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日本中世史スレ

144とはずがたり:2014/02/20(木) 10:44:39
紀州すげえ。
今じゃあ糞自民の金城湯池の堕ちてるけど昔は先進的分権的自治国家だったようだ。

紀州征伐
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90

紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長・羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。
信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。

中世を体現する国、紀伊

ルイス・フロイスの言を借りると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆の名を挙げている。フロイスは言及していないが、五つめの共和国は熊野三山と思われる。共和国と表現されたように、これら寺社勢力や惣国一揆は高い経済力と軍事力を擁して地域自治を行い、室町時代中期の時点でも守護畠山氏の紀伊支配は寺社勢力の協力なしには成り立たない状況だった。
紀伊における武家勢力としては、守護畠山氏をはじめ、湯河・山本・愛洲氏などの国人衆が挙げられる。室町時代、これらの国人衆は畠山氏の被官化したもの(隅田・安宅・小山氏など)、幕府直属の奉公衆として畠山氏から独立していたもの(湯河・玉置・山本氏)に分かれていた。
室町時代を通じ、畠山氏は前述の通り寺院勢力との妥協を余儀なくされながらも、紀伊の領国化(守護領国制)を進めていた。奉公衆の湯河氏らも応仁の乱前後から畠山氏の内乱に参戦することが増え、畠山氏の軍事動員に応じ、守護権力を支える立場へと変化していった(教興寺の戦いなど)。一方で15世紀後半以降、畠山氏の分裂と抗争が長期間続いたことが大きく響き、また複数の強力な寺院勢力の存在もあって、武家勢力の中から紀伊一国を支配する戦国大名が成長することはなかった。国人衆は畠山氏の守護としての動員権を認めながらも、所領経営においては自立した存在だった。

治外法権の地、境内都市
中世において、寺領は朝廷も幕府も無断で立ち入ることができない領域だった。寺院内部への政治権力による警察権は認められず(検断不入、不入の権または守護不入を参照)、たとえ謀反人の捜査といえども例外ではなかった。もちろん軍事力による介入など許されない。また、寺領内では政府の徴税権も及ばなかった(諸役不入)。このような、いわば世間に対する別天地である寺院の境内は、苦境にある人々の避難所(アジール)としての性格を持つようになる。一度寺に駆け込めば、外での事情は一切問われない。犯罪者ですら例外ではなかった。境内は貧富貴賎さまざまな人々が流入し、当時の寺社の文化的先進性と結びついて都市的な発展を遂げる。多くの有力寺社は京都など政治の中枢から遠くない場所にありながら、政治的中立、軍事的不可侵に守られて商工業や金融の拠点として強い経済力を持つようになった。これを「境内都市」(自治都市、宗教都市も参照)という。高野山や根来寺は、典型的な境内都市である。

「惣分」と「惣国」
当時の僧侶は大別すると二種類に分けられ、仏法を学び修行する学侶(がくりょ)と寺の実務を取り行う行人(ぎょうにん)があった。時代が下るにつれて各寺とも行人の力が増大し、戦国時代の時点では寺院の武力はほとんど行人の占める所となり、寺院の動向も行人らの意思に左右されるようになる。紀北の地侍たちは高野山や根来寺に坊院を建立し、子弟を出家させてその坊院の門主に送り込む行為を盛んに行った。根来寺の主だった行人は、泉識坊が土橋氏、杉之坊が津田氏、また成真院が泉南の地侍中氏など、紀伊のみならず和泉・河内・大和の地侍で構成されていた。これら地侍出身の行人たちが「惣分」という会議を構成し、根来寺の方針を決定していた。つまり、実態としては根来寺の看板を借りた地侍の連合による統治だった。地侍らは境内都市根来の富力を背景に和泉南部へと勢力圏を拡大していった。
雑賀では、『昔阿波物語』に「主護(守護)はなく、百姓持に仕りたる国にて候」と記されるほどに守護の影響力は薄かった。地侍たちは一揆の結束を武器に、守護の支配を排して自治を行った。これを「惣国」と呼ぶ。雑賀惣国の範囲は海部郡から名草・那賀郡の一部にまで及んだ。

145荷主研究者:2014/04/06(日) 11:30:26

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140316000026
2014年03月16日 09時30分 京都新聞
三成ゆかりの3市スクラム 長浜・米原・彦根、全国に魅力発信

三成の魅力を全国に発信しようとスクラムを組んだ(左から)長浜市の藤井市長、彦根市の大久保市長、米原市の平尾市長=彦根市・清凉寺

 戦国武将石田三成の魅力を全国に発信しようと、ゆかりのある長浜、米原、彦根の3市がスクラムを組んで「三成会議」を15日、立ち上げた。彦根市古沢町の清凉寺で第1回の会議を開き、3市長が「石田三成に逢(あ)えるまちづくり宣言」に署名した。関ケ原合戦で「敗軍の将」となり、ゆがめられた三成の歴史的評価の誤解を解くとともに、全国のゆかりの地に三成会議への参加を呼び掛ける。

 初回の会議には、3市と各市の経済や観光などの計26団体の代表が参加した。各代表の紹介と6団体の取り組みが紹介されたあと、藤井勇治長浜市長、平尾道雄米原市長、大久保貴彦根市長が宣言に署名した。大久保市長はあいさつで、「全国に三成を理解してもらい、観光にもつなげたい」と話した。

 宣言は、「豊臣秀吉を支えた三成公の卓越した行政手腕を評価し、歴史によってゆがめられた姿を正しく評価し直し、三成公の魅力を全国に発信する」としている。会議は年に1、2回開き、事務局は長浜市に置く。

 会場では、観光イベント「三成の戦2」も催され、歴史作家桐野作人さんの講演などがあった。

146荷主研究者:2014/04/13(日) 12:23:43

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20140405102.htm
2014年4月5日02時49分 北國新聞
前田利家、佐々成政の古戦場 弾丸はタイ産鉛 金沢・切山城

火縄銃の弾丸が出土した切山城跡の発掘現場=2011年12月3日、金沢市桐山町

 金沢市が国史跡指定を目指す「加越国境城郭群と古道」の調査で、加賀の前田利家と越中の佐々成政(さっさなりまさ)が戦った切山(きりやま)城跡(同市桐山町)から出土した火縄銃の弾丸が、東南アジアのタイで産出した鉛で製造されたことが4日までに分かった。タイ産鉛の出土は北陸で初めて。織田信長や豊臣秀吉が政権を握った織豊(しょくほう)時代、最盛期を迎えた南蛮貿易との関連を示す貴重な発掘資料で、海外の物資を調達して覇権を競った戦国武将のダイナミックな姿が浮かび上がった。

 切山城跡の弾丸は2011年11月、金沢市埋蔵文化財センターの発掘調査で出土した。市は国立歴史民俗博物館に弾丸の分析を依頼し、3月末発行の調査報告書に結果を掲載した。

 分析は「鉛同位体比法」と呼ばれる手法で行われ、質量がわずかに違う4種類の鉛の同位体比が世界各地の鉱山で異なることを利用して産地を調べた。その結果、切山城跡で出土した弾丸の鉛は、日本や朝鮮半島、中国華北・華南のいずれの産地とも異なり、タイのソントー鉱山で産出されたことが分かった。

 国内でタイ産の鉛が出土した例は、キリシタン大名大友宗麟(おおともそうりん)の館跡である大友氏遺跡(大分市)の十字架や、島原の乱でキリシタンが立てこもった原城跡(長崎県南島原市)の弾丸など九州に多い。近年では長(なが)篠(しの)の戦い古戦場(愛知県新城市)や駿府(すんぷ)城跡(静岡市)の弾丸でも確認されているが、北陸では切山城跡が初めてとなった。

 鉛同位体比法で東アジアの金属流通を研究する平尾良光別府大教授によると、織豊時代、中国に輸出する大量の銀を精錬するため国内産の鉛が消費された一方、火縄銃の普及で弾丸の需要が急激に高まり、ポルトガル、イギリス、オランダなどの船で中国やタイの鉛が輸入された。

 タイ産鉛の弾丸が前田、佐々いずれかの勢力に渡った経緯は不明だが、平尾教授は、南蛮貿易が戦国大名の武力を支える上で大きな意味を持っていたと考えており、「北陸でタイの鉛が見つかった意義は大きい。全国にどれだけ広がっていたのかを示す好材料となる」と指摘している。

147とはずがたり:2014/11/18(火) 18:46:59
仁和寺、大覚寺及び勧修寺は明治2年迄そんな権限持ってたんか!

受領名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E9%A0%98%E5%90%8D

朝廷・寺院の授ける受領名
京都においては、朝廷や御所や寺院の用をはたす商工業者や芸能者に限り、家格や家業に箔をつけさせるため、金品次第により守、介、掾などの受領名を授け、特権的立場を与えた。受領名を有する商工業者が扱う商品は、ブランドとしての附加価値が認められ、同じ業種の職人がつくった商品の中でも、破格の値段で取引される。こうしたことから、多くの業者が自身の名誉と商売繁盛を期して受領名を求めた。
特に戦乱に疲弊し、武家に荘園を横領されてきた朝廷や寺院にとり、官位や受領名の授与は、貴重な収入源でもあった。

時は下り、明治政府は、1869年(明治2年)5月8日に、仁和寺、大覚寺及び勧修寺に許可していた受領名の授受を廃止し、授受された者に対してその利用を停止する旨の布告を行った。これにより、寺院による受領名授受の歴史は終了した。

武家の受領名
室町時代以降、守護大名の間において武功ある家臣や被官に対して、朝廷の正式な位階や除目の伴わない、非公式な官名を授ける風習が生まれる。これが受領名である。多くの場合、大名の傘下にあって城や領地、兵力を有する国人や武将がその対象であった。この風習が転化し、自官や百官名、東百官という人名呼称が武士の間において定着するようになる。こうした主君から受領名を授かる際に交付されるのが官途書出、あるいは受領書出、官途状などといい、武家の格式と功名をあらわす栄誉として重んじられた。

江戸時代以降も官途状の付与という慣習は続いたものの、江戸幕藩体制下では武家官位という形で官職が身分秩序の統制に用いられたため、戦国時代のような幕府や有力大名とその重臣の間で官職が授受または私称されることはなくなっていった。但し、古河公方の流れを汲む喜連川氏は代々、非正規の官名ながら左兵衛督を私称することが容認されており、大名旗本級の身分では受領名を名乗る稀少な例ということができる。

148とはずがたり:2015/01/27(火) 15:14:14
>>97
【三好政権樹立迄】

三好元長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%85%83%E9%95%B7

永正17年(1520年)三好氏の中央政界登場を果たしその総帥であった之長は細川高国に敗れた際に処刑されており、その世子であった長秀はそれ以前に戦死していた。このため、之長の直系孫であった元長が三好氏の新たな総帥となったものの、高国への反撃に出られぬまま阿波において、之長が擁立していた主筋である細川澄元の遺児六郎(後の晴元)と共に逼塞していた。

将軍に返り咲かせた足利義稙との仲違いに陥ろうとも、新将軍に足利義晴を据える事で磐石を保とうとした高国の独裁政権は、大永6年(1526年)7月に細川尹賢の讒言で香西元盛を誅殺した事から綻びを見せた。謂れの無い上意討ちに元盛の2人の兄波多野稙通、柳本賢治が丹波で造反するも、大内帰国後の高国の政権は鎮定できぬほど軍事力の弱さを露呈したのである。

これを好機と捉えた三好元長と細川晴元(六郎)達は、同年10月に阿波で挙兵。足利義維(義晴の兄弟)を擁して高国軍に挑み畿内まで進軍して越年。高国に造反した波多野軍との合流を果たすと、翌7年(1527年)3月には官軍(高国と義晴の連合軍)と激突し、これを撃破(桂川原の戦い)。官軍を近江へ追い落とし、立場を逆転させた。京には実権を掌握した阿波の国人・三好元長や◆細川晴元らが入り,足利義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。
さらに、遁走により政治機能を喪失した高国政権に替わるべく堺公方(堺大樹)の樹立に貢献。近江に逃れた将軍は◆六角定頼と越前の朝倉宗滴らの加勢を得て堺公方派の駆逐を期する高国軍であるが同年11月19日には桂川周辺の泉乗寺で三好軍が撃退、六郎による新たな畿内支配体制を確立させるべく大いに尽力した。
三好元長は大永8年(1528年)7月、それまでの功績により三好元長は山城守護代に任じられる(堺公方から?)。堺公方では三好氏の重鎮であった三好政成(政康の兄)が朝廷との折衝役を果たしていた。

一方,享禄元年(1528年)には◆足利義晴は◆朽木稙綱(幕府奉公衆)を頼って朽木(興聖寺)に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。この時は後年に近江幕府として近江に逃げたときのような奉公衆・奉行衆を引き連れたものではなかったとも云われるが,一定の体裁を整えたものであったらしい>>127-128
しかし元長自身は翌享禄2年(1529年)には新たに同僚となった柳本賢治らと折り合いを悪くした為、阿波に逼塞する。

その間、伊勢の婿・北畠晴具の他に、ようやく播磨守護代・浦上村宗の加勢を得て、再挙兵した高国軍が中央進出のための地固めとして、播磨国内の各地を転戦、勝利を重ねていた。その播磨へ迎撃派遣された柳本賢治を享禄3年(1530年)6月の急死(暗殺とも)で失うと、高国と村宗の連合軍には8月に摂津への侵攻を許すなど、元長不在の堺公方派は旗色が悪くなり、ついには薬師寺国盛のように高国軍に降伏する者が現れるなど、窮地に追い込まれつつあった。

享禄4年(1531年)2月、六郎(晴元)の懇願によって三好元長は堺公方に復帰するも、事態は逼迫していた。播磨からの転戦に次ぐ転戦で、破竹の進撃を見せてきた高国と浦上の連合軍には手を焼かされ続けた上に、翌3月には堺公方派で河内からの新参・木沢長政が京の防備を放棄し、撤退した為、高国軍の京都奪還を許してしまう。

目障りな堺公方を討滅せんと、意気盛んな高国軍に摂津南部まで迫られた窮地に際し、阿波からの増派軍8000を得て、高国軍の先鋒に打撃を与えた堺公方派ではあった。しかし増派軍を加えたとはいえ、堺に鎮座する義維を守るための戦力を半数以上も割かねばならぬ為、純粋に高国軍と対峙するには少なく、元長の手腕に依存するところが大きかった(中嶋の戦い)。

149とはずがたり:2015/01/27(火) 15:14:43
>>148-149
戦局は高国軍の出鼻を挫いたために警戒され、戦線の膠着化を招いた。そして同年6月、高国軍の増援として現れた赤松政祐は元々家臣筋である浦上への恨みからの裏切りにより事態は進展。呆気ないほどの大勝で高国軍を壊滅させた(大物崩れ)。高国は処刑され、翌日摂津で尹賢(野州家より典厨家へ入った)も晴元派の木沢長政に殺されてしまう。

仇敵・高国の討滅という目標を達成した堺公方派ではあったが、その内部では直ちに以後の方針を巡って不協和音が生じだした。三好氏らにとってみれば現職将軍とはいえ朽木に逃げ込んだりしている(この時期は何処にいたのかね?)義晴を将軍職から追放し自分達が擁する義維を新将軍に据えさえすれば、六郎の堺幕府は公認されるという中で主君の六郎が、義晴には実力者六角定頼が付いており,晴元との和睦を模索していた定頼に応じる動きを見せたのである。

せっかく苦労して築いてきた堺幕府の放棄にも等しい六郎の決断には、河内の畠山義堯(六郎の義兄弟・妹の嫁ぎ先・総州家5代・後の管領)と共に断固反対したが、聞き容れてもらえなかったばかりか、かえって大きな溝をつくってしまう。これまでの大功が災いしたのか、六郎からはその存在を次第に危険視されてゆく。しかも、六郎の配下としての有望な地位を狙う木沢長政や、三好一門でこの後も一貫して元長の失脚を願い親晴元の従叔父の◆三好政長(宗三)らの暗躍もあって、その溝は一段と深まった。
やがて、木沢長政の存在で立場を悪くしていった元長は、同じく木沢長政の下克上を警戒する畠山義堯(長政の主筋)と結んで義堯による上意討ちを支援する形で、同年8月には長政の居城・飯盛山城を攻囲した。(天文の錯乱>>135)
高国討滅から僅か2ヶ月という堺公方派の内輪揉めであったが、長政を擁護しようとする六郎からの撤兵要請もあって、1度は兵を退けた。

結局晴元は義晴と和睦し,右京兆に就任(史料的に管領との記述は無く管領には就かなかった可能性もある。)
当時幕政に影響を及ぼしているのは六角定頼であり晴元は細川同族連合体制が崩壊した後の畿内の京兆家の当主として在京の戦国大名という形態をとったのかも(京兆家当主としては右京兆[右京大夫]に就任していれば十分)

その後元長は京都三条城に籠もっていた柳本甚次郎(かつて対立していた賢治の子)を、享禄5年(1532年)1月22日に阿波軍を率いて討滅させてしまうと、六郎の怒りを恐れて出家、海雲と号した。阿波守護・細川持隆(六郎の従弟)による、六郎との関係修復の執り成しも成功せず、主従関係を一段と悪化させた。

更に木沢長政の野心を危ぶんだ畠山義堯が翌5年(1532年)5月、飯盛山城を再攻囲。元長も遅れて支援に加わった。この時も主筋の六郎が長政を擁護する姿勢を見せていたが、それにも構わず飯盛山城の包囲し続けた為、長政の命運は尽きかけた。

三好元長の最期

木沢長政討滅が時間の問題となっていた翌6月15日。攻囲軍が一転、窮地に陥った。突如として数万の一向一揆軍によって、背後から襲撃されたのである。攻囲軍は瞬く間に追い散らされ、元長も命からがら堺の顕本寺(法華宗)まで逃げ戻った。一方、追撃の手を緩めぬ一揆軍に観念したのか、同月17日に畠山義堯は自害した。

自力での攻囲軍排除を不可能と判断した六郎や長政達は、かねてからの一向宗と法華宗の宗教対立を利用。山科本願寺(本願寺10世証如)から了承を得て、一揆軍に支援を仰いだのである。この時の一揆軍にとって、飯盛山城の攻囲軍を追い散らす事よりも、一向宗にとっての仏敵討滅が目的であった。すなわち、一向宗に敵対する法華宗の庇護者であった三次元長の討滅である。畠山義堯は言わば、巻き添えをくったようなものであった。
同月20日、顕本寺を取り囲んだ頃には一向一揆軍は一段と膨れ上がっており(総勢10万とも言われる)、義維を逃がすのに精一杯だった。対立が抜き差しならぬものになっていたとはいえ,主君晴元から見限られた上に、勝ち戦を大敗北に貶められた元長は自害して果てた。享年32。 その自害の様とは、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけたという壮絶さであった。

こうして無念の最期を遂げてしまった元長であるが、彼の子の長慶、義賢、安宅冬康、十河一存らはいずれも名将で、彼の息子達によって三好氏は大きく飛躍。政権を掌握するほどの最盛期を築くに至った。死後から20年余、長慶によって堺には元長の菩提を弔う南宗寺が建立された。

150名無しさん:2015/01/29(木) 00:45:05
http://hosokawa18.exblog.jp/i4/

関東戦国史について上記ブログが分かりやすくまとめられていて読み物としても非常に面白いです。
お好みに合うかわかりませんが、ご参考まで。

自分は、ごく短期(天正10年3月11日の武田家滅亡から天正10年6月2日の本能寺の変までの約3ヵ月間)
に終わった織田政権の関東支配に興味があるのですが、
それに関連して検索しているときにヒットしました。

>>144
その記事読んだ時は自分も衝撃受けました。
信長や秀吉の、
安土や大坂(中央)以外の権力(地方)は認めない、
武家政権(官)以外の寺社勢力など(民)は認めない、
という執念に。
(カッコ内はこじつけですがw)
信長秀吉家康が統一政権を作ってくれたおかげで今の日本の発展もあるのかなと素直に思います。

