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日本中世史スレ
44
:
とはずがたり
:2004/10/13(水) 00:37
http://www.kitombo.com/mikami/back.html
三神たけるのお伽秦氏
面白い。
ちなみに静岡は賤機山から明治期に付けられた新しい地名。静岡県という高々明治期以降の範囲を秦氏でくくるのは多少無理があるかな。
桑原家は因みに菅原家の支流(坊城家の庶流)に存在する。
というのは、太陽とペアをなす月に関する地名が、平安京の西、ちょうど嵐山・嵯峨野あたりに集中しているのである。
月に関しては桂=異世界説が面白い。
例えば、嵐山にある葛野の大堰の近くに「渡月橋」がある。文字通り、地上と月を結ぶ橋という意味だ。したがって、橋の向こうは月世界。玉兎が餅つきをしている幻想世界だということになる。
ならば、渡月橋の下を流れる川は何だろう。これがわかれば、なかなかの京都通とお見受けする。答えは渡月橋の上流が大堰川、下流を桂川という。大堰川は葛野の大堰に由来するとして、桂川の名前は、いったいどういう意味だろうか。問題は「桂」である。
「桂」といえば、京都では「桂離宮」が有名だが、それがあるのは、やはり渡月橋の向こう。桂川の西岸である。まさに、地上を離れ、月世界にある宮、それが桂離宮なのだ。だとすれば、桂の意味も、おぼろげながら見えてくるはずだ。もちろん、月と無関係ではない。
桂という字は木偏があることからわかるように、これは樹木の名前である。檜や杉、松といった樹木名である。では、これを読んでいる方で、桂の樹を見たことのある人はいるだろうか。桂で作った箪笥、椅子、柱といったものを目にした方がいるなら、ぜひ会って、話を聞いて見たいものだ。もし、見たことがあるという人がいるなら、その人は嘘をいっているか、もしくは勘違いしているかのどちらかである。なぜなら、桂はこの地球上に存在しない樹だからだ。桂が生えているのは、まさしく月世界。玉兎が餅つきをしている月面にあると信じられていた、想像上の樹木のことなのだ。
このことかわかるように、桂川の東は月世界なのだ。事実、ここには全国でも珍しい月の神様「月読命」を祀った、その名も「月読神社」がある。おそらく平安時代の人々は、中秋の名月を眺めながら、はるかな月世界に思いをはせ、そのイメージを桂川の東に再現したのではないだろうか。
45
:
とはずがたり
:2004/10/15(金) 01:23
<宇治市街遺跡>平安後期の都市計画 碁盤目状の町並み確認
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041014-00000141-mai-soci
京都府宇治市歴史資料館は14日、平等院に近い同市宇治妙楽の「宇治市街遺跡」で平安時代後期(12世紀)の道路跡が見つかったと発表した。位置などから、当時の町並みが碁盤目状に形成されていたことが初めて確認され、1053年に平等院鳳凰堂を建てた関白・藤原頼通の子孫が、周辺で都市計画に着手していたことが分かった。
古墳時代から江戸時代の集落遺跡の一角を調査。約400メートル離れた平等院に通じる現在の通りの延長線上で、東西15メートルにわたり幅4メートルの道路跡を確認。両側に溝跡もあった。文献で当時この周辺にあったことが分かっている別の複数の道路に通じる位置にあり、碁盤の目を形成していたことが判明した。
また、道路の南側から見つかった建物や庭園の跡から、1101年の平等院改修で使われたものと同型の瓦が出土。平等院にゆかりのある有力者の邸宅庭園跡と判明した。頼通の3代後で平等院改修を手がけた忠実の邸宅「西殿」がこの付近にあったとされており、同資料館は「西殿跡の一角と想定できる」としている。
現地説明会は16日、午前10時〜午後3時の間に随時。
(毎日新聞) - 10月15日0時34分更新
46
:
とはずがたり
:2004/10/17(日) 15:05
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1046080617/355-356
[旧石器発掘ねつ造] 「動機は、周囲の期待」藤村新一氏
47
:
とはずがたり
:2004/11/29(月) 05:25
ロゼッタストーンみたいな話しだねぇ>豊臣秀吉の紀州攻めで、戦利品として京都に持ち去られた
安珍・清姫の鐘お帰り供養 道成寺から京都・妙満寺へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041128-00000048-kyodo-soci
歌舞伎舞踊の「娘道成寺」で知られる「安珍・清姫の鐘」が28日、約420年ぶりに里帰りした和歌山県川辺町の道成寺から、所蔵する京都市左京区の妙満寺に戻り「お帰り鐘供養」が行われた。
午後1時半すぎ、笛と太鼓が鳴り響く中、約2カ月の里帰りを終えた鐘は信徒らにかつがれて本堂に安置され、僧侶らが読経して供養した。その後、人間国宝の歌舞伎俳優・中村富十郎さんが講演し「娘道成寺は初代富十郎が江戸時代に歌舞伎で初めて踊った。供養に参加できて感無量です」と語った。
鐘は高さ約1・1メートル、重さ約250キロ。天正年間(1580年代)の豊臣秀吉の紀州攻めで、戦利品として京都に持ち去られたとされる。里帰りは、道成寺のある熊野古道が世界遺産に登録されたことなどから実現した。
(共同通信) - 11月28日16時48分更新
48
:
とはずがたり
:2004/11/30(火) 17:23
>>47
420年ぶり一時里帰り・道成寺の鐘 “兄”とも650年ぶりに対面 /和歌山
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041130-00000290-mailo-l30
◇川辺町・光源寺で
約420年ぶりに川辺町鐘巻の道成寺に一時帰還していた釣り鐘が27日、同町和佐の光源寺で「兄」に当たる鐘と、約650年ぶりに対面した。道成寺の鐘は翌28日、収蔵する京都市の妙満寺に戻った。
二つの鐘はともに南北朝時代の地元豪族、逸見(へんみ)万寿丸が寄進。兄の鐘は道成寺の鐘が寄進される前年の1358年、町内の神社に寄進された。道成寺の鐘は豊臣秀吉の紀州攻めで略奪され、兄の鐘も明治の神仏分離で光源寺に売却された。
道成寺の鐘は10月3日に里帰りし、27日まで無料公開された。鐘は「お見送り鐘供養」の後、トラックで光源寺まで運搬。周辺住民らが見守る中、木坊子(きぼし)俊紀住職(62)が「二つの鐘はともに波乱万丈の時を過ごした。いつの日か再会できることを願います」とあいさつし、鐘を10回突いて見送った。
11月30日朝刊
(毎日新聞) - 11月30日17時10分更新
49
:
magenta
:2004/11/30(火) 20:12
>>41
タンロンの漢字表記は「昇龍」だったそうです。
http://www2.starcat.ne.jp/~v-v-nhat/n28.htm
50
:
とはずがたり
:2004/11/30(火) 22:44
>>49
おお,有り難うございます!!
捜せば見つかるもんなんですねぇ。。以下転載。
首都ハノイ物語(1999年)
ハノイは常にベトナムの首都であったわけではない。
古螺城のところで触れた通り(”追憶ベトナム”第6話)、甌駱国の安陽王はハノイ郊外の古螺(コーロア)に都を定めた。
その頃のハノイは他の村々と同じで、大小の河近くに小さな集落が点在するばかりであった。
その後、ベトナムは中国に支配されるが、五世紀の中頃、ハノイは一村から『郡』となり、『宋平(トンビン)』と称された。
隋の時代になると、隋はベトナム支配の中心地を『龍編』(ロンビエン、現北寧の近辺)からこの『宋平』に移した。
唐の時代になると、ここに『安南都護府』が置かれ、安南経略使が一二州(現ベトナム北部の大部分)を統治した。
この支配体制がベトナムの独立まで続くのであるが、その間ベトナム人の鋒起などに備えて、七五七年にはこの宋平に 『羅城(ラ・タイン)』が築かれ、八六六年にはこれを改修して、さらに大規模な『大羅城(ダイ・ラ・タイン)』 (周囲六一三九メ−トル、高さ八メ−トル)が構築された。
これにより、『宋平』という当時のハノイの呼称は羅城、大羅(城)となった。
九三九年、ベトナムの英雄『呉権』が約一千年に亙る中国の支配に終止符を打ち、独立を達成して、都を再び古螺に定め る。その後、丁朝(九六八年〜九八○年)と前黎朝(九八○年〜一○○九年)はハノイ南方一○○キロの山合いの華閭 (ホアルー)に都を定めた。
李朝(一○一○年〜一二二五年)の始祖、李大祖はすでに人口が密集し、経済の中心地となっており、地理的にも発展の 可能性を秘めた大羅に都を移し、国家の基盤を確立することを決意して遷都の令を発した。
李大祖の船団が大羅城の近くまで来た時、一尾の黄色の龍が現れ、天高く飛び去った。帝はこれを奇禍とし、大羅城を 『昇龍(タンロン)』と改称した。
陳朝時代(一二二五年〜一四○○年)も昇龍の規模は殆ど変わらなかったが、元軍との戦いにより宮城は焼失したため、 修理は最小限に留め、上皇政治を行っていた太上皇が起居する天長(ティエン・チュオン、南定市郊外)に豪華な宮殿 を作った。
一五世紀の始め、陳朝を倒した胡季犂は都を清化(タインホア)の西に移し、西都(タイドー)と称し、昇龍を 東都(ドンドー)と改称した。
一四○七年、中国の明朝によりベトナムは再び支配されるが、明は東都を東関(ドン・クアン)と改称した。
一四二七年、明軍を破って再び独立を回復した後黎朝の黎太祖は、これを東京(ドンキン)と改称した。
しかしながら、一般民衆は一九世紀始めまでハノイを昇龍(タンロン)、または Ke Cho ケー・チョ)と呼んでいた。
一八○二年、阮朝を再興した嘉隆帝はフエに遷都し、ハノイには北城総鎮をおいたが、民衆が昇龍とよび親しんでいる ことから、ハノイを昇隆(字が一字変わっても、発音は同じ)とした。
一八三一年、阮朝の明命帝は行政組織として四府からなる河内省を置き、ハノイを省都とした(これにより、昇隆は 《ハノイ》となる)。
一九四五年、ハノイは「ベトナム民主共和国」の首都となり、一九七六年の南北統一により「ベトナム社会主義共和国」 の首都となった。
http://www2.starcat.ne.jp/~v-v-nhat/
大学教授のベトナム講座
51
:
とはずがたり
:2005/02/08(火) 21:17:35
【阿波公方略史】
http://rekimin.hp.infoseek.co.jp/gaiyou/kuboryakushi/awakubo_ryakushi.htm
室町幕府の全盛期をつくりだした足利義満か没した後は、幕府の威勢にかげりがみえはじめた。とりわけ、京都を戦場とした応仁の乱(1467〜1473)以後は、幕府の権威がおとろえ、群雄割拠の戦国時代に入った。
当時、十代将軍義稙は、幕府の管領細川高国の専横にあい、淡路の沼島にかくれた。ついで阿波の撫養に移り、養子義冬に上洛の夢を托して病没した。
<義冬①>
義冬(17歳)は、細川晴元(14歳)とともに阿波の守護細川持隆とその臣三好元長に擁せられて上洛の途につき、和泉の堺に上陸した。これに対して京都の細川高国は、摂津の天王寺で防戦したが、やぶれて尼崎で自刃するにいたった。京都の細川氏の家督をついだ細川晴元は、家臣のざん言を信じて功臣三好元長を堺の顕本寺で攻め滅ぼした。義冬は、この時淡路の志築へ落ちのびてきた。
これを知った阿波の守護細川持隆は、天文三年(1534)に義冬を阿波国平島庄に迎えた。これが初代阿波公方(平島公方)義冬である。那賀川河口の平島庄は、足利氏とゆかりの深い天竜寺領であり、近畿との海上交通の便もひらけ、上洛の機をうかかうには絶好の位置にあった。
義冬は平島の西光寺に住んでいたが、その子義栄・義助の代になって永禄年中(1558〜1569)藤原清兼の平島壘を修築して、ここに移り住んだ。この館(やかた)を、人びとは「平島館」「公方館」と呼んでいた。
<義栄②:14代将軍>
義冬の子義栄は、ついに好機を得て、三好三人衆や篠原長房に擁せられて上洛の途につき、摂津の富田庄に入り左馬頭に任ぜられた。次いで永禄十一年 (1568)二月、義栄は宿願の征夷大将軍に任ぜられて、十四代将軍となった。しかし、このよろこびもつかの間のことで、戦国の風雲児織田信長が足利義昭を奉じて上洛するに及び、支持者の三好三人衆敗れ、再起を期して阿波へ下向したが、撫養で病没した。
<義助③:細川→三好→長宗我部>
義栄の弟義助は、平島館で上洛の機会をうかがっていたが、京都・大阪付近て転戦していた三好三人衆が敗れ、兵庫・堺付近で信長の軍と戦っていた篠原長房も阿波へ帰り、きびしい状勢の中で如何ともしがたい有様であった。
さらに、土佐の長曽我部元親の阿波侵攻にあい、阿波細川氏に代った三好氏も、天正十年 (1582)中富川の決戦て潰滅するに及び、阿波公方義助は頼るべき勢力もなく、自ら力を持たぬ悲しさで、上洛の野望ははかなくも崩れていった。しかしながら長宗我部元親は、公方の伝統的権威には一指もつけず、公方の所領三千貫を従来通り保証したのてあった。
<江戸期の阿波公方:蜂須賀>
やがて、安土・桃山時代も過ぎ去り、江戸時代に入った。藩主蜂須賀氏は、公方の禄を百石内外にへらし四代公方義次を平島又八郎と称えさせ、以後歴代にわたって平島姓を名乗らせるなと、公方の権威を引き下げる政策をとった。このような藩主の施策に対する公方の不満は大きいものがあった。悶々の情を詩歌に托し、学問・文化の面で名を後世に残した公方もみられる。
八代公方義宜は学問好きで、京都の名儒島津華山を招き、子弟を教育する学問所「栖竜閣」を設けた。華山の教えをうけた子弟の中でも、九代公方義根は漢文学に優れた才能をあらわし、栖竜閣詩集(棲竜閣詩集)に多くの秀作を残している。
義根は、有名な京都の文人江村北海、藩の儒者那浪魯堂をはじめ多くの学者と交わり、平島館には大仁錦水・信行寺才玄・高橋赤水などの地元の文人等が出入りして、天明・寛政・享和の頃には阿波国南方地域における漢文学の一つの中心地となっていた。
<阿波公方の終焉>
しかしながら歴代公方の藩に対する不満は、次のことが導火線となり九代公方義根にいたって爆発した。すなわち義根は、京都の名門を介して藩主に増禄を求めたが受け入れられず、憤激のあまり文化二年(1805)阿波を去って紀州に行き、さらに京都へ帰っていった。約270年にわたって、阿波国平島の地に居を構えた阿波公方(平島公方)の歴史はここに終わりをつげた。
現在、公方の住んだ平島館の建造物はこの地に残されてはいないが(一部は小松島市地蔵寺・阿南市吉祥寺などに移建されている)、那賀川町古津の公方館跡に町立歴史民俗資料館か建てられ、公方関係の史料も展示されている。また那賀川町赤池の西光寺には、室町幕府十代及び十四代将軍をはじめ歴代公方とその一族の墓石20数基が、風雪に耐え苔むして静かなたたずまいをみせ、往年の面影をしのばせている。
京都に帰った公方はどうなったのかね?
52
:
とはずがたり
:2005/02/12(土) 10:15:06
<東北・北海道>青森県藤崎町誕生記念レス
安東氏発祥の地
http://www.town.fujisaki.aomori.jp/
平安時代の末の11世紀の中頃、岩手県盛岡市のあたりに本拠地を構えていた東北地方の大豪族に、「安倍氏」がいました。その安倍氏を、京都政権の派遣軍が討ち滅ぼし、源氏が関東や奥州に勢力を張るきっかけとなった戦いが「前九年の役」(1052年〜1062年の12年間にわたる長い戦い)です。その戦いで戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸(たかあきまる)が藤崎に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄えたと伝えられ ています。
藤崎城は1082年(永保2年)に築かれたとも1092年(寛治6年)に完成したとも伝えられています。鎌倉時代になると、安東氏は地方の豪族として幕府から「蝦夷管領」(流罪で蝦夷地などに流された人達の現地監督が主な役割)に任じられましたが、やがて蝦夷地の物産などの交易権を手中にし、莫大な利権を持つようになったといわれます。 鎌倉時代には、鎌倉御家人がどんどん地方に派遣され住み着くようになりました。当時津軽は内三郡と外三郡の六郡からなり、そのうち内陸の肥沃な土地の多い内三郡が鎌倉の支配地(鎌倉役)とされて鎌倉の御家人たちが住み着き、安東氏は日本海岸を含む外三郡に本拠地を移したようです。
その中にあっても、安東氏は藤崎城を領国経営の大切な拠点としていました。藤崎は、津軽の外三郡が内三郡に接する奥法郡の端にあり、岩木川水系が合流する重要な地点に位置していたのです。そして、津軽半島の十三湊を拠点にして、盛んな交易活動を展開したと伝えられます。十三湊はやがて日本の三津七湊の一つに数えられるくらい栄え、安東氏は十三湊周辺に、福島城・唐川城・柴崎城などを築きました。安東氏は、土着の豪族として室町時代の15世紀半ばまでの350 年あまり津軽で勢力をふるいましたが、その間、安東一族の内紛、鎌倉幕府の衰退と滅亡の戦乱、建武の親政から南北朝の動乱、やがて南部氏の津軽支配にかかる戦乱などが続き、15世紀半ば頃に南部氏との戦乱で、各地の城や砦を次々と失い、やがて津軽を放棄しました。福井県小浜市に現存する名刹・羽賀寺(はがでら)の本堂は、ちょうどその頃、後村上天皇の勅命によって1436年に着工し1447年に完成した巨大な伽藍で、交易活動を盛んに展開した時代の安東氏の最後の輝きをしのばせてくれます。
さて、津軽から退去した安東氏(安東宗家の下国安東氏)は、一時蝦夷地の福島城に入りますが、間もなく秋田県の北部の檜山城(能代市檜山)に入り、檜山安東氏となります、やがて一族で土崎湊で活動して湊安東氏を併合し、戦国大名・秋田氏となりました(秋田県各地には秋田・安東氏の遺構が数多く現存しています)。戦国大名・秋田氏は、関ヶ原の合戦で西郡に加わり、1602年(慶長7年)に豊かな穀倉地帯が広がる秋田から常陸国の宍戸(茨城県友部町)5万石に移封され、さらに40年あまり後の1645年(正保2年)に、三春(福島県三春町)5万石に移され、そのまま明治維新を迎えています。
一方藤崎城は、15世紀の半ばから、津軽に進出した南部氏の津軽支配の拠点として使われ、南部氏の侍が詰めていた時代もあったといわれます。南部氏の津軽支配は、しばらくは藤崎城や浪岡城を拠点に、南部氏に従う津軽の小豪族ににらみをきかせながら、その支配に任せるといったゆるやかなものであったようですが、やがて南部氏の強力な一族である南部高信が石川城(大仏ケ鼻城)に入って勢力を拡大し、津軽の支配を強めたようです。そして1571年(元亀2年)、その頃急激に力をつけてきた大浦為信の軍勢が、石川城の南部高信を急襲して津軽統一に着手、間もなく藤崎城も大浦氏のものとなり、為信の義弟や甥が住むなど一時は大浦氏の重要な拠点となったようです。そして1585年(天正13年)頃、為信の義弟の六郎と甥の五郎が川遊びの途中で事故死する事件があり、その直後に藤崎城は廃止になったと推測されます。ただ、1592年(天正20年)に、太閤検地の東奥巡検使とし津軽を訪れた前田利家らの大軍が大浦為信の本城である堀越城に入り、領主の為信自身は藤崎古城に逗留したらしいという記事が津軽一統志に見られますので、この頃には藤崎城は、廃止になっていながらもまだ領主がしばらく逗留できる城の機能は失われていなかったものと思われます。
その後、藤崎城跡は建物が取り壊され、江戸時代を通じて、堀の跡は水田の苗代として使われ(堀苗代と呼ばれた)、土塁や建物のあった場所などは畑となり、地形はそのまま残されました。
藤崎城跡が決定的に変わったのは、戦後の昭和30年代に入ってからで、道路が拡張されたり、家の壁や敷地の埋め立ての材料として土塁が急激に削られたり、とりわけ国道7号線バイパスの建設拡張にともなって、藤崎城の遺構から往時をしのぶことが難しくなってます。
53
:
とはずがたり
:2005/02/12(土) 10:37:01
>>52-53
安東氏は十三湊や土崎と云った湊を抑えるだけじゃなく福井県小浜市に寺を建造するなど次世代の北前船や現代の日本海縦貫線(←JR貨物)に繋がる活躍をしたんでしょうか。
どうも太平洋側と較べて沈滞の日本海側だが嘗ては中国朝鮮渤海へ通じる表日本だった訳で環日本海経済圏の再構築や交流活性化でがんばれないものかね?
