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石油・LNGなど=エネルギー総合スレ=
1
:
■とはずがたり
:2003/01/17(金) 13:45
新日本石油
http://www.eneos.co.jp/
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1714
:
とはずがたり
:2014/06/15(日) 11:12:49
有名な話しだけど,イギリスの経済封鎖や機雷などを突破、イギリス海軍の裏をかき回避というような快挙だったとわ。
てか,ばかでかいタンカー一つ捕まえられない英海軍って当時の最強海軍国としては大した事ないねぇ。。まあ出光のタンカーよりももっと大事な任務いっぱい抱えてたのかもしれんけど。
日章丸事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%AB%A0%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
日章丸事件(にっしょうまるじけん)は、1953年(昭和28年)に起きた石油の輸入とそれに付随した訴訟および国際的な衝突。
概要
大英帝国下の影響にあったイランは、第二次世界大戦後独立していたものの当時世界最大と推測されていた石油資源はイギリス資本の元、イラン国庫にも、国民にも利潤が回らない状況にあった。その中で、イランは1951年に石油の国有化を宣言。反発したイギリスは、中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明する。事実上の経済制裁・禁輸措置を執り行っていたイギリスにイランは硬化した。これらはアーバーダーン危機と呼ばれ、戦争が近づきつつある情勢となっていた。
同じころ、日本でもアメリカによる実質的な間接統治下にあり、石油を自由に輸入する事が困難な情勢になっており、経済発展の足かせとなっていた。イラン国民の貧窮と日本の経済発展の足かせを憂慮した出光興産の出光佐三社長は、経済制裁に国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏に日章丸(タンカー・同名の船としては二代目)を派遣する事を決意。イギリスとの衝突を恐れる日本政府との対立も憂慮し、第三国経由でイランに交渉者として出光計助専務を1952年に極秘派遣。モハンマド・モサッデク首相などイラン側要人と会談を行う。
イラン側は、合意しても貿易できないでいる前例と当時中小企業に過ぎなかった出光を見て初めは不信感を持っていたという。長い交渉の末に合意を取り付け、国内外の法を順守するための議論、日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を利用する形での必要書類作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、航海上の危険個所調査など準備を入念に整えて日章丸は1953年3月23日9時神戸港を極秘裏に出港する。
当時連合国軍最高司令官総司令部によって義務付けられていた正午報告(位置報告)に罰則規定が無い事を見つけ、それらを行わず、航路も偽装してイギリス海軍から隠れる形で4月10日イランに到着。この時点で、世界中に報道され国際的な事件として認知された。日本においても、武装を持たない一民間企業が、当時世界第二の海軍力を持っていたイギリスに“喧嘩を売った”事件として報道され、連日一面記事で報道された。
4月15日急ぎ石油を積んだ日章丸は、国際世論が注目する中、イランのアーバーダーン港を出港。浅瀬や機雷などを突破、イギリス海軍の裏をかき回避する事に成功し、海上封鎖を突破して5月9日9時に川崎港に到着した。以降、石油はイギリスのものであると仮押さえ処分の裁判(東京地裁)になり、同時に出光に対する処分圧力が日本政府にもたらされたものの、イギリスによる石油独占を快く思っていなかったアメリカの黙認や、喝采を叫ぶ世論の後押しもあり、行政処分などは見送られた。また、裁判でも出光側の正当性が認められ、5月27日仮押さえ処分が却下され、即日東京高裁に控訴するものの10月29日取り下げし勝訴確定した。これを嚆矢に石油の自由な貿易が始まるきっかけとなった。
1715
:
とはずがたり
:2014/06/15(日) 11:13:39
>>1714-1715
時系列