151とはずがたり:2015/01/29(木) 09:48:46
>>150
初めましてヽ(´ー`)/
面白そうなブログ紹介感謝です♪
私,遠州人ですので勿論,断然,今川派です!
私一番好きなのが鎌倉期の堂上公家の系図というニッチでマニアックな者ですので戦国時代しかも東国(遠州も含まれるんですが)は門外漢なんですが,今川・武田・北条の三国同盟で天下平定して欲しかった派っす。
また戦国武将では公卿出身の北畠・姉小路・土佐一条の三国司家推しですw

織田政権の関東支配とはマニアックな所へ来ましたね〜(笑)
どの辺の興味・関心から其処に辿り着いたんでしょうか?また宜しかったら聞かせて下さいませ〜。

江戸期は平和な時代で歴史としてはたまらなく詰まらないと思うんですが,大阪と江戸を2極とする国民経済の形成に元禄・文化文政の大衆文化と現代日本資本主義の繁栄の基礎を築いたのは江戸幕府と思ってます。
織豊政権に関してはまだ細川政権の崩壊から三好にかけてネットで情報蒐集してる段階なんで自分の中で判断保留っすねー。

一方で,寺社権門勢力が入り乱れる中世の重層的な権力構造は非常に興味深いだけではなく,現代の単純な国民国家の権力構造(の限界,昨今の世界経済の一極化と民意の二極化)に対して示唆が多いのではなかと思ってます。

152とはずがたり:2015/02/03(火) 19:39:42
岩倉山本氏は細川晴元vs足利義晴の時,晴元側について活躍して出てきた。纏まらないので先行して貼り付け。

【山本家・今川家諸大夫・岩倉①】

今出川家諸大夫山本家/近衛府山本家
ttp://iwarehiko.web.fc2.com/page066.html

 今出川家諸大夫の山本家(町口家)です。
その先祖は坂上田村麻呂であり、その子孫坂上頼次が摂津河辺郡山本庄を開いたことから、その子孫は山本氏を称しました。
代々その地方の豪族として続きますが、その一派が堂上今出川家に仕えて諸大夫となり、江戸末期まで続きました。
特に山本親臣は従三位まで昇っています。なお、この一家は平姓と為っています。

 ※参考リンクに追加した京都岩倉山本家の系図を見ていて気がつきましたが尚親〜尚貞までが実名・官途名が一致しており、同一家系なのは間違いなさそうですね。
 また、近衛府官人の山本家も実名からみてこの一族に係わりが有りそうですね。

坂上氏……平尚親─親資─資幹─尚貞─尚利●─【今出川家諸大夫】山本家正─家久

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)

中世になると文明年間(1469年 - 1487年)、近江佐々木氏の被官であった山本氏がこの地に勢力を拡大し、岩倉と長谷にまたがる小倉山に居館(小倉山城)を築き、若狭街道の京への出入り口であった岩倉地域を押さえ一大勢力となった。

岩倉山本氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/iwa_yamamoto.html

 山本氏は『尊卑分脈』によれば、清和源氏義光流となっている。すなわち、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の孫遠江守義定が、近江国浅井郡山本を本拠にして山本を名乗ったのだという。 ちなみに、義定の兄昌義は佐竹氏の祖である。
 義定の子義経は弓馬の達者として聞こえ、『吾妻鏡』にも記された武人であった。治承四年(1180)、伊豆の源頼朝をはじめとした諸国の源氏が平家打倒の兵を挙げると、義経も弟の柏木甲賀入道義兼らとともに挙兵。水軍をもって琵琶湖をおさえ、北陸からの年貢の輸送を止めるなどして都の平家を苦しめた。しかし、平家の大軍に山本山城を落とされたのち、木曽義仲軍に加わって上洛、義仲の下で若狭守などを歴任している。寿永三年(1184年)1月20日、源義仲は源範頼・義経の軍に攻められ没落。この合戦の直後に子の義弘が右衛門権少尉に任じられているが、山本義経の消息は不明である。

 鎌倉時代末期に起こった正中の変に際して、山本九郎時綱は六波羅の命を受けて謀反に加担している土岐頼員の宿所へ討ち寄せ、頼員の子頼兼を討ち取ったと『太平記』に記されている。山本氏が六波羅探題に出仕し、相応の地位の武士であったことが知られる。戦国時代、武田信玄に仕えた山本勘助は、伝によれば九郎時綱の子孫という。 また、中世の洛北岩倉に勢力を有した土豪山本氏も、同家に伝来する系図には九郎時綱の後裔となっている。……

岩倉山本氏の登場

 山本氏の系図によれば、山名氏が将軍義満に謀反を起こした明徳の乱に際して、九郎時綱の孫にあたる山本茂尚が義満に味方して戦死したとある。その子義立は将軍足利義教に仕え、娘が岩倉の伊佐家に嫁いでいることから、この義立のころに岩倉と関わりを持つようになったようだ。 伊佐家は佐々木氏の後裔を称しており、雅綱のとき岩倉に居住するようになったという。 両者はともに近江の出自ということで、縁を結んだとも考えられる。

 やがて応仁の乱が起こると尚親は将軍義政に属して活躍、岩倉一帯、醍醐、河内、近江、丹波などに所領をえた。そして、小倉山に城を構えたという。一方で西川家系図によれば、文明十六年(1484)に細川政元の家臣香西元長が岩倉に乱入しようとしたとき、小倉山城主西川氏の援軍として静原から駆けつけた。これが、山本氏が岩倉に進出するきっかけになったようでもある。いずれにしろ、山本氏は尚親のとき、岩倉に一定の地歩を築いたようだ。

応仁の乱は幕府体制を揺るがし、…いわゆる下剋上の世となったのである。文明四年、乱に加えて飢饉となったことで、京市内には悪党が跋扈するようになった。尚親は内裏を守護した功により、巴橘紋の練絹を賜り、それで軍旗をつくり、家紋とするようになったと系図にある。のちに尚親は従五位下に叙され、佐渡守を称している。

 尚親のあとを継いだ親資は三好氏から養子に入った人物で、足利義尚が起こした六角征伐に従軍している。洛北岩倉を支配下におさめ、将軍家に仕える存在になっていたようだ(義尚に重用された奉公衆?>>137)。将軍義尚が近江の陣で没すると、義材が将軍職に就いたが,明応二年(1493)、義材が畠山政長とともに河内に出陣した留守をついて細川政元がクーデタを起こした。明応の政変である。

153とはずがたり:2015/02/03(火) 19:51:38

【山本家・今川家諸大夫・岩倉②】

打ち続く争乱
 政変を起こして幕政を掌握した政元であったが、後継者のない政元は九条から澄之、分家阿波細川家から澄元と二人の養子を迎えた。これが細川家家臣団を二分することになり、永正五年(1508)、澄之派の香西元長らによって暗殺されてしまった。このとき、山本資幹は香西らに属して行動している。

 以後、細川氏の家督をめぐって細川氏の内訌が連続。永正五年(1508)、前将軍足利義稙を奉じて大内義興が上洛してくると澄元派の細川高国は義興と結んで細川澄元と将軍足利義澄を追放。細川高国・大内義興によって政局は一応の安定をみせた。 山本氏は両細川の乱で錯乱状態にある京にあって、時々の権力者に属しながら勢力を拡大していったようだ。大永七年(1527)、細川高国と三好・波多野連合軍とが桂川で戦ったとき、資幹の子●尚利(尚貞)は連合軍に属して奮戦、戦後、丹波に所領を得たという。桂川で敗れた高国は諸国を放浪のすえ、享禄三年(1530)、高国は浦上氏の支援を得て京に進攻したが、翌年、摂津の戦いに敗れて自害した(大物崩れ)。 かくして、細川晴元と三好元長が京の実権を掌握したが、戦乱から京を守ったのは法華門徒(京の町衆)で、山本氏ら洛北の土豪は法華に加担して行動した。

 その後、晴元と三好元長の関係が険悪となり、晴元は一向一揆をもって元長を滅ぼした。ところが一向一揆が台頭してくると、今度は法華門徒をもって一向一揆を制圧した。さらに、法華門徒が跋扈するようになると比叡山(山門)と通じて法華宗の弾圧へと転じた。 これに法華宗が抵抗したことで天文法華の乱が起こると、山本氏は田中の渡辺氏らとともに山門に寝返って法華門徒を攻撃した。
 その後の天文七年、山本修理が実相院門跡領を違乱したことが「実相院文書」にある。山本氏が岩倉を本拠として、 在地支配を着実に拡大している様子がうかがわれる。

混沌を極める乱世

 幕政を掌握した細川晴元であったが、晴元は将軍義晴と対立するようになり、晴元は晴元を除こうと挙兵した三好長慶と和睦した。仲介に奔走した木沢長政は、河内北半国守護代と畿内最要地である信貴山城を与えられた。大和の国人衆を味方にしていた長政は、天文10年(1541年)7月に笠置城を修築して居城とした。また同年8月、高屋城(羽曳野市)で畠山長経を弑殺してしまった。

晴元の傘下に降った長慶は、晴元の命により細川高国の妹婿になる塩川政年の居城一庫城を8月12日に攻城した。しかし、塩川政年の姻戚になる伊丹親興(伊丹城主)や三宅国村(三宅城主)らが同年9月29日に将軍足利義晴にこの攻城戦の不法性を訴える一方、木沢長政に援軍を要請、山城、大和、河内の大軍を率いて三好軍を後巻にしようとした。しかし、この動きを察知した三好軍は同年10月12日越水城に帰城した。
これを追って木沢軍は越水城を攻囲する一方、その前日の10月11日に義晴の前に進み出て、京都御警固を仰せつけられたいと申し出た。しかし長政の専横に嫌悪感をもっていた室町幕府は、10月29日に管領晴元が北岩倉に、翌10月30日には将軍義晴が慈照寺に退き、その後白川口より近江坂本に逃れて行った。警護すべき将軍が消え去った長政は河内に引き上げていった。この時の北岩倉は山本氏のもとであろう。

、その後,権力を行使する晴元と足利将軍義晴は頻繁に対立し,その度に義晴が近江に逃げ出すという事を繰り返した。このとき、山本則尚は晴元に味方して大雲寺(上薗城)に拠ると、義晴方の細川玄蕃允の攻撃を迎え撃った。 その後、晴元と長慶が対立、長慶は京都近郊の幕府直轄地、晴元方の所領を没収に動いた。
 晴元に加担した則尚は、三好に抗して所領の確保に努めた。天文二十年(1551年)、三好勢が岩倉に来攻してくると尚利は長慶に対抗したが、岩倉山本館は放火され、岩倉・長谷は三好勢の乱妨にさらされた。三好軍は再三にわたって岩倉を攻め、尚利は将軍に方に属して三好軍と交戦したようだが、遂には三好方に転じて二十二年には佐竹氏とともに晴元軍と戦っている。

154とはずがたり:2015/02/03(火) 19:53:06
>>152-154
【山本家・今川家諸大夫・岩倉③】

 永禄七年(1564)三好長慶が病死したことで、京は長慶の重臣松永久秀と三好三人衆との権力争いの場となった。尚利は三好三人衆に従って、幕府奉行衆の三淵藤英(異母弟に細川藤孝)と交戦した。

 永禄十一年、京の混乱を横目に、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛してきた。尚利は信長・義昭に通じて所領の安堵を得たが、翌年、信長の不在を突いて三好三人衆が京都に侵攻、義昭の宿所を攻撃すると、三人衆に味方した。さらに、信長と義昭が不和になると、尚利の子俊尚は義昭方についたため、元亀元年(1570)俊尚は近江高島において自害に追い込まれた。俊尚の死後、弟の監物昌尚が岩倉城主となり、俊尚の子尚治は宇治田原に隠れ住んだようだ。 ほどなく信長の浅井・朝倉攻めが始まると、山本対馬守は田中の渡辺氏、上高野の佐竹氏らとともに信長勢に加わり帰参を許された。


戦国時代の終焉

 元亀二年、比叡山攻めが開始されると、尚治は弟らとともに信長の軍に参加、所領回復を願って比叡山攻めに従軍した。しかし、天正元年、義昭が槙島城によって信長に反旗を翻すと、尚治は義昭に味方して渡辺氏、磯谷氏らとともに一乗寺山城に籠った。一説には渡辺宮内少輔とともに静原城に籠ったが、明智光秀に諭されて降伏、以後、光秀に従った。そして、本能寺の変後の山崎の戦いで戦死したという。しかし、『信長公記』には、天正元年、山本対馬守が静原山に籠城、明智光秀の調略によって生害、頚は北伊勢東別所まで送られたとある。 山本氏の敗北は、土豪が割拠した時代から統一政権の成立を示すものであり、中世の終焉を象徴するものであった。
 尚治の戦死後、山本氏は岩倉から没落したようだ。その後、監物昌尚の子尚宗が岩倉に帰り、その子孫が実相院宮に奉仕して岩倉に定着。子孫は連綿として現代に続いている。とはいえ、戦国末期の山本氏の動向は諸資料から知られるが、それぞれに登場する人物は伝来する系図と必ずしも一致しない。 おそらく、近世にいたって不都合な人物や事件などは削除、あるいは改竄されたものであろうか。

三淵藤英
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E8%97%A4%E8%8B%B1

三淵 藤英(みつぶち ふじひで、? - 天正2年7月6日(1574年7月23日))は、戦国時代の武将、室町幕府末期の幕臣(奉公衆)。三淵晴員の長男。異母弟に細川藤孝。他の兄弟に長岡好重など。三淵秋豪、三淵光行、朽木昭貞、朽木昭知(三淵昭知)、朽木昭長の父。通称は弥四郎、官途は弾正左衛門尉、大和守。別名は顕家(あきいえ)。初名は藤之(ふじゆき)、のち藤英。「藤」の字は将軍足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったものである。
永禄8年(1565年)に第13代将軍・足利義輝が永禄の変で松永久秀・三好三人衆に暗殺されると、藤英は弟の藤孝と共に義輝の弟で一乗院門跡の覚慶を擁立して近江矢島にて還俗させ、共に越前国の朝倉義景を頼り赴き、ついで織田信長を頼った。
義昭が織田信長に擁立されて将軍となると、山城国で伏見城周辺の守備を命じられた。その後も南山城の軍勢を率いて和田惟政・伊丹親興と共に三好氏との戦いに参加する一方、政治にも手腕を発揮して義昭の重臣となる。永禄11年(1568年)に大和守に叙任。
だが、義昭と信長が対立した時に弟・藤孝が義昭を裏切り信長方に付いたことを知って激怒、藤孝襲撃を計画するが失敗する。天正元年(1573年)に義昭が山城槇島城に籠城すると、藤英は二条城の城代となる。だが、信長の大軍に囲まれて軍は潰走したため、居城の伏見城に退き、直後に信長方の将・岩成友通を攻めるが、藤孝と柴田勝家の説得を受けて降伏した。槇島城の戦いの後、義昭は信長によって追放され、室町幕府は事実上滅亡し藤英も信長に仕える。
翌年、信長によって突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられて、嫡男の秋豪と共に自害を命じられた。次男の光行は藤孝に預けられてそのまま細川氏に仕える。後に田辺城の戦いにおいて、光行がよく叔父を助けたことを知った徳川家康に高く評価されて旗本として召しだされた。一方、弟の長岡好重は三淵の名跡を継ぎ、細川氏に仕えた。

155名無しさん:2015/04/18(土) 11:49:50
>>144を読んで思ったよしなしごとをつれづれなるままに書いてみます。

日本における、公権力による暴力装置の独占は2段階あるように思います。
1段階目は中世から近世にかけて。
信長や秀吉による寺社勢力の武装解除、
秀吉による刀狩令・海上賊船禁止令・喧嘩停止令、
徳川幕府による兵農分離の身分制、
これら一連の政策で、まず武士階級により、暴力装置が独占されました。
2段階目は明治維新および西南戦争等の内戦を経ての、
国家(明治政府)による、暴力装置の独占です。

イギリス・フランス・アメリカの市民革命や独立戦争と比較して、
日本の明治維新を、「支配層(武士階級)は変わっていないのだからクーデターにすぎない」、
「上からの近代化」と評するのを良く目にします。

ただ、それはある意味、仕方の無いことで、
「公権力による暴力装置の独占」という近代国家の条件を、
「先取りしていた」からこそ市民革命が起きなかったとも言える気がします。

むしろ、近代化以前のヨーロッパでは、
どの程度、「公権力による暴力装置の独占」が進んでいたのか気になります。
市民革命により、「自分たちが選び・コントロールする政府」が出来たからこそ、
公権力に暴力装置をゆだねる事が出来たのかもしれません。

先進的近代国家であるアメリカが、なお銃社会であるのは、
「自分たちが選び・コントロールする政府がもたらす日常の安全・平和」と、
「公権力の暴走の恐れや公権力への不信感」を天秤にかけた上で、
独立心旺盛で建国の志を脈々と受け継いでいるアメリカ人ならではの選択なんだろうなと思います。

156とはずがたり:2015/04/18(土) 16:45:27
なるほど〜。面白いですね〜。

中国とかは辛亥革命後軍閥割拠になりましたが,治安とかどうなってたんでしょうかねぇ?
また日本は第0次段階として大昔の律令体制がありましたがあれは可成りの規律を日本にもたらした感があります。古代豪族が武装解除されたイメージ(実際は中央豪族は貴族化し地方豪族は国衙の官僚化して軍事力を中央が吸収)です。

先日フランス文学の先生にシャルリに関して質問しましたが,フランスは昔(中世以前)からめちゃくちゃな所があって現代にもそれが残っている,という様な言い方をしていて,そういう野蛮なもの(と私は解釈しましたが)が残っていて暴力革命が発生したと云えるのかもしれませんな。

157とはずがたり:2015/06/22(月) 07:17:04
熊と蜂蜜なんて童話の中の取り合わせかと思ってたけど。それにしてもこんな所に清原宣賢の墓所があるとわ。

清原宣賢
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E5%AE%A3%E8%B3%A2

清原 宣賢(きよはら の のぶかた、文明7年(1475年)- 天文19年7月12日(1550年8月24日))は、室町時代・戦国時代の公卿・学者。官位は正三位少納言。子は、嫡男業賢、吉田家を継いだ吉田兼右、等貴(牧庵)、周清(相国寺恵林院南豊軒主)、和歌古今伝授を受けた細川藤孝(細川幽斎)を生んだ娘(智慶院)など。孫は千秋輝季室、枝賢(えだかた、業賢の子、娘にマリア)、教重。
吉田神社詞官神道家吉田兼倶の三男だったが、明経博士だった清原宗賢の養子として入る。宮中に仕えて講義を行い、明経道を整理して和漢にわたる著作をおこなった。享禄2年(1529年)に宮仕えから身を引き、剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。越前国一乗谷にて天文19年(1550年)に76歳で歿。福井市徳尾の禅林寺に墓所が残る。
国学者・儒学者で歴史上屈指の碩学とされ、多くの著作があるが、そのなかでも各種の抄物は現在も多く伝わり、日本国学研究の基礎資料となっている。なお、清原家は四代後の秀賢から舟橋家を称したため、宣賢を船橋大外記宣賢と記した史料もある。

墓内のハチミツ狙いクマが石扉破壊 福井県指定文化財の史跡荒らす
http://news.goo.ne.jp/article/fukui/region/fukui-20150619083300219.html
06月19日 08:24福井新聞

 福井市徳尾町の曹洞宗禅林寺で、福井県の文化財(史跡)に指定されている儒学者・清原宣賢(のぶかた)(1475〜1550年)の墓の石扉が破壊されたことが18日、分かった。墓の内部にあった巨大なハチの巣も壊されていた。住民らによると、ハチミツを狙ったクマの仕業とみられるという。

 被害に遭ったのは、室町期を代表する儒学者で、越前朝倉氏とゆかりがある宣賢の墓。禅林寺東側の橋立山の麓にある墓地の一角にあり、高さ約2メートルの墓の正面には両開きの石扉が備わっている。中に五輪塔が納められ、傍らには墓碑が建つ。

 17日午後1時ごろ、墓地の草刈りの準備のため訪れた地元の男性が、向かって右側の扉が外され、地面に落ちているのを見つけた。扉は重さ10キロ前後で、金具部分には無理やり引きちぎったような跡があった。