青森県内に於いても原子力開発で資金が投下される太平洋側に対して日本海側は純農村ムード。林檎等産業が集積してるとも云えるし工業開発が良いとは云わないが交易の中心から外れちゃった現状はやや淋しい気も。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akita_k.html
秋田(安東)氏
【三津七湊】
http://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20040709/7-09-4.html
※三津七湊…当時、国内で最も重要とされた港町や港。三津には堺や博多、七湊には十三、輪島、三国そして秋田(土崎)などが挙げられています。
http://www.h5.dion.ne.jp/~ytakata/hokuriku/iwase/iwase.htm
越中の西岩瀬湊は室町時代からの重要な湊で「三津七湊」に数えられ神通川の河口に面していた。江戸時代の初期に神通川の流れが変わり東岩瀬(神通川の東)が富山藩の主要湊となった。
http://www.h5.dion.ne.jp/~ytakata/hokuriku/kagamotoyoshi/motoyoshi.htm
加賀の本吉湊
■七湊の一つ
鎌倉時代の廻船式目に「三津七湊」があげられている。全国の「三津七湊」の一つとしてこの本吉湊が数えられていた。それ以前にはこの辺りに比樂湊があり、物資はここから敦賀湊で陸揚げされ馬で塩津へ、湖上船で大津へそして都へ運び込まれた。本吉湊は江戸期に最盛期を向かえ加賀海岸を代表する大湊となった。加賀藩の経済金融の中心地であった。年間1500隻の船が出入れし、米蔵が建ち並び廻船問屋や商人で活気があった。
※「三津七湊」の三津は、伊勢から東へ向かう基地として伊勢の安濃津(今の津市)、明貿易で豪商を輩出した筑前の博多、自治都市の和泉の堺があげられ、七湊は、いずれも日本海にある越前の三国、加賀の本吉、能登の輪島、越中の岩瀬、越後の今津(直江津)、出羽の秋田、津軽の十三湊があげられている。三津は七湊より格が上であった。
いいですねぇ,安濃津・博多・堺・三国・本吉・輪島・岩瀬・直江津・土崎・十三湊。なんか出来ないかなぁ。安濃津は江戸時代の地震でやられちまって港町としては四日市にその地位を譲って行政都市になっている訳だが。
博多も行政区画としては領主が持ってきた福岡という地名におされ気味だが経済は今でも堂々と博多(博多駅が代表)を名乗っている。
自治都市堺も天下の台所大坂にその地位を譲り今度やっと政令指定都市へ。復活を期待したい。
三国は新産業都市か福井新港の建設で産業立地がぼちぼちと。本吉はすっかり寂れてそれが港町だと云う事すら俺はもう知らなかったし,自治体の名前にも駅の名前にも残せていないから仕方がないか。手取川河口の港町だったらしい。現在では金沢港にその地位を譲ったようである。加賀国府といい「石川県」の県庁が一時置かれた石川と云い現在でも中心より南に中心が有ればもっと違ってたかも知れぬ。
輪島も衰退ぶりは目を覆わんばかり。輪島の中継基地としての役割は現代の内航海運では不要だからなぁ。。
岩瀬もいま富山港と呼ばれているのが岩瀬地区である。富山なんて食傷気味の地名わざわざ使うことはない。是非岩瀬港の名前を復活して欲しい所。東ソーや三菱レイヨンなどの立地する古い工業地帯となっている。いまでは湊そのものは富山新港に移っている。岩瀬港区(富山市)・新湊港区(射水市)・伏木港区(高岡市)からなる富山港と名称変更したら如何か?
直江津。今は行政都市高田と合併して上越市。直江津なんて古い地名かと思ってたんだが昔は今津と云ったんでしょうか?
http://www.pa.hrr.mlit.go.jp/toyama/magazine/minato/mag_m_main1.html
伏木富山港はそれぞれに古くから歴史のある伏木地区(旧伏木港)、富山地区(旧富山港)、新湊地区(富山新港)の三地区で形成されています。
54
:
とはずがたり
:2005/05/09(月) 00:07:44
指定天皇陵そのものが神話になってアンタッチャブルになってますもんね。
皇室の神話性が日本史の科学的解明の犠牲になって良い訳がない。閉鎖的な宮内庁を今こそ独法化して自由化せよ!
2005年05月08日(日)
10天皇陵の指定に疑問 50年代まで宮内庁が調査
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20050508/K2005050801650.html
歴代天皇や皇族の陵墓などを宮内庁(旧宮内省)が戦前から戦後の50年代まで調査し、10カ所の天皇陵については指定の妥当性に疑問を持っていたことが、田園調布学園大短期大学部の外池昇・助教授(近世史)の研究で明らかになった。天皇陵は研究者から指定の間違いを指摘する声が数多くあがっているが、宮内庁も同様の認識を持っていたことを示すものだ。
外池氏は情報公開法に基づき、関係資料を閲覧した。宮内大臣の諮問機関として35〜44年に活動した「臨時陵墓調査委員会」の資料は、継体天皇陵への疑問を提起していた。大阪府茨木市の太田茶臼山古墳が指定されているが、近くの今城塚古墳の可能性があると答申している。
戦後のものでは、陵墓の可能性はあるが被葬者不明の古墳「陵墓参考地」を調査した資料を閲覧。50年代後半までに計48の古墳を調査した結果で、9古墳について、応神、反正、雄略などの天皇陵である可能性があるなどの記載があった。
天皇陵は初代の神武以来すべて指定された古墳が存在しており、既存の天皇陵が間違っている可能性を認めたものだ。
天皇陵は国学思想が盛り上がった幕末や、「万世一系」をうたう大日本帝国憲法の制定期に探し出されたものが多い。しかし、古い時代のものは学術的な裏付けに乏しく、正確なものはごく少数とされている。研究者からは学術調査を望む声があがっているが、宮内庁は修理などを除いて手を加えていない。
外池氏は「戦前であっても天皇陵を学術的に調査していたことがわかった。戦後も天皇陵に真剣に立ち向かおうとしており、現在の宮内庁の姿勢とは大きく違う。きちんとした学術調査をするべきだ」と話している。
56
:
荷主研究者
:2005/05/22(日) 02:19:25
飛鳥・奈良期だが…。
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/news-today/20041206/morning_news025.html
2004/12/06 西日本新聞
蝦夷 服属誓う儀式の池発見 飛鳥・奈良期 仙台「郡山遺跡」
飛鳥から奈良時代の朝廷の官衙(かんが)(役所)跡が見つかった仙台市太白区の郡山遺跡が、蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方住民を支配するために設置された最古の城柵(じょうさく)であるとの見方が強まっている。蝦夷に服属を誓わせる儀式に使われたとみられる石組みの池も発見され、朝廷の東北征服の実態を解明する上で注目されている。
二十五年前に郡山遺跡の発掘が始まった当初は、防備の弱い通常の官衙跡と考えられていた。しかし、蝦夷支配のため、朝廷が後に造った多賀城(宮城県多賀城市)や胆沢城(岩手県水沢市)などの城柵と同様、中枢部を取り囲むように、太い材木の列や板塀の跡が出現。軍隊の駐屯を示唆する鍛冶工房の跡なども次々と見つかり、周囲の蝦夷社会との緊張関係が浮かび上がった。
最古の城柵としては、日本書紀に六四〇年代に設置されたとの記述がある新潟県の淳足柵、磐船柵が知られるが、いずれも遺構は発見されていない。東北歴史博物館の工藤雅樹館長は「郡山遺跡は日本海側の二つの柵とほぼ同時期のもの。構造から見ても太平洋側に設置された最古の城柵と言える」と指摘する。
蝦夷支配のための城柵との見方を補強するのが、中枢部にある政庁の北側から発見された石組みの池だ。一辺約三・六メートルのほぼ正方形、深さ約〇・六メートル。四辺に人頭大の石を積み、すき間から水が漏れないように粘土で補強。底部にも石が敷き詰めてある。
奈良県明日香村の石神遺跡にも約六メートル四方の石組み池がある。六世紀の史料などによると、当時、朝廷はこの池で蝦夷にみそぎをさせ、神体山である三輪山に向かって朝廷への服属を誓わせた。
郡山遺跡の西方には、三輪山と同じような円すい形をした太白山がそびえる。東北大大学院の今泉隆雄教授(日本古代史)は「蝦夷政策の最前線だった郡山遺跡でも同様の呪術(じゅじゅつ)的な服属儀式が行われた可能性が高い。蝦夷支配の歴史を読み解く上で重要な遺跡だ」と話している。
朝廷側の最前線は七二四年ごろの多賀城設置で北上、郡山遺跡の城柵は役目を終えたもようだ。続日本紀などによると、その後の東北は、朝廷軍と蝦夷戦士集団との大規模な武力衝突の時代を迎える。
城柵(じょうさく)
大化の改新(645年)の後、朝廷が当時の東北や新潟県地方に住む蝦夷(えみし)を支配するために造営した拠点施設。蝦夷に服従を誓わせ、供応する場として使ったが、やぐらを設け、兵を置くなど蝦夷との戦いに備えた砦(とりで)の一面も持つ。647年に新潟市付近に淳足柵を、翌年、新潟県村上市付近に磐船柵を設置したとみられる。
57
:
片言丸
◆MACDJ2.EXE
:2005/05/28(土) 22:06:57
「全国宍道氏会」を結成
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/102632004.html
松江市宍道町ゆかりの戦国武将宍道氏にちなみ、全国の宍道姓の人でつくる「全国宍道氏会」が結成され、二十八日、同町で初めての総会と研修会があった。今後、いまだ謎の多い同氏の系譜について、会員が情報交換し、研究を進める。
同会は、同市本庄小学校長の宍道正年さん(57)が発起人となって結成。旧宍道町教委が電話帳を調べ判明した全国の宍道さん八十四人に呼び掛け、北海道から福岡まで三十一人が入会した。
宍道氏は、室町から戦国時代にかけ、同町や同市玉湯町などを支配した武将。もともと尼子一族だったが、大内氏に寝返って周防に移り、大内氏滅亡後は毛利元就の家臣となって出雲に帰還。
大内氏についた本家筋のほかにも複数の家が存在したが、全容を明らかにする家系図はなく、未解明な部分が多い。
研修会には、松江市や出雲市などから十人が参加。同町内にある宍道氏の菩提寺豊龍寺と居城の金山要害山城跡を訪ね、ルーツに思いをはせた。
参加者の宍道真子さん(76)=松江市学園南二丁目=は、「(ほかの参加者に)初めて会うのに親しみがわいた。自分の先祖を解き明かしたい」と話した。
会では今後、各自が家系図や伝承を持ち寄り、宍道氏全体の家系図作りに取り組むほか、全国の会員を訪ね、出雲地方をPRし、交流を深める。
59
:
とはずがたり
:2005/10/23(日) 12:07:53
しらんかった。。
>1895(明治28)年に始まった同祭は、平安時代から明治維新まで時代ごとの装束を着た18行列が連なるが、開始当初、室町幕府の初代将軍・足利尊氏が後醍醐天皇に刃向かった「逆賊」とする見方が強かったことなどから「室町時代」は空白になっていた。
大体逆賊いうても現皇室は足利尊氏に擁立された方の末裔なのにねぇ。
「室町時代列」見送り
http://mytown.asahi.com/kyoto/news01.asp?kiji=5012
資金難、07年めど実現
22日にある時代祭で加わる予定だった「室町時代列」が、今年は見送られることになった。約1億円と見込まれる衣装代などの調達に時間がかかったためで、主催の平安講社が明らかにした。07年をめどに実現する方針という。
1895(明治28)年に始まった同祭は、平安時代から明治維新まで時代ごとの装束を着た18行列が連なるが、開始当初、室町幕府の初代将軍・足利尊氏が後醍醐天皇に刃向かった「逆賊」とする見方が強かったことなどから「室町時代」は空白になっていた。
だが、近年になって「茶や能などの京都文化が花咲いた東山、北山文化の時代がないのはおかしい」などの意見が高まり、02年から検討を重ねてきた。桓武天皇の没後1200年にあたる今年の創設を目指したが、募金が思うように集まらず、今年は実施できなかった。しかし、府と京都市が今年度から5年間で計5千万円の助成を決め、実現のめどが立ったという。
平安講社によると、専門家らでつくる考証委員が議論した結果、「室町時代列」は総勢71人、馬4頭で、軽武装の足利将軍を中心にした「幕府執政列」と、室町時代に流行した「風流踊り」を再現する「洛中風俗列」にする予定。また、今年の祭りに向けては、平安時代婦人列で常磐御前に付き従う童や藤原公卿参朝列の随身が着るはかまや単を新調。楠公上洛(じょうらく)列の副将の大鎧(よろい)などが補修された。
(10/21)
60
:
ハチ
:2005/11/08(火) 10:52:58
幕末に欧米諸国と不平等条約が結ばれるまでの成り立ちを調べたいのですが、どの年代・出来事から調べると分かりやすい(理解できる)でしょうか?
61
:
とはずがたり
:2005/11/10(木) 20:31:54
どうでしょうかね。どういう目的で調べられるか解りませんが,世界史的な観点から見れば大航海時代を契機とした世界市場の形成によって東洋にも欧米人が盛んに来航するようになった事,日本史的な観点から見ると,江戸時代中期には工場制手工業が発達して幕藩体制が揺るぎだしたあたりから見ると流れが掴めるんでしょうかねぇ。
62
:
とはずがたり
:2005/11/24(木) 10:16:40
安土城の屏風絵探し、滋賀・安土町長がローマ法王と謁見
http://www.asahi.com/culture/update/1123/020.html
2005年11月23日22時04分
16世紀に当時のローマ法王グレゴリオ13世に献上した屏風(びょうぶ)絵を探すため、イタリアを訪れた滋賀県安土町の津村孝司町長らが23日午前(日本時間同日夕)、バチカンで現法王ベネディクト16世に謁見(えっけん)した。織田信長の命で描かれた屏風絵が見つかれば、築城からわずか3年で炎上した安土城の外観を知る手がかりになる。
屏風絵は「安土城之図」と呼ばれる。狩野永徳の作で、安土城の天守閣や城下などが詳細に描かれていたとされる。伊東マンショら4人の少年を中心に九州のキリシタン大名らが派遣した天正遣欧使節に、法王へ献上するよう託された。
1582年に出発した遣欧使節は1585年、ローマに入り、グレゴリオ13世に謁見。屏風絵を含む品々を献上したことがバチカンの記録などに残っている。しかし、法王はまもなく急死。一時はバチカンの宮殿内に掲げられたとされる屏風絵も行方不明となった。
安土城は信長が1579年、琵琶湖を望む安土山に築いた。壮大な天守閣は「天主」と呼ばれたが、本能寺の変の後に炎上。城の全容がわかる史料は見つかっておらず、構造などをめぐり説が分かれている。
屏風絵が発見されれば論争に決着がつくとの期待から、安土町は1984年にも滋賀県との合同調査団を欧州へ派遣したが、見つけられなかった。21年ぶりに復活した「絵探し」は、同町国際交流員のイタリア人女性が橋渡しとなって実現した。
63
:
とはずがたり
:2005/12/25(日) 01:28:55
西園寺 一晃
http://www.google.com/search?client=opera&rls=ja&q=%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA+%E4%B8%80%E6%99%83&sourceid=opera&ie=utf-8&oe=utf-8
64
:
安見四六郎
:2006/02/26(日) 01:01:35
うちは安居院の子孫とか・・。
言い伝えでは、安徳天皇の子守役で、壇ノ浦まで一緒に逃げたとか。
南朝に味方して没落と、ネットでは出てくるが、その辺は不明。
平氏没落の時は、いったんは許されたのか?
その後、大分県の安心院周辺に居住していたらしい。
江戸時代は、大分県の竹田藩の侍になり、幕末に長崎へ蘭学の勉強に行き、
明治維新でそのまま長崎にとどまり、子供のいなかった長崎市馬町の名主
吉岡家の養子となっている。
戦前に、やんごとない身分の人が長崎に来て、三男であった私の父が長崎を
案内したが、あちらは宮中言葉で言葉が通じなかったとか・・。
その人は、淡路島から来たと、父は言っていた。
私の考えでは、そのやんごとない身分の人は、西塔院家の人ではなかったのかと
思っている。
どなたかご教示下さい。
65
:
片言丸
◆MACDJ2.EXE
:2006/04/09(日) 01:28:45
新大関の白鵬ら 元使五人塚参拝
2006年04月08日
http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000000604080001
大相撲の大関・白鵬らモンゴル出身力士が7日、藤沢市片瀬3丁目の日蓮宗・常立(じょうりゅう)寺(永倉嘉文住職)を訪れ、鎌倉時代の元寇の際に時の執権北条時宗に殺された皇帝フビライ・ハーンの使節団の墓と伝えられる「元使(げんし)五人塚」を参拝した。
白鵬ら十数人は、藤沢市内で8日に大相撲藤沢場所が開かれるのに先立ち、常立寺を訪れた。昨年4月の藤沢場所の際にも横綱・朝青龍らが初めて墓参しており、今年で2回目。当初は朝青龍も参加する予定だったが、欠席した。モンゴルのレンツェンドー・ジグジッド駐日臨時代理大使らも霊を慰めた。
昨年に続き2度目の参拝をした白鵬は「みんなが来たので喜んでくれていると思う」と話した。
常立寺によると、寺は鎌倉時代、近くにあった龍ノ口刑場の処刑者を弔うために建立された。境内にある五人塚の主はモンゴル人の杜世忠のほか唐人と高麗人らという。
フビライは文永の役(1274年)が失敗した翌75年に杜らを派遣し、降伏を要求した。元が再度来襲することを予想し、決戦の覚悟を決めていた時宗は杜らを鎌倉に呼び寄せ、9月7日に同刑場で斬殺。遺体は同寺に埋葬されたとされる。
67
:
とはずがたり
:2006/10/11(水) 16:24:01
【日本国の歴史 行政歴史研究会】
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/rekishi.htm
【天皇代数対応表】
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/history/koushitsu/DaisuHikaku.htm
面白い。
>日本国の2600年の歴史について、日本書紀をはじめとする公式な資料を基に客観的な情報を提供しています。
2600年って所が痛いが。
弘文天皇(大友皇子)、淳仁天皇(淡路廃帝)、仲恭天皇(九条廃帝)、長慶天皇(更にそもそも南朝の取り扱い)等明治期以前の取り扱いに戻しても良い気がする。で,現朝廷は継体以来という位置づけで良い。それ以前は記紀を元にした日本史記述は色々無理が出てくる。
68
:
とはずがたり
:2006/10/28(土) 12:34:14
http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub217.htm
【鎌倉幕府の成立はいつか】
69
:
片言丸
◆MACDJ2.EXE
:2006/11/29(水) 02:27:50
立派ですねぇ。
島根県が石見銀山産の丁銀を購入
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=334887006
島根県が石見銀山産の銀で造られた「石州文禄丁銀(せきしゅうぶんろくちょうぎん)」と、「御公用丁銀(ごくようちょうぎん)」の2枚を購入した。いずれも16世紀に鋳造された完全品で希少価値が高い。石見銀山の歴史を語る「物証」の本家帰りで、来年夏に迫った世界遺産登録にもはずみがつきそうだ。
石州文禄丁銀は、豊臣秀吉が文禄の役(1592―93年)で朝鮮出兵した大名への褒美用として鋳造させたとされる銀貨。表面に「石州銀文禄二卯月日」と、石見銀山で1593(文禄2)年4月に製造されたことを示す刻印が施されている。完全品は国内で5点程度しか確認されておらず、希少価値が極めて高い。長さ14・9センチ、幅4・6センチ、重さ201・6グラムで、購入価格は1397万円。
御公用丁銀も、一部が欠けているものの完全品。1564(永禄7)―99(慶長4)年ごろに製造され、当時、石見銀山を管理していた毛利家が、朝廷や室町幕府に献上したとされる。表面には「御公用」との刻印があり、長さ15・3センチ、幅4・6センチ、重さ164・3グラム。1029万円で購入した。
丁銀は、石見銀山の世界遺産登録を目指し始めた10年前から県教委などが情報収集し、貨幣商(東京)の仲介によって手に入れた。
同県は1999年にも、石見銀で造られ現在1点しか存在しない特別鋳造の「御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)」を購入しており、来年7月から古代出雲歴史博物館(同市大社町)で開かれる「石見銀山展」で3点を併せて一般公開する。
丁銀 室町時代から江戸時代にかけて流通した板状やナマコ型の銀貨。重さも不定で160グラム前後が多い。額面は記されておらず、重量によって貨幣価値が決まる。取引の度に適度な重量に切って使用されたため、完全品が残る例は少ない。
70
:
とはずがたり
:2007/01/06(土) 19:33:41
銀閣寺、銀箔なかった
科学の目 通説裏付ける
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007010500076&genre=J1&area=K10
世界文化遺産・銀閣寺(慈照寺、京都市左京区)には銀箔(ぎんぱく)がまったく使われていないことが、お寺の初めての科学的調査で確認された。金箔が豪華に張られた金閣寺(北区)と違い、漆塗りの建物だったことで通説を裏付けたかたちとなったが、お寺は「銀箔がなくても銀閣の価値は変わらない」としている。
調査は国宝・銀閣(観音殿)の二層外壁のうち、表面のすり減り具合の顕著な部分を大規模な修理の行われた大正時代以前のものと判断。その部分から試料を採取して行われた。エックス線による元素分析とICP/MS(誘導結合プラズマ質量分析法)と呼ばれるごく微量の元素でも検出できる分析法を用いたが、銀は検出されなかった。
