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政治思想総合スレ
616
:
とはずがたり
:2017/02/05(日) 22:56:34
>>613-615
日本哲学
安倍政権が「強い国家」を目指すほど、国家は結局弱くなる単純な理由
【連載】たそがれる国家(3)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50570
内山 節哲学者
プロフィール
1950年、東京生まれ。哲学者。1970年代より東京と群馬県上野村を往復して暮らしている。主な著書に『労働過程論ノート』『哲学の冒険』『時間についての十二章』『森にかよう道』『貨幣の思想史』『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』などがある。主要著作は『内山節著作集』(全15巻、農文協)に収録されている。
国家というもののとらえ方
国家のとらえ方は、時間幅の設定の仕方によって変化する。
それはこういうことである。
たとえば今日の私たちは電気のない生活など考えられない。ところが長い人類史のなかでは、人間が電気とともに暮らしたのはせいぜいこの100年間くらいのことであり、何をするにも電気が必要な生活をするようになってからは、まだ50年くらいしかたっていない。
人類史全体をみれば、電気のない生活の方がはるかに長いが、いまの私たちにはそんなことは想像することもできない。
国家も同じような面をもっている。50万年近い人類史をみれば、国家のない社会で人々が生きていた時間の方が圧倒的に長かった。
* * *
日本で国家の形成がはじまるのは律令制に向けた整備がはじまる頃で、乙巳の変(いっしのへん)、大化改新を起点としても、その前の冠位十二階の制定あたりを起点としたとしても、まだ1500年もたっていない。
その前の「日本」は、権力者が発生してから以降も、朝鮮半島と結んだ豪族たちが存在していただけであって、「日本」という国家が意識されていたわけでもないし、彼らは国家の統治者でもなかった。
しかも律令制の整備がすすめられてからも、国家を意識していたのは支配階層の人たちだけであって、普通の庶民たちにとっては国家は縁のないものであった。
江戸時代までの日本では、人々は自分の暮らす地域を「くに」と表現していたのであって、それもまた確定された地域のことではなかった。遠方の人たちに対しては藩を「くに」として語ったが、同じ藩内の人に対しては自分の暮らす村や町、その周辺が「くに」になる。
明治時代に入ると日本は近代国家の建設に向かうが、といっても多くの人たちは国民意識などはもっていなかった。それが芽生えてくるのは日清戦争以降であり、定着したのは日露戦争の頃だと考えてよい。
現在の私たちは日本国民であることを意識しながら暮らしているが、その歴史は電気の歴史とあまり変わらないのである。
にもかかわらず、電気のない生活を経験した人がほとんどいなくなったように、現在の人間たちは国家のない暮らしを経験したことがない。だから国家は絶対的に必要な基盤のように感じる。
だが、もしも電気に変わる便利なエネルギーが開発されれば、次第に電気は衰退していくのと同じように、国家を必要としない時代や、国家の下で暮らすメリットよりもデメリットの方が大きい時代が生まれれば、国家もまた衰退へと向かうかもしれないのである。
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