた。それでも、同窓生約200人が立ち上がり、署名と募金活動を開始。脱北者による目撃証言も出てきて、家族は04年、容疑者不明のまま国外移送目的略取誘拐罪で米子署に告発。警察の再捜査で新証言も得て、政府は06年11月、「拉致」と断定した。京子さんは拉致被害者に認定された。

 以来、孟さんは実名を公表し、各地で講演を続けている。本来は無口で人前で話すことは苦手。講演前には逃げ出したくなるという。それでも失そう当時から自分を責めてきた三江さんに、人前で話すことでつらい思いをさせたくない。仕事もあり体力的にも厳しい。全国を飛び回っていた06年、肺炎を引き起こして2週間近く寝込んだこともある。それでも「呼んでくれる限りはどこへでも行く」という。「声を上げ続けるしかないんです」

 政府は今年4月、北朝鮮による長距離弾道ミサイルの発射を受け制裁強化に踏み切った。残されたカードは少なく、苦慮している。孟さんは「核実験もあり、拉致問題を最優先にとは言わないが、後ろに追いやられては困る。民主党政権になったら拉致問題を解決しないまま国交正常化に踏みきられるのではという不安がある」と選挙の行方を注視している。

 「この32年間は、つらいという生やさしい言葉じゃ済まない。それでも解決すれば、たわいないことになる」。京子さんの給付金は帰国までしまっておく。【武内彩】


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