銀閣寺は室町幕府の足利義政(1436−90)が造営した山荘の東山殿を義政の死後、禅寺に改めて現在に至っている。銀閣はこけらぶき二層の楼閣建築で、数度の修理を経て、創建当時の姿をとどめている。
「銀閣」の通称は江戸時代以降に使われ始めたといわれる。金閣に対する呼び方、あるいは池の反射光が漆塗りの外壁に映ったことからそう呼ばれたというのが通説となっている。幕府の財政難や完成直前に義政が死去したために銀箔が張られなかったともいわれ、一部では実際に銀箔が張られていたという説もある。
今回の調査結果に、坂根孝慈執事長は「これで銀箔がなかったことが確定した。東山文化は幽玄やわびさびの美意識の枯淡美(こたんび)を基調としている。たとえ銀箔が使われていなくても、銀閣の価値はまったく変わらない」と話している。
71
:
とはずがたり
:2007/01/10(水) 00:18:48
古代だけど周防内侍ちょっちお気にっす。百人一首にも載ってる歌なんかの経緯など聞くと俺だって手枕のオファーぐらいしたくなるってものだ。
夜をかさね待ちかね山の郭公雲ゐのよそに一声ぞきく(新古205)
歌枕紀行 待兼山
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/matikane_u.html
千載和歌集 ―『定家八代抄』による抜萃 206首―
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/hatidai/senzai_s.html
二月ばかり、月のあかき夜、二条院にて人々あまた居明かして物語などし侍りけるに、内侍周防寄り臥して「枕をがな」としのびやかにいふを聞きて、大納言忠家、「是を枕に」とて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍りければよみ侍りける
周防内侍
0964 春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)にかひなく立たむ名こそ惜しけれ (0954)
といひ出だし侍りければ、返り事によめる
大納言忠家
0965 契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき (0955)
周防内侍 すおうのないし 生没年未詳(1037頃-1109以後) 本名:平仲子
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/suounai.html
父は和歌六人党の一人、従五位上周防守平棟仲。母は加賀守従五位下源正?の娘で後冷泉院女房、小馬内侍と称された人だという(後拾遺集勘物)。金葉集に歌を残す比叡山僧忠快は兄。
後冷泉天皇代に出仕を始め、治暦四年(1068)四月、天皇の崩御により退官したが、後三条天皇即位後、再出仕を請われた(後拾遺集雑一の詞書)。その後も白河・堀河朝にわたって宮仕えを続け、掌侍正五位下に至る。天仁二年(1109)頃、病のため出家し、ほどなく没したらしい。七十余歳か。
寛治七年(1093)の郁芳門院根合、嘉保元年(1094)の前関白師実家歌合、康和二年(1100)の備中守仲実女子根合、同四年の堀河院艶書合などに出詠。後拾遺集初出。勅撰入集36首。家集『周防内侍集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。
女房三十六歌仙 撰者不明
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36wk.html
小野小町 伊勢 中務 斎宮女御 右近 右大将道綱母 馬内侍 赤染衛門 和泉式部 三条院女御蔵人左近 紫式部 小式部内侍 伊勢大輔 清少納言 大弐三位 高内侍 一宮紀伊 相模 宮内卿 周防内侍 俊成卿女 待賢門院堀河 宜秋門院丹後 嘉陽門院越前 二条院讃岐 小侍従 後鳥羽院下野 弁内侍 少将内侍 殷富門院大輔 土御門院小宰相 八条院高倉 後嵯峨院中納言典侍 式乾門院御匣 藻壁門院少将
鎌倉時代中期の成立と推測される「女房三十六人歌合」によるもの。左方に小野小町から相模までを配し、右方に式子内親王から藻壁門院少将までを配して、一歌人三首ずつを合わせている。伊勢は宮内卿と、和泉式部は小侍従と、紫式部は弁内侍と対戦する、といった具合である。
72
:
とはずがたり
:2007/02/12(月) 18:11:47
母親孝行でちょいと奈良の柳生の里迄行って来た。
高校日本史選択者なら誰でも知ってる「正長元年ヨリ先ハ神戸四ヶ郷ニ負ヒ目アルヘカラス」が実は柳生にあるのを現地で知って捜して拠った。非常に判りにくい場所にあったが日本民主主義の原点としての室町時代wを高く評価する俺にとっては一寸した聖地だ。(こんな所にあるとは知らなかったのだけど(恥)富貴寺大堂@豊後も白水阿弥陀堂@磐城も近く迄行く機会があってこんな所にあったのかと思う事になったのだが・・)
柳生・大柳生・阪原・邑地の四ヶ郷は春日神社の社領地で即ち神戸であったのだそうな。いや感動である。
この書き込みは疱瘡地蔵(これもまた凄い名前だ)という地蔵が彫り込まれた巨石の脇腹に彫り込まれているのだそうな。
疱瘡(ほうそう)地蔵
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/page4.htm
http://www1.kcn.ne.jp/~yosikatu/yagyu4.htm
http://miyosida.hp.infoseek.co.jp/yagyuu/housou/housou.html
「正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニヲヰメアルヘカラス」。
実際は摩耗してしまってか全く読めません。拓でも取れば違うのかもしれませんけど。
あと山岡荘八が柳生藩の家老の屋敷を一時期所有して小説書いてたそうな。今は整備・公開されてうらさびれた観光地になっている。これは娘婿の山岡賢二@栃木4区が死後寄贈したのだそうな。
73
:
小説吉田学校読者
:2007/02/13(火) 22:53:26
こういう奇説から真実が見えるときもありますので、要注目です。
なお、私の中では、上杉謙信女性説が8割方、固まってきてる。貴城けいか瀬奈じゅんあたりに謙信やらせて大河一本打てないか。って、全然宝塚好きじゃないんだけど。
『桶狭間の戦い』で新説 信長 略奪中の敵急襲
http://www.tokyo-np.co.jp/00/gnm/20070212/lcl_____gnm_____000.shtml
戦国武将・織田信長が天下統一のきっかけをつかんだ尾張の「桶狭間の戦い」(一五六〇年)。信長の勝因は「民家の略奪行為で油断する敵を急襲したから」という新説を、県立歴史博物館(高崎市)の黒田日出男館長=東京大名誉教授=が、教授を務める立正大(東京)の「立正史学」に発表した。NHK大河ドラマ「風林火山」の種本ともいえる「甲陽軍鑑」を解読して導いた新説。この新説をテーマに三月三日、同博物館で講演する。 (菅原洋)
桶狭間の戦いは、何倍もの軍勢を率いた駿河の戦国武将・今川義元に対し、信長がいかにして勝ったかが長年論争の的になってきた。
明治時代に陸軍が出した本などがまず、信長が迂回(うかい)して近づいたとする「迂回奇襲説」を主張して定説化。この説は近年は学界で否定され、信長の伝記「信長公記」に基づいて正面から攻め込んだとする「正面攻撃説」が主流となった。両説とも、豪雨が信長に有利に働いたとの見解は共通する。
これに対し、黒田館長は信長公記よりも古く、甲斐の戦国武将・武田信玄の合戦などを伝える「甲陽軍鑑」に着目した。甲陽軍鑑はこれまで、誤記の多さから学界では史料としての価値が低くみられてきた。
しかし中世史が専門の黒田館長は、全二十数冊に及ぶ膨大な甲陽軍鑑を分析。「記憶違いはあるが、悪意のねつ造はなく、体験に基づく良質な史料」との結論に至った。
さらに、桶狭間の戦い当時は武田氏と今川氏は同盟していたため「戦いの敗因を間違えるとは考えにくく、第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とみている。
その上で、黒田館長は甲陽軍鑑に多い桶狭間の戦いに関する記述の中に「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」という意味の内容を見つけた。
こうした記述はこれまで学界でまったく無視されていた部分。黒田館長は甲陽軍鑑に関連する別の史料の中でも、桶狭間の戦いに今川方で参戦した、後の徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認。黒田館長は略奪を歴史用語で「乱取り」と呼ぶため、新説を「乱取状態急襲説」と名付けた。
黒田館長は「戦国時代に戦い後の乱取りは常識。信長公記は信長の立場に立つため、略奪に付け込んだ勝因を『みっともない』と避けたのでは」と指摘している。
講演会は既に定員を超えており、同博物館で三月三日から今回の論文を販売する予定。
<メモ>甲陽軍鑑 1573−86年に武田信玄の重臣・高坂弾正らが記し、甲州流軍学者・小幡景憲が写本を完成させた。大河ドラマ「風林火山」では主人公・山本勘助が今川家に関与する場面があり、桶狭間の戦いでは勘助が情報源の一つだった可能性もある。
75
:
荷主研究者
:2008/02/28(木) 23:55:31
http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2008/01/20080105t75021.htm
2008年01月04日金曜日 河北新報
頼朝軍との戦い解明へ 奥州藤原氏が築造・阿津賀志山防塁
3重の土塁と、その間に走る堀が確認できる阿津賀志山防塁
奥州藤原氏が源頼朝との戦いに備えて現在の福島県国見町に築いた国内最大級の「阿津賀志(あつかし)山防塁」の発掘調査に、同町教委が新年度着手する。800年以上前に造られた全長3キロの防塁は今もほぼ原形をとどめる。調査によって、奥州藤原氏の東北統治の実態や、平安から鎌倉時代に移る日本史の転換点となった阿津賀志山の戦い(1189年)の実像が解明されそうだ。
防塁は阿津賀志山の戦いの直前に完成したとされる。幅15メートルの間に二重の堀と三重の土塁を張り巡らし、阿武隈川と西側の山間部に挟まれた平野部を遮断した。藤原氏が頼朝軍の北進を止め、この地で合戦をするために築いた。
鎌倉幕府が造った元寇防塁(福岡市)に次ぐ規模で、完成まで延べ25万人が投入されたと推定されている。
調査は4年かけて、3キロの防塁のうち1.8キロほどの区間で堀の埋め土を取り除くなどして当時の姿に復元。奥州藤原氏の土木技術を調べるほか、要した作業員数を精査して周辺人口や東北支配の実態を探る。
兵士の骨などが発掘されれば、両軍の交戦場所や本営と武将の配置など戦いの様子が浮かび上がる。出土例がない奥州藤原氏方の武具が見つかる可能性もある。
防塁跡は1970年代の圃場整備で整備地域に含まれたが、町が県と交渉し対象から外した。高さ5メートルの土塁と深さ2―3メートルの堀は人が歩けるよう一部埋められたものの希少性が高く、国史跡に指定された。
町は発掘調査と復元整備を目指し80年代から防塁跡の土地買収を進めた。ここ数年、耕作を放棄する農家が増えたことから買収が進み、本格的な発掘調査が可能になった。
阿津賀志山の戦いでは10万人以上とされる頼朝軍が3日間総攻撃を仕掛けても防塁を突破できず、2万人の藤原勢に苦戦。頼朝軍は正面突破を断念して藤原勢の背後を奇襲して勝利した。この戦いで頼朝は全国統一を決定的にし、鎌倉幕府誕生につながった。
平泉研究の第一人者の入間田宣夫・東北芸術工科大教授は「奥州藤原氏の行政、軍事システムの解明などにつながれば、世界遺産登録を目指す平泉の研究にとって朗報となる。阿津賀志山の戦いは平安末期の天下分け目の戦いと言える重要な合戦だけに、実像解明を期待したい」と話した。
76
:
荷主研究者
:2008/06/30(月) 00:59:03
http://www.kahoku.co.jp/news/2008/06/20080614t15036.htm
2008年06月14日土曜日 河北新報
600メートル大路発見 平城京と類似 加美
加美町・壇の越遺跡で発掘された道路
宮城県教委は13日、奈良・平安期の役人の居住区跡とみられる加美町宮崎地区の「壇の越遺跡」と、北側にある郡役所跡「東山官衙(かんが)遺跡」との境界にある道路が、壇の越遺跡内で既に発掘されている大路と同規模だったことが分かったと発表した。
両遺跡は、陸奥国府・多賀城から出羽国に向かうルート上にある律令(りつりょう)国家の最前線基地。壇の越遺跡は都を模して、碁盤の目状に造られていたことが既に判明している。居住区と役所との境界に大規模な道路を敷くスタイルも平城京と類似しており、県教委文化財保護課は「壇の越遺跡が、平城京に似ていることがあらためて分かった」としている。
確認されたのは壇の越遺跡の北側の境界で、東西に走る道路。8世紀前半に造られ、幅4―5.6メートル、長さ600メートル以上とみられている。
東山官衙遺跡は国の史跡に指定されており、多賀城の下で郡を治めた役所とされている。東山官衙遺跡の南門から壇の越遺跡には南北に幅6メートルの大路が延び、南門から200メートル付近で今回発掘された道路と交差している。
これまでの発掘で、東山官衙遺跡と壇の越遺跡を取り囲む外郭施設の範囲が東西1.2キロ、南北1.4キロ以上であり、外周が3.1キロ以上に及ぶことも確認された。
15日午前10時半から、現地で一般を対象にした説明会が開かれる。
77
:
石垣眞人
:2008/07/29(火) 14:42:44
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.saces.live.com
にアクセスしてください。
78
:
とはずがたり
:2008/11/10(月) 11:57:33
そもそも可成りの醜男だった癖に美男子扱いされてると思ってたけどそれも怪しいのか。また今の五条大橋のある五条通は昔は六条坊門小路であって,五条大橋にある弁慶義経の像はそもそも場所的に間違いなのは有名だけど,義経記では橋の上ではなかったのか。。
>そもそもこの義経記自体が民間伝承をまとめたもので、庶民の間にあった「判官(ほうがん=義経の別称)びいき」の高まりから多くの虚構を含んでいたとされる。
基本的に義経よりも頼朝派なのは俺が長男だからかねぇ?
【もう一つの京都】検証・源義経伝説 兄頼朝との協力と確執
2008.11.9 15:04
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081109/acd0811091506003-n1.htm
生まれて間もなく父を亡くし、母の元からも引き離され一人再起の日を待った幼少時代、平家追討における超人的活躍にもかかわらず、兄との決裂で命を狙われ自害を図るその最期。鎌倉幕府の成立前夜を駆け抜けた希代の英雄、源義経の生き様は必ずといっていいほど、その「悲劇」とセットで語られる。
現代人を魅了し続ける義経の実像は謎も多い。近年批判が進んでいる鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」を除けば、歴史上確かな記述が残っているのは、25〜31歳までしかないともされる。
例えば、牛若丸時代の義経が鞍馬天狗を相手に剣術を磨き、五条大橋で華麗に舞って豪傑、武蔵坊弁慶を討ち倒す伝説。このころ五条大橋は存在せず、室町時代の物語「義経記」では2人は五条天神と清水寺で2度戦い、2度とも牛若丸が勝ったとされている。
しかも、そもそもこの義経記自体が民間伝承をまとめたもので、庶民の間にあった「判官(ほうがん=義経の別称)びいき」の高まりから多くの虚構を含んでいたとされる。
義経の容姿について成立年代が義経記より早い「平家物語」は「九郎(義経)は背は小さき男、色白で前歯が少し出ている」と伝えるが、義経記では「唐代玄宗皇帝の世なら、その妃楊貴妃というべきであり、漢の武帝のときなら、その妃李婦人かと疑われるほどの美男子」となるのだ。
◇
英雄としての人気が高く、後世に多くの伝説が作り出された義経。信頼できる史料に義経が最初に姿を現すのは、異母兄である源頼朝と初対面を果たしたとされる年の3年後の1183(寿永2)年のこと。
このころ京都では、源(木曽)義仲が平氏を都落ちさせた後、狼藉の限りを尽くしていた。義経は義仲を追討するため、頼朝の代官として上洛、歴史の表舞台に躍り出た。
当時の右大臣、九条兼実は同年10月17日、日記「玉葉(ぎょくよう)」に「源頼弟九郎(実名を知らず)、大将軍として数万の兵を率いて上洛を企てる」と書き残し、11月2日には「其替りに九郎御曹司(誰人や、尋ね聞くべし)」と記述。義経は貴族の間で突如として現れた新星であった。
翌1184(寿永3)年、宇治川の戦いで義仲を破った義経はそのまま京都に入る。その後、有名な一ノ谷の戦いや屋島・壇ノ浦の戦いにかり出され、1年余りで平氏を壊滅させる電光石火の戦績をあげる。
79
:
とはずがたり
:2008/11/10(月) 11:57:51
>>78-79
◇
京都大大学院の、元木泰雄教授(日本中世政治史)は著書「源義経」(吉川弘文館)で京都で乱暴の限りを尽くした義仲追討と平氏一門の残党を鎮圧し、都の治安を守った義経の活躍を「戦乱で退廃した京の救世主にほかならない」と評している。
入洛後の義経は平氏との最終決戦に向けた準備だけでなく、貴族と社寺の紛争解決や乱暴をはたらく武士の取り締まり、朝廷との折衝などを敏速にこなし、見事なまでの政治的手腕を発揮した。京都の武士との連携も深め、郎党らに所領を与えることで京都周辺に独自の軍事基盤を築きつつあったという。
しかし壇ノ浦の戦いで5年近くにもわたる源平合戦が終了すると、頼朝と義経の確執が顕在化。義経の経歴は没落へと突き進む。なぜ、頼朝は平氏討伐の最大の功労者である義経を死に追いやったのか。
「義経が追討の功を独占している」とした梶原景時の“讒言(ざんげん)”や、頼朝の許可無く義経が官位を受けたことなどの説があるが、元木教授は「(義経が京の)後白河と提携し、平氏の立場を継承しようとしたことに求められる」とする。
義経は京都での滞在を通じて、王権を擁護するなかでその存在感を高めた。鎌倉に鎮座した頼朝は、義経が東国ではなく西国の武士を率いて平氏追討を成し遂げたことに困惑。さらに、義経がそれまで平氏が独占していた役職、御厩司に就任したことに憤った。
東国の武士による武家政権の確立を目指した頼朝と、京都で王権と提携しようとした義経。2人の「武士のあり方」をめぐる衝突が対立の本質だったのかもしれない。
1185(文治元)年11月3日、頼朝の追討を受け、義経は1年10カ月滞在した京都を後にした。その4日後の日記に、兼実はこう記している。
「義経、大功を成し、その詮なしと雖(いえど)も、武勇と仁義とにおいては、後代の佳名をのこすものか。嘆美すべし。嘆美すべし」(森川潤)
◇
源義経 1159(平治元)年、河内源氏の当主、源義朝の九男として生まれる。母は九条院の雑仕女、常磐御前。牛若丸と名付けられ、その後稚児名を遮那王と名乗った。1180(治承4)年に兄、頼朝と対面した後平氏追討で活躍し、1185(元暦2)年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させる。しかしその後都を追われ、各地を流浪、1189(文治5)年に奥州平泉(岩手県)で自害する。享年31。
「源義経」美男説を追う
-不毛な論争を越えて-
http://www.st.rim.or.jp/~success/bi_ye.html
80
:
とはずがたり
:2009/04/09(木) 03:19:25
2009年4月8日(水)
中世の埋蔵銭、大量に出土 熊谷の諏訪木遺跡
忍城の成田氏と関係か
http://www.saitama-np.co.jp/news04/08/06x.html
熊谷市教育委員会は七日までに、同市上之の諏訪木遺跡から中世の埋蔵銭が大量に出土したと発表した。戦国時代に行田の忍城を治めた成田氏の旧館跡が近くにあることから、同教委では「成田氏に関連したものの可能性が強い」とみている。
諏訪木遺跡はこれまで六回の発掘調査が行われ、縄文晩期から近世までの住居跡などが見つかっている。今回は区画整理に伴って、三月末まで発掘を実施。二月二十四日に、古墳の堀の跡を三十センチほど掘ったところ、埋蔵銭が大量に見つかった。
銭は約百枚ごとに束にされ、それが数段重ねられていた。まだ完全に土を取り除いていないため枚数は不明だが、三千枚から五千枚はありそうだという。中国から輸入された銅銭とみられ、十一世紀末に北宋で鋳造された「紹聖元宝」などが確認されている。
市教委社会教育課によると、戦での略奪に備えて地中に保管した備蓄銭か、神仏に祈願するためにささげた埋納銭か、埋めた理由には二つの説が考えられるが、今回はどちらに当たるかは不明。
成田氏は平安時代中期から県北部に勢力を誇った武士。中世に熊谷の上之地区に館を構え、十五世紀後半に忍城に拠点を移した。その旧館の跡(現・泰蔵院)が、遺跡から五百メートルほど離れた場所にあることから、成田氏との関係を指摘している。
同市では一九七七年にも玉井地区で一万六千枚の埋蔵銭が発見されており、今回が二例目。
この埋蔵銭は江南文化財センターで五月八日まで展示されている。土曜休館。四月中のみ日曜開館。問い合わせは、同センター(TEL048・536・5062)へ。
82
:
とはずがたり
:2009/07/06(月) 11:45:41
議員板の総選挙スレで頼朝のお母んの話しになった時に実家の熱田大宮司家の出自を藤原南家と云うべき所を北家と書いてしまった。。
恥ずかしい上に南家好きとしては万死に値するわ。。_| ̄|○
83
:
とはずがたり
:2010/03/11(木) 10:47:55
結構ショックですねぇ。歴史のロマンなのに。
もう一度植えても無理なんかな?
