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政治思想総合スレ
708
:
とはずがたり
:2018/07/07(土) 22:49:13
別に趣味に善し悪しがあるけど趣味は各個人にとって大事な物だからそれでいいじゃないかと思う俺はどうでも良い事に拘泥する哲学はバカげてる様に思える。哲学の唯一の解明すべき課題は何故自分は自分であるのかと云ふ事の様に思えるがヴィトゲンシュタインの誰かの理解がなんか似た様な事云ってた気がするが良く憶えてない。
ヒューム「趣味の基準について」:「趣味が良い」ってどういうこと?
http://blog.livedoor.jp/humeanstudent/archives/26357033.html
2018年05月18日 06:01
早速だが、ヒュームが前提するように、趣味の多様性というものは疑いえないだろう。ゴダールやロメールを愛する「シネフィル」もいれば、ハリウッドのアクション映画を熱狂的に好む「シネフィル」もいる。かくして生まれるのが、カントも指摘した趣味のアンチノミーである。すなわち、趣味の主観性(趣味は主観的なものであり争いえない)と趣味の客観性(趣味にはよしあしがある)の対立である。じぶんの趣味を馬鹿にされると、「それが俺の趣味だ!」と怒る人も、別の場所では「あの人って趣味が良いよね」って言っていたりするかもしれない。我々はどこかじぶんの趣味は不可侵のものであるとかんがえつつ、良い趣味の存在をみとめている。この「ばかげたパラドックス」をいかに解決するか。これは主観性と客観性の対立をめぐる実践的な問いである。これは、18世紀の哲学者たちの主要な問いであったし、客観的真理というかんがえそのものが白眼視される現在においてもおなじだろう。
さて、ヒュームはいかにこの問題に取り組んだか。まずは彼のエッセイ「趣味の基準について」の議論の構造を把握してみる。常識はふたつのことをおしえる。いっぽうで、「趣味について争うことは無意味」であり、たほうで、「明らかにばかげた趣味が存在する」とおしえるのだ。懐疑哲学が前者を支持することや、美は対象に喚起される感情に過ぎないと譲歩しつつ、ヒュームは後者の立場を支持する。つまり、「趣味のよしあし」が存在することを論証しようとするのである。彼の議論の出発点は「趣味のよしあし」である。さて、「趣味のよしあし」が存在すると主張することは、「趣味はそれぞれ平等である」という主張の放棄である。それは、趣味を良い悪いにわける客観的基準があることを含意する[1]。
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