 扉の内側には、ミツバチが大きな巣をつくっていたが、ばらばらに壊され、辺りに散らばっていた。墓の内壁や巣の残骸にはクマとみられる爪跡も残されていた。今月7日に地元住民が寺の掃除で訪れたときには異常はなかったという。

 同寺の総代を務める熊田悟司さん(74)らによると、宣賢の墓は2001年にもクマに扉を壊され修理した。その際も、墓の中にあったハチの巣が壊されたという。熊田さんは「クマを寄せつけないよう、こまめにハチの巣を取り除いていくしかない」と頭を抱える。

 県生涯学習・文化財課の担当者は「ハチが墓の中に入らないように隙間をなくす必要がある。県文化財審議委員と対応を検討していく」と話している。当面は応急処置として、壊れた石扉部分にふたをする対応をとる。

158名無しさん:2015/09/14(月) 22:24:36
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150914-00000000-sasahi-peo
織田家18代当主・織田信孝「『織田廟宗家』を名乗る困った人」〈週刊朝日〉
dot. 9月14日(月)7時7分配信

 戦国時代の武将・織田信長の子孫である織田家18代当主の織田信孝(のぶたか)さんは、織田家を名乗るある人物に困っているという。

*  *  *
 本能寺は寺町御池という京都の中心部にある。信長公廟(びょう)があり、亡くなった家臣の廟もある。塔婆の並ぶところに目をやると、「天正事変戦没者(森蘭丸など)の供養をあなたの名前でしてみませんか? 塔婆1枚……500円」とあった。京都の寺はまことに商売上手である。

 10年ほど前、ここで奇妙な催しがあった。「織田家、明智家が和睦」というものだ。このとき明智家からは、『本能寺の変 431年目の真実』などを著した明智憲三郎氏、織田家からはA氏という人が出てきた。

 明智氏のことは知らないが、A氏は私にあいさつに来たことがあった。元埼玉県の公務員で、安土のそう見寺(そうけんじ※)の住職の末裔(まつえい)であることが彼の父の代で判明したという。そのときの彼は織田家にゆかりがあることがわかって喜んでいるだけに見えた。

 しかし、それからほどなくして、この人は自らを「織田宗家13代当主」と称して、あちこちで「和睦イベント」を始めたり、テレビなどに露出し始めた。明智家との和睦イベントはその一つである。

 私はびっくりした。というよりあきれた。歴史には未知のことが山ほどある。軽々しく後知恵で触れるべきでないというのが歴史学者の常識的な見解だそうだし、子孫にとってはそれが先祖への礼儀だと私は思う。それに織田家には宗家は存在しない。信長の長男(信忠)の血筋は途絶えたので、どの家系も宗家とは名乗らずに今日に至っている。だから、いきなり出てきた「宗家」にも驚いた。

 A氏に会って聞いた話と資料を総合してわかったのはこういう経緯だ(細部は違うかもしれないが、大筋では合っているはずだ)。柏原藩織田家は、藩主が代わるたびに一族から一人、安土のそう見寺に住職を出していた。織田家出身の最後の住職は明治維新で寺を失い、還俗(げんぞく)し、やがて養子を迎えて親子で樺太に渡った。その子は長じて何度か結婚し、数人の子をもうけるが、その一人は養父母に育てられ、姓も変わり、織田家の血筋であることを知らずに生きた。彼が偶然、出自を知ったのは、60歳も過ぎてからだったそうだ。この人の長男がA氏である。

 劇的ではあるが、宗家を名乗るのは無理な話である。また偶然、私の父(故人)がA氏と同姓同名なため、私としては混同されるのも迷惑だった。そんなわけで私は「織田宗家」はやめてほしいと頼み、彼は宗家や当主を名乗らないと約束した。以来、彼と交流はない。

 ところが、である。先日、ネットを見たらこのA氏、「織田廟宗家13世」と名乗り、安土に過去の神社を再建すべく、会を作り、会員を募って会費を集めている。またまたびっくり、である。「織田宗家」でなく「織田廟宗家」だからいいでしょ?ってことなのだろうか。しかし家系名を創作するというのはまずいんじゃないかと思う。

 大名系織田家は現在4家あるが、いずれも、この人やその活動とは関係がない。しかし世間からは織田家というだけで一緒に見られそうで気が重い。友人は「有名税」だと笑うが、有名なのは信長公で私ではない。困ったものである。

※そうの字は、手偏に「総」の旧字体のつくり部分

※週刊朝日 2015年9月18日号

159名無しさん:2015/09/24(木) 22:02:05
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150917-00010002-tokyofm-life
「正座、白菜、医者」わたしたちが観ていた時代劇は間違いだった!?
TOKYO FM+ 9月17日(木)11時40分配信

戦国時代や江戸時代に偉い人が乗っている馬は、サラブレッドふうのかっこいい馬……ではなく、実際は足の短いポニーふうの馬だった……。こんなふうに、私たちが想像している時代劇ふうの江戸のイメージと、実際の江戸の史実が大きく違っていた、なんていうこともあるようです。そんな「時代劇の間違い」をご紹介します。

私たちが見慣れている時代劇には、「現代用」に変えられているものがたくさんあります。
たとえば、言葉。
一人称などは昔ふうですが、口調はほとんど今と変わりない時代劇。
ですが本当は、江戸と今では大きく言葉が違いました。

同じように、時代劇ではお馴染みのシーンも、実際の江戸の町ではありえなかったことがいくつかあります。
たとえば、戦国時代の室内でのシーン。
女性はきちんと正座をして座っていますよね。
実はあれはウソ!
あの時代、高貴な女性たちは、座る際には立膝かあぐらが普通でした。
実際、多くの肖像画に、女性たちは立膝かあぐらで描かれています。

食事のシーンにも、ちょっとした罠が。
もし、江戸時代のドラマでお鍋の中に白菜が入っていたら……?
それはウソ!
白菜が入って来たのは明治時代。
江戸時代のお鍋に白菜が入っているわけはないんですね。

最後に、もう一つ。
戦国時代にチョンマゲを結ったお医者さんが出てきたら、それはウソ!
実はこの時代、お医者さんはほとんどの場合が「坊主」。
医者は戦場に一緒に行って傷ついた兵士を治療するため、「非戦闘員」の印として坊主にしたのだとか。
その名残で、江戸時代もお医者さんは坊主、というのが普通だったようです。
また、僧侶がお医者さんを兼任することも多かったから、とも言われています。

いかがでしたでしょうか。
実際の風景とはちょっと違う形になっている時代劇。
でも、もしリアルすぎる時代劇を作ったら、思い入れしづらくなってしまうのかもしれませんね。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」9月16日放送より)

文/岡本清香

160とはずがたり:2015/09/25(金) 22:57:38
しらんかった。実際に本当かどうか調べようとしたらこんな頁が。(肖像画の方はどんな脚の組み方をしてるか解らなかった・・(;´Д`))
憂国の士に拠るとこうなってしまうw
(>>159が真実だとして)一日本人として恥ずかしいわ┐('〜`;)┌

カンヌ映画祭出品の日本映画!立膝をつく出演者?韓国(朝鮮)文化である立膝!韓国人の食べ方は下品?犬食いする?
AKIRA Channel 憂国の士
https://www.youtube.com/watch?v=hIuPW62LQlY
2015/05/17 に公開
朝鮮式横行?朝鮮系入り込む?先日、カンヌ映画祭に出品された日本映画。古きよき日本-と称しているのだが、立膝をつく出演者が話題となっております。TV番組制作会社や映-画制作会社には朝鮮の血が入る人々が結構おります。最近の時代劇の質の低さをみてくだ-さい。これらが混じりこみ、日本の伝統文化を壊そうとしているのを垣間見る事が出来ま-す。
これは明らかに日本の文化ではありません。一昔前の日本の家は、畳の部屋での食事が普-通でした。戦後、高度経済成長期以降、欧米化が加速し、日本人が畳の部屋で食事をする-機会が減りました。
欧米と同じようにテーブルと椅子というのが今の日本人家庭の主流となってきております-。
古き良き昔の時代に、立膝をつこうものならカミナリ親父が怒ったものです。
私はかつて、数万人もの韓国人と寝食を共にしてきました。それにより、彼らに関しては-熟知しております。
彼らは椅子であっても胡坐をかき、立膝をつきます。そして、食事する時は、器を持たず-犬食いをしております。ご飯を食べる時は、箸ではなくスプーン。
口にものをいれながら平気で会話。音をクチャクチャとたて、フォークやナイフを使う洋-食を食べようものなら、キーキー音をたてる。
試しに韓国人経営の韓国料理屋にでも行き、韓国人を観察してみてください。
よくわかります。
彼らは本当に下品でございます。

161とはずがたり:2015/09/25(金) 23:02:35
これか〜。今の日本の現状だけを見てそれが美しいと思いこんで日本の美しき伝統に非礼な振る舞いの国辱的な無知な憂国の士だw

公家の礼法
http://www.kariginu.jp/kikata/10-1.htm
装束着用時の挙措振る舞いなど

建膝(たてひざ)
左足を建て膝にして、右足は正坐状態にします。古代から伝わる坐法で、特に女子が貴人の前に伺候する際の基本的な坐法とされていました。配膳や酌をする際は右利きの便を図って足を左右逆にします。男子の場合は貴人から受命する際の姿とされていたようです。

162名無しさん:2015/10/03(土) 22:10:58
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151001-00000002-sundaym-ent
<青い空白い雲>平和主義の徳川綱吉を「変人」にした薩長?
サンデー毎日 10月1日(木)15時11分配信

 ◇牧太郎の青い空白い雲 連載540

「妊婦と3歳以下の子供は庄屋、町役人が管理・保護する」 という"決まり"があったのは、驚くことに17世紀の江戸である。

この時代、捨て子、子殺しが普通だった。貧しかった。やむなく、五代将軍・徳川綱吉は「捨て子を見つけたら町で養いなさい」と、養う者には養育費として報奨金を与えている。多分、17世紀に《母子保護法》を持った国は江戸以外、世界のどこにもなかったと思う。

    ×  ×  ×

この決まりは「行き過ぎた動物保護法で、庶民は大変に苦労した」といわれた、綱吉の「生類憐れみの令」の中にある。当時、野犬は町に溢(あふ)れ、群れをなし人を襲い、狂犬病を伝染させた。もちろん飼い犬もいたが、その一つはどう猛な唐犬。もう一つは長屋に住み着いた犬。今でいうペットではない。冬になると犬を殺して中間(ちゆうげん)、傾奇者(かぶきもの)は好んで犬鍋を食べていた。

「生類憐れみの令」(1687年)は、この野蛮な気風を変えようとした試み。犬は家族の一員として、どこかの家に属することにする。飼い主のいない犬は幕府が保護する。中野の御犬小屋には最大11万頭の犬が飼育された。

かくして、野良犬はいなくなり、犬への暴力、もちろん犬を殺して食べることは禁止された。

法令がいう「生類」とは「人を含めた生き物すべて」。だから、綱吉にとっては子殺しを禁止する《母子保護法》も当然だった......どう考えても「生類憐れみの令」は悪法とは言いかねる。

    ×  ×  ×

明治以降、なぜ人々は人道主義を貫く類いまれなる天才政治家・綱吉を「変わり者」扱いするようになったのか? その理由は、彼が平和主義だったからではないか?

当時、武家屋敷は「治外法権」で、犯罪者は各屋敷内で勝手に処罰することができた。「犯罪」といって大名、旗本が人を斬る。綱吉はこれが許せなかった。大名、旗本の殺人行為を禁止した。戦国時代の価値観をガラリと変えよう!と思った。武から文へ、である。

163名無しさん:2015/10/03(土) 22:12:21
>>162

元々、徳川家は平和主義。徳川家康は豊臣家を滅ぼした後、「日本国は平和路線で行く!」と宣言。豊臣秀吉が朝鮮を侵略した時、兵を送らなかった家康は朝鮮との国交回復を進め「朝鮮通信使」を招いた。綱吉は「家康の平和路線」の忠実な後継者だった。

これが、明治維新に勝利した薩長、とくに関ヶ原の戦いで徳川に「恨み」を持つ長州には気に入らなかった。 たしかに「あいつが動物を苛(いじ)めました」というチクリも横行し、この法令には弊害もあったが、これを理由に「綱吉=犬バカ将軍」のイメージを意識的に流した。明治維新後の思想はすべからく反徳川だった。

    ×  ×  ×

薩長中心の明治政府は日本人を軍事国家への道に引っ張っていった。戦う「薩長史観」はいつも「勝てば官軍」だった。たとえ道理にそむいていても、戦いに勝った者が正義となり、負けた者は不正となる。この「史観」が、常に日本国の戦争の背景には存在した。

強い日本を作る「皇国史観」が明治、大正、そして終戦前までの昭和、人々を支配したが、本当は「薩長史観」の実践だった。

戦後70年。天皇陛下は「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切」と述べられた。畏れ多いことだが、陛下は、本当は「薩長史観が皇国史観と偽って暴走した」と指摘されているのではないか? 断っておくが、鹿児島県(薩摩)、山口県(長州)に悪感情を持っているわけでは断じてない。両県出身の親しい友人が何人もいる。

でも徳川の平和主義が続いたら、維新後の日本はだいぶ違っていたと思う。

山口県出身の8人目の首相、安倍さんは「勝てば官軍」の申し子だ。「美しい国」とのキャッチコピーで「戦勝国から押し付けられた価値観を大事にする自虐的な歴史観から脱却しろ」と言い続ける。「美しい国」という皇国史観(実は薩長史観)。嘘(うそ)を並べて、国民を騙(だま)してでも安保法案を強行採決した。

物事は勝敗によって正邪善悪が決まる!と信じるのは、戦争好きな「薩長の血」ではないか? と思う昨今だ。

 ◆太郎の青空スポット 富士山にキッズ運転席!

 富士急行大月駅〜河口湖駅26・6キロの特急列車「フジサン特急」は一番富士山に近い路線。標高358メートルの大月から857メートルの河口湖駅まで。高低差500メートル。富士山を正面に望む一号車はサロン席で、本物の運転席隣にキッズ専用ミニ運転席がある。ハンドルを握る我が子の笑顔が忘れられない。

 ◇毎日新聞夕刊にコラム「大きな声では言えないが...」を連載中

164名無しさん:2015/10/25(日) 18:45:30
日本の西洋科学に対する吸収力の高さ・早さはすごかったと思うし、
その吸収力は江戸時代に学問の基礎が築かれたからこそだと思うけど、
日本が西洋科学の影響を受けずに独自に発展していたらどうなっていたかは気になるところ。。。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151025-00016450-president-bus_all
実は世界最高水準だった! 江戸時代の「和算」とは
プレジデント 10月25日(日)16時15分配信

 「和算」をご存じだろうか。聞いたことはあっても、よく知らないという人が大半ではないかと思う。それもそのはず。学校の教科書でもほとんど触れられず、高校の日本史で和算家の代表格、関孝和の名前が出てくる程度だからだ。

 和算とは、江戸時代から明治にかけて日本人が独自に研究、発展させた数学だ。そのレベルは極めて高度で当時、世界最高水準にあった。たとえば、関孝和の弟子である建部賢弘は、「円周率π」の計算で41桁まで弾き出すことに成功。これは天才レオンハルト・オイラーが微積分学を用いて同じ公式を発見する15年も前のことだ。

 数学というと、我々は西洋から学んだものと思いがちだ。確かに明治維新で「西洋数学」を取り入れたが、それ以前に日本には和算という独自の数学があった。だからこそドイツの数学を輸入する際、いとも簡単に日本語に翻訳できたのだ。また、和算の発展があったから、数学のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞を日本人は3人も受賞しているのだ。国別の受賞者数では、米仏ロ英に次ぐ5位で、日本はまさに世界に冠たる数学大国であり、その原点が和算なのだ。

 和算は江戸を中心に全国の各藩で盛んに研究された。私の出身地の山形は、江戸に次いで和算が盛んな藩の1つだった。紅花などで大儲けした富裕層がいて文化的なものを尊ぶ風土があり、また冬は雪に閉ざされるため家で数学の問題に打ち込むのによい環境だった。和算には関孝和の関流を筆頭にさまざまな流派があるが、山形では会田安明が「最上(さいじょう)流」をつくり、関流と20年間も優劣を競い合った。

 そこで今回は、この和算に挑戦してみよう。数ある和算書のなかでも、『算法童子問』(村井中漸著)から「大原の花売り」を紹介したい。書名の通り子ども向けの本だが、案外と難しいので侮れない。

 「京都大原の里から、毎日花を売りに来る女がいる。女の家には『桜・桃・椿・柳』の4種類の花があり、そのうち3種類を毎日均等になるように選び、売り歩く。選ぶ順番も同じだという。ある日、『桜・桃・椿』を買った。次に同じ組み合わせの花を購入できるのは何日後になるだろうか? 」

 これは「組み合わせ」の問題である。4種類の花から3種類を選ぶ方法は何通りあるかを考えるのだが、「選び出す花」を考えると複雑になるので、逆に「家に置いてくる花」に着目する。「4種類のなかから3種類を選び出す」ことと、「どれか1種類を家に置いてくる」ことは同じ意味だからだ。

 これを「余事象」といい、ある事象に対して、そうではない反対の事象を指す。この問題は余事象に注目することがポイントになる。要するに発想の転換だ。

 図の通り、花は4種類なので、家に置いてくる花の選び方も4通りだ。したがって4種類のなかから3種類を選び出す方法も同じ4通り。つまり、花の組み合わせは4日で1回りするので、答えは「4日後」ということになる。

サイエンス・ナビゲーター 桜井 進 構成=田之上 信

165名無しさん:2015/11/02(月) 22:55:30
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151102-00000003-sasahi-peo
仙台真田家13代・真田徹「大坂の陣の後、次男は伊達政宗の庇護下で生き延びた」〈週刊朝日〉
dot. 11月2日(月)7時12分配信

 大坂の陣で徳川家康を追い詰め、“日本一の兵”と称される戦国武将・真田幸村。来年、NHK大河ドラマ「真田丸」が始まるのを前に、ゆかりの地に大勢の人が詰めかけるフィーバーぶりだ。幸村の末裔である仙台真田家13代・真田徹さん(67)が秘話を披露した。

*  *  *
 真田幸村は、関ケ原の戦いで東軍についた兄・信之と別れて西軍につき、敗れたのちは、父・昌幸とともに高野山の九度山に逃れました。

 昌幸の死後、幸村は大坂冬の陣、夏の陣を戦いましたが、1615年、夏の陣で討ち死にしました。幸村には子供が13人(男子4人、女子9人)いましたが、長男の大助はこのときに自害。当時、まだ4歳だった次男の大八と4人の娘が奥州に逃れました。そこで大八が仙台真田氏を興し、私はその13代で、幸村から数えると14代にあたります。

 大八や娘たちが生き残ったのは、幸村が生前、大坂の陣で敵方にあった仙台藩伊達氏の家臣、片倉重綱[(しげつな)小十郎]に、子供たちを託したからです。講談などでは、幸村の娘の阿梅(おうめ)が白装束になぎなたを持って重綱の前にあらわれ、「自分は真田幸村の娘だ」という書状を持っていたので、重綱が「自分も男だ、わかった」と引き受けた、という涙の物語で語られていますね。ただ本当のところは、そうではないでしょう。重綱がそれほど重大な決断を一人でできるとは考えにくい。事前に藩主の伊達政宗と幸村との間で、子供を頼むというやりとりがあったのではないかと思いますが、そのあたりの事情は史実としてはわかっていません。

 引き取られた後、藩は大八の存在を隠していました。家康を窮地に陥れた幸村の子が生き残っているとなれば、徳川幕府が許すはずがありませんから。そこで伊達家は幕府を欺くため、大八は「8歳のときに京都で死んだ」という情報を九度山の蓮華定院に流したうえで、実際の大八については、家系図を操作して「真田幸村の叔父の孫だ」と幕府に報告していたようです。

