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PC関連スレ

1■とはずがたり:2002/11/04(月) 22:01
新規購入を検討するスレ

2033とはずがたり:2017/02/06(月) 16:57:43
熱かったよなあ,AMDvsIntel。

【連載】
巨人Intelに挑め! - 1GHzを突破せよ
[1] とある男の回顧録
http://news.mynavi.jp/series/amd_k7/001/
吉川明日論
[2015/03/02]

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。

…このうちわ受け話シリーズは(続けばの話だが)、あのころ、そしてその後少なくとも15年は確実にコンピューター業界の話題の中心の一つであったと思われる、AMD対Intelのマイクロプロセッサ開発競争、あの血沸き肉躍る時代で私がAMDで経験したこと、背景、などを、今だから話せる秘話なども交えて記してゆこうという試みである。

K7登場

話をいきなりK7の登場から始めたい。というのも、K7は今でも私の業界原体験の中心であり、その時代のこの業界で一番AMDが脚光を浴びたイベントだったからだ。K7とはAMDが第七世代プロセッサとして開発したCPUアーキテクチャのコードネームであり、製品としてはAMD-Athlonとして知られている。K7は1999年の8月正式製品リリース(マイクロアーキテクチャの正式発表は1998年10月)、ということは、その開発は(あるいは基本的なアーキテクチャの原型は)少なくともその5年前には始まっていたはずである。1994年、1995年あたりというと、AMDがリバースエンジニアリング(後程述べる)で開発したAm486プロセッサを出荷中、その間AMDは独自開発のK5で悪戦苦闘、そして1995年の突然のNexGen買収(この辺の事情も後述の予定)、市場では、AMD、NexGen以外にもCyrix、 IDT、 VIAなどの会社がIntel互換プロセッサの開発にしのぎを削っていた時代である。

互換プロセッサ乱立時代

PCがエレクトロニクス業界の中心になり爆発的成長を始めると(この2〜3年のスマホですね)、その中心ハードウェアであるCPU市場には一気にいろいろなプレーヤーが参入してきた。しかしながら、Intel互換プロセッサの盛んだった時期は比較的短かった。というのも、技術的にも加速していくプロセッサ開発に加えて、IntelのIP(知的所有権)を侵さずに完全互換を実現することは至難の業であった。

また、プロセッサのクロックスピードがそのままアプリケーションの実行速度にダイレクトに効いてくる状況だったので、Intelは一気にそのマーケティングを周波数競争に持ち込んだ。その優劣を決めるのが半導体の微細加工技術である(今では12nmなどのレベルに達しているが、その当時は数百nmの世界だった…)。その当時は半導体ファウンドリ―などというコンセプトはなく、それぞれのメーカーが自前のプロセス、設備に投資競争をしていた時代だった。

これがべらぼうにコストがかかる。そういった状況で、多いときには5社を数えたプレーヤーは次々と脱落していった。最初の製品は出るのだが後継製品を開発する資金が続かないからだ。その間独占体制を整えつつあったIntelは80286の次は80386、そしてその後継の80486を開発するなど、矢継ぎ早に性能を向上していった。

その中で、当時AMDには以前からIntelとの協業時代からx86互換プロセッサに従事してきたエンジニアたち、Am386のリバースエンジニアリング(後で説明いたします)をリードしたBen Oliver、スーパースケーラー技術の大家Mike Johnsonらに加え、もとDEC(Digital Equipment Corp.)で業界初の64ビットチップAlphaの開発をリードしたDirk Meyer(後にAMDのCEOとなる)ら錚々たるメンバーが揃っていた。そこに、Fred Weber(NexGenの買収により合流)など、互換チップ開発の戦いに敗れ去ったチップメーカーからのエンジニアたちが続々とAMDに集結していた。皆、Intel打倒に燃える血気盛んな若いエンジニアたちであった。

こうしたエンジニアたちが長年の夢をかなえるべくAMDに集結したのは当然のことであったろう。というのも、AMDは既に8年にわたるIntelとのIPに関する調停、法廷闘争の末に、少なくとも特許問題についてはIntelと和解が成立していた。ということは、特許などの法律問題に縛られることなく、革新的なアイディアでもって、技術的優位性を実現しIntelを打倒することを夢見ていたエンジニアにとって、AMDというのは理想的な開発Platformであり、唯一可能性を秘めた会社であったからである。しかも、創業者でありCEOのJerry SandersはIntelへの対抗心に燃えていた。捲土重来を期すエンジニアたちにとってAMDはまさに「マイクロプロセッサ界の梁山泊」だったのである。

