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国際関係・安全保障論
1154
:
とはずがたり(1/2)
:2005/08/06(土) 18:43:20
原爆ってのは非人道的だねぇ。。
<原爆小頭症>体内被爆の女性 苦しみの60年語る
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050806-00000042-mai-soci
中国山地の盆地の底に、ひしめきあって並ぶ古い棟割り住宅。6畳の狭い部屋の真ん中にベッドをどんと置いた居間兼寝室で「今まで、幸せだったことは一度もない」といううめきを聞いた。世に生まれ出る前に被爆者となった原爆小頭症患者で、広島県三次市で暮らす岸君江さんの人生は、原爆の重い「罪」を突きつける残酷すぎる60年だった。【田中博子】
1945年8月6日、爆心地の東1.2キロにあった広島市田中町(現・同市中区)のクリーニング店2階。岸さんは、妊娠3カ月の母親の温かい胎内に抱かれていた。そこを、原爆の放射線が襲った。
岸さんの母は、子どもを授かったことを夫と喜んだばかりだった。その夫は外出先で無残に被爆死したが、母は無傷だった。「奇跡」と思われた。まさか、おなかの中の子どもに、体には感じない無数の透明な凶器が突き刺さっていようとは、知るよしもなかった。
その後、母は実家のある三次市へ戻った。年も明け、山あいの町の雪も消える46年3月、岸さんが生まれた。ひどく小さな赤ちゃんだった。
歩き始めのころ、両足の人さし指が内側に湾曲し、股関節が脱きゅうしていることが分かった。首やあご、ひざなど関節の異状を繰り返し、周囲から「病気の問屋」と言われた。中学の登山遠足では、頂上で腰が引きつって立てなくなった。
現在の身長は138センチ、足の大きさは21センチ。子どものころから、身長は格段に低く、同級生からいじめられた。耐えられなくなり、小学生のころから家にこもりがちになった。薬を飲んで死のうと思ったこともある。今でも通りを歩くと、じろじろ見られたり、指を指される時がある。
「原爆の影響じゃ」と陰口をたたかれた。気になったが、気にしないでいた。本当にそうだと分かったのは22歳の時。原爆小頭症と診断されたのだった。
それまで頭が小さいが原爆のせいとは、意識していなかった。体が小さく、目立たなかったから。だが、計られると、頭囲は52センチしかない。今も、ちょうどよいサイズの帽子は、子ども用の麦わら帽子くらいしかない。頭が小さいから、体も小さいのだった。
中学卒業後、集団就職で広島市に出たが長続きせず、1年で実家に戻ってスナックに勤めた。2年後、股関節の手術への不安から心臓発作を起こす。精神的に不安定になり、神経内科へ長期入院した。同じ病院に入院していた7歳上の調理師と婦長の紹介で知り合い、25歳で結婚した。
「あの時は、幸せに思ったかもしれない。だけど、今は不幸の始まりだったと思う」
結婚前に二人で退院、そして妊娠した。だが、周囲は「どんな子が生まれるかわからん」と出産に猛反対した。「放射線が入っとったりせんじゃろうか」と不安はあったが、「授かった命は、私も同じ」と産んだ。
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