 大八は、伊達家に召し抱えられた際、一時真田姓を名乗りましたが、幕府から家筋調査を受け、姓名を片倉守信(もりのぶ)と変えました。いまの宮城県蔵王町に、360石を与えられました。

 その後、次の辰信(ときのぶ)の代になって、正式に真田姓に復帰しました。大坂の陣から100年近くも経ってからのことです。

 幸村は兄の信之と袂を分かちましたが、1673年、辰信の時代に、信之の子孫と再会したという記録が残っています。信之を初代藩主とする松代藩の3代・幸道が、愛媛にあった伊達家から正室をもらうことになり、その際、伊達の本家が後見人になりました。そこで、伊達屋敷に幸道が訪れ、供応の場で二人が対面したそうです。

 一方、大八の姉である阿梅は、のちに片倉重綱の後室になりました。重綱との間に子はありませんでしたが、片倉家3代目となる景長の養母となり、領民に長く慕われたそうです。また、阿菖蒲(おしょうぶ)は、重綱とは別の家系にあたる片倉家に嫁いでいます。阿菖蒲は墓所に父・幸村の墓を建てて供養しました。

 仙台真田家の屋敷は、明治維新のときになくなっていて、今はありません。鎧は代々、うちに残っています。これは真田昌幸から幸村に伝えられたもので、大坂冬の陣が終わってから大八に形見分けしたものでしょう。

 仙台真田家の文書は大量に残っています。いまは蔵王町の教育委員会に預けて、整理してもらっているところです。とくに大八から数えて9代、江戸時代末期から明治期の当主だった真田幸歓(喜平太)のころのものがたくさんあって、いま残っている仙台真田氏の家系図も、「古い家系図をもとに幸歓のときに編纂し直した」と、記録されています。

 片倉家とのつながりは代々ありますね。いまも、片倉家のご当主とは交流があり、双方の家が途絶えぬよう、後見しあう関係です。

 NHK大河ドラマの「真田丸」が来年始まるとあって、最近はイベントなどに呼ばれる機会も増えました。盛り上がりを感じています。

(本誌・鈴木 顕、森下香枝/カスタム出版・横山 健)

※週刊朝日  2015年11月6日号

166名無しさん:2015/11/02(月) 23:04:47
こっちじゃなくて近現代史スレかな?
>>164ともちょっと関連あり。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151102-00045127-jbpressz-bus_all
中国・韓国が日本に絶対に追いつけない歴史的背景
JBpress 11月2日(月)6時15分配信

 科学や技術の観点から21世紀の国際社会を見渡してみると、世界の先進圏は圧倒的に欧米と白人社会に限定され、アジアやアフリカで明確に先進国と言える地域は極めて限られることが分かると思います。

 もっとはっきり言えば、日本は異常な突出の仕方で優秀です。

 日本の優秀さを考えるうえで、「中国や韓国を引き合いに出さなくてもいいだろう」というご意見をいただくことが少なくありません。私自身、一芸術家として文化外交にも関わりますし、中国や韓国の伝統に敬意や共感こそ感じても、嫌韓、嫌中といったことは全くありません。

 そのうえで、でも、日本は圧倒的に中国や韓国より勝っています。もっと言うなら、ひらがなやカタカナの起源を考えれば明らかなように、中華帝国を中心とする東アジア文化圏のファミリーの一員でありながら、日本だげがなぜか本当に突出している。

 その理由を冷静に分析してみること・・・ルーツが中国にありながら、中国本体はもとより韓国、朝鮮も西欧文明の正統な後継者とはいまだなり得ておらず、日本だけが先導的なリーダーとして国際社会を牽引している。

 この事実とその背景は、中国や韓国を貶めるということではなく、冷静に考えてみる価値があると思うのです。

■ 学問に対する取り組み方400年の違い

 日本と中韓と、何が違うのか? 

 学問が、違うのです。で、その違いは50年とか100年ではすまない。

 実はここ400年近くにわたって「学問」として認められてきたものの本質が、実は日本と中国・韓国とでは全く異なっている。

 この400年来、東アジアで「学問」と言えば、儒学に決まっているでしょう。同じ儒学を学んでいるはずなのに、なぜ中韓と日本と「全く異なっている」のか? 

 キーワードがあります。「知行合一」です。

 この言葉を遺したのは中国明代の儒学者、王陽明(1472-1529)、つまり「陽明学」と今日呼ばれる儒学を発展させたことが、日本の近代化を支えた根底にあるのです。

167名無しさん:2015/11/02(月) 23:05:14
>>166

 逆に言えば、21世紀の今日も中国、台湾、北朝鮮、韓国など東アジア文化圏の他のメンバーは儒学的な発想を強く保持していますが、そこには「陽明学」の要素がない、あるいは非常に少ない。

 そこで強調されるのは封建学術の王道、明代の国家教学となった「朱子学」です。南宋の儒学者 朱熹(1130-1200)が整理した「文献学」(「訓詁学」)は早くに朝鮮半島に伝わりました。

 また中国本土でも明代に「国家の学」と定められ、中華大帝国は「科挙」というペーパーテストの一大システムを、この「朱子学」を柱に築き上げることに成功した。

 1300年代という早い時期にです。そして21世紀になっても、朱子学的な限界、つまり文書主義にとらわれて、目の前で起きるファクトをきちんと評価することができない場合が少なくない。

 つまりこの「朱子学/陽明学」の転倒こそが、日本の科学興隆の基礎を作り上げている可能性が高い。

 こうした根は100年、200年では到底改まるものではありません。中国や韓国は本当に解明化するのには数百年かかるのではないか、と正味で思うことが少なくないのは、こうした「学問の根っこ」を考えるからなのです。

■ 実験科学受け入れの土壌となった「陽明学」

 陽明学という言葉は、実は明治時代になってから日本で作られたものなのだそうです。それ以前、幕藩体制の江戸時代には「王学」という呼ばれ方をしていたらしい。

 まあ 王陽明が始めた学問ですから、王学でも陽明学でもどっちでもよさそうなものですが、日本で明治以降「陽明学者」あるいは「陽明学に深く影響を受けた」とされた人を、ちょっと並べて見ましょう。

 佐久間象山、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛・・・。

 なんだ、明治維新の立て役者の大半は、実は陽明学ということになるではないですか。まだまだ続きます。

 河合継ノ助、山田方谷、佐藤一斎、大塩平八郎・・・。

 山田方谷は佐久間象山と並んで吉田松陰を教えた陽明学者として知られ、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らと並んで佐藤一斎に学びました。この佐藤一斎と並ぶ学者として知る人が知る存在だったのが大塩中斎、平八郎にほかなりません。

 大塩平八郎と言えば大阪で奉行所の与力でありながら、飢饉に苦しむ民衆の側に立って革命反乱を起こした人物として有名です・・・そう、陽明学は「革命」をサポートする学問だったわけです。

 こう考えるとよく分かるでしょう。

168名無しさん:2015/11/02(月) 23:05:38
>>167

 明治維新も明らかに「革命」しかも下級武士、草莽の志士たちが現実を変えようと奔走し、幕府側も倒幕側も力を尽くし、新たな西洋からの武器などもふんだんに取り入れて鳥羽伏見の戦いなど、いずれも全力を出し切って四つに組み合って・・・。

 そうそう、そうなのです。西欧風に火器なども積極的に導入して、ファクトに基づいて現実を変えていこう、革命を起こして天の正道を実現しよう、という思想が陽明学です。

 この土壌に「蘭学」「英学」などを移植して、医学や兵学を「学問」として受け入れ、また「事実」が正しければ古くからの書物の記載を改めることにも全く躊躇しない。

 そういう陽明学の革命体質が「科学革命」をも受け入れ、さらには明治の若者たちを世界最先端の「科学革命」のリーダーにも押し上げていった。そういう背景を与えているのです。

■ 「ファクトを見よ!」

 あるとき、山田方谷を松陰・吉田寅次郎(1830-59)が訪ねたそうです。明治以降「松蔭神社」などもでき、神様のように祭り上げられがちな松蔭ですが、実は満29歳で亡くなっている。松蔭という人は生涯20代の若者だったんですね。

 当時「攘夷」に燃える青年だった松蔭が「黒船来航」について夢中になって喋っていると方谷は「・・・で、その船の底の深さはどれくらいか知っているのか?」と尋ねたそうです。

 さらに「日本国内のどこの港が、その深さの船を停泊させることができると思うか?」と尋ね、浮ついたイデオロギーで叫びまくる松蔭に「ファクトを見よ!」と教えたと言います。

 実際、黒船は浦賀沖に碇を下ろして停泊、小さなボートで接岸するしか、黒船からの来航者は日本に上陸することはできなかった。そういう現実を見よ、と陽明学の観点から方谷は松蔭に冷や水を浴びせかけた。

 西洋人嫌いだった松蔭・吉田寅次郎でしたが、佐久間象山に学んで西欧の進んだ文明、また特に進んだ武器を目にしてからは、何とかして海外に密航しようと企て、江戸で捕らえられて地元の長州に送り返されてしまいます。

 そこで始めたのが「松下村塾」の指導です。

169名無しさん:2015/11/02(月) 23:06:06
>>168

 松蔭は1857年から松下村塾での指導を始めますが、先生の松蔭がそもそも27歳、集まった高杉、山県有朋、伊藤博文といったのちの明治の元勲たちはハイティーンのツッパリ集団でしかありませんでした。

 こういう連中に「西洋の進んだ科学的兵器も積極的に導入しつつ、天命を実現する」という、極めて特殊な形での古代と近代のアマルガムを提供したのが、陽明学だったわけです。

 この「天命」つまり「革命」の部分が、実は非常に大きかったのではないかと私は思うのです。と言うのは、ここが本家本元の中国や韓国では、かなりごっそりと欠落しているからにほかなりません。

■ 天は自ら助くる者を助く

 陽明学は「心即理」という考え方を大切にします。

 学問的にデリケートなことはすっ飛ばして、ここではこれを「過去の文献や権威に何が書いてあろうとも、私の心が観測したファクトであれば、それこそが天の理法である」という、近代実験科学を受け入れる「大和魂」のようなものを作る働きを担うことになっている、と考えることにしましょう。

 明治以降、日本は積極的に西欧科学を導入していきます。数理、物理、心理、生理、倫理・・・学問の大半に「理」という言葉が使われていますが、この「理」は陽明学の言う「心即理」と深く関係づけられて命名、というより訳語が作られた経緯があるようです。

 日本語で近代科学を書き直す仕事で大きな役割を果たしたグループに「明六社」があります。森有礼、福澤諭吉、西周、加藤弘之、西村茂樹、津田真道、中村正直といったメンバーはその後の日本の近代学術を支える礎石を作ります。

 例えば幕臣だった加藤は東京大学総理、大分中津藩出身の福澤は慶応義塾を作りますが、中津の領主奥平氏は三河以来の徳川の家臣で、いずれも新政府官界で出世しそうにない、旧幕府時代からの堂々たる有識層だったわけです。

 中村正直もまた幕臣の子でしたが、蘭学・英学と平行して佐藤一斎に陽明学を学び、明治維新前に英国留学、功利主義思想を輸入し、幕府の学問所教官時代から東京帝国大学教授としての後半生まで。一貫した学問思想を展開しています。

 中村が訳した「天は自ら助くるものを助く」は英国の医師サミュエル・スマイルズの著書「Self Help 自助論」からの訳ですが、原著の持つキリスト教的なニュアンス(Heaven helps those who help themselves)は中村の訳では完全に東アジアの倫理観、もっと言えば儒教的なニュアンスを持った「天」の道に置き換えられているのが分かるでしょう。

170名無しさん:2015/11/02(月) 23:06:42
>>169

 そう、それくらい、日本人は西欧思想の根幹を、自分たちに肌合いが分かる言語と思想として150年前から肉体化してきている。

 で、他の東アジア諸国では、下手をするとそれが丸々、全部抜け落ちて存在していない。中国や韓国だけを取り上げて貶めるようなつもりは全くありません。でも、日本人が徹底して消化している、こうした国際性は、昨日、今日作られたものでは全くないのです。

 実はこの「陽明学こそは日本の近代を支え、世界のトップランナーに日本を踊りださせた原動力」という考え方は、刑法の團藤重光先生から徹底して強調されて学んだものでした。

 山田方谷と吉田松陰のやり取りなども團藤先生から伺ったもので、本(「反骨のコツ」)にも収録されていますが、実は文献で確認したわけではありません。

■ 山田方谷の教えを受けた團藤重光先生

 ただ、維新後の明治10年まで備中岡山で存命だった山田方谷を直接知る人たちから、大正2年に岡山で生まれた團藤先生は直接教えを受けておられます。

 そして、ご自身の主要な仕事、團藤先生は敗戦後、GHQと粘り強く交渉しながら新憲法下での刑事司法を全面的に書き換える大仕事をされましたが、それを支えたのは方谷以来の陽明学そのものでした。

 西欧の学術を接木の見よう見まねでやっていてもダメで、陽明学の本質、知行合一と自ら確かめたファクトがあれば革命もまた義なり、という確信があったからこそ、近代日本はこのように優れた、強い文化を作り上げてこられたのだ、と幾度も幾度も力説してこられました。

 私が團藤先生のお供をさせていただいたのは先生が90歳を超えての10年弱でしたが、軽井沢などで現役最高裁判事の方が挨拶に来られたりする時、「陽明学」と言うと「はいはいはいはい」といった(おやおや・・・さすがの團藤先生も耄碌したかな、というような目の色が明らかな)反応を幾度も目撃しました。

 中国も韓国も、古代に書かれた文字に縛られる伝統―権威追随の「朱子学」型の学術スタイルをいまだに引きずって、西洋由来の学問を本当に消化することができずにいる。それではダメだと思うのです。

 西洋由来の学問を自分自身の血肉にするうえでは、「天は自ら助くる人を助く」という言葉の持つ2つの意味、元来のキリスト教の文脈と 、それが日本社会に完全に消化される経緯の双方をしっかり比較しながら理解できなければならない。

 そうやって西洋文化をしっかり消化して自家薬籠中のものにしない限り、フランス革命前後にヨーロッパで開花した法思想を、日本の国民感情のもとで民主的に運用して、判例を積み重ねながら法思想を成熟させていくことなどできるわけがない。核のごとき主体的な知の力が必要不可欠なのに、今回の「裁判員」はM君あたりがまた・・・。

 といった具合で特にキリスト教会に1000余年の歴史を持つ「陪審員制度」と比べて非常に不徹底と批判しておられた「裁判員」制度の具体的な細部を批判されつつ、本当に最後まで團藤先生は強調しておられました。

 團藤先生は日本の刑法を書き直されましたが、ファクトに立脚して決然と「革命」も辞さないという反骨の思想と行動は。自然科学系のノーベル賞業績のすべてに求められる、基本的な最低条件でもあるのです。

伊東 乾

171名無しさん:2015/11/02(月) 23:08:00
>>170

団藤重光
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E8%97%A4%E9%87%8D%E5%85%89

172名無しさん:2015/11/09(月) 22:45:28
>>166

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151109-00045205-jbpressz-bus_all
中国・韓国と日本を分けた「朱子学」と「陽明学」
JBpress 11月9日(月)6時15分配信

 2014年に世間を騒がせたSTAP細胞詐欺事件に関連して、既存のホームページをコピー・ペーストして博士論文と称した件に関連して、早稲田大学はその事実があった学位について、適切な段階を踏まえて学位を撤回、剥奪したと報じられました。

 早稲田の名誉回復のためにも必要な第一歩と思います。

 また、早稲田大学に限らず、日本全国の大学院で、学位審査に伴って「コピペチェック・ソフトウエア」が導入されるなど、甚大な影響を生み出してしまった現状を見るにつけ、徹底した再発防止と、そもそもこのような情けない非生産的な事態を引き起こさない、抜本的な解決、人材育成と高度な研究成果創造という、学芸の王道をまっとうすべきと強く思います。

 個人的な意見として、このような悪質な「コピーペースト」が発覚した時点で、不正行為を行った学生は学籍剥奪が適当と思います。

 入試でいえば、カンニングに相当しますから、それがばれた時点で受験資格停止となりますから、全く相応と思います。

 今回の早稲田大学の措置は、カンニングがばれた受験生に、1年の猶予を与えるからもう一度更改の余地を見せてみよ、とまで寛容に応じているもので、私がもし関連の問題収拾を担当したなら、学位以前に博士課程の最終試験受験資格、つまり学籍の抹消が適切、と答申を出すと思います。

 なぜなら、このような事例を放置するなら「なんだ、あれでいいんだ」と後輩たちが錯覚し、累犯の再発を防ぐとことができないからです。

 良くも悪しくも「前例」にひっぱられる日本です。そういう「悪しき前例」を徹底して払拭することが、こうした病状の根治に必要不可欠と思います。

 前例の尊重・・・。今回は、この観点を巡って、ノーベル賞に相当するような学芸の創造性を考えてみたいと思います。

■ 不適切なシステムは不適切な結果を生む

 このところ「中国や韓国、台湾や北朝鮮の現状を見るに、ノーベル賞などの評価に相当する研究成果を期待するのにはいくつか明確な難がある可能性」を指摘しています。

 誤解のないように再三強調しておきますが、これらは各々の国の文化や民族性、個人の資質などを指してものを言っているのではありません。

 党が指導しドグマが承認しなければ是認されない意思決定システム、全体主義的な体制、個人の自発性や自由な創意工夫を尊重しない空気・・・端的に言うなら「不十全な学術ガバナンス」が懸念される学術研究行政のもとでは、有産な成果を期待するのは難しい、という観測を示しているものです。

 事実、これらの国を飛び出し、自由の天地で存分に力を発揮して、大きな成果を挙げている人・・・科学者であれ、文学者、芸術家であれ・・・は枚挙の暇がありません。

 拙劣な学術ガバナンスの状況で、有産な成果が得られにくい・・・。当然のことであると同時に、これはまた、日本も同様に拙劣な研究行政の状況に陥るなら、同じような情けないことに容易に陥りう得るいう、警句を発しているつもりです。

173名無しさん:2015/11/09(月) 22:45:57
>>172

 実際、その実例のようにして2014年のSTAP細胞詐欺のような事態が発生してしまった。徹底した再発予防の必要は言うまでもありません。

 良くも悪しくも、無根拠な日本賛美などはできません。

 実際、日本でもこのような研究不正は起きています。きちんと自らを律し、価値ある成果を生み出す日本であり続ける必要があるし、それは対岸の火事見物ではなく、私たち自身が日々気をつけ、社会の高い意識レベルを維持、発展させていくべきものにほかなりません。

 問題は、ある体制内での意思決定の機構、あるいはそれが持つ規範の性格です。その意味で「朱子学」「陽明学」という團藤重光先生が指摘された東アジアにおける2つの端的な「官学」の差異を取り上げたのです。

■ 「朱子学型」のメリットは何か? 

 これもまた、決して史実や学問論として厳密な考証を経ての「朱子学」 あるいは「陽明学」そのものを論じているのではありません。各々の学問が典型的に持っている性質、「タイプ」を抜き出して、問題にしています。

 「陽明学」、古くは正確には「王学」と言うべきでしょうが、明治以降「王政復古の大号令」などで王という言葉を使った以上、中国由来の儒学改革派に「王学」の名は不適切だった可能性が考えられます。実際、明治期の日本で「陽明学」という名前が新たに名づけられました。

 過去の文献を尊重し、伝統の権威を第一にし、先王の教えを墨守することで得ることができるものが確かにあります。

 端的には伝統的な第1次産業、弥生時代以来の「灌漑農法」を挙げれば十分でしょう。

 毎年ある時期になったら種もみをふやかし、苗代を作り、代掻きをし、ある時期になったら田に水を引き、田植えをし、雑草を取り病害虫を防ぎ、豊かな実りはこの時期に収穫せよ、という「暦の支配」。

 田植えも稲刈りも、伝統的な農耕は決して1人でできるものではありません。村中総出で力を合わせて収穫を得、実りを祝い、農閑期には農閑期なりの仕事をこれまた分業する。村祭りのようなものも含めて・・・。

174名無しさん:2015/11/09(月) 22:46:24
>>173

 また、共同体のタブーを犯すものがあれば「村八分」の扱いとするなど、良くも悪しくも封建農村が持つ、様々な特質を生かすうえで、儒学は有効な役割を果たします。

 そう、孔子(BC.552〜B.C.479)という人は紀元前6世紀の中国は魯の国で「古代の先王」に復古せよ、と儒学を立ち上げた人です。孔子が理想とした「周初」とは紀元前1046年頃、つまり今から3000年以上も昔のことで日本の用語を用いれば「弥生文明」そのもの、原始人国家への回帰を掲げたと言って外れません。

 あえて誤解を恐れず言えば、儒教とは「弥生信仰」原始崇拝という明確な側面を持っている。

 つまり灌漑に基づく大規模稲作農業によって原始の集落国家が成り立ち、人口の圧倒的割合を占める農民を統治するのに適切な「官学」を説いた人にほかなりません。

 そんな孔子の時代から1500余年、農業もガバナンスもはるかに進んだ中国「南宋」で朱熹(1130〜1200)が生み出した「朱子学」 にも、明らかな利点があったはずです。実際、李氏朝鮮や明によって国の学と定められ、以後数百年にわたってそれらの国の繁栄を支えた朱子学。日本でも徳川幕府が官学として朱子学を称揚している。

 いったいその利点は何なのか? 