2034とはずがたり:2017/02/06(月) 16:58:11
AMDの野心的なプラン

その時、私は定期的なマーケティングのMeetingのためにカリフォルニアのシリコンバレーの中心にあるAMD本社にいた。 正確な時期はあまり問題ではない、その出張が今でも記憶の中で鮮明なのは、それが私がK7プロジェクトについて初めて知った時期であったからだ。多分、AMDがK7のマイクロアーキテクチャを公表した1998年の一年位前の話だと思う。

私は社内の情報で、AMDのAustinでK6の次世代プロセッサ開発が進められていることを聞いていたので、USに出張の際に当時の私の上司であったMarketing VPのBen Anixterにそれとなく聞いてみた。Benは当時の私の上司であり、AMDの創業時代からJerry SandersとともにAMDを支えてきた大番頭のような人物であった。

「Ben、新プロセッサの開発はうまくいっているかい?あのIntelがよくPentiumIIのバス(バスはもともとPentium Pro用に開発された)をライセンスしたものだね」と聞いたら、Benは「ライセンスはもちろんない」と答える。私が、「そうか、それならまた新たな法廷闘争になるんだね?」と聞いたら、Benは「もう、法律でもめるのには飽き飽きした、その心配はない。今度のプロセッサは独自のバスアーキテクチャだから」とさらりと言っている。

私には、俄かにはその意味が呑み込めず、「独自のバスなんて言っても、マザーボードがないじゃないか」と言うと、またBenが「マザーボードは独自で行く、既に台湾のボードメーカーと話がついている」と言う。そこで私は「Intel互換じゃないわけ?そんなのできるわけがない。新しいインフラをまっさらなところから作るなんて無茶だ!!」と言ったら、Benが最後に「どうしてお前の発想はそう日本的なんだ?! 全く新しい技術で戦わなくて、どうやってIntelを超えるんだ?!AMDはIntelの後追いでいく限り発展はない、これからは独自路線の技術で勝負するんだ。面白いと思わないか?」。

Benは私にウィンクして、言った。

「そのドアを閉めなさい、AMDのBig Planを教えてやるから。」
ほどなくして、私はK7の全容を知ることになったが、それは確かにその当時の私にとっては途方もなくBigなPlanであった…。

K7の革新的アーキテクチャ

Benに野心的なアプローチを聞かされた後、K7でゲームチェンジをもくろむAMDに私はいよいよテンションが上がった。その晩、サニーベールのホテルのバーでいろいろ考えた。「やっぱりここはシリコンバレーなんだな」という興奮がじわーっと感じられたと同時に(シリコンバレーは行くたびにいつもこの感じがあるからやめられないのだ…)、既に10年も働いていていたのにシリコンバレーのスピリットを全く理解していなかった自分にがっかりした感じを覚えている。

そのプランはまさにBigであった。まず、Benが言ったように、Intelプロセッサとの互換路線を断ち切って、全く新しいバスアーキテクチャで勝負する。そのバスというのが、DECがワークステーション、サーバ用に開発した64ビット!!のEV6(恥ずかしながら、それを聞いたとき私はそれがどんなにすごいものかは知らなかった…)。

もともと技術的に疎い、日本のマーケティングの担当として、私の頭に真っ先に浮かんだのがMother Boardの事である。 事を単純に説明すれば、今では、秋葉原のDIYショップに行くとIntel系とAMD系と全く互換性のないボードが棚を別にして売っているけれど、その当時はボードと言えばx86=Intelであった。そこに、K7が割って入ってAMD系の棚を作るという話だ。

マーケティング的に考えれば、それを実現するには2つの方法しかない。多額の予算をマーケティングに投下して力ずくで新ブランドを確立するか、革新的な技術で大きな差別化を図るかである。当時の技術集約型のシリコンバレー企業のAMDの選択は勿論後者であった。以下にK7アーキテクチャの概要を示す。

フロントサイドバス 200MHz:もともとDECがワークステーション用の業界初の64ビットプロセッサAlpha用に開発したEV6が基になっている(競合のPentium IIIの2倍の速さである)