まあまた此処に2代目か3代目植えればいいね。その内大木に育ってくれるでしょう。
鶴岡八幡宮の大イチョウ倒れる 「実朝暗殺の舞台」
http://www.asahi.com/national/update/0310/TKY201003100130.html
2010年3月10日12時47分
写真:根元から倒れた大イチョウと、おはらいをするために大石段を下りる神職=10日午前8時2分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影根元から倒れた大イチョウと、おはらいをするために大石段を下りる神職=10日午前8時2分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/nihonshi/TKY201003100137.jpg
写真:倒れた大イチョウの根元の直径を測る消防職員=10日午前7時49分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影倒れた大イチョウの根元の直径を測る消防職員=10日午前7時49分、神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の鶴岡八幡宮、山元一郎撮影
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/nihonshi/TKY201003100136.jpg
写真:鶴岡八幡宮のシンボルとして、参拝者に親しまれていた大イチョウ=2004年10月鶴岡八幡宮のシンボルとして、参拝者に親しまれていた大イチョウ=2004年10月
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/nihonshi/TKY201003100246.jpg
鶴岡八幡宮(吉田茂穂宮司)のご神木とされる大イチョウは10日午前4時40分ごろ、根元から倒れているのが見つかった。けが人などはなかった。
大イチョウは1219年、鎌倉幕府の3代目将軍源実朝が八幡宮の参拝を終えたところ、この木に隠れていた公暁(くぎょう)が暗殺したとされる伝説から「隠れ銀杏(いちょう)」とも呼ばれる。800〜1千年余りの樹齢とみられ、鎌倉時代に体を隠せる大樹なら現在の木は2代目という説もある。
鶴岡八幡宮によると、同4時15分ごろから、詰め所で警備員が5分おきぐらいに「ドンドン」という音を聞いていた。同40分ごろに、雷が落ちるような大きな音がしたため外に出たところ、大石段そばの大イチョウが根元から南側に倒れていたという。鎌倉市消防本部によると、当時は雨はあがっていたが、平均7〜8メートルの北風が吹いていた。
大イチョウは根元部分が空洞のようになっていた。八幡宮によると、これまで台風で枝折れしたことなどがあるだけで大きな被害はなかった。今年は2月に雨が多く地盤が緩んでいたという。神職の一人は「関東大震災にも耐えたのに……」と絶句していた。
現場には神職や氏子らが次々に訪れ、おはらいや感謝をささげる神事をした。大学の樹木の専門家にも連絡し、植え直しも含めて今後の対応を検討する。
この日朝に訪れた同県茅ケ崎市の主婦倉本須美子さん(67)は「40年前に広島から嫁いで、節目には木の前で両親らと記念写真を撮ってきた。木は人生と重なるが、倒れてしまったのはさみしい」と話した。
84
:
荷主研究者
:2010/03/14(日) 16:00:53
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100311000168&genre=M2&area=K00
2010年03月11日(木)Kyoto Shimbun
「幻の九重塔」 基礎見つかる 京都市動物園の法勝寺跡
九重塔の基礎部分が見つかった試掘現場(京都市左京区岡崎・市動物園)=京都市提供
平安後期に白河天皇が建立し、当時の平安京で最大の高さ81メートルとされる法勝寺の八角九重塔の基礎部分が、京都市の試掘調査により市動物園(左京区岡崎)で11日までに見つかった。平安京のシンボルだったとされる九重塔の全容が明らかになる可能性があり、市は4月以降に本格的な発掘調査を行う。
動物園の改装工事に伴い、市が昨年12月から園内の28地点を試掘した。その結果、猛獣舎(撤去済み)の北側で、地下2メートルまで掘り下げられた塔の基礎部分が見つかった。八角形の塔の基礎部分は、一辺が12・5メートルだったことも分かった。
市文化財保護課によると、通常の基礎工事で使われる石より大きい直径70センチほどの石を詰め、粘土で固めて地盤を改良しており「非常に大掛かりな工事だったとみられる」という。試掘場所は塔の南辺で、同課は塔の中心位置は現在の観覧車付近と推測している。
九重塔は、室町時代に法勝寺が失われて以後も基壇部分だけが地上に残り、戦前は動物園の休憩所になっていた。戦後、進駐軍によって地表部が削られ、その後正確な位置が特定できていなかった。
市は遺跡に影響しないよう改装工事の工法などを一部変更する。
京都産業大の鈴木久男教授(歴史考古学)は「法勝寺は院政期の大規模な建物造営の始まりとして重要な遺跡。塔の全容解明が期待される」と話す。
85
:
荷主研究者
:2010/03/14(日) 17:11:31
http://www.ibaraki-np.co.jp/main/weekly16.htm
2010年3月10日 茨城新聞
古河・川戸台遺跡 大量の製鉄鋳型や鉄滓 「国内最大級の可能性」
古河市教育委員会は9日、同市牧野地の川戸台遺跡で、奈良から平安時代前期にかけて操業したとみられる製鉄遺跡から、廃棄された大量の鋳型や鉄滓(てつさい)を確認したと発表した。わずか440平方メートルの調査区域から大量に見つかった。調査に携わった製鉄遺跡研究会の穴澤義功代表は「国内最大級とされる福島県南相馬市の金沢製鉄遺跡群に匹敵する可能性がある」と話している。
川戸台遺跡は、砂鉄から鉄を取りだした残りかすの鉄滓が出土する遺跡として以前から知られていた。
今回発見されたのは、鍋などの鉄製品を生産する際に廃棄された鋳型、溶解炉の炉壁の破片、鉄滓など。昨年10月から12月までの第1次調査で約5・5トンを確認した。炉の遺構は未発見だが、8世紀後半から9世紀初頭に鋳造していたと推測される。現場からは鋳型に使用する粘土を掘った採掘坑も見つかった。
市教委などによると、狭い範囲で鋳型や鉄滓が大量に発見される例はまれで、調査区域全体で50トンほどの量とみられる。
穴澤代表によると、川戸台は鉄鍋に特化して大量生産していたという。穴澤代表は「操業当初は蝦夷征討に派遣される兵士用に鍋を東日本全域に供給し、後半は寺院や貴族の有力者向けに鉄製の仏具などを造っていた」と推測する。
現場からは器の脚部に使用する獣脚(じゅうきゃく)や、釣り鐘の龍頭(りゅうず)用とみられる鋳型も見つかった。
市教委は13日午前10時半と同午後1時半に現地説明会を開く。問い合わせは市教委TEL0280(22)5111。
川戸台遺跡の発掘現場から見つかった炉壁の破片=古河市牧野地
86
:
荷主研究者
:2010/03/30(火) 23:28:48
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/03/20100322t15015.htm
2010年03月22日月曜日 河北新報
仙台藩重臣・遠藤家の古文書 鎌倉期史料を確認 白石
遠藤家文書に含まれていた史料
白石市の民家で発見された仙台藩重臣の一族「遠藤家」の古文書約6000点の中に、鎌倉時代や室町時代の貴重な史料が複数あったことが白石市教委の調査で分かった。
史料は鎌倉時代末期の1326年に大覚寺統の荘園で起きた係争が記された文書や、1400年代に室町幕府の4〜8代将軍が京都・嵯峨の寺院に発行した土地の権利書など。
いずれも江戸時代に遠藤家の当主が京都で入手したとみられるが、原本なのか、写しなのかは確認できていない。
調査に協力している柳原敏昭東北大准教授(中世史)は「戦国時代以前の文書が見つかること自体珍しい。新出の史料である可能性もある」と話す。
古文書からは、新たに伊達政宗直筆の書状も見つかった。遠藤家4代当主の後見人遠藤親信に江戸城の石垣普請をめぐって指示を出している。
古文書は白石市に住んでいる子孫が保管し、2009年に市教委に寄託した。市教委は20、21の両日、NPO法人宮城歴史資料保全ネットワークと白石古文書の会の協力を得て整理作業を行い、史料を見つけた。
整理作業は09年9月にも行われ、東北の戦国大名が遠藤家初代当主の基信にあてた書状約50点などが確認された。
87
:
荷主研究者
:2010/04/25(日) 02:51:01
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100414000081&genre=J1&area=K00
2010年04月14日(水)Kyoto Shimbun
「不開門」670年ぶり?開く 東寺、尊氏が難逃れて以来か
ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/P20100414000081.jpg
解体修理のため開かれた「東大門」(14日午前10時18分、京都市南区・東寺)
670年間開いたことがないと伝わり「不開門(あかずのもん)」と呼ばれる京都市南区の東寺(教王護国寺)の東大門(ひがしだいもん)(重文)が14日、開門された。400年ぶりの解体修理に伴う法要の一環で、関係者は歴史的な瞬間に見入った。
■解体修理に伴う法要の一環
鎌倉時代前期の建久年間に文覚上人によって建てられたとされる。1336(建武3)年、足利尊氏が新田義貞の率いる官軍に攻められた際、東寺に陣を敷き、門を閉めて難を逃れたと言われる。
東寺によれば、大風や大地震などで門が開いたことはあるが、人の手で開けるのは、そのとき以来という。工事関係者が「自ら開けるのは恐れ多い」と話したため、法要を営むことになった。
午前10時から東寺や京都府、工事関係者ら約30人が出席して法要が営まれた。その後、工事関係者3人の手でかんぬきが外され、きしんだ音とともに門が開いた。
88
:
荷主研究者
:2010/08/12(木) 18:52:24
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010072811273756/
2010年7/28 14:00 山陽新聞
赤磐の畑から銅銭ざっくざく 代々「宝が埋まっている」伝わる
出土した備前薬つぼと、つぼの中から取り出した銅銭の一部
畑の中から“お宝”ザックザク―。赤磐市石の農業青山邦芳さん(55)方近くの畑から28日までに、室町時代の銅銭約6000枚入りのつぼが見つかった。
青山さんが18日、重機で畑ののり面を掘削中、銅銭がぎっしり詰まった備前焼のつぼ(高さ30センチ、最大胴径24・8センチ)を見つけた。同市教委は「唐時代の開元通宝など中国大陸からの輸入銭が大半。地方集落の貨幣流通を知る上で貴重な資料」としている。
青山さん方では代々、この畑に宝物が埋まっているという言い伝えがあったという。青山さんは「突然、つぼが出てきたので驚いたが感動した。銅銭は市教委に寄付したい」と話している。
同市教委によると、つぼは完形品で、16世紀前半の製作。戦乱や天災への備蓄や地鎮のため、地中に埋めたとみられる。大量の銅銭が入ったつぼは、県内では過去に美作市、備前、勝央町でも見つかっている。
89
:
荷主研究者
:2010/08/29(日) 12:17:06
http://www.jomo-news.co.jp/news/a/2010/08/18/news01.htm
2010年8月18日(水) AM 07:11 上毛新聞
●安中で尊氏側近の書状発見
足利尊氏の執事、高師直が讃岐の守護にあてた書状
南北朝時代に室町幕府を開いた足利尊氏の下で執事を務めた高師直(こうのもろなお、生年不詳〜1351年)の書状が安中市の旧家で見つかり、市教委に寄託されていたことが17日までに分かった。尊氏が北朝の光明天皇に征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した1338(暦応元)年の前年、四国の守護に指令を出したもの。安中市教委主事で学芸員の佐野享介さんによると、37年には後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、すでに幕府側に実権が移っていたことを示す貴重な史料という。
書状のあて先は讃岐(現在の香川県)の守護、細川顕氏(あきうじ)(生年不詳〜1352年)。京都の寺院、浄金剛院が讃岐国大内郡与田下村郷(現在の東かがわ市)に領有していた荘園で、木村五郎という人物が乱暴しているのを止めるよう命じている。
安中市教委によると、書状の最後に記された師直の花押が、過去に見つかった同時代の師直の花押と一致。筆跡も師直の右筆(ゆうひつ=書記官)と似ており、紙質からも南北朝時代のものと判断できるという。
この書状を写したとみられる文書が「讃州府志」という歴史書に載っているが出典は示されておらず、原本の所在は分かっていなかった。写しでは「木村五郎」の記述が異なっているが、「讃州府志」の記述は誤りが多いことが「香川県史」で指摘されているという。
木村五郎は古くから讃岐にいた有力者か土豪と考えられる。高師直は南北朝の動乱で主に軍事面で活躍。室町幕府成立後、足利尊氏の弟、直義と対立し、殺された。
書状は顕氏のもとか、浄金剛院で保管されていたと考えられるが、安中市の旧家にわたった経緯は分からない。
書状が見つかった旧家は江戸時代、薬などを安中藩に調達した商人で、現在も薬局を営んでいる。当主の男性は「質店も営んでいた祖先が、かなりの目利きで、貴重な史料を集めたらしい。歴史研究に役立てるのなら光栄なこと」と話している。
書状は安中市学習の森ふるさと学習館で10月22日から来年1月30日まで開かれる企画展「西上州の中世」で公開される。
93
:
荷主研究者
:2011/11/26(土) 15:08:04
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201110310016.html
'11/10/31 中国新聞
草戸千軒遺跡展始まる 福山
福山市の芦田川の中州に現れた中世の集落跡、草戸千軒町遺跡の発掘調査開始50年を記念する展示会が30日、同市西町の広島県立歴史博物館で始まった。13〜16世紀に栄えた港町の営みを語る出土品と調査研究の歩みを伝える。12月4日まで。
明王院ふもとの川底で1961年8月、福山市教委が最初の発掘調査に着手した。県や国も参加し、現在までに100万点以上が出土し、同博物館に収蔵されている。
2004年に国重要文化財になった陶磁器や木簡をはじめ、古文書、調査器具など約100点を展示する。1次調査で出土した土器の破片や調査員が履いたゴム草履も並ぶ。
初日は解説会があり、鈴木康之主任学芸員が、金融業者の存在を物語る木簡や、町で焼かれていた土器の変遷を紹介。「従来の中世のイメージを転換させた功績は大きい」と調査の意義を語った。
11月3日午後2時から、発掘に携わった研究者が意見交換する記念セミナーがある。入館料は一般290円、大学生210円、高校生以下は無料。月曜日休館。
【写真説明】出土した備前焼のかめなどを見学する来場者
94
:
荷主研究者
:2011/12/26(月) 00:56:06
http://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/news/2011/11/25/new1111251602.htm
2011/11/25 16:08 デーリー東北
南部氏・津軽氏系図の独自考察本を出版
久慈市の歯科医師で九戸歴史民俗の会(酒井久男会長)会員の岩城大介さん(43)が、郷土の歴史をつづった「南部氏・津軽氏系図の『?』と『!』」を出版した。1539年の三戸城放火による焼失で現在、信頼の置けるものがないという南部氏の系図を独自に構築し、出自に謎の多いという津軽為信公についても考察を加えた。
2001年に出版した「中世武家家系図の仮説的再構築」に続く2作目となる。
前作でも南部氏について考察していたが、新たな史料や記録を入手。あらためて初代光行公から江戸時代直前までの南部氏と一族の系図を検討した。
光行公に関しては、1189年の源頼朝の奥州合戦に従軍し、恩賞として奥州糠部(現在の青森県から岩手県にまたがる地域)の地を与えられた―というのが通説。
岩城さんは多くの系譜集などを基に「光行の糠部拝領説は江戸時代中期以降に偽作された」と指摘した。1322年の「津軽安藤の乱」に、南部氏の一族とみられる長(なが)継(つぐ)が動員されたのが、南部氏の糠部定着の発端だったとの説を採る。
初代津軽藩主の為信公の出自については、「津軽系図」などで「金(こん)」姓と記されていることに着目。
▽久慈地方を治めていた、安部氏の流れをくむ久慈氏と金氏の間に姻戚関係がある▽為信公が家紋として定めた「卍」紋を使う金氏が存在する―ことなどを理由として「為信もこの(金氏の)末裔(まつえい)であったのでは」と、久慈との関わりを示唆した。
岩城さんは「歴史は多面体で、光の当て方によりさまざまな姿を見せる。自分なりの研究結果を出したつもりで、本来の郷土史像を描く一助になれば。今後も検討は続けたい」と意欲を示した。
久慈市や八戸市、青森市などの主な書店で購入できる。価格は1800円。
問い合わせは久慈市のヘイハン印刷=電話0194(55)3811=へ。
【写真説明】「南部氏・津軽氏系図の『?』と『!』」を手にする岩城大介さん
95
:
栃木都民
:2011/12/26(月) 11:05:20
>>85
牧野地には香取神社があり、武神を祭った氏族が居住していたと思われますから、製鉄をしていても不思議はないですね。
すぐ西側を流れる渡良瀬川の砂鉄や海運を利用できたでしょうから。
96
:
名無しさん
:2012/01/18(水) 07:38:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120118-00000008-mai-soci
<斎宮跡>出土土師器の破片にいろは歌 平仮名としては最古
毎日新聞 1月18日(水)5時0分配信
拡大写真
土師器に書かれたいろは歌(内側)=斎宮歴史博物館提供
三重県立斎宮歴史博物館は17日、同県明和町の国史跡「斎宮跡」から出土した平安時代後期(11世紀末から12世紀前半)の土師器(はじき)の破片に、平仮名としては最古のいろは歌が書かれていたと発表した。博物館は「平仮名をいろは歌で習う王朝文化が、いち早く伝わっていたことを示す貴重な資料だ」と説明している。
博物館によると、10年6月から11月までの調査で、皿型の土師器の破片を4個発掘。つなぎ合わせると縦6.7センチ、横4.3センチになり、内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と墨で書かれていた。従来は、岩手県平泉町で出土した12世紀後半の木簡に書かれたいろは歌が、平仮名としては最古だった。
斎宮は、飛鳥時代から南北朝時代にかけて、天皇に代わり伊勢神宮に仕えた皇女「斎王」の住居を中心とし、斎王に使える女官や役人などが住んでいた。当時は、不要になった土器を使って文字を習う風習があったらしい。
筆跡が繊細で、一般的な土器の両面にまで書かれていることから、博物館は地元の女官が平仮名を覚えるために書いたと推測。「比較的身分の低い女官にまで幅広く文化が広まっていたことを示す発見だ」と話している。21日から3月11日まで、破片を公開する。【駒木智一】
★いろは歌 文字を覚えるための手習い歌の一つで、七五調になっている。10世紀末から11世紀中ごろに成立したと考えられる。平仮名のいろは歌が書かれた出土例は、平泉町を合わせ計7例あるが、土器に書かれていたのは今回が初めて。
97
:
とはずがたり
:2013/02/18(月) 23:46:51
<細川政権崩壊から三好政権>
細川政元迄は辛うじて細川管領体制が中央政府を体現していた印象だけど,それ以降は周防の大内氏や備前の浦上氏の支援を受けた細川高国政権(ながら阿波衆との対立を収拾できず),阿波政権的な堺公方体制(結局細川晴元と三好氏との対立)を経て細川政権が崩壊,阿波や四国水軍を背景とする三好政権へ移行する形となる。結局三好政権も長慶死後,三好三人衆と松永久秀の内訌の中で尾張の織田信長の上洛を許すことになる。wikiより纏めてみる。
【細川政元政権→内衆政権→阿波衆政権→細川高国政権へ】
1507年(永正4年) 細川政元暗殺(細川殿の変)→細川澄元(九条家)+内衆(薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七ら)→細川澄元(阿波家)+細川高国(野洲家)→細川澄元+三好之長(専横)
1508年 足利義澄+細川澄元+三好之長→足利義尹(義材、後の義稙・将軍)+細川高国(管領)+大内義興(管領代)+畿内国人→両細川の乱
1511年 足利義澄歿・澄元阿波に撤退で一旦終息,高国政権小康す
1517年 三好之長淡路へ侵攻 1518年 大内義興山口へ帰国
1519年 細川澄元+三好之長,摂津国兵庫に上陸
1520年 劣勢の細川高国を見限って将軍足利義殖,細川澄元へ内通,細川高国は一旦近江坂本へ逃げるも反撃し,三好之長を殺害,細川澄元を追放・澄元は阿波で病死。
1521年 高国,澄元に内通の義殖を赤松重臣浦上氏に預け殺害,足利義晴を12代将軍として擁立,高国政権続行。
1526年(大永6年) 細川尹賢の讒言により、高国が香西元盛を謀殺,理不尽に怒った元盛の兄・波多野稙通・柳本賢治ら近畿国人勢力+阿波の細川晴元(澄元の子)+三好元長(之長の孫)が挙兵,高国政権の終わりの始まり。
【堺公方(足利義維+細川晴元+三好元長(阿波衆)+摂津衆)→将軍足利義晴+管領細川晴元】
1527年 高国・尹賢は京に侵攻した波多野稙通・柳本賢治らに敗れ将軍義晴を擁して近江坂本に逃亡(室町幕府の政治機構は実質的に崩壊)。前将軍義稙の養子・足利義維(義晴の弟)を擁する晴元・元長は堺に進出し堺公方として京の支配を行う。足利義維(堺公方)+細川晴元+三好元長(雲海)+柳本賢治・茨木長隆ら摂津の有力国人衆
1528年 細川尹賢、晴元方に寝返る。
1530年 三好海雲が柳本賢治と山城守護代を巡って争うも柳本賢治死去。その間隙を縫って細川高国+浦上村宗反撃。
1531年 大物崩れ(高国自害・浦上村宗も討死),細川尹賢も木沢長政に殺害される。
1532年 高国を葬り去った晴元はなんと堺公方を棄てて将軍義晴との和睦に動く。三好元長+畠山義堯と細川晴元+三好政長+木沢長政(元は畠山家臣)の対立→木沢が来援を要請した一向一揆が三好元長,畠山義堯及び堺公方そのものを一掃。
1534年 三好元長の遺児である長慶を木沢が晴元の家臣に組み入れる→三好長慶や摂津の有力国人である池田信正(久宗)が台頭
1542年 木沢が細川・三好・遊佐(畠山被官)連合軍に敗れ討ち死
1543年 細川尹賢の息子で高国の養子の氏綱が晴元に対して挙兵。足利義晴+細川氏綱+旧高国や木沢の残党など畿内勢力。
1548年 長慶は遊佐長教と和睦してその娘を正室に迎え、同時に細川氏綱を擁立して晴元に反旗を翻した。
98
:
とはずがたり
:2013/02/18(月) 23:47:28
>>97-98
【三好政権の成立】
1549年 三好長慶が江口の戦いで細川晴元(三宅城)・三好政長(江口城)・三好政勝(榎並城)を撃破(晴元は、13代将軍足利義輝と大御所足利義晴を連れて近江坂本へ逃れ細川政権は崩壊)
1552年 長慶に奉じられ上洛した氏綱が管領に。細川氏綱(管領-1563.最後の管領)+三好長慶
1553年 反撃を試みた義輝を近江朽木へ追いやり三好氏は畿内の実力者として絶頂を極めたものの将軍は義輝が近江朽木に居たままで以降も断続的に六角氏や畠山氏の攻撃を受け京都支配は一向に安定せず。
1558年 将軍足利義輝と近江守護六角義賢の攻撃を受けて和睦し将軍義輝と管領氏綱を傀儡に三好長慶は幕府相伴衆に列するに至ったが,これにより三好氏は義輝の臣下として幕府政治機構に組み込まる事となる。→以降,義輝は合戦の調停等行う等将軍の権威昂揚を図る。長慶も幕府機構を利用して実権を揮う形を採る。
1561年 長慶の弟で「鬼十河」と呼ばれた三好軍の勇将・十河一存が急死。三好政権の実権は家老で婿の松永久秀が握ってゆく。
1562年 長慶の弟・三好義賢が畠山高政との戦いで戦死する。
1563年 長慶の嫡男・三好義興が死去。
1564年 無実の弟・安宅冬康を誅殺し,その無実を知った長慶自身も失意の内に没。一方で将軍義輝は63年の管領細川氏綱死去以降も管領を置かず,三好氏を使って敵対していた政所執事の伊勢貞孝を敗死に追い込み、新たな政所執事に義輝の義従兄弟にあたる摂津晴門を起用し政所を掌握。将軍足利義輝は長慶の死を好機と見て、かねてから親密な関係にあった上杉謙信・武田信玄・朝倉義景など諸大名に上洛を呼びかけ、幕府再興を目指して積極的な活動を行なうようになった
1565年 5月,三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝が京都二条御所に襲撃され討死すると云う永禄の変が発生。新たな将軍には義輝の従弟でかつての堺公方であった足利義維の子である足利義栄を阿波から摂津の普門寺城に迎え14代将軍として擁立するも直ぐに松永と三好三人衆は対立,内紛に。
1568年 織田信長が義輝の弟義昭を奉じて上洛すると,三好三人衆は六角義賢に管領職を与えて対抗しようとするも六角氏は敗れ三好衆は敗走,松永は織田の軍門に下る(後に叛乱)。義昭が第15代足利将軍に就任し織豊政権が誕生。
99
:
とはずがたり
:2013/04/08(月) 19:57:08
面白い♪
三好長慶伝 〜不完全な天下人〜