 専門的にはいろいろあると思いますが、團藤先生の考え方に従うとき「文書主義」が有効だったと思われます。

■ 文書主義の適否様々

 いま仮に、ある架空の王国に法律も何もなかったとしましょう。権力者はその時々の思いつきで統治し、一貫性もなければ整合性もない。税金は思いつきで取り立てられ、犯罪があっても捜査は一貫せず、同じ罪を犯してもある人は重く罰せられ別の人は賞賛されて褒美を与えられる・・・。

 そんなアンフェアな政治がまかり通れば、民衆の不満がたまり、やがて爆発して紛争が勃発するでしょう。

 そういう「時代」が日本にも確かにありました。大きく言えば飛鳥時代以前の日本には、成文法と言えるものは実質的に存在していなかった。

 聖徳太子の「十七条憲法」が有名ですが、これは公務員の精神訓を列挙したような内容です。それでも、まだ、文章として記録されていれば、その時々の思いつきで勝手に捻じ曲げられたりするリスクは低いはず。当時の日本にはそれ以外に「法」と言える文書はほぼ存在しなかった。

 掟のようなものは言い伝えとして残っていたかもしれません。しかし正確に記録されていなければ、細かな整合性など取れるわけがない。そもそも文字というものが当時の日本にはなかった。人類の文化はみな、初めはそういう原始状態からスタートしたはずです。

 話を東アジアに限ると、この状態を大きく打ち破ったのが「律令制」の導入だったと言えます。つまり成文法によるシステマティックな統治の導入です。

175名無しさん:2015/11/09(月) 22:46:59
>>174

 いわゆる「大化の改新」から半世紀余、大海人皇子系の子孫たちは中国風の大規模な都を奈良に建設します。「平城京」。ここで初めて日本に本格的に導入されたのが「律令制」(大宝律令)でした。

 中国の隋唐帝国の制度を模倣したものですが、これらの導入は孔子が生きた時代から1000年も経過した後であることに注意すべきでしょう。

 あえて乱暴に言うなら「朱子学」とは「律令国家」で文書主義を重視すべく改革された儒学で、だからこそ官学として適切だった。

 そしてその社会を支えるのは第1次産業、灌漑農法による米生産と、それに従事する圧倒的多数の農民を統治する、はっきり書いてしまえば「弥生時代以来」とも言える循環型社会を保守する訓古学として成功した「モデル」と言えます。

 日本でも戦国の動乱を生き抜き、江戸幕府を開いた徳川家康が、長く太平の世、つまり循環的で乱高下には乏しい、しかし農業生産には適した治世を保つべく朱子学を官学に指定し、江戸幕府は260余年の命脈を保つことができた。

 これに対して東アジア社会で「実体が変化するときは、規範もまた動く」として革命を支持する学となったのが陽明学(「王学」)であったと考えましょう、というのが「陽明学モデル」にほかなりません。

 太平の世であれば、朱子学に基づく循環的=停滞的な封建農村支配が順調に回転することで「繁栄」が約束されます。しかし乱世にはそうした理法は通用しません。

 ここで「乱世」とは、単に戦国時代だけを指すのではありません。

 イノベーションを念頭に置けば、私たち生きている現代の毎日、時々刻々がR&D(リサーチ&デベロップメント;研究開発)の乱世そのものであって、そこで生き馬の目を抜くリサーチ・ウオーズに勝ち残っていくには、文書主義程度まで進化した弥生時代崇拝という「朱子学モデル」、つまり伝統思考の停滞型意思決定、権威尊重で前例墨守の思考体制は、圧倒的に不利だ、ということを言っているのです。

 実際いくつかの国では、こうした「前例重視の権威主義」や「停滞型意思決定」によって国の方針、特に学術研究政策の方向が決定されている懸念があります。例えば「党是」というのも「前例」の一種であり「権威」として知の停滞に直結します。

 それくらい、良い意味で突き放したドライな観点から、物事を見ていく必要性がある。

176名無しさん:2015/11/09(月) 22:47:32
>>175

 そして社会が動くなら、法も動くのが当然であるし、判例もまた同様である、判例もまた動くものである・・・というのが、團藤先生がお考えになった「動態としての法」の考え方にほかなりません。

 戦後すぐに作られた刑事訴訟法の条文が時代に合わなければ書き改めればよい、というのは小さいようですが「革命」です。

 また同じ法の条文によりながら、時代が変化した結果、判例が墨守でなく「動く」ことがあっても当然である。團藤先生はこうした考え方を「主体性理論」としてまとめておられますが、その根幹となるのは「心即理」として社会の実態と合理的に即応した法文化の考え方にほかなりません。

 そして、これと同じことが文系理系を問わず、明治維新の時期を挟んで日本の知において徹底的に血肉化が図られた、その意味を捉え直すための「陽明学」であり「主体性理論」であり、「動く判例」である・・・そういうことを強くおっしゃっていました。

■ 民主主義とイノベーション:判例を「動かす」少数意見

 このような團藤先生の思想を、まさに「知行合一」で具現化したのは、最高裁判事として書かれた「少数意見」でした。

 ご存知のように「最高裁判例」は法と同等の重みを持って社会に規範を与えます。立法府によらない、司法府が法の運用に当たって随時与えていく「社会の基本ルール」が最高裁判例にほかなりません。

 しかし、この「判例」が悪しき「前例」となって、いつか社会背景が変わってしまい、時代に法が適合しなくなっても墨守される「朱子学的な足かせ」にならないための、民主主義の大切な仕かけ」が「少数意見」である、と團藤先生は幾度も強調されました。

 朱子学タイプの発想は、下手をすれば容易に、弥生時代の原始人を理想化する奈良・平安朝の古代文書主義にまで退行してしまいます。そんな「前例重視」「先例墨守」の考え方で、DNA鑑定だ何だと先端の科学や技術で社会の価値観はめまぐるしく変転する、現代の法文化が構成できるわけがない。だから「革命」の思想が必要だというわけです。

 実際に細かく拝読はしていませんが、参加されたあらゆる最高裁の審理と判決で、特に少数意見をこそ大切に、1つの例外もなく丁寧に書き続けてきた、とのことです。

 少数意見とは、最高裁判決で判事多数の合意を得られなかったマイノリティの見解にほかなりません。これを「無」にしてしまうなら、多数派の意見で少数を圧殺してしまうわけで「全体主義」になってしまう。

 「全体主義」の硬直した法制度がどんな困った事態を生み出してきたか・・・。

 第2次世界大戦前に東京帝国大学法学部助教授に就任され、若くして旧刑事訴訟法のシステム化で大きな仕事をされた團藤先生は、法の柔軟性が大事と強調されます。

177名無しさん:2015/11/09(月) 22:47:58
>>176

 文献として遺され、未来を拘束する規範としての「最高裁判例」。それが固定的で停滞したくびきとして日本を縛るのでなく、時代に即して動的に変化するチャンスを与えるもの。それこそが「少数意見」である。

 そこからあらゆる変革、革命が生まれる余地が出てくる、これこそが、戦後の新憲法体制下で日本がGHQと対峙して一歩も引かなかった「陽明学」の精神の骨法である・・・。

 こうした趣旨のことを「反骨のコツ」を上梓した後の團藤先生は、口癖のように繰り返しておられました。

 「陽明学に基づく自伝」を書く・・・最晩年の團藤先生はしばしばそうおっしゃり、担当編集者など、この言葉を耳にした人は少なくないと思います。

 「口述筆記でも何でもお手伝いしますから」と幾度も申し上げましたが「もう少し山田方谷を読み直してから」とおっしゃいつつ、今記したような趣旨のお話を何度も伺い、結局まとまった原稿としてお遺しになることはありませんでした。

 しかし「社会が動く」以上、停滞的な封建農奴支配に適した「朱子学」型権威主義と前例墨守の文書主義は常に疑われねばならない、それが陽明学の発想であり、科学を含むあらゆる知の「革命」に必須不可欠な骨法と、先生は強くおっしゃり続けました。

 その極みと言うべき一言を「裁判員制度」が成立した直後、團藤先生は口にされました。

 「ついに『精密司法』と呼ばれた、團藤先生の刑訴法の枠組みが変わってしまいましたね・・・」

 と申し上げると、

 「いいんです。僕が書いたものなど、全部消してしまってかまわない。時代が変わったのであれば、法は全部改めればいい。ゼロから作り直して、それで良いものにしていけばよい。あの時もそうだったんだから・・・」

 あのとき、つまり占領軍と厳しい談判を繰り返しながら、戦後刑法の枠組みをゼロから作ったときと同じように、またゼロから「革命」していくことこそ必要なのだ・・・。

 よくあるケースでは、自分の作った小さな業績などに拘泥してじたばたするのが人間というものでしょう。とんでもない、実に清廉潔白、90代半ばの團藤先生はハイティーンの目をしておられました。

 そして「それにしても維新の志士は恰好いいね」と笑われた。

 何という潔い「陽明学」の徹底か・・・これが本物の器の大きさというものかと、心のの震えを覚えました。

伊東 乾

178とはずがたり:2015/11/26(木) 11:19:30
此処?!

昔々ある所に住んでいたお爺さんやお婆さんは幸せだったのか? 昔話にもあった現代と変わらぬ“高齢者問題”
http://ddnavi.com/news/235830/a/
2015.4.19

 先日、とある取材で瀬戸内海の離島を訪れる機会があった。その島では、20世帯あまりが暮らしており、そのいずれもが高齢者世帯。70歳ともなれば島内では“若者”の部類に入るという“高齢化”の象徴のような島だ。そして、そこで高齢者たちは、体が許す範囲で“仕事”をしている。畑仕事をしたり船で漁に出たり。自給自足の島だけに、70歳になっても80歳になっても“自らの食い扶持は自ら作る”というわけだ。まさにこの島の主役は“老人たち”である。

 で、翻って東京。東京の街を歩いてみれば、さすがに瀬戸内海の離島のように“老人ばかり”などということはない。けれど、平日の日中に電車に乗ると、元気の盛りのような高齢者の姿がよく目につく。もちろん若者の元気がないわけではないけれど、それでも現代社会の主役は都会も地方も“老人たち”なのだ。

 そんな老人たちの活躍が見られるのは、何も現代社会だけではない。むかしむかし、あるところにいた、おじいさんとおばあさん。山に芝刈りに行ったり川に洗濯に行ったり、はたまた花を咲かせたり。「昔話」にはやたらと老人が登場する。古のフィクションの世界も、現代社会と同じく“老人たち”が主役級なのである。

 『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』(大塚ひかり/草思社)は、昔話や古典文学などを材料に、昔の老人たちが実際にどのような生き方、暮らし方をしていたのか、その実態をあぶり出している。昔話はもちろん“作り話”だけれども、そこにこそ歴史の隠された真実が転がっているというわけだ。

 この本のタイトルの答えは実際に読んでいただくとして、本書の中に登場する老人たちは、とにかくアグレッシブ。姥捨て山に捨てられても戻ってきたり、年老いてなお若き美男と恋の炎を燃やしたり、極楽浄土を求めて井戸に飛び込んだり。ただでは死なないパワフルなじいさんばあさんが、歴史の中にはどうやらたくさん存在していたのだ。

 ただ、そんなパワフルじいさん、ばあさんたち、決して“幸せ”だったわけではないようだ。

 そもそも、古の時代に高齢者たちに年金が支払われていたわけでないし、よほど裕福な貴族の出でもなければそれこそ食い扶持を自ら稼ぎ続けなければ生きていくことができなかった。さらに、社会全体の生産力が低い時代、年老いて健康を害した老人たちは、社会的に見れば“マイナス”の存在でしかなかった。子が親を捨てる、いわゆる“棄老”も、一家が暮らしていくことを思えば一概に非難ばかりもできなかろう。

 さらに、男女の“格差”も問題。古代中世は未婚の高齢者が多く、特に高齢の独身女性は悲惨な生き様を余儀なくされたのだという。そのため、婚活に明け暮れる女性は古来より多くいたのだとか。

 こうしてみると、この本の中に出てくるじいさん、ばあさんたちのアグレッシブさは、社会的弱者である高齢者が、歴史の中でも厳しい立場に置かれていたことの裏返しとも読み取ることができる。

 そして、今。高齢者たちが街に溢れ、地方では年老いても野良仕事を余儀なくされ、高齢の独身者が増加して婚活が一大ビジネスになっている。さらに、高齢の親を高齢の子が介護する“老老介護”なる生産性とは真逆のような問題も生じている。これはまるで歴史の中の“老人たち”そのものではないか。権力を求めて死の間際まで闘争するのもまた、昔と今とまったく変わらない。

 どうやら、日本の社会というものは古来よりあまり変わっていないようだ。なかなか難しいけれど、パワフルでアグレッシブで、だけど決して幸せとは言えなさそうな昔話の老人たちを通じて、今我々が抱えている高齢者にまつわる問題を考えてみるべきなのかもしれない。

文=鼠入昌史(Office Ti+)

179名無しさん:2016/02/13(土) 12:17:18
2016年02月13日(土)
乃至政彦
塗り替えられる戦国軍事史
?真田一族の「恐るべき謀略」から軍隊は生まれた!?雑多な「軍勢」から兵種別の「軍隊」へ
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47735

180とはずがたり:2016/02/20(土) 13:06:11
>、一般に広く武家政権のことが「幕府」と呼ばれるようになったのは、なんと江戸時代の末期からだそうです。
鎌倉幕府の事は関東と云ってたけど。
調べたら幕府とは元々近衛大将の唐名だったそうな。

「鎌倉幕府」は存在しなかった! 変わる日本史の常識
http://www.dailyshincho.jp/article/2013/10211630/?all=1
『歴史をつかむ技法』山本博文 著

「イイクニつくろう」で鎌倉幕府の成立は1192年、という定説が揺らいでいる、と最近よく話題になっています。読売新聞が夕刊トップで掲載した「変わる日本史教科書」というタイトルの記事では、改訂された高校生用の日本史教科書が、鎌倉幕府の成立の時期について「1180年」から「1192年」まで6つの説を載せていることを紹介していました(平成25年3月27日付)。

 なぜそんなことになるのでしょうか。その答えが『歴史をつかむ技法』(山本博文・著 新潮新書)に書いてあります。

 もともと「幕府」という言葉は、中国が起源。出征中の将軍が幔幕を張って宿営しているところを指したのですが、これが日本では武家政権のことを指すようにもなりました。ただし、一般に広く武家政権のことが「幕府」と呼ばれるようになったのは、なんと江戸時代の末期からだそうです。

 つまり、源頼朝が鎌倉に政府を開いた際には、「幕府」なんて言葉は使っていなかったわけです。当然、頼朝はもちろんのこと、周囲の誰も「鎌倉幕府が出来た!」なんて盛り上がりは見せていません。したがって、正確に言えば、当時は「鎌倉幕府」など存在していなかったことになります。 

 結局、いつ「鎌倉幕府」が出来たのかという答えは、後世の歴史学者の定義や解釈で異なってくるわけです。「安倍政権」「オバマ政権」といった現代の区分とは別のものなのです。こうした事情から、今の歴史教科書では「イイクニつくろう鎌倉幕府」というシンプルな教え方が消えていきました。

 同書によれば、鎌倉時代や室町時代に、征夷大将軍が実際に「将軍」と呼ばれることも少なかったし、江戸時代には「藩」という言葉もほとんど使われていなかったそうです。こういう事実を知ると、歴史小説やドラマの見方までがまた変わってくるのではないでしょうか。

デイリー新潮編集部

181とはずがたり:2016/05/21(土) 22:41:26
法性寺入道前関白太政大臣(わたの原 こぎいでてみれば 久方の雲いにまがふ 沖つ白波)を調べててwikiの源長経へのリンクに行き着いたが,同名の醍醐源氏代明流の長経へのリンクだった様である。

醍醐天皇─源高明(西宮左大臣)─忠賢─

┬守隆(右馬頭)─長季(従四位上・少納言・右衛門権佐(検非違使佐)・右馬頭・土佐守、備前守等歴任・良吏として聞こゆ)─
└致公(源満季猶子)

┬盛長┬盛経─
├長俊├盛家、
├守俊└盛季
├盛雅
├寛厳
└仁厳

┬経光(五条と密通『明月記』)
├長経
├盛光
└五条(藤原忠通側)


醍醐天皇─代明親王─源重光(致仕大納言)─

┬明理・長経(正四位下・越前守)─経成(権中納言)
└女(中関白家伊周室)

182とはずがたり:2016/07/17(日) 17:36:10

宇多源氏と云えば庭田家なのだけど源雅信左大臣─時中─○─○─○─○─○─○─有資と来て,有資の実子信有が綾小路の家祖となったのに対して,嫡流の庭田家は外孫の経資が継ぐ事になった(庭田と号すのは経資の孫の重資かららしいが)。この経資は藤公直子という事は判ってたけどどこの公直か知らなかったけど,今調べてみると初名が実泰とあって明らかに閑院流である。と云う事で調べたら判るのでは無いかと思って調べたら直ぐに判った。気付くのが遅すぎである,俺としたことが。。(;´Д`)
で,判明した事は徳大寺家の庶流で河原or八条を号した実家(徳大寺公能男)流であった。●実家─公明─実忠─公直─公員又公貞となる流れの公直であった。宇多源氏とはいえ庭田家以外は半家で庭田家のみ羽林家なのは徳大寺家から出てるからなんであろう。もっと云ふと経資の室が大炊御門基雅女で徳大寺と大炊御門の両清華の血を引いていると云ふ訳だ。
其の後,皇室や伏見宮家と関係が深く後花園天皇及び後柏原天皇の生母を出したりしてるのも徳大寺・大炊御門効果か。

庭田経資 にわた つねすけ
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%AD%E7%94%B0%E7%B5%8C%E8%B3%87-1099722
徳大寺【とくだいじ】
http://www.geocities.jp/okugesan_com/tokudaiji.htm

五辻家は、家系は宇多源氏庭田同祖なのに何故半
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11127726486

183とはずがたり:2016/08/29(月) 14:45:29
>>182の続きでネット彷徨いてたらみっけた。凄い充実。

閑院→徳大寺→河原又八条の庶流に近衛と大炊御門があって大炊御門の庶流から宇多源氏への養子があったと云う流れの様だ。

河原・大炊御門・近衛のいずれも河原家祖の実家から6代孫の代で絶えているがこの辺が朝廷衰微甚だしかった時期か?それとも武士の横領甚だしく一族で領有する荘園へ一緒に下向したのかな?