整数演算10段、浮動小数点演算15段という深いパイプライン:これがクロック周波数の飛躍的な向上を可能とする。K7は Athlonとして発表時にいきなり最高クロック650MHzをマーク。

スーパースケーラー:1クロックで9命令同時発行可能、これにより、高いクロックに加えて浮動小数点演算を多く含むゲーム等のヘビーなアプリでも高い実性能を実現。

2035とはずがたり:2017/02/06(月) 16:58:22

対応ソケット:SlotA (AMDのAを示している)、IntelのSlot1との電気的互換性が全くないが、外部形状やスロットのメカニカル部分は共通。

スロット正面に大きなAMDのグリーンのロゴをあしらい、いかにもIntelとは互換性はありませんと言っている。パッケージを開けると、真ん中に将棋の王将よろしくCPUが鎮座し、両側に飛車、角のキャッシュメモリが控える威容であった。(時代劇ファンであれば助さん、角さんを従える黄門様が、「やっておしまいなさい」と言っているような感じである)。

K7アーキテクチャAthlonプロセッサ登場

AMDが満を持して開発したK7はAMD-AthlonとしてAMD設立30周年にあたる1999年の8月9日に正式発表された。発表の半年前、AMDのマーケティング部門はK7の製品ブランド名の決定の最終議論を行っていた。私も、当時世界で第二番目に大きいPC市場である日本のマーケティング代表としていろいろと意見を聞かれた。他にどのような候補があったかはすっかり忘れてしまったが、AthleteのスピードとTriathlonの強靭さを連想させるAthlonというブランドは、その後のAMDを十年以上支え続けることになる優れた製品のブランドとしては成功した例だと思っている。

そのころから、CPUに巨額の資金を投下しブランドマーケティングを展開するというIntelのパワフルな攻勢にAMDも対抗しようとしていた。日本ではやらなかったが、USではTVコマーシャルも流され、Athlonは結構知られたブランドになりつつあった。その当時、カリフォルニアに出張する時にサンフランシスコでの入国手続きの際、お決まりの「何しに来た、どこに勤めている?」という質問に「AMDだ」と答えると、係官がガッツポーズをしながら「Faster than Intel, right ?(Intelより速いんだって?)」と言ってスタンプをポンと押すのを何度か経験して非常に誇らしかったことを覚えている。

AMD vs Intelの"チャレンジデモ"

日本でのプレスへの発表には十分な準備をした。当時、NPRP(New Product Review Program)というのがあり、何十もあったPC関係の雑誌にベンチマークシステムを貸出し、各社が独自に性能比較の記事を用意する。各紙が独自のラボで実際に性能を測るわけだからある程度時間がかかる。それを、週刊、隔週、月間の雑誌各社に貸し出す。各国のPRにあてがわれるシステムには限りがあるから、各紙の発刊時期を考え、うまく回さなければならない。

各紙はその時点で手に入るAMD、Intelの最速のシステムの性能をいろいろなベンチマークソフトで測ってゆく。そのうち各紙がテストした結果が次々と入ってくる。結果は圧倒的にAthlonの優勢であった。そして、プレス発表の当日は100人はいるだろうと思われるホテルのカンファレンスルームで恒例の"チャレンジデモ"というのをやる。

これはK6世代から始めたPRの効果的な手法で、その時の最速プロセッサを使用し、プロセッサ以外はすべて同じ条件(メモリ、ハードディスク、など)でくみ上げたシステムをAMD vs Intelで二つ並べ、プレスの前で実際に"よーいドン"でいろいろなベンチマークをつなげたベンチマークソフトを走らせて先に終わったほうが勝ち、という大変わかりやすいデモである。

当時IntelはAMDの製品をまがい物として正式に認めないという立場をとっていて、Intel側がこれに対抗してくることはなかったのでプレスには非常に受けた。分かりやすく、効果が直に感じられるので、その後はリテールストアでのデモにも使った。