http://ncode.syosetu.com/n0310h/
100
:
荷主研究者
:2013/05/29(水) 23:06:36
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20130511/CK2013051102000005.html
2013年5月11日 中日新聞
黒田官兵衛の参戦示す文書発見 秀吉の重臣
黒田官兵衛が賤ケ岳合戦に参戦していたことを証明する羽柴秀吉の文書(長浜城歴史博物館提供)
長浜市北部を舞台に、羽柴(後の豊臣)秀吉と柴田勝家が争った賤ケ岳合戦に、秀吉の重臣黒田官兵衛(一五四六〜一六〇四年)が参戦したことが分かる文書を長浜城歴史博物館が発見した。十一日から六月二日まで、同博物館で展示する。
官兵衛の参戦は、江戸時代に編さんされた「黒田家譜」に後年の伝聞として載っているが、合戦当時の資料は見つかっていなかった。
文書は、長浜城にいた秀吉が戦場前線にいる弟秀長に宛てた三箇条の指示書。二箇条目に、秀吉軍の堀秀政が守るとりで周辺の小屋を、「将右衛門くみの衆、官兵衛くみの衆、隼人くみの衆」が協力して壊すよう指示があり、官兵衛の参戦が読み取れる。
同博物館の太田浩司副館長によると、前線に送り込んだ軍勢の広い待機場所が必要で、小屋を壊そうとしたらしい。
とりで周辺の現地調査で、兵隊用の小屋の存在が指摘されており、文献で裏付けられた。賤ケ岳合戦で秀吉が指示した戦略上の文書の発見は二例目となる。文書は京都市の古美術商から長浜市が購入した。
戦国史研究が専門の静岡大名誉教授小和田哲男さんは「二次資料でしか確認できなかった官兵衛の参戦が確実となったことは、大変貴重な発見」と評価する。
(塚田真裕)
<黒田官兵衛>現在の兵庫県姫路市生まれ。軍略にたけ、豊臣秀吉の信頼が厚かった。黒田家の発祥地、長浜市木之本町黒田では、官兵衛が出家後に名乗った如水にちなんで特産の太秋(たいしゅう)柿「黒田の如水柿」を生産する。来年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の放映を控え、戦国ファンらの関心を集める武将。
101
:
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:2013/10/26(土) 16:11:22
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102
:
とはずがたり
:2013/12/18(水) 12:15:10
すげえ。治天の君をした女院がいたのか。
西園寺寧子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AF%A7%E5%AD%90
生涯
前半生
正応5年(1292年)、従一位左大臣西園寺公衡と従一位藤原兼子の間に出生した。母兼子は藤原氏の下級貴族の出自だったが、父公衡の西園寺家は代々朝廷・鎌倉幕府間の連絡調整を担当する関東申次の要職を継承しており、公衡も関東申次として朝廷政務の枢要に当たっていた。当時、朝廷は持明院統と大覚寺統の両統が交互に政務を担当する両統迭立の状態にあったが、西園寺家は両統双方と姻戚関係を結んでいた。
乾元元年(1302年)、寧子は持明院統御所(富小路殿)で着袴の儀を執り行い、将来の持明院統への入内がほぼ約束された。そして、嘉元4年(1306年)4月、寧子は女御として持明院統の後伏見上皇の後宮に入った。
延慶元年(1308年)に後伏見上皇は弟の富仁親王を猶子とした上で、花園天皇として即位させた。翌延慶2年(1309年)正月、寧子は花園天皇の准母とされ、従三位に叙せられると共に、准三后及び院号(広義門院)の宣下を受けた。これにより寧子は国母待遇となり、後伏見上皇の本后の地位を得た(以下、本項では寧子を広義門院と呼ぶ)。広義門院はその後、後伏見上皇との間に量仁親王(後の光厳天皇、正和2年(1313年)出生)と豊仁親王(後の光明天皇、元亨元年(1321年)出生)をもうけた。
花園天皇の後に大覚寺統の後醍醐天皇が即位したが、後醍醐天皇は元弘元年/元徳3年(1331年)に倒幕計画の発覚により退位させられ(元弘の変)、量仁親王が光厳天皇として即位した。これにより後伏見上皇は治天の君となり、広義門院は名実備えた国母となった。しかし、その栄光も長くは続かず、元弘3年/正慶2年(1333年)には後醍醐側勢力が巻き返すと鎌倉幕府はあえなく滅亡し、後伏見上皇と光厳天皇もまた後醍醐天皇によってすぐに廃立された。
建武2年(1335年)、広義門院の甥西園寺公宗が後醍醐天皇を廃し、後伏見院政を復活して持明院統を再興する計画を立てたが、失敗に終わった。そして翌建武3年(1336年)、後伏見上皇が没したため、広義門院は出家した。その数か月後、またも世の形勢は変転し、後醍醐側勢力を打ち破った足利尊氏は光厳上皇を治天の君として迎えいれ、光厳院政が開始することとなった。広義門院は光厳上皇の実母として再び栄光を取り戻した。広義門院は故後伏見上皇の菩提を弔うため、延元4年/暦応2年(1339年)、洛南の伏見離宮に大光明寺を創建している。
治天の君となる
ところが観応年間を中心とする観応の擾乱によって、広義門院は再度浮沈を味わうこととなる。正平6年/観応2年(1351年)10月、尊氏を中心とする室町幕府勢力は足利直義との対抗上の必要から南朝と講和し、結果として光厳院政及び光厳の子崇光天皇の皇位がともに廃されることとなった(正平一統)。これを好機ととらえた南朝側は、翌正平7年/観応3年(1352年)閏2月、尊氏の嫡男・足利義詮率いる幕府軍を破って一気に京都へ進入した。南朝側は北朝の断絶を図って、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇及び前皇太子・直仁親王と北朝側の全上皇と皇位継承者を拉致し、大和賀名生へと連れ去った。
103
:
とはずがたり
:2013/12/18(水) 12:15:33
>>102-103
これにより北朝・幕府側には政務の中心たるべき治天の君・天皇が不在となり、全ての政務・人事・儀式・祭事が停滞することとなった。この停滞の影響は甚大で、公家・武家ともに政治機能不全に陥ってしまった。南朝に対する上皇・親王返還交渉が難航する一方で、光厳上皇の皇子、弥仁王が南朝に拉致されず京都に留まっていることも判明していた。南朝との交渉が決裂した時点で、弥仁王が天皇となることは決定した。その皇位継承に当たり、当時の先例では、神器がなくとも最低限、治天の君による伝国詔宣が必要とされていた。しかし、詔宣すべき上皇の不在が最大の課題となっていた。
この窮地を打開するため、在京であり光厳・光明・崇光の直系尊属である広義門院が上皇の代理として伝国詔宣を行う案が立てられた。同年6月3日、幕府を代表した佐々木道誉が勧修寺経顕を通して広義門院へ上皇の代理を申し入れたが、広義門院は三上皇・親王の拉致に全くなすすべなかった幕府及び公家達に強い不信感をあらわにし、義詮の申し出を完全に拒否した。広義門院の受諾を得るほかに解決策が皆無の幕府は、広義門院へ懇願を重ね、6月19日にようやく承諾を取り付けるに至った。
広義門院が上皇の役割を代行することは、事実上、広義門院が治天の君として院政を開始することを意味していた。実際、6月19日以降、政務・人事に関する広義門院の令旨が出され始めており、6月27日には「官位等を正平一統以前の状態に復旧する」内容の広義門院令旨(天下一同法)が発令され、この令旨により、それまで停滞していた政務・人事・儀式などが全て動き始めることとなった。弥仁王も同年8月に無事践祚を終え後光厳天皇となった。南朝は、上皇ら拉致により北朝・幕府側を回復不能の窮状へ追い込み、圧倒的な優位に立ったはずだったが、広義門院の政務受諾によりその優位性をほぼ完全に失ってしまったのである。
その後、広義門院は皇位継承・人事・荘園処分・儀礼など様々な政務に対し精力的に取り組み、治天の君としての役割を十分に果たした。正平8年/文和2年(1353年)に後光厳へ政務権を継承した後も北朝家督者として君臨し続け、正平12年/延文2年(1357年)に66歳で没した。
評価
歴史家の今谷明は、広義門院による政務就任は公家ではなく幕府からの発案だったとの見解を提示している。中世当時、夫を亡くした妻がその家督を継ぐという後家家督慣行が武士の間に広く見られた。この慣行は公家社会には観察されないため、武家社会の慣行が治天広義門院の登場に影響したとしている。
また南北朝時代の頃から、荘園公領制を支えていた職の体系が動揺し始めており、それまで職(しき)の継承は世襲による場合が多かったのに対し、職が金銭で売買されたり、必ずしも世襲によらなくなるなど、職の遷代と呼ばれる現象が起きつつあった。治天広義門院の登場についても、天皇・治天という職が遷代化し始めたものとする見解があり、後の足利義満による皇位簒奪未遂へつながっていったとしている。
なお、彼女以後持明院統および北朝系の天皇において正配(皇后・中宮・女御)の冊立が行われなくなる。正配が復活するのは、女御は後陽成天皇の女御になった近衛前子、皇后(中宮)は後水尾天皇の女御から中宮になった徳川和子まで下ることになり、いずれも彼女の没後200年以上も後のことになる。
104
:
とはずがたり
:2013/12/18(水) 17:08:19
後宇多天皇が嫡男の後二条天皇系に大覚寺統の皇統を続けようと思いながら自ら院政を停止し後二条天皇の弟に当たる後醍醐天皇親政を開始させ,結局,後醍醐天皇が両統迭立の枠内にある後宇多系大覚寺統・持明院統・鎌倉幕府を相手に叛乱を起こし,更には鎌倉幕府を倒すに至るのであるが,後宇多院の院政停止は一つの歴史の謎のようである。それに関して調べてて引っ掛かった本。面白そうである。
院政とは何だったか: 「権門体制論」を見直す
著者: 岡野友彦
http://books.google.co.jp/books?id=0VEsQrmHucYC&pg=PT109&lpg=PT109&dq=%E9%99%A2%E6%94%BF%E5%81%9C%E6%AD%A2&source=bl&ots=L4BV5IBPLX&sig=XL09eCpzkjOhwgPU0IuatmzDPPQ&hl=ja&sa=X&ei=glaxUvm7BofTkwXbv4CAAQ&ved=0CF4Q6AEwBQ
#v=onepage&q=%E9%99%A2%E6%94%BF%E5%81%9C%E6%AD%A2&f=false
105
:
とはずがたり
:2013/12/18(水) 17:10:05
そういえば昔,広義門院が院政担当したと云うのを目にした記憶があるな。
当時の認識では天皇擁立の為,伝国詔宣を出すために必要だったという所まで知らなかった様な気がする。
106
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 14:33:39
<赤松・小寺・浦上①>
小寺氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kodera_k.html
(嘉吉の乱後)赤松氏に代わって播磨国守護職は山名持豊が補任され、土屋越前守熙俊が守護代として諸政にあたった。その後、赤松氏再興の動きがあったが、ことごとく山名氏によって潰され、遺臣は逼塞を余儀なくされた。
(小寺伊賀守)職治の子藤兵衛豊職は赤松遺臣団の中心となり、満祐の弟義雅の孫赤松政則をもりたてて赤松氏の再興に尽力した。南朝の神璽奪回を目論んだ豊職らは、小河兵庫助・上月満吉らとともに、南朝に偽って 帰参して神璽の奪還を策した。そして、長禄二年(1458)八月、尊雅王を十津川に弑すると神璽を奪い、赤松家再興を成し遂げたのであった。
この功により幕府は赤松氏の再興を許し、当時五歳の赤松政則が赤松家の当主となった。政則は加賀半国の守護に補任され、小寺豊職は浦上則宗らとともに幼い政則を守り立てた。
応仁元年(1467)、応仁の乱が起ると赤松政則は東軍に属して播磨の回復を狙った。とはいえ、政則は十二歳の少年であり、赤松軍の中核となったのは浦上則宗、小寺豊職らの老臣衆であった。播磨に入った政則は姫路城を拠点としたが、文明元年(1469)の暮に置塩城に移り姫路城には(小寺)豊職が目代(城代)として入った。ふたたび姫路城主となった小寺氏は、以後、豊職-政隆-則職の歴代が姫路城主の地位にあった。
やがて、政則は播磨・美作・備前の三国の守護職に補任され、さらに文明三年(1471)、侍所所司に任ぜられるなど赤松氏の勢力を旧に復した。そして、応仁の乱が終熄したのちの文明十一年、政則は播磨に下向すると播磨・備前・美作三国の支配に乗り出した。一方、備前奪回を目指す山名氏は松田元成を味方に引き入れると、文明十五年、赤松氏の守護所福岡城を攻撃した。
福岡城を守る浦上村則国・櫛橋則伊らは政則に救援を求め、老臣らも福岡城救援を進言したが、政則はこれを無視して山名氏の本国但馬を衝く作戦をとり播但国境の真弓峠に出陣した。その結果、政則は山名軍に散々な敗北を喫し、逃げる政則を追撃して、山名軍が播磨に乱入してきた。一方、山名・松田連合軍の攻撃に窮した福岡城の浦上・櫛橋らは、城を開いて播磨に逃げ帰った。
政則の失策は国人層の離反を招き、翌文明十六年、京都にあった浦上則宗が帰国してくると国人領主の多くが則宗のもとに参集した。その一方で、宇野下野守(赤松政秀)を盟主とする動きがあり、赤松一族である在田・広岡の両氏は赤松播磨守の息子を擁し山名氏に与した。さらに有馬右馬助も山名方に属するなど、赤松一党は四派に分裂した。そんななかで、政則に付き従うものはわずかとなり、身の危険を感じた政則は和泉国堺へと出奔した。
置塩城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AE%E5%A1%A9%E5%9F%8E
兵庫県姫路市夢前町宮置、糸田にある標高370mの置塩山(通称:城山)にある山城。
備前・福岡城
http://www.hb.pei.jp/shiro/bizen/fukuoka-jyo/
浦上則宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%89%87%E5%AE%97
嘉吉の乱で赤松氏が滅亡した際に兄の則永が誅殺を恐れて信濃へと逃亡した為浦上氏の名跡を継ぐ。応仁の乱では山名宗全から領国を奪回するために東軍に属して戦い、赤松氏が旧領国を回復し播磨、備前、美作の守護に任じられたのは則宗の力によるところが大きい。
また、文明年間に入ると、伊勢貞親に代わって、則宗が西軍に属していた朝倉孝景の調略工作を担うようになり、文明3年(1471年)、孝景の寝返りを成功させ、同年に赤松政則が侍所頭人に任ぜられると則宗は侍所所司代、浦上基景が備前守護代に任じられる。
107
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 14:34:03
<赤松・小寺・浦上①>
>>106-107
応仁の乱の後、播磨に下向していった政則に京の仕置きを任せられた則宗は領国の事は一族の者に任せ、京に留まる事になる。そして文明13年(1481年)に政則が山城守護に補任されると則宗も山城守護代に補任され、侍所所司代、山城守護代職として京の平安の為に尽力し、更にその権威は強まった。
しかし、文明15年(1483年)11月、則宗と同じく赤松氏の被官であった金川城主松田元成が独立を目論み、赤松氏に奪われた失地回復を狙っていた山名氏と手を結び、赤松氏の守護所である福岡城に攻撃を開始した。この際、京に居た則宗は子の則国ら守備方の劣勢を受けて政則に救援を依頼している。
政則は福岡城の救援に浦上則景・宇野政秀らを派遣する一方で自身は但馬の山名を叩くべく真弓峠に出陣する。しかし、政則は真弓峠での戦で山名政豊の軍勢に返り討ちに会い、姫路へと逃げ帰った。この報を聞いた則景と宇野政秀も播磨防衛のために兵を返してしまったので結局、翌文明16年(1484年)の1月には福岡城は松田・山名の軍勢の手に落ちてしまい、更に政則の軍勢を破った但馬の山名勢もこれを機と見て播磨へとなだれ込むという事態に陥る。
事を重く見た則宗は1月の中旬に京を立ち、急ぎ播磨へと下向すると政則に失望した国人領主の多くが則宗の元に馳せ参じ、●政則は和泉の堺へと出奔した。ここに赤松氏の実権を掌握した●則宗は小寺則職らと会談して政則を廃し、赤松氏一門である有馬則秀(有馬元家の子)の子、慶寿丸(のち足利義澄の偏諱を賜り有馬澄則と名乗る)に赤松氏宗家の家督を継がせる事を画策して幕府にもこれを承認させようとしたが2月20日に申請は却下され、これによって●有馬右京亮が山名に寝返り、●赤松一族の在田、広岡氏が新たな赤松家当主を擁立する事を目論むなど播磨国衆が空中分解してしまい、より混迷は深まった。則宗を中心とした赤松方は2月に松田元成を討つ事に成功していたものの、国衆が分裂した状態では形勢は変えられず以後は敗戦を重ね、やむなく一旦領地を捨てて上洛をした為に播磨は山名氏に奪われてしまう。
この状況を打破する為にとりあえずは内輪での揉め事を解決する事が先決と考えた則宗は8代将軍足利義政の仲介で政則と和解し、播磨奪回に向けての体勢を立て直す。その後、文明17年(1485年)の戦では息子の則景、則国(この時、死亡していないとの説も)を失うなどしたものの山名・松田連合を相手に戦局を優位に進め、東播磨を制圧し西播磨に陣を張る山名軍と対峙。長享2年(1488年)7月に浦上宗助が福岡城に入城し山名政豊が但馬に退去するまで長きに渡る抗争となった。
なお、この一連の争乱で子を失った則宗は安富元家から祐宗を養嗣子として迎えている。
松田元成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%85%83%E6%88%90
文明12年(1480年)、以前の富山城(岡山市街の北西に位置する標高131.3mの矢坂山上にある連郭式の中世山城)から金川城(備前国御野郡金川(岡山県岡山市北区御津金川)にあった城)へと居城を移した。
文明15年(1483年)、元成はかねてより赤松氏と険悪であった山名氏と密かに結び備前に山名氏の軍勢を引き入れ赤松氏へと反旗を翻す。
これに対し備前守護赤松政則は三石城の浦上則国に松田氏追討を命じた。これに対し元成は山名氏へ援軍を依頼し赤松方の小鴨大和守、浦上則国、浦上基景らが守る福岡城を攻める。
京の浦上則宗は赤松政則に福岡城へ援軍を送るよう要請し、赤松政則は福岡城に浦上則景の兵を送り、さらにそれと同時に赤松政則も山名氏の領地である但馬へと出兵するが政則の軍は山名勢に惨敗し逆にそれを追って山名勢が播磨へと押し寄せる事となった。 この知らせを聞いた備前の赤松勢の士気の低下は大きく浦上則景は福岡城への援軍に駆けつけられず兵を引き返す事になり、また福岡城からも城から政則の元に重臣が逃げ出すなどの事態となった。
その混乱に乗じて元成と山名勢は福岡城を攻め、50日の籠城戦の末に福岡城を攻め落とす。(福岡合戦)。
元成はその勢いに乗じて文明16年(1484年)2月、三石城へ攻めようとしたが、途中吉井川の東の天王原において浦上則宗に攻撃され大敗し、磐梨郡弥上村山にて自害して果てた。
不受不施派を熱心に信奉しており、領内の他宗派の教徒を半ば強引に改宗させるなど少々、過剰なまでに手厚く外護を加え後々この地域に不受不施派が根付く大きな要素となった。
108
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 14:51:31
<赤松・小寺・浦上③>
小寺氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kodera_k.html
延徳三年(1491)、赤松氏の再興に尽くした豊職が死去すると、小寺氏の家督は嫡男の政隆が継承した。そして、この政隆の代に小寺氏は勢力を大きく伸張させるのである。
さて、赤松氏を再興した政則は明応二年(1496)四月、四十二歳を一期として病没した。政則の晩年は従三位に叙せられるなど栄光に包まれたが、その栄光は老臣たちに支えられたものであり、とくに浦上則宗の威勢は政則を凌ぐものがあった。時代は確実に下剋上が横行する戦国乱世に突入していたのである。しかし、浦上則宗の一代は主家を滅ぼして、みずからが自立するというまでには至っていなかった。
政則の死後、赤松七条家から迎えられた養子義村が赤松宗家の家督を継いだ。文亀二年(1502)、浦上則宗が死去して村宗が浦上氏を継ぐと、事態は波乱含みとなってきた。村宗は赤松氏の重臣として諸政を執り仕切ったが、村宗の権勢に危惧を抱くようになった義村はこれを除こうとした。
永正十五年(1518)、義村はみずから兵を率いて備前に出陣、村宗の居城三石城を攻撃した。ところが、村宗方には備前・備中・美作三ケ国の国人衆が集まり、浦上方の中村某に岩屋城を攻略され、ついに義村は兵を退かざるをえなかった。翌永正十六年にも赤松義村は浦上氏を攻めたが城を落とすことはできなかった。同年、小寺政隆は御着城を築いているが、これは浦上氏に対する防御をさらに固めたたものであろう。
翌十七年、小寺則職は義村に命じられて浦上方の美作粟井城と岩屋城を攻撃した。このとき、庄山城主の小寺祐職が則職に従って出陣、小寺勢の先鋒をつとめた。岩屋城はそもそも庄山城小寺氏所縁の城であり、それもあって則職は祐職に先鋒を任せたのであろう。小寺軍を迎え撃ったのは浦上村宗の重臣宇喜多能家で、●小寺則職の軍は飯岡で宇喜多軍に敗れ、祐職は二人の男子とともに討死してしまった。
則職は姫路に敗走し、義村は置塩城に逃げ帰った。このときの戦いで則職が戦死したとするものもあるが、戦死したのは庄山の祐職であり、名乗りが似ていることから誤伝されたものである。その後、勝ちに乗じた村宗は義村を捕え、播磨の室津に幽閉するという挙に出た。義村は家督を才松丸(のち晴政)に譲ったものの、大永元年(1521)、村宗によって暗殺された。
かくして、赤松氏は浦上村宗の下剋上によって大きく勢力を失墜し、代わって村宗が備前・美作・西播磨を支配する戦国大名に躍り出た。
小寺政隆は嫡男の則職とともに才松丸を援けて、赤松氏の勢力挽回に尽した。しかし、村宗の勢力は拡大する一方で、政隆は御着城を則職に譲ると庄山城に移った。大永三年(1523)、小寺藤兵衛(則職か)は浦上村国とともに村宗打倒の兵を挙げたが村宗の攻撃を受けて惨敗を喫している。
浦上則宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%89%87%E5%AE%97
専横
延徳3年(1491年)に行われた延徳の乱には主君政則と共に出陣。同年11月、織田敏定と連携して山内政綱を討ち、翌延徳4年(1492年)3月の合戦では逸見氏と連携して六角高頼を破り、高頼は甲賀へと逃走した[3] 。
明応5年(1496年)に政則が死すと則宗は養嗣子義村を立て、その権勢は主家を凌ぐようになった。しかし、美作守護代であった中村則久を無理やり辞めさせて基景に美作守護代職を引き継がせようと目論むなど専横甚だしく赤松家中の一部の人間と対立を深める。
明応8年(1499年)、浦上氏庶流の中山城主浦上村国がついに則宗打倒の兵を挙げると則宗も兵を出し、播磨と備前の国境付近で戦が起こる。この野戦に惨敗して窮地に立たされた則宗は白旗城に追い詰められるが宇喜多能家の働きもあってどうにか村国の兵を退け、結局痛み分けという形でこの戦は終息する。しかし、これに始まる村国と浦上本家の対立は則宗死後も20年以上に亘って残る遺恨となる。
文亀2年(1502年)に死去。享年74。浦上氏の家督は祐宗が継いだ。
109
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 14:52:03
<赤松・小寺・浦上④>
浦上村宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%9D%91%E5%AE%97
浦上氏は紀長谷雄の子孫(紀貫之の子孫との説もある)で、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)が苗字の地である。鎌倉時代末期、ここ播磨から赤松則村(円心)が史上に現れると、浦上氏もその麾下として活動した。
(村宗は)則宗の養嗣子である浦上祐宗の跡を継いで浦上氏の当主になったと見られるものの、肝心の家督相続の経緯、時期については永正年間前半の祐宗、村宗の動向を示す史料が少ない為、はっきりしない。
そもそも、浦上家中における村宗の立場についても判明していない。
主家では赤松政則の死後、その養子である赤松義村が幼年であったこともあり、政則後室である洞松院の後見や、浦上氏などの支持を受ける形で、播磨・備前・美作の守護職に就いた。その後、義村は成長するにつれ、大きく勢力を伸張させた守護代 浦上氏に惧れを抱き、また自立の機会を窺っていた。
永正14年(1517年)、この頃よりようやく政務に参加するようになった義村は、2人の宿老(浦上村宗、小寺則職)と義村の3人の側近(櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親)から構成される新体制を布く。しかし、この新体制は 「宿老の専横抑制と義村自身の発言力の強化」 を狙う意図が見え透いていたため、村宗は義村に反発するが、さらにもう一人の宿老である則職とも対立してしまう。これにより則職や3人の側近による讒言で立場を悪くした上に、これを重んじた義村によって、出仕差し止めという仕置きを下されてしまった。
このように、あからさまな赤松氏の権力機構からの排斥行為に怒った村宗は、宇喜多能家などの家臣らと共に備前へと帰り、三石城に籠もって赤松氏への反旗を翻した。
永正16年(1519年)冬。この謀反を、自身の更なる権力強化の好機ととらえて征伐軍を動員した義村によって、三石城を包囲された。しかし、村宗も赤松氏と敵対関係にあった備前の最大国人 松田元陸と密かに結ぶなど対策を講じていた。結局、後詰めに元陸が現れるとの報も功を奏し、要害の地に築かれた堅守の三石城を攻めあぐねていた義村の撃退に成功した。