公家絶家当主
http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/toshu02.htm

184とはずがたり:2016/09/27(火) 15:48:57
2014/06/29
女系で初期の当主達の血を維持してきた堂上家と絶家となった清華家
http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-76cf.html

185とはずがたり:2016/11/29(火) 13:29:43
高校の時から欲しかった吉川弘文館の『国史大辞典』全15巻(17冊)遂に購入!!!古書検索サイトスーパー源氏で探したら27000円程で買えた。勿論筺は日焼けしたりしてるけど全く問題ない。

ずらっと並べて悦に這入っているが,なかなか中身全見報告とはいかないなw

先ずは那古野荘(なごやのしょう)がふと目に付く。
現在は那古野と書いて〔なごの〕と呼ぶが,昔は[なごや]と読んだ様だ。烏丸も昔は[からすまる]と読んだみたいだしな。
那古野が名古屋になって有名になって重複を避けたのか?

この荘園,開発領主は九条顕頼(wikiに拠ると九条民部卿・勧修寺流・正二位権中納言・鳥羽上皇院近臣)の子,東大寺別当小野顕恵で4代目以降は女子相伝となったそうな。

186とはずがたり:2017/01/27(金) 13:45:12

対馬で盗難の仏像、韓国の寺に所有権=裁判所が引き渡し命令
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600242&g=soc

長崎県対馬市の寺から盗まれ、韓国に運ばれた「観世音菩薩坐像」(韓国大田地方警察庁提供)
 【大田(韓国中部)時事】長崎県対馬市の観音寺から2012年に盗まれ、韓国に運び込まれた県指定文化財の仏像「観世音菩薩坐像」について、「かつて所蔵していたが略奪された」と主張する韓国の寺が韓国政府を相手取り、仏像を引き渡すよう求めた訴訟で、大田地方裁判所は26日、韓国の寺の所有権を認め、仏像を引き渡すよう命じる判決を下した。日本政府は日本への返還を求めてきたが、一層遠のく見通しだ。
〔写真特集〕盗まれた芸術だ!

 提訴していたのは、中部・瑞山にある浮石寺。14世紀に朝鮮半島などに出没していた海賊、倭寇によって略奪された可能性が高いと主張。窃盗団から没収され、大田の国立文化財研究所に保管されている仏像の引き渡しを求めていた。
 大田地裁は判決で「仏像は贈与や売買など正常な方法ではなく、盗難や略奪で(対馬市の観音寺に)運ばれたとみるのが妥当だ」とし、「仏像は浮石寺の所有と十分に推定できる」と判断。「(政府は)浮石寺に引き渡す義務がある」と指摘した。
 大田地裁は13年、観音寺が仏像を正当に取得したことが証明されるまで、日本側への返還を差し止める仮処分を出していたが、効力は切れていた。(2017/01/26-12:08)

187とはずがたり:2017/05/20(土) 07:37:47

朝日新聞取ってるけどこの記事見逃したな。。くそぅ。

勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方
http://www.asahi.com/articles/ASK147788K14ULZU00L.html?iref=com_rnavi_arank_nr03
編集委員・宮代栄一2017年1月8日11時35分

 モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたって食い止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。

 今まで「元寇」はおおむね次のような経緯だったとされてきた。

 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。

 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日本側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日本遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。

 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、神国日本を裏付ける材料として使われた。

 だが、こうした見方は修正が必…

188荷主研究者:2017/06/01(木) 00:54:52

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170524000075
2017年05月24日 13時10分 京都新聞
足利義満、「法王」目指した? 豪の研究者が新説

義満の政治・宗教複合空間

 室町幕府3代将軍足利義満(1358〜1408年)が、入念な都市計画を基に幕府の拠点「室町殿(花の御所)」や相国寺を建て、同時代の東南アジアにあった仏教王朝の頂点の地位を目指していた-。オーストラリア人の研究者が新しい義満像を唱えている。

 シドニー大日本学研究科のマシュー・スタブロス准教授(中世日本都市史)。米国出身で、日本外務省勤務を経て、東京大史料編纂(へんさん)所の客員研究員や京都大の客員准教授などを務めた。3月の京都府立京都学・歴彩館(左京区)の国際シンポジウムで発表した。

 義満は、南北朝の分裂を終わらせ、幕府の基盤を固めた。将軍職を辞して出家して以降も、武家や公家、寺社の勢力を抑えて実権を握り続けた。天皇や上皇になろうとしたという説もあり、義満の思惑に謎が多い。

 スタブロス准教授は、義満が平安京北端の一条大路(現一条通)の北側に整備した、幕府中枢の室町殿と、禅宗の大寺院の相国寺、国内最大級の木造建造物だった同寺七重塔の位置に注目。義満の政治・宗教空間では、相国寺を中心に室町殿と七重塔がほぼ左右対称で、京域との間にある相国寺の法界門が、南北に延びる高倉小路(現高倉通)にあったといい、「義満は高倉小路を中心に、平安京の東エリアをあらためて左右対称に再整備しようとした」と指摘する。

 相国寺などの整備を進める一方、義満が郊外に新しく整備した北山殿(現金閣寺)について、「院政期に、平安京から離れて荘厳な法勝寺や鳥羽離宮を設けた白河上皇を意識した」とみている。

 また、スタブロス准教授は、中国・明との交易に熱心だった義満が同時代の近隣諸国の情報を入手していたと推測。8〜14世紀の東南アジアの仏教王朝では、王は宗教と政治の頂点に位置する「法王」=サンスクリット語でダルマ(仏法)・アルタ(実利、政治)=と位置付けられていたという。「義満は、日本の天皇経験者がなる上皇(法皇)ではなく、海外の仏教王朝の『法王』を目指したのでは」と考えている。

 同志社女子大の山田邦和教授(都市史学)は「義満が都市計画を持っていたという考察や、海外情勢と関連づけた視点は新鮮だ。十分に検討の余地があり、研究の進展に期待したい」と話している。

189とはずがたり:2018/05/07(月) 22:46:46
鎌倉時代の仏像内部に大量の巻物など確認 奈良 法華寺
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180507/k10011429891000.html
5月7日 19時16分

奈良市の法華寺にある鎌倉時代の仏像の内部に、大量の巻物などが納められている様子が、最新の装置を使った奈良国立博物館による調査で確認されました。

奈良市の法華寺の本堂に安置されている、鎌倉時代につくられた「文殊菩薩坐像」は、内部に品が納められていることは知られていましたが、詳しい状況はわかっていませんでした。

そこで、奈良国立博物館が最新のCTスキャナーを使って調査したところ、高さ73センチの仏像の全体に空洞があり、頭の部分には、巻物や釈迦の遺物を納めた「舎利容器」と見られる器が合わせておよそ30、確認されました。

さらに胴の部分には、およそ150の経典と見られる巻物が敷き詰められているということです。
一度も取り出された形跡がなく、作られたままの状態と見られるということです。

法華寺の樋口教香住職は「驚きました。知恵を授ける仏様なので、ぜひ拝んでいただきたい」と話していました。

奈良国立博物館の岩田茂樹上席研究員は「内部にこれだけの量の品が確認されたのは珍しい。貴重な史料で、文化財としての価値がさらに高まった」としています。

この仏像は今月8日から27日まで、奈良市の奈良国立博物館で特別公開されます。

190とはずがたり:2018/12/29(土) 10:41:03
八介
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%8B
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八介(はちすけ)とは、武士階級の中で、同じ家が代々に亘ってその地方の在庁官人の介職に任官されている場合、尊称として自他共に認知されている「苗字(本貫地の地名)+介」という特別な名乗りを行っている八つの家の当主を指す。

一覧
大内介
代々に亘って周防権介に任官されている大内氏当主の尊称。
富樫介
代々に亘って加賀介に任官されている富樫氏当主の尊称。
井伊介
代々に亘って遠江介に任官されている井伊氏当主の尊称。
狩野介
代々に亘って伊豆介に任官されている狩野氏当主の尊称。
三浦介
代々に亘って相模介に任官されている三浦氏当主の尊称。
千葉介
代々に亘って下総権介に任官されている千葉氏当主の尊称。
上総介
上総氏は当主が上総権介に任官されたのでそれを苗字とした。
秋田城介
秋田城主兼出羽介の事で、鎌倉時代には安達氏の事を指した。織田政権の時は織田信忠、豊臣政権や江戸時代は秋田氏(秋田郡を領する安東氏が秋田城介と領地名に因んで改名)を指す。

191荷主研究者:2019/02/09(土) 23:53:48

https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20190106000088
2019年01月06日 18時50分 京都新聞
ガラシャは美貌だった? ヨーロッパ逆輸入説を学者が討論

勝龍寺城にある細川ガラシャと夫忠興の銅像。ガラシャの美は後世に創られたものだったのか(京都府長岡京市)

 明智光秀の娘である細川ガラシャは、なぜ美貌のヒロインとして描かれるようになったのか。2020年のNHK大河ドラマに光秀が主役の「麒麟(きりん)がくる」が決まり、ゆかりの京都でも注目が集まる中、その謎に迫るシンポジウムが国際日本文化研究センター(京都市西京区)の一般公開で開催された。キリシタンの洗礼を受け、悲劇の死を遂げたガラシャにさまざまな角度から光が当てられた。

 ガラシャ(玉)は勝龍寺城(長岡京市)を居城にしていた細川忠興に嫁いだ。本能寺の変で「逆臣の娘」となり、のちにキリスト教に帰依し、ガラシャという名前を授かった。関ケ原の戦いで西軍の人質になるのを拒み、家臣に手をかけられる形で死を選んだとされる。

 画家の堂本印象がユリの花を持つはかなげなガラシャを描き、2011年の大河ドラマ「江」では女優のミムラ(現・美村里江)さんがガラシャを演じた。

 「ガラシャの情報は、ほぼリアルタイムで欧州に届いた」とフレデリック・クレインス准教授(日欧交渉史)は指摘した。「ガラシャの侍女から大阪のイエズス会士に口頭で伝わった情報が書簡でローマ本部に届き、出版物を通じて欧州に広まった」。18世紀にパリで出版された「日本史」には、ガラシャが美人で理想的なクリスチャンとして書かれているという。

 日本語文学者の郭南燕さんは、ガラシャの死から約90年後に出版されたクラッセの「日本西教史」でガラシャの容貌を賛美する表現が現れたと述べた。その後、1698年にウィーンでイエズス会の音楽劇の主人公になり、絶世の美人として描かれたことも紹介。美人として描く本がのちに和訳されて日本で「美人説」が広がったと話した。

 現代のガラシャ像を作り上げる役割を果たしてきた一つに、長岡京市で毎年11月に開催されている「長岡京ガラシャ祭」がある。主要行事として行われる「輿(こし)入れ行列」では公募で選ばれた夫婦かカップルがガラシャ(玉)と忠興役を担う。この催しを1992年に立ち上げた小田豊・前市長が登壇し、ガラシャを題材に選んだ理由に知名度の高さを挙げた。「自立した女性としての生き方が時代にも合っていると考えた」

 ガラシャはどうして「美人」になったのか。

 井上章一教授(風俗史)は、近代以降の日本でキリスト教は、かつて迫害を受けたことからくるある種のロマンチシズムをかき立てる存在になったと指摘し、「その典型がガラシャ」と打ち出した。「大河ドラマでもきっときれいな女優さんが演じるのではないかと楽しみにしている」

 講演後に行われた4人による討論では、「ガラシャ美人説」も語られた。クレインス准教授は光秀の肖像画が美男子であることと、夫の忠興が、色好みで知られる秀吉にガラシャを会わせることを恐れていたことを挙げ「ガラシャは美人であったと思う」と指摘し、小田前市長が同調した。

 井上教授は自説を補強した。キリスト教系の女子大学は仏教系女子大の学生から「かわいい」「金持ち」「キリスト教」の頭文字を取って「3K」と言われることを紹介。「キリスト教はCなのに」と笑いを誘いつつ、「現代社会でキリスト教は冷遇されるどころか、高い位置を占めている」と、日本のキリスト教観が美しいガラシャ像を創った側面を強調した。

 2018年の日文研の一般公開は「京都と時代劇」をテーマに、東映太秦映画村(右京区)と長岡京市が協力して行われた。京都映画界を代表する監督で、20年ぶりの長編劇映画「多十郎殉愛記」が来春公開される中島貞夫監督(84)が登壇するシンポジウムもあった。

 日文研の研究者が映画を語る催しもあり、時代劇を見るのが趣味という木場貴俊プロジェクト研究員(日本近世文化史)は「時代劇の愉しみ方」を語り、「歴史学は現代とは異なる常識を持った世界である過去との交流だが、時代劇は海外ドラマを見る感覚で楽しむのが一番」と呼び掛けた。

192名無しさん:2019/02/15(金) 21:19:29
なるほど。

193とはずがたり:2019/06/01(土) 20:05:35
管領代六角定頼。燃え♪

https://twitter.com/zakkiroku/status/1134099302601482241
雑記録
? @zakkiroku

村井祐樹『六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す』を読了。
複雑怪奇な畿内情勢の中で「天下(京都及び畿内近国の諸国)」の執権を掌握し、将軍や管領の威光を超越する程の権勢を誇った六角定頼の事績を中心に、高頼?義治(義堯)の六角氏四代の動向を纏めた点において非常に意義がある一般書だと思った。

194とはずがたり:2019/07/07(日) 23:05:20
木寺宮とかあの辺激萌え

赤坂恒明
「柳原宮考 ── 大覚寺統の土御門宮家 ──」 
 日本史史料研究会会報『ぶい&ぶい』(無為 無為)第二十七号,
日本史史料研究会, 2014年5月, 1〜22頁.
http://akasakatsuneaki.c.ooco.jp/h/yanagiwara-no-miya.html

195とはずがたり:2019/08/15(木) 22:14:23

[藤原]秀鄕(鎮守府将軍)─千常(鎮守府将軍)─文脩(鎮守府将軍)─文行(左衛門尉)─公光(相模守)─(佐藤)公清(左衛門尉)─季清(左衛門尉)─康清※─西行(義清)─隆聖(実子ではなく弟子とも)・女(発心集に拠ると仲清に懇ろに頼んでいた=仲清猶子?)」

※─仲清(西行同母弟)―基清(承久の乱で敗死)─基綱(宮騒動で失脚、後に六波羅評定衆)─…─(細川頼春寄騎・阿波移住)─…─長勝(中富川の戦いで十河方について敗死、以後帰農)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13125337568

佐藤家…紀伊国田仲荘預所職・衛府

196とはずがたり:2019/08/18(日) 19:16:21
変わる室町時代のイメージ 応仁の乱で「焼け野原」は大げさ!?
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190818-00010000-kyt-l26
8/18(日) 10:30配信 京都新聞

 足利氏が京都に幕府を開いた室町時代のイメージが変わってきている。文献や考古の研究調査が進み、教科書の記述や伝承とは違った見解が示されている。応仁の乱や祇園祭山鉾巡行、北山・東山文化を例に、歴史家に知見の一端をひもといてもらうと…。

 京都で「先の戦争」と評されることもある応仁の乱(1467〜77年)。将軍や有力者の跡目争いや対立に端を発した争乱は幕府の権威を失墜させ、乱世のきっかけになった。この歴史的な評価は変わらないものの「京が焼け野原になった」との言い回しはやや大げさかもしれない。
 近年は「応仁・文明の乱」と表記するように、二つの元号にわたって11年ほど続いたが、史料にある洛中の戦火は応仁年間の2年間に集中し、文明の9年間は劇的に減ったようだ。被害状況を見ると、将軍御所「室町殿」などのあった上京が中心だ。もう一つの市街地・下京も無傷ではすまなかったが、焦土にはなっていない。その後の「天文法華の乱」(1536年)の方が被害が大きかったとの見方もある。

  次に室町に源流を持つ祇園祭山鉾巡行は、どんな様子だったか。現在は神事の印象が強いが、山と鉾が登場した14〜15世紀ごろは「現代風に例えるとディズニーパレードのようだった」(佛教大の八木透教授)。山は物語の一場面を見せる能舞台のような存在で、鉾は全てにお囃子(はやし)があるように歌舞や見世物(みせもの)の要素の強い「風流(ふりゅう)囃子物」がルーツとなる。踊りあり、音楽あり。このいわばお祭り騒ぎによって疫神を集めて退散させる「より代」の役割を果たしていた。

 果たして当時も「町衆の祭り」だったのか。関連書籍を多く著す奈良大の河内将芳教授は「町人が担ってはいたが、幕府や、祇園社(現八坂神社)を末寺・末社にした延暦寺・日吉社という権門の意向に左右されていた」と否定的だ。

 そもそもこのイメージは歴史家の故林屋辰三郎氏の見解を下地に、祇園祭の小説や映画を通じて戦後に広まったという。一方、史料からは山鉾巡行が延暦寺の都合で大みそかや冬にあったり、祇園社の神輿(みこし)が出なくとも幕府の要請で行われたりしたことが分かってきた。

 「神事これなくとも、山鉾渡したき(神輿渡御が停止になっても山鉾巡行は行いたい)」。こう記された当時の祇園社の日記を基に林屋氏は自説を述べたが、近年には山鉾巡行を中止・延期した際に幕府が課した「失墜料」を逃れるためとする、指摘もある。

 文化については「義満の北山文化、8代将軍義政の東山文化という二つの高揚期に分かれるのではなく、一体的な室町文化だった」と京都文化博物館の西山剛学芸員が解説する。室町の全盛期は義満期にとどまらず、4代義持、6代義教の頃まで続いたとの見方が強まった。将軍家コレクション「東山御物」の収集も進んだ時期となり、武家や公家、禅宗が融合した特有の文化は義満から義政までの合間を含めて一連の流れを通じて熟成されたようだ。

 室町研究の進展を背景に書店では現在も関連本が並ぶ。著書「応仁の乱」がブームのきっかけとなった国際日本文化研究センターの呉座勇一助教は語る。「ブームの背景には室町と現代の世相がリンクしているところが挙げられる。応仁の乱で秩序が崩壊し混沌(こんとん)として先が見えなかったのと同じように、現代は名ばかり管理職が増え、終身雇用も先行きが不透明で、会社がいつまであるか分からないといった共通点がある。高度成長期に人気のあった豊臣秀吉の出世物語ではなく、何が何だか分からないが、必死にもがく世界にリアリティーがあり、共感できる時代になっているのではないか」

京都新聞

197とはずがたり:2019/08/18(日) 19:17:24
応仁の乱で武士酷使「ブラック企業のよう」 呉座氏が背景を解説
https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20181223000037

 ベストセラーとなった著作「応仁の乱」で知られる呉座勇一・国際日本文化研究センター助教の講演が22日、京都府亀岡市余部町のガレリアかめおかで行われ、応仁の乱で大きな影響をもたらした丹波地域の動きを解説した。

 呉座助教は、京都での戦闘が長期化し、いかに補給路を確保するかが勝敗の鍵となったと説明。「都に至る主要ルートだった丹波は最重要となり、東軍の細川方が激戦の末、死守した」と語った。

 また、応仁の乱後、丹波の武士が蜂起した「延徳の丹波国一揆」にも触れ、「細川家は財がなくなり、乱の時に酷使し、疲弊していた武士からさらに年貢を取り立てようとした。今でいう“ブラック企業”のようだ」と話し、一揆が鎮圧された後、細川家は内紛で弱体化したという。

 呉座助教は「東軍の勝利とされるが、細川家は何も得をしていない。勝者なき戦争だった。教訓は現代にも通じ、争いをできるだけ回避する努力が必要ではないか」と締めくくった。

【 2018年12月23日 13時48分 】

198とはずがたり:2019/09/06(金) 08:06:42

2013年6月16日
眠れぬ夜の義詮ちゃんが語る、室町幕府管領誕生の巻
https://togetter.com/li/519125

199とはずがたり:2019/09/06(金) 09:26:46
処理水→簡易処理水→未処理水の3段階。

もし東京五輪に開催の意義があったとしたらこういう雨降ったら糞尿海へ垂れ流しの古い下水処理システムが解消されることとかだったんちゃうの?