こういったプレスイベントは、技術競争が激化し、AMD、Intelが新製品でしのぎを削るというその後の10年以上の期間で何十回と行ったが、決してAMDがいつも優位にあったわけでは勿論ない。しかし、プレス発表会のひな壇にいて、そのチャレンジデモを横から眺める時にはいつも、"がんばれ、がんばれ、速く行け!! ぶっちぎれ!!"と心の中で考えていて、熾烈な競争の中で勝負する醍醐味をいつも実感していた。AMDの創業者Jerry Sandersが常々言っていたシリコンバレーの企業哲学、"競争のみが革新を生む"という時代を直に感じられる古き良き時代であったと考えると、結局はいつもタフな状況に置かれていたというのが正直な実感ではあるが、同時に私は何とラッキーな経験をしたのだろうかとつくづく思う。

2036とはずがたり:2017/02/06(月) 16:58:36

Athlon 1GHzの壁を破る

私はその時Gateway Japanの社長と会っていた(2000年の初めころだったと思う)。Gateway(当初はGateway2000という名だった)は新興のPCメーカーで、特にパワーユーザーに人気のブランドであった。すでにAthlonの重要カスタマーであり、世界各地で協業をしていた。

その日もいつものように、その時点では最速のAthlon(確か、800か850MHzであったと思う)を使用したデスクトップPCの共同プロモーションの話をした後、握手して帰ろうとした時に、彼は独特のニュージーランドなまりの英語で切り出した、「1GHzの発表会を一緒にやらないか?」。1999年の8月に最速の650MHzで正式発表されたAthlonにより、それまで最速は常にIntelと決まっていた状況が一変した。今やIntelがAMDを追いかける形になっていたのだ。

周波数は今までは考えられなかったペースで上がっていった。まさに、Sandersが予想した通り競争がIntelの技術者たちに闘志を植え付けた。しかし、私は1GHzの話は聞いていたけれども、早くても、2000年のQ2(4-6月期)という認識であった。そこで、「1GHzはまだまだ先だよ」と言ったら、Gateway側は「いや、もっと早い時期だと聞いている。その場合にはGatewayが真っ先にシステムを発表することになっている。本社に確認してほしい」と言う。

その晩、私は本社のVPに電話して、AMDがひそかに1GHzの発表を前倒ししているという事実を知った。1GHzの壁を超えるのは当時としてはジェット旅客機が音速を超えた時くらいのインパクトがあったので、AMDは必ずIntelに先んじて大々的に行うのだと言う。その中でAMDが選んだパートナーがGatewayだったのだ。

Gatewayはパワーユーザーをたくさん抱えているし、Athlonといえども、プロセスのチューニングを行って徐々に周波数を上げている最中なので、1GHzを超えるものはよほどできのいいシリコンを選別してやっととれるくらいであるので、最初は限られた数しか提供できない。それでいて、1GHzの発表は3月中、それも早い時期に行いたいというので大変驚いた。 社内でも限られたものしか知らないという。次の日、件のGateway Japanの社長と再度Meetingしたのは言うまでもない。

時効だから明かす、効果的なPRのために採った策とは

そこで、3月に迫っている発表イベントの計画を、PRマネージャーとともにひそかに進めた。一番恐れたのが、闘志むき出しのIntelに出し抜かれないことである。アーキテクチャの優位性から、AMDが1GHz品を実際にIntelよりも早く生産できるであろうことには自信があった。あとはUSと連携をとりながらどうやって、世界同時に、Intelよりも早い時期に、しかもより効果的に発表するかということに頭をひねった。

そこで、一計を案じ、2つの発表日を1週間ずらしてセットすることにした。当時は、発表会と言うとホテルのカンファレンスルームと相場が決まっていたので、2つの日にちで部屋を抑えた。その間、エンジニアたちはほどなく到着した1GHz Athlonを搭載したシステムを念入りにチェック。発表当日に安定してデモができるかが非常に重要である。

これからの話は、今は時効になっていると思われるので、裏話として聞いてもらいたい(プレスの方、Intelの方申し訳ありませんでした…)。まず、プレスに「AMDから重要な製品発表を3月13日に行います」という案内をだした。そんな案内を出せば、プレスからは「重要な発表っていったいなんですか?」と質問が来る。そこで、言葉を濁しながら、「今は言えません、でもきっとびっくりすると思いますよ、絶対にはずさないで来てください」と答えておく。

すると、鼻の効くプレスの人たちは、「これはAthlonの新製品だろう、ひょとして1GHz?」と考える。その話はいずれIntelのPRにもわかることになる。そのうち、予想した通り、あるプレスから、Intelも発表会を開くらしい、その日付は3月8日である。という情報が入った。そこで、我々は正式発表の日付を3月6日に変更した。プレスの人たちには「突然で申し訳ありません」と電話をかけまくって来てもらった。