しかし翌年の永正17年(1520年)にも、討伐軍(義村自身の出征ではなく、小寺城主 小寺則職を主将)に再攻される。この時の討伐軍は浦上氏の本拠への攻撃よりも、浦上派へ転身した美作守護代の中村則久など浦上派の諸城への攻撃が優先されており、浦上派の弱体化を意図したものであった。
当初は美作の浦上派諸氏を圧倒する討伐軍(赤松派)の優勢に思われたが、村宗の命を受けた宇喜多能家が遊撃戦で赤松軍を度々撹乱。また、中村則久が籠もる堅牢で岩屋城も、十分な備蓄により200日余の包囲を耐えしのぎ陥落しなかった。やがて決め手が無いまま美作へと兵を送る赤松軍に対して、村宗は一転して松田元陸と共に本格的な攻勢に転じ、美作へ出征してきた赤松軍の背後を襲撃。さらに赤松軍の赤松村景などを懐柔して離反させる事にも成功。討伐に押し寄せた赤松軍を逆に弱体化させた末に、大将である●小寺則職を含む200人余りを討って討伐軍を壊滅に追い込む。この勝利により義村の威信失墜に大きな影響を与え、主従の武力関係すら逆転させた村宗はその後、播磨への反撃侵攻に転じている。やがて軍事的圧迫を嵩(かさ)に、同年11月には義村から嫡子才松丸を引き渡させた上に、義村自身を強制隠居にまで追い込んだ。そして、当時8歳の才松丸改め赤松政村(後の赤松晴政)に赤松氏の家督を継がせると、自らこの後見人となった。
翌永正18年(1521年)の正月、足利亀王丸を奉じた義村により再挙兵されるも、これを撃破。亀王丸の確保を目論む村宗は、嘘の和睦の持ちかけに応じた義村を和解の席で捕縛し、播磨の室津に幽閉した。しかし村宗は非情な決断を下し、元号が大永に変わった同年9月には、刺客を放って幽閉先の義村を暗殺させた。これにより名実ともに、播磨・備前・美作の支配権を奪って戦国大名への道を歩み始めた。
その頃、亀王丸は管領の細川高国に請われて上洛を果たすと、足利義晴として征夷大将軍となっている。
ただ、影響力を拡大させた浦上氏ではあったが、その権力の拠り所はいまだ赤松氏に依存する所が大きく、完全に下克上を果たしたとは言えなかった。結局の所は赤松の当主に傀儡を立てて、その影で権力を行使するという形でしか支配の正当性を担保出来なかったのである。また但馬の山名誠豊からの播磨侵攻を受けた際には、赤松氏との共闘も見せているが、山名氏の脅威が去った後は成長して村宗の専横に反発するようになった政村と、それを支援する浦上村国など一族の有力者と争いつつ、政村を置塩城より追放し、美作国へ追いやったこともある。
110
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 14:54:31
黒田官兵衛の主君だったと云う小寺氏を調べようと思ったら嘉吉の乱から両細川の乱が繋がってきた♪
<赤松・小寺・浦上④>
>>108-110
松田元陸
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%85%83%E9%99%B8
祖父の松田元成
>>107
の戦死以降、赤松氏、浦上氏との対立が根深い松田氏であったが永正16年(1519年)、赤松義村と対立し三井城に籠もった浦上村宗と元陸は密かに同盟し、村宗と義村の対立騒動では常に村宗方に味方し、村宗の赤松家中の実権掌握の一助を担う。 それにより元陸の権力も強まり、大永2年(1522年)、将軍足利義晴により侍所所司代に命ぜられる。後に日蓮宗妙覚寺の別当も務めた。
享禄4年(1531年)、将軍足利義晴の命により天王寺合戦に参加、赤松政祐の裏切りで村宗や細川高国もろとも戦死した。
111
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 15:45:10
観応の擾乱は日本史の中でも可成り格好いい名前だと思ってるけど応永の錯乱もなかなか良い味出しているw
両細川の乱という言い方の方が好きだけど。
<永正の錯乱①>
三好之長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E4%B9%8B%E9%95%B7
阿波でも最有力の国侍だったという三好長之の嫡男として誕生、阿波守護であった細川氏分家・讃州家の細川成之に仕えた。
応仁の乱で幕府の権威が失墜し畿内ではたびたび一揆が起こり出すが、之長はそれらの一揆の人心の機微を掴んで煽動したり指導したりしたとされる。文明17年(1485年)6月11日には捕えられた盗人を奪い返そうとして勝元の子・細川政元に慰留され、8月に京都で土一揆が起こると之長は一揆の張本と目されて、8月9日に政元や侍所所司代多賀高忠らに宿所を包囲されるが、前夜に事態を察した之長は細川政之の下に逃げ込んで庇護を求め、政元らは政之の屋敷を包囲して身柄の引き渡しを求めたが、政之は拒絶あるいは之長を誅したと述べたので、政元は包囲を解いて退散した。するとこの翌日からは再び一揆を煽動し、14日には土倉を襲って質物を奪ったとまでいわれている。
若年の政之への讃州家継承による家中の動揺の最中に生じた之長の一連の事件は、政之と之長に対する讃州家家臣の不満を高め、一部の家臣は勝手に阿波に下向して反乱を計画するようになった。
10月に不穏となった阿波へ政之と共に帰国して反乱を鎮圧、何事も無かったかのように上洛した。之長が処罰されなかった理由は成之・政之父子から貴重な人材と目されていたからであり、土一揆の構成員に大名の家臣が紛れ込んでいるのは珍しくなく、彼らを処罰すれば軍事力の低下を招く恐れがあったからである。之長は土一揆の騒動で一躍京都で名を知られるようになっていった。
長享2年(1488年)に政之が早世した後、之長はその弟の義春に仕えるも、明応6年(1497年)に義春も早世すると義春の長男である之持が阿波守護となり、祖父成之がそれを補佐する体制がとられた。また、之持の弟澄元は実子が無かった政元の養子に迎えられ、永正3年(1506年)2月19日には澄元の先陣として之長は入洛した。この際の事を『多聞院日記』では「三好之執事」と記しているため、之長は阿波守護家から京兆家に転身する事になった澄元に仕えて、この頃までには補佐の地位にあったようである。
以後は政元の命を受けて数多くの戦いに参加、8月には大和に出兵していた●赤沢朝経の支援を命じられて出兵。行政面でも澄元の執事として年貢徴収の紛争問題の解決に着手しており、『多聞院日記』では20年前に京都で一揆を指導して暴れていた頃に較べて「隠(穏)便也」と評している。だがこのように次第に実力をつけ出した事は周囲の妬みを生む事にもつながり、淡路守護の細川尚春や政元の養子・澄之の執事で山城守護代であった香西元長との権力争いが生じた。
之長は主君・政元の後継者問題においては澄元を支持、永正4年(1507年)には政元・澄元に従って丹後の一色義有攻めに参戦している。5月29日に政元が帰洛すると澄元と共に従ったが、6月23日に政元が香西元長や薬師寺長忠によって暗殺され、仏陀寺を宿所としていた之長は翌24日に元長らによって澄元と共に襲撃された。之長は澄元を守って近江の青地城に逃れ、甲賀郡の山中為俊を頼って落ち延びた。
元長と長忠は澄之を京兆家の当主に擁立したが、8月1日に細川一族の細川高国や尚春、政賢らの反撃を受けて全員討たれた。翌日の2日に之長は近江から帰洛し、澄元と共に11代将軍足利義澄を擁立して権勢を掌握した。この時、京兆家当主となった澄元より之長は政治を委任されたという。
だが、之長と澄元の仲は必ずも円満では無かった。幕政の実権を掌握した之長には増長な振る舞いが多かったため、澄元は13日に本国の阿波に帰国しようとしたほどで、16日には遁世すると言い出した。この時は澄元の帰国で将軍職を追われることを懸念した義澄の慰留と、澄元の命令に応じて之長が被官の梶原某を処刑することで収拾され両者は和解したようであり、27日に澄元が尚春の屋敷の能興行に招待された際、之長は太刀持ちとして従っている。またこの後、之長は剃髪して喜雲と号し、澄元の執事職は嫡男の長秀に譲っている。
112
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 15:51:50
<永正の錯乱②>
永正の錯乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%8C%AF%E4%B9%B1
永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、戦国時代初期の永正4年(1507年)、細川政元の暗殺を発端とする室町幕府管領細川氏(京兆家)の内訌である。細川氏が幕府の権力を掌握していたため、将軍職をめぐる抗争も絡んで、畿内は長い対立抗争状態へ突入していく(両細川の乱)。
明応2年(1493年)、管領・細川政元は10代将軍・足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立して当時少年だった足利義高(後に義澄と改名)を11代将軍に擁立した(明応の政変)。専制権力を樹立した政元であったが、女人禁制である修験道の修行をしていたために実子はおらず、兄弟もいなかったため京兆家(細川一門本宗家)には政元の後継者がなく、関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の3人を迎えて養子にしたため、分裂抗争の芽を胚胎することとなった。
永正3年(1506年)、摂津守護となった澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰三好之長が政元に軍事面で重用されるようになると、これまで政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)と、阿波勢との対立が深まる。
永正4年(1507年)6月23日、修験道に没頭して、天狗の扮装をするなど度々奇行のあった細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入ったところを、澄之を擁する内衆の▲薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らに唆された祐筆の戸倉氏によって殺害された(細川殿の変)。さらに翌日、長忠らは澄元・三好之長の屋敷に攻め寄せ、澄元らを近江に敗走させ、主君として澄之を迎えて細川氏(京兆家)家督を継がせた。6月26日には、政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めていた●赤沢朝経が軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や丹後の国人石川直経らの反撃を受け、自害に追い込まれた(養子の長経は逃げ延び、澄元の配下になる)。
しかしもう1人の養子・高国は、一族の摂津分郡守護細川政賢や淡路守護細川尚春、河内守護畠山義英と語らい、政元の後継者を澄元とすることで合意をみた。
まず7月28日、薬師寺元一(弟・長忠に滅ぼされている)の子・万徳丸は▲長忠の居城茨木城を攻め落した。続いて翌29日、細川高国らは香西元長の居城嵐山城を攻め落とした。そして8月1日、逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ急ぎ京に戻った三好之長が、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒を高国勢とともに一気に攻め落したため澄之は自害した。翌2日、澄元は将軍に拝謁し、細川京兆家の家督と管領職を継いだ。
細川澄之
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%BE%84%E4%B9%8B
延徳3年(1491年)2月13日、生後2歳にして独身のため実子の無かった管領・細川政元の養子となり、細川京兆家の世子が代々称した聡明丸を幼名として名乗る。文亀2年(1502年)9月、養父・政元から正式に嫡子(家督継承者)に指名され、丹波守護職を与えられた。ところが政元と聡明丸(澄之)の両名は折り合いが悪かったようで、翌文亀3年(1503年)5月、政元は澄之を廃嫡し、阿波守護家の細川義春の子・六郎(改め細川澄元)を新たに養子に迎えて後継者に指名した。更に翌年の永正元年(1504年)に元服、★母方の従兄弟で室町幕府11代将軍の足利義澄[2]より偏諱を賜り、澄之と名乗る。
永正3年(1506年)には養父・政元の命令に従って丹後の一色義有討伐に赴いて賀悦(の石川直経)を攻めたが、敵方と内通して落城を装い、兵を退いた。
永正4年(1507年)6月、政元の被官・香西元長・薬師寺長忠らが政元を暗殺する永正の錯乱が起こる。元長・長忠らは澄元の暗殺も計画したが、澄元は家宰の三好之長の機転によって近江に逃亡した。澄之は(香西)元長らに迎えられて丹波から上洛し、政元の葬儀を催して、将軍・義澄から細川管領家(京兆家)の後継者と認められた。事件は、澄之を新たな京兆家当主として擁立することで三好之長ら阿波の勢力を排除したい元長・長忠ら京兆家被官が中心的な役割を果たしていたとされる。しかし、先に澄之が落城を装った賀悦城の石川直経が、一色を包囲中の●赤沢朝経を首尾よく襲って敗死させるなどしており、事件以前から澄之も通謀し、周到に準備された計画であったことがわかる。
澄之・澄元の後に同じく政元の養子となっていた細川高国は、細川氏の一族をまとめ、高屋城の畠山氏らをも引き込んで、畿内近辺の勢力を糾合することに成功する。近江に逃れた澄元と三好之長は、遅れ馳せながら近江の国人を味方に引き入れ8月1日には京都に攻め上った。その戦功により澄之方の主将、一宮兵庫助が討たれると、敗戦が明らかになった澄之は自決した。享年19。(香西)元長や▲長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊した。
113
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 15:52:17
<永正の錯乱③>
足利義澄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BE%84
父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方・足利政知。はじめ法名を清晃(せいこう)といい、還俗して義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子(富子の兄弟である僧永俊の娘)。
清晃は明応2年(1493年)4月の明応の政変で義材を追放した管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって擁立され、故義政の猶子とされて11代将軍に就任する。しかし、実権は政元や富子、貞宗らに握られていた。
ところが、富子が死去し、義澄も成長すると自ら政務を行おうとして政元と対立、文亀2年(1502年)2月には政元が管領を辞任する意向を示して丹波国(後に山城槇島城)に下って義澄に慰留され、8月には義澄が岩倉の金龍寺(妙善院)に引き籠ってしまった。復帰を求める政元や伊勢貞宗に対して、義澄は武田元信の相伴衆登用や京都に滞在していた義材の異母弟の実相院義忠の処刑を求め、政元もこれを認めた。
義忠殺害によって政元は義澄に代わる将軍候補を失ったことで義澄を廃することが不可能となり、しばらくは義澄と政元は政治的には対立しつつも協力関係を維持し続けた。 また、永正元年(1504年)に細川氏家臣である摂津守護代・■薬師寺元一が政元によって守護代を更迭されそうになった時には義澄が政元に解任の中止を命じている。
永正4年(1507年)に政元が暗殺され細川氏(京兆家)の家督をめぐる内訌が生じ(永正の錯乱)、翌永正5年(1508年)4月、前将軍・義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。
その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・長秀父子を京都に侵攻させるなどしたが、その度に細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れた。また、義尹の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。永正7年(1510年)には義尹の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。さらに豊後国の大友親治や播磨国の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。
しかし、永正8年8月14日(1511年9月6日)、義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前に水茎岡山城で病死した[11]。享年32(満30歳没)。
義澄の死から9日後の8月23日に船岡山合戦が勃発、細川澄元・三好之長・赤松義村らが敗れて義尹の将軍職が確定した。両陣営はその後和睦、義澄の2人の息子義晴、義維はそれぞれ赤松義村、細川之持(澄元の兄)に引き取られた。
■薬師寺元一 もとかず
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E5%85%83%E4%B8%80
細川氏の重臣。細川政元に仕え、その偏諱を賜って元一と名乗る。通称、与一。子に国長。
薬師寺元長の実子、または養子、さらに甥とも言われる説があり、詳細は不明である。明応9年(1500年)、政元の命令により河内の★畠山義英を助けて★畠山尚順を破るという武功を挙げた。文亀元年(1501年)に元長が死去したため、家督を継いで摂津守護代となり、細川政元に仕えた。文亀3年(1503年)、政元の命令により、阿波細川家から細川澄元を養子に迎える交渉を果たしている。
ところが永正元年(1504年)閏3月に政元が突如、■元一を守護代から解任しようとする。ところが、将軍・足利義澄がこの人事に介入して政元に命じて解任を中止させ、元一は義澄に馬や太刀などを贈っている。同年9月、●赤沢朝経と共に政元を廃して澄元を擁立しようという陰謀を企て、摂津で挙兵する。しかし弟の▲長忠らに攻められて破れ、居城の淀城は落城して捕縛され、政元の命令で京都に送られて自害を余儀なくされた。享年28。
114
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 15:52:47
<永正の錯乱④>
>>111-115
▲薬師寺長忠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E9%95%B7%E5%BF%A0
細川氏(京兆家)の重臣で摂津守護代。
父元長の死後、薬師寺家当主の座と摂津守護代職は共に兄の薬師寺元一が継いでいた。しかし元一が永正元年(1504年)に細川政元の養子の一人である澄元を擁立すべく挙兵した際にこれを鎮定し、その功によって守護代職と家督は長忠が跡を継いだ[1]。
永正4年(1507年)6月23日、香西元長・竹田孫七らと謀って政元を暗殺する(永正の錯乱)。そして政元の養子である細川澄之を擁立した。これは長忠が政敵である三好之長を排除するため、之長を重用する政元を殺害して細川家の権力を握ろうとしたとする説が有力である。
しかし約40日後の8月1日、細川高国方に属していた甥(元一の子)の万徳丸(薬師寺国長)に茨木城で攻撃を受けて敗北し、澄之や香西元長らと共に討死した。
●赤沢朝経
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%B2%A2%E6%9C%9D%E7%B5%8C
家系は小笠原氏の庶流赤沢氏。赤沢氏の本拠地は信濃塩崎城で、朝経は家督を嫡子の政経に譲って上洛。本家小笠原氏に倣って「糾法(弓法)的伝」(小笠原流)を室町幕府の管領細川政元に伝授した縁で、8代将軍足利義政の弓道師範、更に武者所を兼任するに至った。 また、既に政元に従っていた一族の縁故を頼ったともいわれている。
延徳3年(1491年)に10代将軍足利義稙(義材、義尹)の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に従軍した際、政元に鷹狩の技能を認められてその被官となった。そして外様の内衆として山城・河内・大和など各地を転戦して武功を挙げ、山城上三郡守護代や幕府料所河内十七箇所の給人、妙法院領河内八箇所の代官、近衛家領山城五ケ庄の代官などに任じられている。
明応8年(1499年)7月には足利義稙に呼応する動きを見せた比叡山延暦寺を波々伯部宗量と共に焼き討ちするように政元に命ぜられ、11日に一斉に比叡山に攻め上り山上の主要伽藍を全焼させた。9月には河内で義稙派として挙兵した畠山尚順に呼応した筒井順賢・十市遠治ら大和国人衆を牽制するため山城南部へ急行、御牧城・水主城・槇島城を落とした。12月に大和国人衆追討に向かい山城から大和へ乱入、喜光寺や法華寺・西大寺・額安寺などを焼き討ちして大和北部を占領した。翌明応9年(1500年)に大和の所領支配を強めたり、9月に畠山尚順を撃破して軍事行動を繰り返した一方、圧力を受けた興福寺は文亀元年(1501年)2月に神木を動座して朝廷から撤退を要求されたが、翌文亀2年(1502年)にも平然と大和に出兵している。
永正元年(1504年)3月、政元に反逆するが、■薬師寺元一の取り成しによって6月赦免されて上洛。次いで同年9月元一が主君政元の廃立と養子である細川澄元の擁立を企てるとこれと結託したが、元一の弟・▲薬師寺長忠らによって鎮圧されて捕らえられた。しかしその豪勇を政元から惜しまれて助命され、翌永正2年(1505年)には罪を許され山城上三郡守護代に復帰した。
以後も政元の家臣として活動、永正3年(1506年)に1月に★畠山義英や★畠山尚順らを破り、7月に古市澄胤の手引きで再度大和に侵攻、再び法華寺を焼き、菩提山正暦寺、多武峰なども焼いて寺社勢力をも平定する。さらに三好之長と共に畿内各地に転戦して細川氏の勢力拡大に貢献した。
永正4年(1507年)、政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めるが、その戦いの最中に永正の錯乱の発生を知ると、軍を京都に撤退させようとしたが、反撃を受け、6月26日に自刃した。従軍していた養子の長経は生還、澄元の部将として仕えた。
115
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 15:55:20
永正の錯乱だけでなかなか両細川の乱にたどりつけんw
>>97-99
辺りで一度さらっと見てるんだけど。。
116
:
とはずがたり
:2014/01/08(水) 16:06:56
澄元の養子にはこんなきっかけがあったのか。。
細川成之しげゆき
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%88%90%E4%B9%8B
出家した成之は翌年1月15日に諸国漫遊の旅に出発(『晴富宿禰記』)して熊野などへ参詣を果たすが、突然の出家・引退に家中は動揺し、中には政之の追放を策する家臣まで登場したため、成之は急遽帰還している(『雅久宿禰記』文明11年8月11日条・『大乗院寺社雑事記』文明11年12月6日条)。その後も政之と家臣達の対立は続き、政之が徳政一揆を扇動したとされた三好之長を処罰するどころか却って重用したことが、東條氏・飯尾氏などの他の在京重臣の反感を買い、文明17年7月16日には彼らは成之父子に背いて阿波に帰国(『十輪院内府記』)し、同年10月に現地で反乱を起こした(『蔭涼軒日録』文明17年10月12日条)。このため、成之・政之は急遽阿波に下向して反乱を鎮圧した。
長享2年(1488年)に京都にて政之が早世したため次男の義春が後を継いだが、当時成之は阿波において反乱の後処理をしていたために西山宝光院で行われた政之の葬儀に参列することができなかった。明応6年(1497年)に義春も亡くなり、孫の之持が若年のため後見を務めた。
永正元年(1504年)、政元の重臣薬師寺元一が管領細川政元追放を図って反乱を起こして政元に討たれる。政元は背後に成之の存在を疑って討伐を計画し、反対に成之の重臣・三好之長が先制を期して政元側の拠点である淡路を攻撃、政元も讃岐・阿波に討伐軍を派遣して自身も淡路まで兵を進めた。その後、成之のもう一人の孫である澄元を政元の養子に迎える事で和解し、翌永正3年(1506年)澄元と補佐にあたる三好之長が上洛した。
ところが、永正4年(1507年)に政元が暗殺されて後継者争い(両細川の乱)が発生すると、自分が再興した丈六寺で禅僧として過ごしていた成之も孫の澄元を支えるために奔走する。だが、永正8年(1511年)の船岡山の戦いで細川高国に敗北した澄元は阿波に帰還し、成之も同年に78歳で死去した。
117
:
とはずがたり
:2014/01/15(水) 12:29:39
伊勢貞親
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E8%A6%AA
8代将軍足利義政を幼少の頃から養育し、嘉吉3年(1443年)には管領畠山持国の仲介で義政と擬似父子関係を結んだ。享徳3年(1454年)に家督を相続、同年に発生した土一揆への対処として考案された分一銭制度の確立などを通じて幕府財政の再建を成功させ、義政の信任を得た。また、政所執事には就任していなかったが(文安6年(1449年)から二階堂忠行が在任)、義政から収入と支払の権限を与えられ幕府財政を任され、政所の裁判に携わる官僚の人事権や将軍の申次衆も一族で固めて政所の実権を握り、奉行衆・番衆・奉公衆の指揮権も任され幕府の政治・軍事も掌握、親政を目指す義政にとって無くてはならない存在となっていった。