五輪が照らす下水問題
お台場の海、降雨で水質悪化 「選手本位の大会」懸念
2019/9/6付日本経済新聞 朝刊
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO49477820V00C19A9EA1000/

200とはずがたり:2019/12/28(土) 21:25:53
京極家…近江源氏佐々木氏一流・北近江に土着・佐々木道誉の功で足利幕府で四職家・出雲や飛騨の守護・戦国時代は譜代家臣の浅井が台頭。江戸時代にも京極家は生き残り,外様大名として残り若狭国主、丹後国主となった。

六角家…近江源氏佐々木氏一流・南近江に土着。本来は嫡流。近江守護。同族の高島氏・朽木氏・大原氏などは奉公衆として幕府の直臣化。重臣に山内氏・伊庭氏。江戸大名としては残せず。

201とはずがたり:2020/01/16(木) 16:36:12
これは勿体ない。怒りしか湧かない

京都町家「川井家住宅」室町時代の建築裏付け 民間調査で判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200107-00000559-san-cul
1/7(火) 18:35配信産経新聞

 室町時代に建てられた「国内最古の町家」とされながら平成30年に解体された京都市中京区の「川井家住宅」の跡地を調査した結果、同時代の建築であることが裏付けられたことが7日、調査を実施した民間団体「古代文化調査会」(神戸市東灘区)への取材でわかった。

 川井家は北野天満宮(京都市上京区)の神職で代々麹(こうじ)づくりを営んでいたとされ、住宅は応仁元(1467)年築と伝えられていたが、文化財としての指定・登録がなく、維持費捻出が困難となったことから元所有者が不動産開発業者に売却。家屋を残そうとした市と業者の交渉も不調に終わり、平成30年8月に解体された。

 今回、解体後のマンション建設のため跡地約320平方メートルを調査。母屋の計12カ所の柱を支えた礎石の脇から出土した掘っ立て柱の跡(直径20センチ前後)が16世紀後半の安土桃山時代の土器を含む土で埋められていたことから、それ以前の室町時代に建てられたことが確認された。

 また修築の記録として同家内部に取り付けた棟札(むねふだ)から、江戸時代後期の文政13(1830)年に増築されたことがわかっているが、今回の調査では、その周辺の下層から麹づくりを証明する麹室(こうじむろ)の土壁片が大量に出土した。直前の文政8(1825)年には江戸幕府が酒造りを規制しており、同調査会の家崎孝治代表は「規制を機に酒造りをやめて増築したとみられる」と指摘する。

 大場修・京都府立大大学院教授(日本建築史)は、「間取りが当初の姿のままで続いていたことが詳細にわかる珍しい遺構。現存する町家で最古とされる奈良・栗山家住宅(1607年築、国重文)より古いが、今となっては現存していないだけに極めて残念だ」としている。

202とはずがたり:2020/03/23(月) 22:56:33

銀閣寺予定地は1キロ南だった 長年の謎、古文書で特定
毎日新聞2020年3月23日 21時03分(最終更新 3月23日 21時03分)
https://mainichi.jp/articles/20200323/k00/00m/040/296000c


 室町幕府8代将軍・足利義政が建立した銀閣寺(慈照寺)の当初予定地は、現在地から約1キロ南の京都市左京区南禅寺北ノ坊町だったことが分かり、大阪大谷大の馬部隆弘准教授(日本中近世史)が23日発表した。馬部准教授は「義満をまねて寺が集中する場所で隠居政治をしようとしたが、応仁の乱をきっかけに政治から逃避し、予定地も東山の外れとなる現在地に変えたのだろう」と話している。

 馬部准教授によると、1465年に義政が南禅寺の子院の一つである「恵雲院」に銀閣寺となる東山山荘を設置すると決めたことや、2年後に始まった応仁の乱の影響で予定地が変更されたことは分かっていた。(共同)

203荷主研究者:2020/06/21(日) 21:55:39

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/215601
2020年4月10日 17:00 京都新聞
室町幕府将軍の庭園跡か、巨大な庭石発見 「応仁の乱」前の栄華伝える

室町殿の庭園跡で見つかった巨石を含む景石群。足利義政による造営とみられる(京都市上京区)

 室町幕府の将軍邸「室町殿」(京都市上京区)の発掘調査で、15世紀中ごろに築かれた庭園の巨大な景石群が見つかったと、市埋蔵文化財研究所が10日、発表した。景石は長さ3メートル近い巨石を含む8個が並び、景観のための滝組を形成した。8代将軍・足利義政による造営とみられ、応仁の乱前の「花の御所」の栄華をしのばせる。

 調査地では、庭の池が北から西の縁に、陸部が西から東へ広がっていた。景石は池岸に沿って並び、最大長が2・75メートルに及び、重さでは最大で9・8トンに達したと推定される。7個を組み合わせ、0・5メートルほどの高低差も設け、寺院にあって水を用いずに滝のような流れを表す「枯滝」をつくり出していた。

 陸部は、元々池だったところを粘土質の土と砂礫を交互に突き固めて1メートル近く盛り上げてあった。造成土から15世紀中ごろの土器が出土し、義政期の造営を示している。

 一方、庭園跡は景石が16世紀前半の土器とともに、埋土に覆われており、この時期に廃絶したとみられる。調査地は、最も広い時期の室町殿(東西120メートル、南北210メートル)の南東部に当たる。義政造営後の15世紀後半に起き、自らも関わった応仁の乱を経て、将軍邸の南側が荒廃していったさまを示すという。

204とはずがたり:2020/08/22(土) 11:56:54
室町時代に救われた山崎正和さん フェアな知識人の足跡
有料会員記事
https://www.asahi.com/articles/ASN8P563VN8PPTFC012.html
編集委員・村山正司
2020年8月21日 18時05分

 山崎正和さんは青年時代にマルクス主義と決別し、思想的に保守、あるいは現実主義と分類されることが多かったが、日本的なべったりとした情緒とは無縁だった。


 旧満州で育ち、14歳で戻った日本文化の世界は、自らの大陸的な感性とかけはなれていた。「サクラを見ても美しいと思わなかったし、和歌などの伝統的な文芸にもなじめなかった。俳句は年を取ってやっと分かるようになりましたが」

 そう聞かされて意外だった。劇作家として名を上げた「世阿弥」は室町時代の話ではないか。問い返すと山崎さんは「室町時代はルネサンスにも似た近代的世界だったのですよ」とほほえんだ。身分と無関係に個人の趣味や決断がたたえられる時代は、日本では珍しい。「日本にも室町があることを発見し、救われた思いでとびついたものです」

 この内なる違和や分裂の自覚が…

205名無しさん:2021/03/27(土) 06:20:57
https://news.yahoo.co.jp/articles/2397cc43fbabf1f3cbe0553b91d7d4b8258c9daa
すごいのに知名度がいまひとつ? もっと知られるべき「2人の武将」
3/26(金) 12:07配信
PHPオンライン衆知(歴史街道)
マイナーな戦国武将の中には、まだまだ知られてほしい男たちがいる。さすらいの戦争請負人や率先垂範すぎる名君など、二人の功績と、人となりを紹介しよう。

※本稿は、『歴史街道』2021年4月号の特集2「もっと知ってもらいたい『戦国武将』」から一部抜粋・編集したものです。

さすらいの戦争請負人――可児才蔵吉長
可児才蔵吉長は大功を求めて戦場を転々とし、47歳の時の関ケ原合戦で東軍の福島正則に陣借りし、ようやく抜群の手柄を立てた人物である。

美濃可児郡(現在の岐阜県御嵩町)の出身で、地元の古刹・願興寺の伝承では、天正元年(1573年)に越前の朝倉義景が滅亡した際、身重の側室が願興寺を頼って生まれた子で、7歳の頃、越前に出て可児才蔵を名乗ったとされる。

この才蔵にはツキがなく、斎藤龍興、柴田勝家、明智光秀、織田信孝らのもとを渡り歩いたが、その主人たちは非業の死を遂げて、夢は叶わなかった。本能寺の変では光秀方として参戦したとされ、この時、敵将の首を打ち損じた仲間に首の捕り方を教えた話が残るが、本人は機会に恵まれず、何の手柄も立てられなかったようだ。

そして才蔵は骨のある男だった。天正12年(1584年)の長久手の戦いの陣で、主君の羽柴秀次が敗走した際、途中で馬に逃げられて徒歩となり、馬に乗った才蔵に行きあう。秀次は馬を貸すように命じるが、才蔵は「雨降りに傘を貸す者などおらぬ」と言い放ち、秀次を無視して走り去った。

これに秀次は怒って、もちろんお払い箱になった。戦場にあっては身分など関係ないという、一匹狼ならではの、才蔵の生き様をよく示す逸話といえよう。

才蔵は常々、行軍の途中に笹竹を切り取っては、背中につけて旗印として戦っていた。信長の家臣で美濃金山城主の森長可(蘭丸の兄)が信濃で戦った際、首級の実検時に、才蔵は三つの首を引っ提げて長可の前に出て、「16の首を捕り申した」と豪語した。

訝る長可に才蔵は、「捕った首が多く、捨てて来た。但し捕った首には、笹の葉を口に含ませ置いて参った」と申し立てたので、早速調べさせると、笹を含んだ13の首が見つかった。この時から彼は、笹の才蔵と呼ばれるようになる。

『芸州誌』は才蔵の関ケ原合戦の武勇を、「先陣を進み、槍を合わすこと28、敵の首を捕ること20騎、言語道断古今無し」と絶賛する。この才蔵の武功を家康は高く評価し、才蔵に陣を貸した福島正則は才蔵を500石で家臣に召し抱え、さらに746石に加増した。

才蔵は上杉謙信、明智光秀、真田信繁(幸村)と同様に、愛宕権現(勝軍地蔵)を深く信仰していた。その6月24日の縁日に参詣すると、1,000日分の御利益があるとされている。

福島正則の家臣として広島にあった才蔵は、60歳の慶長18年(1613年)の縁日、潔斎して甲冑をまとい、薙刀を持ち、床几に腰を掛けて息絶えた。いかにも戦争請負人として生きた、孤高で信念にみちた最期だった。

206名無しさん:2021/03/27(土) 06:21:45
>>205

率先垂範すぎる名君――寺沢広高
唐津城主、寺沢広高は倹約の人である。それは優れた人材を高禄で雇い入れるためで、1,000石の家臣が40人もいた。その人柄を表わす話が『翁草』にある。

尾張出身の広高と美濃出身の安田作兵衛国継は、立身出世を夢見た若き日に、「今は戦国の世である。槍先をもってどちらかが国郡の主になったなら、一方は1/10の禄をもって家臣にしよう」と約束した。親友の二人は、仕えた主君によって明暗が分かれた。

作兵衛は明智光秀に属し、本能寺の変で大活躍した。織田信長に一番槍をつけて負傷させ、信長寵愛の小姓森蘭丸を討ち取って、明智軍で最大の武功を立てたが、光秀の天下は11日で潰えて、武功は霧散し、逆にお尋ね者になってしまう。

作兵衛は天野源右衛門と名を変え、羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷、立花宗茂のもとを転々とした。

一方、広高は豊臣秀吉に仕えて出世街道を歩み、31歳で肥前唐津城(佐賀県唐津市)8万石の城主になる。国郡の主となった広高は昔の約束を忘れず、作兵衛を招くと、石高8万石の1/10、8,000石で召し抱えた。作兵衛は平野源右衛門と改名し、安らかな晩年を唐津で送った。

そして広高は模範を示し、家臣を引っ張る行動派の大名だった。5月、6月は家臣に麦飯を食べさせたが、「家臣に食えと命じたからには、自分も」と麦飯を食べた。妻木貞徳の娘である妻もまた、常に木綿の衣服を着て、夫の意向に従った。

身をもって手本を示す広高は、毎朝寅の刻(午前4時)に起きて、陽の出の卯の刻(午前6時)には庁に顔を出した。それから馬場に出て騎乗し、汗をかいた後、食事をとって、すぐ槍刀の稽古をした。

寒の時期には若者たちのため弓の達人を招き、的の巻藁を自ら先頭に立って射た。夏は鉄砲の腕を磨き、水泳で身体を鍛え、皆と一緒に一汁一菜でご飯を食べた。夜、武芸に励む際は粥の類を一緒に食した。そして、普段は酉の刻限(午後6時)には寝床に入った。

関ケ原合戦で家康に味方し、4万石を加増され、12万石の大名になっても、夫婦は決して奢らなかった。そして倹約によってできたお金で、優れた家臣を雇用した。

現在、唐津を訪れると、唐津城はまちのシンボルとなり、海辺には防風林として植樹した「虹の松原」が、日本三大松原の一つに指定されて、私たちの心を和ませてくれる。ともに、広高の遺産である。

楠戸義昭(作家)

207とはずがたり:2021/09/03(金) 01:15:49
謎解き日本中世史
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon

208名無しさん:2021/09/06(月) 20:55:28
『逆賊、ドゴール将軍、神風、持明院統』
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▼平治の乱の後、死一等を減ぜられ、平清盛の嫡男、平重盛の家人である藤原南家の伊東祐親(工藤祐親)の監視下に 少数の従者を伴って13歳で流された清和源氏の嫡流、頼朝。

▼名誉を重んじ 一族が睦み合う関東の自然恩沢の守護人(名門)たる小山氏や千葉氏、三浦氏などと全く異なり、辺境の伊豆では 本拠地の伊東を中心とする久須美庄の開発領主となった工藤祐隆の一族のように肉親同士が血で血を洗う骨肉の相続争いを繰り返していた。

▼工藤祐隆の本拠地 伊東が 後妻の連れ子である工藤祐継から その息子の工藤祐経へと相続され、嫡流を自負する己には辺境の河津しか宛がわれなかったことに反発した前妻の孫、河津(工藤)祐親が伊東を掠め取って伊東祐親を名乗り、すると今度は工藤祐経が逆襲して 伊東祐親の嫡子、河津(工藤)助通を奥野の巻き狩りの帰路、射殺した。

▼そして相模の小領主である曽我祐信と再婚した河津(工藤)助通の未亡人の連れ子が『曽我物語』に登場する曽我十郎祐成(幼名 一万)と曽我五郎時宗(幼名 筥王)である。

▼辺境 伊豆の豪族達は、名誉を重んじて同じ血筋で結束するよりも おのおのが暴力、詐欺、脅迫で生き残る道を切り開くのが流儀だった。

▼流人である源頼朝の監視役だった伊東祐親の目を盗んで、頼朝が祐親の娘、八重姫と密通し千鶴御前をもうけたのを知ると、伊東祐親は容赦なく千鶴御前を松川に沈めて殺害したので、頼朝は北条時政に庇護を求め 時政の娘、政子と結婚した。

▼この時 北条時政は伊東祐親の娘を正室に迎えており 既に義時や政子などをもうけていたが、矢張り同じ血筋で結束するよりも 伊豆の豪族達の流儀に従い、勝ち馬に乗るべく我を通す道を選んでいる。

209名無しさん:2021/09/06(月) 21:15:18
(続き)
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▼伊豆の豪族達は、 名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人達と全く異質であり、おのおのが暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀の信奉者だったので、同族への裏切りも日常茶飯事だったのだ。

▼源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、平家方の伊東祐親の娘を正室に迎え 自らも平氏の末裔である北条時政は 躊躇することなく頼朝に従軍し 伊東祐親や平家軍と戦火を交えた。

▼治承・寿永の乱を制し 源頼朝が将軍に就任すると、平家方だった伊東祐親は恩赦を辞退して自刃した。

▼仮に恩赦を受けていたとしても、 久須美庄を奪い取りたい北条時政によって義父の伊東祐親は容赦なく暗殺されただろう。

▼『曽我物語』によれば 治承・寿永の乱を制し 将軍に就任した源頼朝の催した富士野(駿河国)の巻き狩りに潜入して頼朝の側近となっていた工藤祐経を暗殺した伊東祐親の孫が曽我十郎祐成と曽我五郎時宗だった。

▼しかし 敵討ちを成し遂げたところで何も得るものも無いのに 伊豆の豪族である曽我十郎祐成と曽我五郎時宗は本当に父の敵として工藤祐経を、祖父の敵として源頼朝を討とうとしたのだろうか?

210名無しさん:2021/09/06(月) 21:29:21
(続き)
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▼暴力、詐欺、脅迫で我を通し 肉親を裏切る骨肉の争いも厭わない破落戸ヤクザの流儀で生きる伊豆の豪族の端くれが、何の得も無いのに父や祖父の仇討ちをしたとは考えられない。

▼平家方に付いた伊東祐親や孫の曽我兄弟が 源氏方に付いた工藤祐経を殺害したところで、頼朝が敵方に恩賞を与える道理は無い。

▼矢張り曽我十郎祐成と曽我五郎時宗(時の字は北条時政から与えられた)の伯父で 五郎時宗の烏帽子親である北条時政が、発足したばかりの鎌倉幕府で冷遇されたことに憤慨し、暴力、詐欺、脅迫で我を通す意を体して (時政が警備を担当する駿河国富士野の巻き狩りで頼朝の側近を暗殺するよう)曽我兄弟を唆したと解する方が説得力が有る。
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▼すっかり北条時政の仕打ちに恐懼した源頼朝は、頼朝の側近である工藤祐経を殺害し、あまつさえ頼朝の本陣に討ち入って来た曽我五郎時宗を赦免しようとした。

▼また御家人の筆頭であり将軍を補佐する執権職を新設して 北条時政を任命したのである。

▼同じ平家の血筋で結束するよりも 北条氏は頼朝の平家打倒の挙兵に加勢し 躊躇なく同族の平家や伊東祐親軍を蹴散らしたが、それもこれも暴力、詐欺、脅迫で我を通す伊豆の破落戸ヤクザの流儀に則り、勝ち馬(官軍)に乗っかったまでのことだった。

▼辺境の地である伊豆の豪族達にとって 我を通すために同族を裏切り、暴力、詐欺、脅迫で仕打ちを加えることは別にルール違反ではなかったのである。

211名無しさん:2021/09/06(月) 21:42:04
(続き)
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▼梶原景時の変(西暦1199年)、頼家暗殺(西暦1203年)、比企能員の変(西暦1204年)、畠山重忠の乱(西暦1205年)、和田合戦(西暦1213年、和田義盛)、牧氏事件(西暦1215年、北条時政)、実朝暗殺(西暦1219年)、承久の乱(西暦1221年)、宝治合戦(西暦1247年、三浦泰村)、千葉宗家 乗っ取り(西暦1281年、千葉胤宗)、霜月騒動(西暦1285年、安達泰盛)、後醍醐暗殺未遂事件(西暦1334年、西園寺公宗、北条泰家)と中先代の乱(西暦1335年、北条時行)、大覚寺統への帰順と持明院統への反逆(北条時行)…

▼名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として当然の忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人達と全く異質であった伊豆の豪族 北条氏は、御家人の筆頭であり将軍を補佐する執権職を世襲すると、暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀に則り、意の侭にならない身内の源家将軍である頼家や実朝を躊躇なく裏切って暗殺したばかりか、容赦なく後鳥羽上皇に弓を引いて隠岐への流罪を言い渡した。

▼鎌倉幕府滅亡後も、生き残った北条泰家が西園寺公宗と共謀して後醍醐暗殺未遂事件を起こしたかと思えば、今度は逆に北条時行が臆面も無く後醍醐天皇に帰参して持明院統の朝廷に対して躊躇なく弓を引いた。

▼相手が誰であろうと帰順したかと思えば躊躇なく裏切り、暴力、詐欺、脅迫という弱肉強食原理で同族だろうが何だろうが容赦なく相手を打倒することは、辺境の地である伊豆の豪族達にとって当たり前のサバイバル術だったのだ。

▼更に、破落戸ヤクザの流儀で関東における領土拡大を狙う北条氏は、比企氏に続き 武勇と人望の誉れ高い秩父平氏の畠山重忠を騙し討ちにして武蔵国を手中に収め、次いで和田合戦や宝治合戦、霜月騒動で和田氏や三浦氏、安達氏を滅ぼして名実共に相模国を支配下に置いた。

212名無しさん:2021/09/06(月) 22:00:11
(続き)
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▼『裏切り』が全て悪い訳ではない。寧ろ裏切る方が正義である場合も多い。

