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石油・LNGなど=エネルギー総合スレ=
1714
:
とはずがたり
:2014/06/15(日) 11:12:49
有名な話しだけど,イギリスの経済封鎖や機雷などを突破、イギリス海軍の裏をかき回避というような快挙だったとわ。
てか,ばかでかいタンカー一つ捕まえられない英海軍って当時の最強海軍国としては大した事ないねぇ。。まあ出光のタンカーよりももっと大事な任務いっぱい抱えてたのかもしれんけど。
日章丸事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%AB%A0%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
日章丸事件(にっしょうまるじけん)は、1953年(昭和28年)に起きた石油の輸入とそれに付随した訴訟および国際的な衝突。
概要
大英帝国下の影響にあったイランは、第二次世界大戦後独立していたものの当時世界最大と推測されていた石油資源はイギリス資本の元、イラン国庫にも、国民にも利潤が回らない状況にあった。その中で、イランは1951年に石油の国有化を宣言。反発したイギリスは、中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明する。事実上の経済制裁・禁輸措置を執り行っていたイギリスにイランは硬化した。これらはアーバーダーン危機と呼ばれ、戦争が近づきつつある情勢となっていた。
同じころ、日本でもアメリカによる実質的な間接統治下にあり、石油を自由に輸入する事が困難な情勢になっており、経済発展の足かせとなっていた。イラン国民の貧窮と日本の経済発展の足かせを憂慮した出光興産の出光佐三社長は、経済制裁に国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏に日章丸(タンカー・同名の船としては二代目)を派遣する事を決意。イギリスとの衝突を恐れる日本政府との対立も憂慮し、第三国経由でイランに交渉者として出光計助専務を1952年に極秘派遣。モハンマド・モサッデク首相などイラン側要人と会談を行う。
イラン側は、合意しても貿易できないでいる前例と当時中小企業に過ぎなかった出光を見て初めは不信感を持っていたという。長い交渉の末に合意を取り付け、国内外の法を順守するための議論、日本政府に外交上の不利益を与えないための方策、国際法上の対策、法の抜け道を利用する形での必要書類作成、実行時の国際世論の行方や各国の動向予測、航海上の危険個所調査など準備を入念に整えて日章丸は1953年3月23日9時神戸港を極秘裏に出港する。
当時連合国軍最高司令官総司令部によって義務付けられていた正午報告(位置報告)に罰則規定が無い事を見つけ、それらを行わず、航路も偽装してイギリス海軍から隠れる形で4月10日イランに到着。この時点で、世界中に報道され国際的な事件として認知された。日本においても、武装を持たない一民間企業が、当時世界第二の海軍力を持っていたイギリスに“喧嘩を売った”事件として報道され、連日一面記事で報道された。
4月15日急ぎ石油を積んだ日章丸は、国際世論が注目する中、イランのアーバーダーン港を出港。浅瀬や機雷などを突破、イギリス海軍の裏をかき回避する事に成功し、海上封鎖を突破して5月9日9時に川崎港に到着した。以降、石油はイギリスのものであると仮押さえ処分の裁判(東京地裁)になり、同時に出光に対する処分圧力が日本政府にもたらされたものの、イギリスによる石油独占を快く思っていなかったアメリカの黙認や、喝采を叫ぶ世論の後押しもあり、行政処分などは見送られた。また、裁判でも出光側の正当性が認められ、5月27日仮押さえ処分が却下され、即日東京高裁に控訴するものの10月29日取り下げし勝訴確定した。これを嚆矢に石油の自由な貿易が始まるきっかけとなった。
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