康正元年(1455年)頃から義政の御内書
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1121850928/87-89
に副状を添えるようになり、それまでは管領細川勝元が発給していた副状に代わり義政の御内書発給数が上回り、幕府奉行人の管轄が管領から貞親(将軍)へ移動、奉行人奉書または御内書を通して義政の親政を支え勝元を牽制、軍事でも義政の補佐役を務めた。寛正元年(1460年)に享徳の乱で混迷していた関東諸大名の取次ぎも任され、同年に二階堂忠行に代わり政所執事に就任し、禅僧の季瓊真蘂らと共に政務の実権を完全に握った。
寛正4年(1463年)、義政の母日野重子が死去を口実に斯波義敏・畠山義就を義政を通して赦免させ、寛正6年(1465年)に勝元が敵対した大内政弘討伐を要請した時は、表向き義政が政弘討伐命令を下す一方で裏から政弘を支援、勝元との対立が激化した。寛正6年(1465年)に義政の正室日野富子が男子(義尚)を産むと義尚の乳父となる。
この頃問題となっていた斯波氏の斯波義敏と斯波義廉の家督争い(武衛騒動)にも介入し、文正元年(1466年)に貞親らは義政に進言して斯波家家督を義敏に与えさせるが、山名持豊(宗全)や義敏派であった勝元らが義廉支持に回り、貞親と敵対した。また、義尚の誕生によって、次期将軍に決定していた義政の弟足利義視と義尚の間で将軍後継問題が発生すると、義尚の乳父であった貞親は義視を排斥するために義視謀反の噂を流すが、義視が勝元を頼ると讒訴の罪を問われ近江、次いで伊勢へ逃れた。同時に真蘂や義敏、赤松政則ら貞親派とされた者も失脚した。これを文正の政変と言う。
翌応仁元年(1467年)、勝元率いる東軍と宗全率いる西軍の間で戦端が開かれ応仁の乱が起こると、義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛、翌応仁2年(1468年)閏10月に正式に復帰した。しかし復帰に反発した義視が同年11月に出奔して(←義視の西軍寝返りはこれだったのか。)西軍に擁立され、戦乱が長期化する事態となった(弟の貞藤も西軍に鞍替えした)。復帰したとはいえかつてのように重要任務を任されることはなく、西軍の部将朝倉孝景の帰順交渉を担当したこと以外に目立った活動は無く、文明3年(1471年)に出家して政務を引退し(交渉は浦上則宗
>>108
に交代)、2年後の文明5年(1473年)に若狭で死去した。享年57。
応仁の乱の原因を作った1人とも言われ、『応仁記』では賄賂を横行させ淫蕩に感け、幕府の治世を腐敗させた悪吏として指弾されている。一方で、貞親ら側近勢力こそが義政の政権運営を支えた中核的存在であり、文正の政変による貞親ら側近勢力の排除が義政の政務放棄の一因となったとする見方もある。貞親が逼塞した期間に義政は御内書を発給できず、復帰後も勝元ら細川一族が幕府に無断で軍事関係の書状を内外に発給したため幕府の軍事権限は縮小、応仁の乱後に幕府の権力が低下するきっかけとなった。
118
:
とはずがたり
:2014/01/15(水) 12:30:09
伊勢貞宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E5%AE%97
文正元年(1466年)に父貞親が足利義視暗殺計画に失敗して京都から出奔したため(文正の政変)、8代将軍足利義政の命令で家督を継いで政所執事となった。応仁2年(1468年)に貞親が京都に戻ってくると執事職を父に返還したが、文明3年(1471年)に父が出家すると再び執事となった。
専横の振る舞いが目立った父貞親と違って温和な性格だったことから義政の信任も厚く、足利義尚の養育係に任じられ、義尚が9代将軍に就任すると幕政全般を統括するまでに至った。応仁の乱後に起こった山城国一揆では山城守護に任じられた息子貞陸の補佐にあたっている。しかし義尚、義政らが相次いで死去すると、延徳2年(1490年)に家督と執事職を貞陸に譲って隠居し、以後は著作・文芸活動に専念した。
ただし、明応の政変で義尚の従弟の10代将軍義材(義稙)が廃位され足利義澄が11代将軍に就任すると、日野富子の意向もあってその後見人的な立場に就いており、政変で幕府の実権を握ったとされる管領細川政元も貞宗の存在を無視できなかったという。
永正6年(1509年)10月28日に死去した。享年66。
足利義澄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BE%84
文明12年12月15日(1481年1月15日)、堀越公方・足利政知の子として生まれる。当時、政知の嫡男で異母兄の茶々丸が堀越公方の後継者としていたために、文明17年12月(1486年1月)、叔父義政の意向で天龍寺香厳院の後継者に定められ、文明19年(1487年)6月、上洛、出家して法名を清晃と名乗る。従弟の9代将軍・足利義尚が死去し翌年に義政も死去して室町将軍の座が空位となると、清晃も後継者候補の1人に挙げられたが、この時は義政の未亡人・日野富子の推挙で従兄で伯父・足利義視の子である足利義材(のちの義尹)が10代将軍に迎え(代わりに)富子は清晃には自分が義尚と暮らしていた小川殿を譲ることにするが,延徳2年(1490年)4月27日にこの意向が示されると、義材の父である義視は富子が清晃を次期将軍に立てる準備と疑い、翌月に小川殿を破却してしまった。これをきっかけに義材と富子との関係は悪化してゆく。そして明応2年(1493年)4月の明応の政変で義材を追放した管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって清晃が擁立され、故義政の猶子とされて11代将軍に就任する。しかし、実権は政元や富子、貞宗らに握られていた。
ところが、富子が死去し、義澄も成長すると自ら政務を行おうとして政元と対立、文亀2年(1502年)2月には政元が管領を辞任する意向を示して丹波国(後に山城槇島城)に下って義澄に慰留され、8月には義澄が岩倉の金龍寺(妙善院)に引き籠ってしまった。復帰を求める政元や伊勢貞宗に対して、義澄は武田元信の相伴衆登用や京都に滞在していた義材の異母弟の実相院義忠の処刑を求め、政元もこれを認めた。
義忠殺害によって政元は義澄に代わる将軍候補を失ったことで義澄を廃することが不可能となりこの後は義澄と政元は政治的には対立しつつも協力関係を維持し続けた。
永正4年(1507年)に政元が暗殺され(永正の錯乱)、翌永正5年(1508年)4月、前将軍・義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。
その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元、三好之長・長秀父子を京都に侵攻させるなどしたが、その度に細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れた。また、義尹の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。永正7年(1510年)には義尹の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。さらに豊後国の大友親治や播磨国の赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。
しかし、永正8年8月14日(1511年9月6日)、義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前に水茎岡山城で病死した。享年32(満30歳没)。
義澄の死から9日後の8月23日に船岡山合戦が勃発、義澄方の細川澄元・三好之長・赤松義村らが敗れて義尹の将軍職が確定した。両陣営はその後和睦、義澄の2人の息子義晴、義維はそれぞれ赤松義村、細川之持(澄元の兄)に引き取られた
>>109
。
119
:
とはずがたり
:2014/01/15(水) 12:30:44
伊勢貞陸(みち)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E9%99%B8
文明18年(1486年)5月に山城守護に補任され、長享元年(1487年)11月に解任されたが延徳2年(1490年)に父から家督と政所執事職を譲られ、11代将軍足利義澄に仕えた。
明応2年(1493年)3月に山城守護に再任、翌3年(1494年)10月まで務めたが、貞陸が守護に任命された背景は、応仁の乱以降諸国からの収益が途絶えた幕府が山城の幕府領から伊勢氏を介して収益を獲得、新たな財源とする狙いがあったのではないかとされている。また、伊勢氏は被官の進藤氏と繋げて山城国一揆と協調関係を結んでいたとも言われている。
山城守護在任中は古市澄胤を南山城の守護代に任じて山城国一揆を弾圧した。この出来事は細川政元に廃位されていた前将軍足利義稙が上洛を図ったため(義稙に対抗する為?)強引に幕府の財源確保を強行して反発した国一揆を討伐したためであった。
永正5年(1508年)、義稙が周防・長門の大内義興に擁立されて上洛、近江へ逃れた義澄には従わず引き続き政所執事を務め、永正18年(1521年)に死去、享年59。
足利 義稙(たね)・義材・義尹(ただ)①
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%A8%99
室町幕府第10代将軍。将軍在職:延徳2年7月5日(1490年7月22日)-明応3年12月27日(1495年1月23日)及び間に約13年半の逃亡生活を挟み永正5年7月1日(1508年7月28日)-大永元年12月25日(1522年1月22日)
はじめ義材(よしき)と名乗り、伯父義政の死後に第10代将軍に就任する。
当初、政治の実権を握っていて「大御所」と称した父義視が延徳3年(1491年)1月に死去した後は、前管領・畠山政長と協調して独自の権力の確立を企図する。しかし擁立の功労者であった義政の未亡人・日野富子や、もともと清晃支持派である細川政元(一時管領となったがすぐに辞任)とは対立を生じることになった。同年8月、義尚の遺志を継ぎ、政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開、みずから近江に出陣して高頼の追放に成功している。明応2年(1493年)2月には、応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊を討伐するため、畠山政長らを率いて河内に赴いた。
しかし義材が京都を留守にしている間に、京都に残っていた政元・富子・伊勢貞宗らは同年4月、清晃を11代将軍に擁立して、義材を廃するクーデター(明応の政変)を起こした。京都では義材派の人々の粛清が行われて市中は騒然となり、自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗議のため退位を表明し、その後も政変をなかなか承認せず、そのため清晃の征夷大将軍宣下は政変から8ヶ月以上経った12月27日に行われた。
政元は軍隊を河内に派遣して義材と畠山政長を打ち破り、政長は自殺した。義材は尊氏以来足利家に伝わる家宝の甲冑「御小袖」と「御剣」だけを携えて政元の家臣・上原元秀の陣に投降し、京都に連れ戻されて龍安寺に幽閉された。
将軍職を廃され幽閉された義材は小豆島へ流されることを知り、同年6月29日に側近らの手引きで京都を脱出して政長の領国である越中の放生津に下向し、政長の家臣・神保長誠を頼ったため越中公方(越中御所)と呼ばれた。この時の義材は単なる無力な逃亡者ではなく、越中でそれなりの陣容を整えた政権を樹立していることから、後の足利義維の「堺幕府」や足利義昭の「鞆幕府」にならい「放生津幕府」と呼ぶこともある。
明応7年(1498年)9月に政元側との和睦交渉が進展したという認識から、義尹と改名した義材は越前の朝倉貞景のもとへ移った。ところが政元との和睦は不調となり、朝倉貞景や政長の子・尚順と同調して軍事攻撃による上洛へ方針転換した。一時は近江まで迫ったが、近江坂本で六角高頼に敗れ、河内に逃れたがここでも政元に敗れて、かつて大内家が応仁の乱で父を奉じて西軍に属した縁に頼って周防に逃れ、大内義興のもとに身を寄せた。畠山尚順も河内を失って紀伊に逃れた。
120
:
とはずがたり
:2014/01/15(水) 12:31:16
>>117-120
足利 義稙(たね)・義材・義尹(ただ)②
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%A8%99
後に周防国の大内義興の支援を得、その軍事力に頼って京都を占領、永正5年7月1日(1508年7月28日)将軍職に復帰する。だが、義稙の政権は管領となった高国や管領代と称された大内義興らの軍事力によって支えられていたため、親政志向の強い義稙としては、意のままにならないことも多く、永正10年(1513年)3月には細川・大内・畠山の諸氏と対立した義稙が一時京都を出奔して近江甲賀郡に逃れた上、当地で病を発した。回復後の同年5月に和解が成立して義稙は京都に戻った。永正15年(1518年)8月に義興が領内の事情などから管領代を辞して帰国すると、残された義稙と高国は次第に対立を深めていった。第12代将軍に在職中の永正10年(1513年)には義稙と改名。
大内義興が帰国後、これを好機と見た細川澄元が蠢動し始めたことから、同年12月に義稙は赤松義村に澄元やその家臣らを成敗するように命令を出している。そして阿波に逃れていた澄元は永正16年(1519年)10月に挙兵し、11月には摂津に上陸する。このため義稙は11月3日に赤松義村に高国に味方するように命じている。
永正17年(1520年)2月、高国は尼崎で大敗し京都へ敗走し、義稙に近江へ一緒に逃亡するよう申し出たが、義稙はこれを拒否した。既に義稙には澄元から恭順を誓う書状が送られており、近江へ逃れた高国に代わって3月に澄元の家臣・三好之長が入京した。ところが近江で勢力を回復した高国が5月5日に等持院で澄元を打ち破って(等持院の戦い)再び入京し、澄元は阿波へ逃げ帰った。
これ以後、義稙と高国の仲は険悪なものとなり、大永元年(1521年)3月7日、義稙は再び和泉国堺に出奔した。これが同月に予定されていた後柏原天皇の即位式直前のことであったため、天皇は激怒して高国に即位式の準備を命じて予定通りに挙行させた。高国は義稙に代わる新将軍として、11代将軍・義澄の遺児・義晴を擁立した。
義稙は和泉から淡路国志筑浦に逃れ、ここで再挙を図って高国と抗争した。高国の妻の兄弟である和泉守護・細川澄賢(すみかた、政賢の子)や河内守護・畠山義英らを味方につけて10月には堺まで引き返すが、兵が集まらなかったために高国にかなわずその後沼島でしばらく潜んでいたが再起のために細川讃州家の許に赴いた矢先の大永3年4月9日(1523年5月23日)に阿波国撫養で死去した。享年58(満56歳没)。
121
:
とはずがたり
:2014/01/15(水) 15:08:51
>高国は2月14日、義晴を奉じて坂本に逃げ去った。この逃亡には大きな意味がある。将軍や管領が京都を落ち延びることは今まで何回もあったが、評定衆や奉行人といったものまで逃げ出してしまったため、京都幕府は崩壊してしまったのである
桂川原の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
桂川原の戦い(かつらかわらのたたかい)は大永7年2月12日(1527年3月14日)夜中から2月13日まで京都桂川原一帯で行われた戦い。この戦いは堺公方の誕生のきっかけとなった。別名「桂川の戦い」とも言う。
香西元盛は管領細川高国の家臣だったが、同族の細川尹賢の讒訴を信じた高国によって自害させられた。高国はこれ以前にも讒訴を信じ、度々自身の家臣を自害させていた。これに対して良い感情を抱いていなかった香西元盛の2人の兄波多野稙通と柳本賢治は十分な調べもないまま元盛が自害させられたことを知り、怒りを爆発させ丹波八上城・神尾山城両城で反旗を翻した。
驚いた高国は、大永6年(1526年)10月23日、神尾山城に総大将細川尹賢軍を、八上城には瓦林修理亮、池田弾正等を差し向け、それぞれの城を包囲した。その後小競り合いが続いていたが、波多野稙通に同情的であった丹波守護代内藤国貞は11月5日に神尾寺城の包囲軍から離脱した。また11月30日、黒井城主赤井五郎が3000の兵を率いて神尾寺城包囲軍の背後から襲い掛かり、赤井軍にも大きな損害がでたものの包囲軍を打ち破った。
この敗報を知った八上城の包囲軍も翌12月1日囲みを解いて退却した。この退却の途中、阿波守護細川晴元と通じていた池田弾正は瓦林修理亮らに一斉に矢を射かけ、細川尹賢軍は散々な態で京へ逃散した。
波多野稙通より知らせをうけた細川晴元は三好勝長、三好政長に出陣を命じ、阿波より堺に上陸、同年12月13日に中嶋の堀城を占領し越年した。
波多野軍も行動を開始、丹波を出国し翌大永7年(1527年)1月28日に野田城をわずか7日間で陥落させた。稙通はそのまま京都に向かうと見せかけて一気に南下し、2月4日に山崎城を陥れた。山崎城に詰めていた摂津守護代薬師寺国長は高槻城に逃亡してしまった。
その後、諸城を次々と攻め落としたり、降伏させたりした。
2月11日波多野軍と三好軍は山崎城で合流、翌2月12日桂川を挟んで細川高国軍と対峙した。
高国も諸大名に援軍を要請したが、要請に応じたのは若狭の武田元光しかいなかった。細川高国軍は、主力として鳥羽から鷺の森辺まで川沿いに隙間無く一文字に陣をしき、本陣はそこから少し後方の六条に12代将軍足利義晴自らが陣をしき、後詰の軍として本陣から北側、桂川の川勝寺に武田元光軍が陣をひいた。
戦闘は2月12日夜中、川を挟んだ矢の応酬から始まった。
翌2月13日、主力への攻撃を予想した細川高国軍に対して、三好軍は裏をかいて桂川を渡河、後詰の武田軍に襲い掛かった。かなりの激戦となったが、武田軍は死者80名を出し敗退した。これに危機感を覚えた高国は自ら武田軍に救援に向かったが、高国の甥の大納言日野内光(うちみつ、日野家の当主、晴光の父)は戦死してしまい、精鋭の荒木父子も戦死という大敗をして兵を退いた。波多野・三好連合軍も三好勝長が瀕死の重傷を負ったほか、80名の戦死者が出たが、天下分け目の合戦は波多野・三好連合軍が勝利した。
戦後の状況
高国は2月14日、義晴を奉じて坂本に逃げ去った。この逃亡には大きな意味がある。将軍や管領が京都を落ち延びることは今まで何回もあったが、評定衆や奉行人といったものまで逃げ出してしまったため、京都幕府は崩壊してしまったのである。これが後に堺公方誕生の引き金ともなった。
波多野・三好連合軍は2月16日に京都に進軍、治安維持と宣撫工作に取り掛かったが、細川晴元の入京待ちとなった。
122
:
とはずがたり
:2014/01/15(水) 15:18:04
>伊勢貞宗から義材に同行する守護や奉公衆・奉行衆に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」が送られると、27日までに義材の側近であった者も含めてほとんどが京都に帰還してしまい、義材勢は崩壊してしまった。
>義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りが越中下向につき従った(越中公方)。
>幕府政所頭人で山城守護伊勢貞陸(貞宗の子)が京都に残留した幕府の官僚組織を掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられることになる。貞陸は富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の奉書作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することは出来なかったのである。
>応仁の乱と並び、戦国時代の始期とされることが多い。
明応の政変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
将軍位を巡る争い
足利義材は、応仁の乱で西軍の盟主に擁立された義視の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に土岐成頼を頼って美濃へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍義尚は守護大名や奉公衆を率い、六角高頼討伐(長享・延徳の乱)のため近江へ親征するが、果たせないまま長享3年(1489年)3月に近江で病死する。
義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政や細川政元などは、堀越公方足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。しかし、日野富子が甥(妹の子)である義材を後援し、翌延徳2年(1490年)に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定する。
この決定に反対した政元や伊勢貞宗らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した。ところが奇しくも同じ日に日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた小川殿を譲渡することを決めた。将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は義材を軽視するものと激怒して、翌月には富子に無断で小川殿を破却した。富子はこれを義視の約束違反と反発して義材との距離を置くようになり、義視の病死後も関係は改善されなかった。
義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、丹波、山城など、畿内における国一揆に対応するため、延徳3年(1491年)に六角高頼討伐を再開するなど軍事的強化を図った。
123
:
とはずがたり
:2014/01/15(水) 15:18:37
>>122-123
クーデター
明応2年(1493年)、元管領畠山政長は敵対する畠山基家(畠山義就の子)の討伐のため、義材に河内親征を要請する。政元はこれに反対するが、畠山氏の家督問題を政長優位の下で解決させるため、2月15日に義材は討伐軍を進発させた。
政元は、義材に不満を抱き始めた富子や赤松政則、伊勢貞宗を抱き込み、4月22日夜に清晃を還俗させて11代将軍に擁立してクーデターを決行、更に富子が先代(義政)御台所の立場から直接指揮を執って、政元に京都を制圧させ、その兵に義材の弟慈照院周嘉らが殺害された。この報によって義材勢は動揺し、その上伊勢貞宗から義材に同行する守護や奉公衆・奉行衆に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」が送られると、27日までに義材の側近であった者も含めてほとんどが京都に帰還してしまい、義材勢は崩壊してしまった。政長が敗死すると、義材は足利家伝来の「御小袖」(甲冑)と「御剣」を携えて上原元秀の陣に投降して京都龍安寺にて幽閉されることとなった。また、父以来の側近であった公家の葉室光忠も処刑された。
同年6月、幽閉されていた義材は、側近らの手引きで越中射水郡放生津へ下向し、政長の重臣であった婦負郡・射水郡分郡守護代・神保長誠を頼った。さらに、義材派の幕臣・昵近公家衆・禅僧ら70人余りが越中下向につき従った(越中公方)。
影響
この政変で政元は幕政を掌握し、奉公衆などの軍事的基盤が崩壊し傀儡化した将軍権力は、幕府公権の二分化により弱体化した。これにより、二流に分かれた将軍家を擁した抗争が各地で続くこととなった。以後、幕政は細川氏の権力により支えられる事となる。ただし、その後政変を推進し、伊勢氏との協調を唱えてきた細川氏重臣上原元秀が暗殺されるなど、細川氏内部でも政変に対する動揺が発生していた。
その一方で、幕府政所頭人で山城守護伊勢貞陸(貞宗の子)が京都に残留した幕府の官僚組織を掌握しており、政元との間で駆け引きが繰り広げられることになる。貞陸は富子の要望で義澄を後見する役目を担っており、義澄や政元の決定も貞陸の奉書作成命令をなくしては十分な有効性を発揮することは出来なかったのである。これに関連して明応の政変直後に貞陸が義材派の反撃に対抗することを名目に山城国一揆を主導してきた国人層を懐柔して山城の一円支配を目指し、政元も対抗策として同様の措置を採った。このため、国人層は伊勢派と細川派に分裂してしまい、翌年には山城国一揆は解散に追い込まれる事になった。
さらに近年では、同年に発生した今川氏親の家臣伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻が、義澄と対立関係にあった異母兄である堀越公方足利茶々丸を倒すために、政元や上杉定正と連携して行われたとする見方が有力になっている(早雲と伊勢貞宗は従兄弟に当たる)。
このように、明応の政変は中央だけのクーデター事件ではなく、全国、特に東国で戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となる、重大な分岐点であり、応仁の乱と並び、戦国時代の始期とされることが多い。
124
:
とはずがたり
:2014/01/21(火) 16:15:29
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/ja/zasshi/pdf/zasshi12/p159.pdf
俺の京兆専制から三好政権ってのはwikiの参照元と云うか,今谷の意見と云うか,もっと云うと細川両家記由来のものと云えるのか。