▼悪逆非道な狂人ヒットラーと誼を通じた暗愚な上役のペタン元帥を裏切って亡命政権「自由フランス」を樹立したドゴール将軍は誰が見ても正しい行動を取ったと言える。

▼ところで 戦前まで横行した南朝正統論とは端的に言えば、「持明院統の天皇方は 平将門と同じように『天皇』を詐称した言わば大覚寺統の朝廷に対する逆賊であり偽主であったが、明徳の和約により それまで『天皇』を詐称していた偽主であった後小松天皇に神器が移ったため、後小松天皇以降、(平将門と同じように『天皇』を詐称した)逆賊や偽主の地位から正統性を有する天皇に変わった」というものだ。

▼しかしながら 易姓革命論に従えば、平将門と同じように『天皇』を詐称した逆賊であり偽主であった徳の無い人物に 後から正統性を有する天皇の地位が移ることは有り得ないであろう。

▼戦前まで横行した南朝正統論は持明院統の天皇方に対して甚だ無礼であったと言わざるを得ない。

213名無しさん:2021/09/06(月) 22:03:16
(続き)
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▼千葉氏は小山氏や三浦氏などと並び、名誉と血統を重んじ 宗家に対し庶家として当然の忠義を尽くす関東の自然恩沢の守護人であった。

▼辺境の伊豆から進出して来て 暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀を振り翳し関東に勢力を伸ばす北条氏は、南関東攻略の総仕上げとして 元寇に際し領国を留守にした千葉宗家の当主、宗胤の隙を突いて 北条一門の金沢顕時の娘を娶っていた弟の千葉胤宗に躊躇なく兄を裏切らせて家督を掠め取らせ、あまつさえ千葉宗家が信仰していた日蓮宗を排撃して北条一門が尊崇する真言律宗への宗旨替えを断行したのである。

▼南関東を攻略し完全な支配下に置いた北条一族が、同族だろうが輝かしい歴史を誇る名門(自然恩沢の守護人)だろうが 暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀に則って 次に北関東の足利、新田、小山、結城などを潰しに掛かるのは時間の問題だった。

▼特に足利、小山などは北条得宗家の女子を正室に迎え 親密な関係を代々 築いて来たが、そのような努力も ひとたび北条一門に狙いを付けられれば何の抑止力にもならないことは明白だった。

▼江戸時代に『大日本史』を編纂した水戸光圀は、後鳥羽上皇に弓を引いた北条義時を“逆臣”と手厳しく批判したが、南北朝期に『神皇正統記』を著した北畠親房は、“北条義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない”(wikipedia)という官軍批判を展開した。

▼果たして北畠親房の官軍批判は当を得ていたのだろうか。

▼暴力、詐欺、脅迫で我を通す破落戸ヤクザの流儀は 今日まで辺境である伊豆に深く根を張っているようだ。

▼伊豆に起源を持つ朝鮮ゴロツキ・ヤクザの稲川会も、正に北条一族の足跡をなぞるように神奈川県に進出し神奈川県議会を手中に収め、横須賀の小泉一家を担いで国政に多大な悪影響を及ぼした。

214名無しさん:2021/09/06(月) 22:14:01
(続き)
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▼南朝正統論を肯定する一方、悪逆非道な狂人ヒットラーと誼を通じて「持たざる国」(無産階級国家)を自称し 国家社会主義三国軍事同盟を結んで、米・仏を盟主とするブルジョア憲法を共有する運命共同体に対して無謀な階級闘争を仕掛けようとした藤原摂関家の総理大臣 近衛文麿。

▼出鱈目な判断を下す藤原摂関家の近衛文麿を裏切ることもせず、ひたすら出鱈目な判断に盲従し 連合艦隊司令長官の地位に恋々として真珠湾奇襲攻撃を立案し 日本海軍を指揮した山本五十六は著しく正義に反する行動を取ったと断じざるを得ない。
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>1338年9月、大覚寺統の朝廷では劣勢を挽回するために東国の軍勢を糾合して京都へ攻め上るという案が用いられ、北条時行も義良親王・宗良親王や北畠親房・結城宗広・伊達行朝・新田義興らと共に伊勢国大湊から出帆したが、遠州灘を過ぎた辺りで暴風雨に遭遇して四散した。北条時行の漂着した場所は不明であるが潜伏して探索を逃れていたらしい。
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▼神国史観に照らせば、日本史の重要な時期に神風が二度 吹いている。

▼一度目は言わずと知れた元寇の時であり、二度目は持明院統の朝廷に味方した西暦1338年の遠州灘の神風である。

215天照皇大神を軽んじた外宮優位の伊勢神道:2021/12/19(日) 15:58:33
>天照皇大神を疎んずる外宮上位の伊勢神道を妄信した大覚寺統の朝廷のみを正統と買い被り、内宮の天照皇大神を崇拝した持明院統を侮辱する南朝正統論を奉じる一方、悪逆非道な狂人ヒットラーと同盟を結んで 米・仏を盟主とするブルジョア憲法を共有する運命共同体に対して無謀な階級闘争を仕掛けた70年以上前すなわち軍国主義時代の戦前日本
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未だに持明院統の北朝5代はヨソ者扱いだな

216天照皇大神を軽んじた外宮優位の伊勢神道:2021/12/19(日) 18:23:25
>未だに持明院統の北朝5代はヨソ者扱いだな
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今上陛下は126代。『皇統譜』によると持明院統(北朝5代)は歴代に算入していない。

217人工地震は逆賊・極右の仕業:2022/01/03(月) 16:07:32
2022年1月3日(月)15時25分頃 茨城南部で反米・極右が震度1の人工地震(深さ50km)。 核戦力を保有するロシアと手を結んで在日米軍を追い出そうと企んだ浅知恵の反米・極右。 天照皇大神を軽んじる伊勢神道を妄信したため衰勢を辿った大覚寺統を買い被り 天照信仰を貫いた正統派の持明院統(北朝5代)を皇統譜の歴代から未だに排除し続ける逆賊ども。

218人工地震は逆賊・極右の仕業:2022/01/05(水) 22:33:00
2022年1月5日(水)21時34分頃 茨城南部で反米・極右が最大震度3の人工地震(深さ50km)。 天照皇大神を軽んじる伊勢神道を妄信したため衰勢を辿った大覚寺統を買い被り 天照信仰を貫いた正統派の持明院統(北朝5代)を歴代天皇から排除した逆賊 水戸光圀。
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未だに『逆賊 水戸光圀』を美化するゴミ時代劇を流し続けるカスTBS。

ドイツ・オーストリアのカトリック圏から出て来た反米・極右の狂人ヒットラー、イタリアのカトリック圏から出て来た反米・極右の変人ムッソリーニ、スペインのカトリック圏から出て来た反米・極右の独善フランコ…

219カルト教団カトリックと逆賊 日本会議:2022/01/20(木) 14:10:01
反社カルトのカトリック教会が誼(コンコルダート)を交わした反米・極右の主な例は以下の通り。
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1.ドイツ・オーストリアの狂人ヒットラー
2.イタリアの変人ムッソリーニ
3.スペインの独善フランコ
4.逆賊 日本会議

逆賊 日本会議は (1)天照皇大神を軽んじる度会神道を妄信したため 遠州灘で神風を蒙り衰勢を辿った大覚寺統を買い被り 逆に天照信仰を貫いた正統派の持明院統(北朝5代)を皇統譜の歴代天皇から排除した逆賊 水戸光圀の反米・極右(尊攘・質素倹約・緊縮財政)思想を引き継ぎ、(2)水戸光圀の反米・極右(尊攘)思想にかぶれて 日米修好通商条約を結び開国した大老 井伊直弼を暗殺した逆賊 水戸浪士や浅墓な吉田松陰を神格化し、あまつさえ(3)核武装したロシアと手を結んで 返還される北方領土などから在日米軍を追い出そうと企んだ。
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縁談を餌に カトリックに入信させる気 満々で40年近くカトリックでない異教徒の上智大卒業生や栄光学園卒業生に 独善的パターナリズムを強要しようと付き纏うカルト教団、イエズス会。
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カルト教団、イエズス会が御膳立てした胡散臭い縁談を拒絶し、オンライン・ゲームなどを利用して他の方と繋がろうとすると、大叶鉱山で大発破を轟かせて威嚇したり、人工地震で驚かせたり、爆音バイクで周囲を徘徊したり、au PAY マーケットやマカフィー・モバイル・セキュリティー、Google Japan、Twitter、d払い、TVerなどに潜伏するカトリック秘密工作員を動員してジャンク通知をプッシュして妨害を繰り返したり、遠隔操作でYouTubeやTVerの音量を頻繁にゼロ(ミュート化)したり、陸自ヘリで徘徊して爆音を撒き散らしたり、公道にゴミを散乱しに来る…
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反社カルトのカトリックが 押し付けがましい振る舞いを自重しないなら 中間選挙を控えたカトリックのジョー・バイデンに迷惑が掛かることになるぞw

220自分の手を汚さず同和教育に熱心に取り組むズル賢い男:2022/03/03(木) 07:33:30
2022年3月2日(水)午前9時8分頃、茨城県南部で最大震度3の人工地震(核戦力を保有するロシアと手を結んで北方領土などから米軍を追い払おうと企んだ カルト教団カトリックを黒幕とする日本の反米・極右の仕業)
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2022年3月2日(水)深夜、タケオが堅気の住宅地に宅地を提供したため小山市間々田六丁目の同和部落から来たダンプ屋ヤクザ宅から夜通し番犬騒音。
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自分ん家の隣でなく遠い堅気の住宅地に同和ヤクザを呼び込み 自分の手を汚すことなく同和教育に熱心に取り組むズル賢い校長タケオ。
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そんなに同和教育が好きなら 校長タケオは自分の双子の孫に同和ヤクザの嫁を貰え!

221とはずがたり:2023/11/04(土) 21:41:34
https://twitter.com/1059kanri/status/1720626637371322742
まとめ管理人
@1059kanri
やっぱりこれは興味深いなあ。元寇の影響により、日本刀は対遊牧民用の武器として改良され、それは中華世界でも有用なものだと認識されていた、と

戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000379305

16世紀半ば、戦国時代の日本をルポルタージュした中国人がいた。その後すっかり忘れ去られていた貴重な記録『日本一鑑』には、いったい何が書かれているのか。明清時代の中国を、ユーラシアの陸と海から大きな視点でとらえた著作で高く評価される著者が、日本の戦国時代を描き直す意欲作。
1523年、戦国日本の有力者、大内氏と細川氏が日明貿易をめぐって争い、中国の港町を争乱に巻き込んだ「寧波事件」は明朝に衝撃を与えた。密貿易と倭寇への対策に悩む朝廷の命を受けて、日本の調査のために海を渡ったのが、『日本一鑑』の著者、鄭舜功である。「凶暴、野蛮な倭人」という従来の先入観にとらわれない鄭舜功の視線は日本の武士から庶民におよぶ。生活習慣や日本刀の精神性、切腹の作法、男女の人口比など多岐にわたって、凶暴なるも礼節を重んじ、秩序ある日本社会を描いている。
また、日本さらに畿内への詳細な航路の記録は、当時の日本の政治・軍事状況を映し出す。九州の東西どちらを通るのか、瀬戸内航路か太平洋航路か――。しかし、大きな成果をあげて帰国した鄭舜功には、過酷な運命が待っていたのだった。
本書によって、日本の戦国時代は、応仁の乱から関ヶ原の合戦へという「陸の物語」ではなく、実は日本からの銀の輸出と海外からの硝石・鉛の輸入を主軸とする「海の物語」であったというイメージが、新たに像を結んでくるだろう。

222名無しさん:2025/06/08(日) 13:48:50
>
> http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1705206451/609
>


↑北条時宗も北条高時も生前の最高位階は正五位下・従四位下までで、足利尊氏や義満でようやく正二位・従一位だもんな。



223名無しさん:2025/06/11(水) 22:48:27
>
> http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1709209346/540
>


↑田沼意次の時代だと最後の女帝・後桜町天皇や、尊号一件の光格天皇(ただし田沼の生前は満年齢8歳ほどで即位したばかり…)だな。



224名無しさん:2025/06/19(木) 21:47:33
>
> http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1709209346/567
>
 
 
↑足利貞氏の正室が演出あんなンっても初回の1度きりだからな。
 
史実じゃいちおう青年まで生きた実子の高義も居て孫も何人か生まれてる。
 


225名無しさん:2025/06/19(木) 22:33:47
 
 
『  釈迦堂殿【今上天皇の直系祖先】
 
https://rekishi.directory/%E9%87%88%E8%BF%A6%E5%A0%82%E6%AE%BF%EF%BC%88%E8%B6%B3%E5%88%A9%E8%B2%9E%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%A6%BB%EF%BC%89
 
 
足利貞氏の妻、北条顕時(金沢流)の娘
 
 
釈迦堂殿は今上天皇の直系祖先です。本ページでは、釈迦堂殿から今上天皇に至るまでの系譜を掲載しています。「今上天皇の直系祖先まとめ(3000人以上)」とあわせてご覧ください。
 
 
系譜1
 
●釈迦堂殿 ┬─ ●足利高義 ─
●足利貞氏 ┘
────── ●足利高義の娘┬
 ●上杉朝定(二橋上杉家)┘
─ ●上杉朝顕 ── ●上杉朝顕の娘 ┬
           ●今川泰範 ┘
 
─── ●今川範政 ┬─ ●今川範忠 ─
 ●上杉氏定の娘 ┘
 
─ ●今川義忠 ──
─ ●今川義忠の娘 ┬
●正親町三条実望 ┘
 
─ ●正親町三条公兄 ── ●松陰居士 ── ●櫛笥隆致 ── ●園池宗朝 ─
 
──── ●櫛笥隆賀 ┬
 ●西洞院時成の娘 ┘
─ ●櫛笥賀子 ┬
 ●東山天皇 ┘
 
─ ●閑院宮直仁親王 ┬
  ●左衛門佐讃岐 ┘
─ ●閑院宮典仁親王┬
    ●大江磐代┘
 
── ●光格天皇 ┬
 ●勧修寺劫子┘
── ●仁孝天皇 ┬
 ●正親町雅子 ┘
─ ●孝明天皇 ┬
 ●中山慶子 ┘
─ ●明治天皇 ┬
 ●柳原愛子 ┘
─ ●大正天皇 ┬
 ●貞明皇后┘
─ ●昭和天皇 ┬
 ●香淳皇后┘
─── ●上皇(明仁)┬
 ●上皇后(美智子)┘
 
─●今上天皇(徳仁)   』
 
 


226名無しさん:2025/07/03(木) 21:03:55
>
> http://medaka.5ch.net/test/read.cgi/rcomic/1735893005/272
>



↑梶原景時の場合は逆櫓論争 >>67


夜須行宗や畠山重忠 >>113 など、義経以外とも厄介な問題が生じたし末期がああだったからどうかな?とも思うが未発見の史料でも出現しないと再評価し難いかな。







(  梶原景時 -

https://www.japanesewiki.com/jp/person/%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E6%99%AF%E6%99%82.html


・・・▼幕府宿老

景時の讒言と呼ばれるものには夜須行宗と畠山重忠の事例がある。

土佐国住人夜須行宗が壇の浦の戦いでの恩賞を願ってきたとき、景時は夜須という者の名なぞ聞いたことがないと申し立て訴訟になり、証人が出て夜須の戦功が明らかになり景時は敗訴した。

罰として景時には鎌倉の道路の普請が科せられた。

・・・一方で景時は都築経家、金刺盛澄、城長茂、曾我兄弟の仇討ちの赦免を願い出ることもしている。


・・・▼没落

頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光が下記のように言った。

「忠臣は二君に仕えずという。」

「故将軍が亡くなった時に出家遁世しようと思ったが、ご遺言により叶わなかったことが今となっては残念である。」

これが景時に伝わり、これを頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めた。このことを知った御家人たちは怒り、三浦義村、和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出された。

頼朝の死後、頼家の元でも継続して権力を振るう景時に対する御家人の不満として噴出したのである。11月、頼家は景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いた。

正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子景季、次男景高、三男景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした・・・


▼後世の評価

一般に、梶原景時には“源義経を陥れる讒言をした大悪人”のイメージがある。

鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、その死に際する記事で「二代にわたる将軍の寵愛を誇って傍若無人に振る舞い、多年の積悪が遂に身に帰した」と記されている。

景時追放の原因とされた讒言は、『玉葉』によると将軍源頼家に、その弟源実朝を将軍に担ごうとする陰謀がある事を報告したものであり、景時追放の3年後には北条氏の陰謀によって頼家が追放・暗殺され、実朝が将軍となり北条時政が実権を握っている事から、北条氏に不都合な景時追放の真相は歪曲され、景時を悪人として断じているのである。

元々その職務から恨みを買いやすい立場であった景時への、御家人たちの不満に火を付けて煽ったのは時政の娘で実朝の乳母である阿波局であった。
軍記物語である『平家物語』『源平盛衰記』では、逆櫓論争など義経と景時の対立の話がより具体的に記述されている。

そして、義経を主人公とする『義経記』では景時は敵役として描写されている。景時のこうしたイメージが本格的に定着したのは、庶民文化が隆盛した江戸時代であった。

分かり易い勧善懲悪が好まれた歌舞伎や講談で義経を悲劇のヒーローとする判官贔屓とあいまって、敵役の景時はこれを陥れた大悪人とされたのである。


明治になって近代歴史学・文学の時代になると、幸田露伴や山路愛山などが単純な判官贔屓をよしとせず、“頼朝のために進んで憎まれ役を買っていた”という景時擁護論を著している。一方で黒板勝美東京大学教授は、『義経伝』で義経賛美の立場を明らかにするとともに、景時を“奸佞なる人物”と断じた・・・   )



227名無しさん:2025/07/03(木) 21:05:43
 
(  ・・・歴史学の権威であった黒板の見解は影響力を持ち、以後長く辞典類などで景時は「讒言をもって人を陥れる人物」と記述されるようになった。


戦後になると、研究者はもちろん単純な判官贔屓で記述することはなくなり、作家や読者も旧来の一面的な勧善懲悪的な観点では飽き足らなくなる。

義経の政治面での無能さが指摘されるようになり、その一方景時は頼朝の武家政権の確立のために進んで憎まれ役を買った、善人とは言えないまでも優れて官僚的な人物であると評価されるようになった。

この様な見方は海音寺潮五郎の史伝や司馬遼太郎の小説『義経 (小説)』、永井路子の短編小説『黒雪賦』(直木賞受賞作『炎環』収録)が代表的である。
一般に影響力のある近年のテレビドラマにおいて、景時が単なる大悪人とされることは少ない。

大河ドラマ『草燃える』(1979年、梶原景時役:江原真二郎、源義経役:国広富之)、『義経 (NHK大河ドラマ)』(2005年、梶原景時役:中尾彬、源義経役:滝沢秀明)では、景時は義経と対立するものの、頼朝への忠誠心の篤い優れて官僚的な武士として扱われている。

もちろん一方で、景時を大悪人として描くドラマも存在しており、例として近年の作品では『源義経 (TBSテレビドラマ 1990年)』(1990年、梶原景時役:綿引勝彦、源義経役:東山紀之)がある。

当時の人気アイドルの東山が主演とあって義経は極端に美化され、ラストで義経は死なずに蝦夷地に逃れることになっており、景時は義経を悪意をもって陥れ平泉まで追ってきて義経に討ち取られるという、史実を無視した筋書きの作品である。

一般に「梶原景時は悪人」という漠然とした印象は根強くあるが、現在では一般向けの歴史関連書はもちろん、小説やテレビドラマといったフィクションでさえ、類型的な大悪人の景時を目にすることはほとんどないと言える。 )



228名無しさん:2025/07/19(土) 15:09:17
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> http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1709209346/609
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↑「配偶者が北条一門」といっても、金沢氏や赤橋氏にしろ傍系でしかないのは貞氏も尊氏も変わらぬ。

それと鎌倉倒幕後だから直接関連しないが、義詮の正室って日野家じゃなく渋川氏って一族なのな



229名無しさん:2025/07/22(火) 10:45:00
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> http://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1709209346/617
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↑1988「武田信玄」でも中井貴一の主人公にそそのかされ た越後の北条高広は長尾景虎(謙信)に謀反起こすもハシゴ外されあえなく降伏帰参となる一方、赤橋守時こと勝野洋の扮する大熊朝秀は甲斐へ完全鞍替え亡命。




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