1951年03月 日章丸、起工式。当時日本最大のタンカー
1952年06月15日 イタリアスイス共同出資のローズマリー号、イギリス海軍にアラビア海で拿捕される。
1952年09月08日 日米サンフランシスコ平和条約を締結し、日本独立
1952年09月16日 日章丸、進水式
1952年10月16日 イラン首相、イギリスとの外交関係破綻を宣言
1952年10月22日 イラン、イギリスとの国交断絶を通告
1952年11月05日 出光、出光計助専務と手島治雄日本を出国
1952年11月06日 出光計助専務らパキスタンに到着、入国拒否を受けるも強引に入国
1952年11月08日 出光計助専務らパキスタンからイランに向けて出国
1952年11月09日 出光計助専務らイラン首相と会談し交渉を開始する
1952年11月19日 出光計助専務ら日本に帰国
1952年12月22日 日章丸、完成
1953年01月10日 日本外務省、出光のイランとの接触の情報入手
1953年01月 出光、チャーターしていたタンカーのキャンセルを受け、同社唯一の日章丸の使用を決断
1953年02月06日 出光計助専務ら再度イランに向けて出発
1953年02月15日 イランと出光、石油貿易の正式調印
1953年03月16日 アメリカから日章丸が日本の川崎港に帰着
1953年03月18日 日章丸、川崎港から神戸港に荷卸しの為、移動(着翌日)
1953年03月23日 日章丸、目的地を偽装し神戸港を出港
1953年03月25日 日章丸、フィリピン北のバリタン海峡を通過
1953年03月31日 日章丸、マラッカ海峡を通過
1953年04月05日 日章丸、コロンボ沖で暗号電文を受信し、無線封鎖
1953年04月07日 日章丸、オマーン湾に到達
1953年04月08日 日章丸、夜陰に隠れてホルムズ海峡を通過
1953年04月09日 日章丸、シャルル・アル・アラブ河口に到達
1953年04月10日 日章丸、アーバーダーン港(当時の記事ではアバダン港)に入港。AFP、ロイターが報道
1953年04月10日 夜・イギリス外務省が駐日大使に調査を命じる。出光、外務省に報告。
1953年04月11日 出光、記者会見を行う
1953年04月15日 日章丸、アーバーダーン港を出港。船底部を僅かに擦りながら浅瀬を突破
1953年04月16日 日章丸、夜陰に紛れてホルムズ海峡を通過
1953年04月26日 日章丸、大きく迂回しスンダ海峡を通過しイギリス海軍駆逐艦三隻を回避
1953年04月26日 日章丸、夜陰に乗じてジャワ海の危険な暗礁海域を通過しイギリス海軍を回避
1953年04月29日 日章丸、ガスパル海峡を通過
1953年04月30日 日章丸、南シナ海に到達し、無線封鎖を解除、出光と連絡を取る
1953年04月30日 イギリス、松本駐英大使を呼び出し厳重抗議
1953年04月30日 日本政府外務省、何も知らず民間の取引に介入できない旨、イギリスに弁明
1953年04月〜5月 自動車6団体がイラン石油輸入を歓迎する旨発表。同時期、報道激化し様々な意見が発表される
1953年05月04日 日章丸、フィリピン北バジー海峡を通過
1953年05月07日 イギリス日章丸の日本領海到達を確認。即座にアングロ・イラニアン社より仮処分申請を東京地裁に提出
1953年05月08日 出光、広島のイギリス海軍が軍用機を飛ばしている情報を受け、記者会見を開き陽動情報を流す
1953年05月08日 日章丸、土佐沖にて新聞社に撮影され、陽動情報である事が露見
1953年05月09日 日章丸、川崎港に到着。同日、東京地裁にて第一回の口頭弁論開かれる
1953年05月09日 通産省玉置次官、通産省はこの紛争に巻き込まれたくないとの見解を記者に述べる
1953年05月13日 日章丸、陸揚げを完了し、船の差し押さえを逃れる
1953年05月14日 日章丸、イランに向けて再度出港し、貿易を既成事実化する
1953年05月16日 東京地裁にて第二回口頭弁論開かれる
1953年05月27日 東京地裁、仮処分申請を却下。
1953年05月27日 日本外務省が政府は何ら関与しない旨を発表
1953年06月 イラン政府、出光との当初の契約を見直し、石油価格を大幅減額で提供する旨を発表
1953年06月07日 日章丸、アーバーダーン港に再度到着。イラン政府高官、および数千人の民衆の出迎えを受ける。
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