AMDとIntelの1GHzの発表が微妙にずれているのはこういった事情があったのである。Gateway Japanも即日製品の販売を受け付け開始の準備をしていたが、それを発表会で正式に言ってしまうのはあまりにもできすぎなので、「システムはどこから出るのか?」と言う質問に、私はわざと「ゲート…」と言いかけ、PR担当の方を見ていかにも「しまった!!」という顔をする、と言う手の込んだ演出まで用意していた。

2037とはずがたり:2017/02/06(月) 16:59:08
>>2033-2037
なぜコードネームを公開するのか

私は元来エンジニアでないので、半導体デバイスの回路設計の現場などは想像も及ばないのだが、…基本的に半導体回路の製造過程は印刷の技術なので、ダイ写真と言うのはシリコン職人の印刷作品ともいえる。…
初期の製品は手作り回路で非常にごちゃごちゃしていたものだが、集積度が急激に増すにつれてCADシステムの発達で、だんだんブロックごとの形が決まってきて、各ブロックが整然と並ぶようになる。またマルチコアになると、同じパターンのCPUコアが2個、4個とはっきり目視できるところが面白い。初期のころの回路写真には、ダイの隅っこに設計チームの名前や、アイコンなどをちゃっかり印刷しているものもあった。

ダイの話をするうえでいつも話題になったのが、CPUコアのコードネームである。最新鋭のCPU製品の開発では、まず基本のCPUコアを設計して、それをもとに派生製品を追加してゆく。

市場投入される前の開発中の製品にはブランド名がないが、まず社内で使用する開発コードが決められて、それをもとに製品ロードマップ(将来リリースを予定している製品の図表)を作成し、ビジネスプランを練ってゆく。

AMDとIntelの開発競争が激化すると、このロードマップはビジネスプランの礎となるだけでなく、お客の期待を獲得するために非常に重要なものとなり、それまでは社内、あるいは特定顧客に個別開示するものであったはずの製品コードネームを積極的に公開するようになっていった。

AMDのネーミングは場当たり的?

これらのコードネームの付け方については各社、設計チーム、責任者などが勝手に決められるので、いろいろなものがあった。初期のコードネームは単なる記号・番号の組み合わせであったが(K5、K6、K7など)、だんだんロードマップが複雑化してくると、もうちょっと覚えやすい、親しみのあるものに変わっていった。Intelのコードネームは、私が覚えている限りではUSのオレゴン付近を流れる川の名前で一貫していた(Klamath、Katmai、Deschutes、Willamettなど)が、AMDの方はあまり一貫性がなく場当たり的なケースが多かった。

例えば、K7コアは最初はK7とK75であったが、その後ThunderbirdとSpitfireが登場した。この二つは製造プロセスが0.25ミクロンから0.18ミクロンへと向上したときのCPUコアであるが、ご存じのようにこれらは第二次大戦中連合軍が主力としていた戦闘機の名前である。表向きには勇ましく、かっこよかったが、主力製造拠点をテキサスのAustinから旧東ドイツのドレスデンに移した時だったので、ドレスデン工場から猛烈な反対が出た。それはあたりまえで、ドレスデンは第二次大戦中の度重なる空襲を受け、市街のほとんどが破壊された歴史を持つからだ。これは本当にいただけない話であった。

しかし、発表してしまったものを引っ込めるわけにはいかず、その後のK7の発展製品は競走馬の種類(Thoroughbred、Palominoなど)に変更された。格好がよく当たり障りのない名前を探した結果か、開発責任者が馬好きだったのだろう。因みに、K7後のK8コアのコードネームはHammerシリーズ(Slegehammer、Clawhammerなど)には「Intelをぶっ潰す」という思いが込められていた。

ひとつ変わり種は、K6-IIIのSharptoothだ。これは当時はやっていた映画のJurassic Parkに登場するティラノサウルスの名前だった。このころAMDのCPUには3Dグラフィックの処理を向上するためのSIMD拡張命令3DNowが搭載され、確かPCゲームのJurassic Parkをテーマにしたタイトルがこれに対応し、Comdex Showでデモを行った覚えがある。


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