また薬師寺与一の叛乱は澄元を養子にせよというものだったのか。。
いずれにせよ系譜派の俺としては(権力を一定期間握り維持した勝元→政元→高国→晴元と云うより)勝元─政元=澄元─晴元という連続性(と云うか寧ろ通字「元」の使用)から入っていて,現時点での関心は結果的に細川両家記的な視点から出発しているのかも知れぬ。wikiの記述に引きずられる形で萌えてる可能性も高いし。
色々調べてみると畠山や六角の動きなんかも対象に入れたいとは感じている所ではあるけど。
管領代というと大内義興だが,実際に資料で確かめうるのは六角定頼のみだそうで,家格の関係か,大内氏のは事実上の,と云う事か。
また六角定頼の義晴・晴元期の活躍は確かに目覚ましいとは云える。政治の中心である京の東隣という近江の地の利はこの時代の土地利権争いの中心である摂河泉+大和からは離れていて軍事的に即応性はどうもなかったけど。
細川政権が京兆専制だったのは内衆などがしっかりしていた政元のみで,高国は大内,晴元は最初長慶,後に定頼の軍事力に依存しなければ権力行使が出来なかったと云えるのかもしれぬ。長慶に使われた氏綱になると権力行使の主体と客体が完全に逆転してしまう訳だが。
となると,澄之は内衆(の一部であって全体では無いけど)基盤,澄元は阿波細川と三好依存となって,細川政権は政元と澄之,高国と澄元と晴元と氏綱の2類型に分けられるのかも。国人との関係等を俺が理解していない部分は多分にあるけど・・。大内帰国後の高国政権をどう捉えるかが課題となるけど,浦上氏等の軍事力を仰いではいるな。。
半ば外側の軍事力に依拠せざる得ないっての辺りは足利将軍の砂上の楼閣さと相通じるものがあるのかも。
細川家は,斯波家や畠山家の様に足利家からの独立性が強くなかった分守護大名の連合政権と相似形で内衆の連合政権的な色合いになるのかも知れぬ。それが領国経営に止まらず幕政関与に浮上した場面が特異的な政元政権となるのかもしれぬ。
此処迄見ると織田の新規性ってのはその綜合性ぐらいしか無くて,上洛して天下に号令ってのは大内以来の伝統的なものだし楽市楽座は六角の観音寺城のものだし,比叡山焼き討ちは足利義教のものだし堺の支配下は三好のものだし天守閣の設立も松永がやっていたし。
まあその綜合性が凄いんだろうけど。。部下に叛逆されて殺されちゃうのも極めて一般戦国的。
豊臣は長慶や久秀と同じく属人的政権だな。秀吉が種無しだったのが致命的だ。。
125
:
とはずがたり
:2014/01/22(水) 21:00:13
面白そうだ。。
戦国期室町幕府と在地領主
著者: 西島太郎
http://books.google.co.jp/books?id=v_Esp1USiG4C&pg=PT83&lpg=PT83&dq=%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%85%86%E4%BB%A3&source=bl&ots=9orWryZJ7e&sig=AL0YoYsOfxvxFBZXLkjoscAMrK0&hl=ja&sa=X&ei=87DfUuEKjNySBYO_gcgC&ved=0CEsQ6AEwBQ
#v=onepage&q=%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%85%86%E4%BB%A3&f=false
126
:
とはずがたり
:2014/01/22(水) 21:28:33
系図を書くと京兆家・典厩家・野州家の一体性が良く解る。
勝元─政元=澄元─晴元の連続性に萌えてたけど,阿波から入った澄元なんかよりは血筋的には政元から高国の方が正統的っぽいなぁ。
【典厩家】
初期には京兆家の内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようである。
後に摂津西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。
持賢は、京兆家当主の座を13歳で継いだ勝元を補佐する立場にあり、持賢の猶子で2代当主となった政国も、9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。
【野州家】
備中浅口郡と伊予宇摩郡の分郡守護を務めた。
野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。
また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。
野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。
細川氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F
典厩家
細川持賢を祖とする細川氏(京兆家)の分家の一つ。通字として主に「賢」(かた)を諱(名前)に使用する。基本的には分国を所領としておらず、初期には京兆家の内衆(重臣衆)を束ねる役割を果たしていたようである。後に摂津西成郡(中嶋郡)の分郡守護を務めた。政国、政賢と続いた。当主が右馬頭もしくは右馬助を官途としたことから、その唐名にちなんで典厩家と呼ばれるようになっていた。持賢は、京兆家当主の座を13歳で継いだ勝元を補佐する立場にあり、持賢の猶子で2代当主となった政国も、9歳で京兆家を継いだ政元の幼少時の後見役であった。政賢は永正の錯乱に際しては、細川澄元に与して細川高国と対立したが、船岡山の戦いで戦死する。その後は高国の与党で政賢の縁戚であった細川尹賢が継承した。尹賢は高国の大物崩れの戦いでの顛末を知り、細川晴元側に寝返ろうとしたものの許されず殺害された。
細川氏綱は、高国の後継者として晴元と対立を続けた。氏綱は、晴元から離反した三好長慶に担がれて晴元を倒し、室町幕府最後の管領となったものの傀儡にすぎなかった。その死後は氏綱の弟の藤賢が典厩家の当主となり、将軍足利義昭に仕えた。義昭が織田信長と反目し挙兵した際には、義昭とともに抗戦したが降伏した。その後は信長に臣従し近江坂本城の守備を任された。
信長没後、藤賢は豊臣家に仕え、以降も戦国諸侯に招かれながら元賢(もとかた)、重賢(しげかた)、乗賢(のりかた)と続き金沢藩士(加賀百万石前田家家臣)として幕末に至った。
野州家
細川氏(京兆家)の分家の一つ。細川満元の弟である満国を祖とする。持春、教春、政春、晴国と続いた。持春、教春が2代にわたって下野守を名乗ったことから野州家の名が定着したようである。備中浅口郡と伊予宇摩郡の分郡守護を務めた。野州家から京兆家には、教春の子の勝之が勝元のもとへ、政春の子の高国は政元のもとへと、2代にわたって猶子が続いている。 また持春の子・政国が典厩家の持賢の養子に入り、その政国が典厩家の第2代当主となるなど、京兆家との一体性が強い典厩家との間にも緊密な関係を保っていた。 野州家は将軍近習としての性格を有した一方で、京兆家、典厩家とも密接な関係を保ち、結果として細川氏一門の幕政関与に貢献したと思われる。
政春の子・高国は、管領細川政元の養子として京兆家に入り、その家督争いに躍り出ることになる。また通政は、戦国時代にその所領の維持を図ったのだが、出雲の尼子晴久の圧迫を受け伊予へ逃れた。通政の甥・通薫(通重)が備中支配の回復を試みるが、中国地方に勢力を伸ばした毛利氏の客将となり、子孫は長府藩客家老として幕末に至った。
127
:
とはずがたり
:2014/01/22(水) 22:04:58
義晴の享禄元年(1528)年の朽木動座に拠って,細川高国の奉行人奉書が大永6年12月を最後に,賦引付,徳政部壱方引付,頭人御過判引付も同7年2月を最後とすることから室町幕府政所の奉行事務が将軍不在京期間全く停止されていた一方で堺幕府奉行人奉書が発給されていた事実から今西は実権は堺公方にあったとしこれが通説になっている。
但し,堺幕府奉行人奉書と同数の義晴方奉行人奉書が主に京都権門に対して発給されている。幕府の意志決定は奉行人連署奉書により発給されることから朽木の幕府機能は停止したとは云えないだろう。
朽木谷の義晴周辺には「公家衆・外様衆・御供衆・御部屋衆・申次・番方・奉行・同朋・御末衆」等が付き添っていたともある。
改元時にも朝廷は義晴方とのみ交渉,諸大名への栄典授与に於いても義晴方のみこれを行っていることから全国的には義晴こそ公認の権威として考えられていたと見られる。
wikiの記述(例えば「それは朽木のときとは違い、奉公衆奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%99%B4)
とは異なり朽木時代の義晴(朽木幕府)も桑実寺幕府程では無かったかも知れないが一定の体裁を整えたものだったといえそうだ。
128
:
とはずがたり
:2014/01/22(水) 22:33:18
>>127-128
また細川六郎の堺公方の裏切りと義晴との和睦には六角定頼側からの働き掛けもあったようである。
wikiのは西側・阿波側からの記述になっているのやね〜。
また天文期の政所沙汰(この時期に於いてもまだ機能していたようだ)はその最終意志決定が政所頭人の伊勢貞孝によってなされていたのが明らかにされているそうな。
だいぶ衰亡したとはいえまだまだ十分に機能を維持している足利幕府に簡単にとって変われる程,雲散霧消してた訳ではないようである。三好長慶も職制上は結局は取り込まれている訳だし。
で,幕府奉行人連署奉書には六角氏の口入を記したものがあるが,大内氏に於いても僅かに1例見受けられるとのこと。
当時は幕府の裁判機能と細川の裁判機能が両立し何らかの権限分担がなされていたようである。
細川氏の裁判機能に関しては京兆家の勢力圏である丹波・摂津・山城以下の畿内に限定されている。
細川氏奉行人奉書(管領代添状)も同様の傾向。高国迄は畿内近国に拡大の傾向があったが晴元のもとでは縮小。
京兆家が京周辺の戦国大名化しようとするなかで権門のお膝元でミニ幕府的な体裁をとりつつ領国経営せざるえなかったという感じか?
御前沙汰には定頼の影響は有っても晴元の関与はないようである。
从ってまた晴元は幕府機構を総攬しておらず「管領」と呼ばれていない。(右京兆)
いずれも
>>125
より
129
:
とはずがたり
:2014/01/23(木) 17:17:05
後土御門時代は最も皇室が衰微した時期だったといえるけど,その後土御門践祚後の後花園院が中世的院政の最後だったようだ。
詰まりこれ以後,退位して上皇になっても伝国詔宣
>>105
を出すことはなくなったということか。
そもそもカネ無いし死ぬ迄天皇やってたのかもしれないし,そもそも亡くなった後も40日も葬儀出せないから皇室の荘園領主転化の為に治天の君になる必要性など全くなくなってしまったのであろう。。
後花園天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87
正長元年(1428年)称光天皇が危篤に陥ると両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は伏見御所にいた彦仁王(後花園天皇)を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。同年7月20日に称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま7月28日に践祚し、翌永享元年(1429年)12月27日に即位した。
即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余り親政を行った。この間、各地で土一揆が起こり、永享の乱・嘉吉の乱などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って朝廷権威の高揚を図った。同11年(1439年)6月に勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。
寛正5年(1464年)7月19日成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷いた。応仁元年(1467年)に京都で応仁の乱が勃発した際、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり上皇はこれを拒否。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、自らの不徳を悟って同年9月20日に出家、法名を円満智と号した。
文明2年(1470年)12月27日、中風のため室町第で崩御した。享年52。
後土御門天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
長禄元年(1457年)12月19日に親王宣下、寛正5年(1464年)7月19日に後花園天皇の譲位を受けて践祚(即位日は、寛正6年(1465年)12月27日)。文明2年(1470年)まで後花園上皇による院政が行われた。
践祚後ほどなく応仁の乱が起き、寺社や公卿の館は焼け、朝廷の財源は枯渇して朝廷は衰微した。乱を避けるため、足利義政の室町第に10年の間避難生活を強いられた。
乱の終結後、朝廷の古来の儀式の復活に熱意を注ぐが、思うように行かなかった。
明応の政変に憤慨して一時は譲位を決意するが、老臣である権大納言甘露寺親長の諫奏によって取りやめる(『親長卿記』明応2年4月23日条)。その背景には、朝廷に譲位の儀式のため費用がなく、政変を起こした細川政元にその費用を借りるという自己矛盾に陥る事態を危惧したとも言われている。
後土御門天皇は5回も譲位しようとしたが、政権の正統性を付与するよう望んでいた足利将軍家に拒否された。
明応9年9月28日、崩御。享年58。葬儀の費用もなく、40日も御所に遺体がおかれたままだった。このことは近衛政家による『後法興院記』の明応9年11月11日条に「今夜旧主御葬送と云々。亥の刻許(ばか)り禁裏より泉湧寺に遷幸す。(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。かくの如き遅々、さらに先規あるべからず歟(か)。」と記されている。
130
:
とはずがたり
:2014/01/23(木) 17:23:19
義稙の出奔で即位式の警護をすっぽかしたことに激怒した後柏原天皇
>>120
だけど,即位後22年目の念願の式典だったのか。そら怒るわ。。
後柏原天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E5%A4%A9%E7%9A%87
文明12年(1480年)12月13日に親王宣下。明応9年(1500年)10月25日、後土御門天皇の崩御を受けて践祚した。しかしながら、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、後柏原天皇の治世は26年におよんだが、即位の礼をあげるまで21年待たなくてはならなかった[1]。
また、11代将軍・足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、管領細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなる(『大乗院寺社雑事記』(尋尊大僧正記)文亀2年6月16日条)など、主要な献金元である幕府や守護大名も逼迫していたために資金はなかなか集まらなかった。費用調達の為に朝廷の儀式を中止するなど経費節約をし、室町幕府や本願寺9世実如の献金をあわせることで、即位22年目の大永元年(1521年)3月22日にようやく即位の礼を執り行うことができた。ただし、この時も直前に将軍足利義稙(10代将軍の再任)が管領細川高国と対立して京都から出奔して開催が危ぶまれた。だが、義稙の出奔に激怒した天皇は即位の礼を強行(『二水記』永正10年3月8日・20日条)して、警固の責任を果たした細川高国による義稙放逐と足利義晴擁立に同意を与えることとなった。
131
:
とはずがたり
:2014/01/23(木) 17:23:48
逆に戦国時代がまっただ中になると戦国大名が力を蓄えて即位式の負担を出来るようになったと云うこと歟。
後奈良天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87
明応5年(1497年)1月26日、権中納言勧修寺政顕の屋敷で誕生。大永6年(1526年)4月29日、後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名は後北条氏、大内氏、今川氏などである。
後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた[1]。だが、清廉な人柄であったらしく、天文4年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って、献金を突き返した。さらに、同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が大宰大弐への任官を申請したが、これを拒絶した。大内義隆の大宰大弐任命は、周囲の説得で翌年にようやく認めた。
132
:
とはずがたり
:2014/01/23(木) 17:24:27
>そもそもカネ無いし死ぬ迄天皇やってたのかもしれないし
>>129
の推論で大体あってるみたいだ。
正親町天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達はすでに貧窮していた。戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった[1]。正親町天皇は、元就に褒美として従五位下・右馬頭という位階を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した[2]。
さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。
朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した[3]。 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた[4]。元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正5年(1577年)には信長の最高位となる右大臣を宣下した。
豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした。
当時仙洞御所が存在しておらず、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式で仙洞御所を用意できない限りは譲位は困難であった(実際の正親町天皇の譲位については、それに先立って豊臣秀吉が仙洞御所を造営している)。だが、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。
133
:
とはずがたり
:2014/01/23(木) 17:32:30
正配の冊立はもっと前から無くなっていたようだ。室町期の天皇の配偶者は女御なん?
2013年07月22日(月)
広義門院 西園寺寧子〜女性唯一の治天の君
http://www.inforoot.jp/yuyu/index.php?ID=2760
ところで、広義門院以降、持明院統および北朝系の天皇において正配(皇后・中宮・女御)の冊立がしばらく行われなくなりました。まあ、室町期の朝廷は、即位式や立太子の金銭を用意することも、なかなかままならなかったほどの窮状でしたから、入内、立后となればなお更でしょう。正配が復活するのは、女御は後陽成天皇の女御になった近衛前子、皇后(中宮)は後水尾天皇の女御から中宮になった徳川和子まで待つこととなりました。
134
:
とはずがたり
:2014/01/23(木) 17:35:59
>>133
をよく見れば正配に女御も含まれるから女御でもないのか。そなるとなんか?もう職名とか無し?
准三宮はそれなりに出てるようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E5%90%8E
135
:
とはずがたり
:2014/01/25(土) 16:46:02
享禄・天文の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E7%A6%84%E3%83%BB%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%81%AE%E4%B9%B1
蓮淳の権勢拡大
さて蓮如には生前に5人の妻を娶り、13人の男子があったが、最後の妻蓮能の子供達は先の「大坂一乱」で排斥され、4番目の妻の子蓮芸は摂津富田に教行寺を建てた後に実如に先立って死去、3番目の妻には男子がいなかったという中で、自然と最初の妻である如了とその実妹で実如を生んだ2番目の妻蓮祐の遺した7人の男子の存在は宗門の間で崇敬の対象となっていった。
ところが、後継者とされた順如(父に先立ち死去)・実如はともかく、他の5人の男子のうち4人が北陸に派遣されて共同で加賀とその周辺の事実上の国主としての地位を得たのにも関わらず、6男の蓮淳だけは順如が遺した顕証寺の住持に補されて畿内に留められ、教団内において大きな仕事を与えられてこなかったことに不満を抱いていた。
だが、ここで新法主の保護者・後見人の地位が与えられたことで一躍北陸の兄弟を上回る権力を持つ事となった蓮淳は外孫である法主・証如の権力拡大に乗り出すことになった。これは裏を返せば後見人である蓮淳自身の権力拡大が目的であったが、形式上は「法主を頂点とした権力機構の確立」という実如以来の方針に忠実に従ったものであったから、この大義名分を前に異論を挿める者は存在しなかった。
天文の錯乱
畠山・三好討伐
享禄の錯乱の最中であった6月、大物崩れの勝者として細川高国を自害させ、声望を高めた細川晴元であったが、その晴元支持派だった蓮淳の名声も更に高まった。その頃、主家である河内守護畠山義堯から離反して晴元への転属を画策する木沢長政から、晴元への内応の仲介依頼を受けた蓮淳であったが、間もなくこの事を義堯に知られてしまう。
同年8月、木沢長政討伐に乗り出した義堯には三好元長まで加担した。一方、長政からの救援要請を受けた晴元は対応に苦慮。自分に度々意見する元長の存在を疎ましく思っていたとはいえ、劣勢の長政への肩入れも得策ではなかったためか、両軍への撤兵要請で事を収めようとした。
だが翌享禄5年(天文に改元、1532年)5月、畠山・三好連合は、木沢長政を再攻する。そこで晴元は、長政の一件の発端を作った蓮淳に対して、義堯と元長の討伐への協力を依頼した。『単なる武家の騒乱でありながら宗門が参戦する』事態を蓮淳は了承した。
畿内における宗門の責任者であった蓮淳は、以前、本願寺門徒による和泉や山城の法華宗徒への圧迫の一件を聞きつけた三好元長によって、本願寺側は弾圧を加えられた事もあり,熱心な法華宗徒であった元長に対し深い恨みを抱いていた。
そのため蓮淳は、17歳になった証如に勧めて法主である証如自らに出陣させ、畿内における『浄土真宗と法華宗の最終決戦』と位置づけることで全畿内の門徒結集を促して、この戦いを大きく盛り上げたのである。
同年6月15日(7月17日)、10万(一説には20万)と言われた本願寺門徒の参戦で戦況は一変。逃げ切れなかった畠山義堯を自害させた上に、同月20日(7月22日)には包囲した堺の顕本寺で三好元長を自害に追い込んだ。その上、堺に鎮座していた足利義維の四国追放も重なって堺幕府も消滅させている。
ところが、一向一揆にとって法華宗の象徴ともいうべき「仏敵」三好元長との戦いが終わっても一揆軍の蜂起は収まらず、法華宗以外の仏教宗派も追放すべきだとする門徒の声が、証如や蓮淳による静止命令をも振り払った。
大和では守護である興福寺と同国内で戦国大名化しつつあった筒井順興・越智利基を攻め滅ぼすべく一揆軍が奈良に突入した。一揆は本願寺にとってもゆかりがある大乗院(蓮如幼少時修行の場所)を始めとして興福寺の全ての塔頭を焼き払い、猿沢池の鯉や春日大社の鹿も悉く食い尽くされたと言われている。最終的には筒井氏・越智氏と十市遠治の援軍によって一向一揆は奈良から追われたものの、本願寺は面目を失墜して奈良の永代禁制を受け入れざるを得なくなった。
136
:
とはずがたり
:2014/01/25(土) 16:46:58
>>135-136
山科本願寺焼討
これに驚いた細川晴元は室町幕府管領の立場から、本願寺との決別と一向一揆鎮圧を決意する。これを知った蓮淳は一向一揆の行動を事実上追認して細川晴元攻撃を命じた。ところが晴元の命令にまず木沢長政が従い、更に晴元の臣茨木長隆の画策により、本願寺を嫌う近江守護六角定頼と一向一揆に対抗する形で京都と山城の法華宗徒が編成した法華一揆が呼応した。
天文に改元後の同年8月7日、京都に集結した法華一揆は京都にある本願寺教団の寺院を次々に攻撃、12日には六角軍と連合して蓮淳のいる大津の顕証寺を攻め落とし、続いて23日には、証如のいる山科本願寺を3万の大軍が包囲して、24日には同寺も炎上した。ところが肝腎の蓮淳は顕証寺陥落の際にもう一つの拠点であった伊勢長島願証寺へと逃走して息子実恵の元に潜伏した。孤立した証如は山科本願寺に退避していた蓮如の末子・実従が発見して辛うじて石山御坊に連れ出したのである。
石山本願寺への移転と和議成立
証如は石山御坊を「石山本願寺」と改めて、新たな根拠地として蓮淳に代わって門徒達を指揮していた下間頼秀・頼盛兄弟に防戦を命じたが、続いて12月に富田教行寺が攻め落とされて石山本願寺もまた細川・六角・法華一揆連合軍に包囲された。ところが翌天文2年(1533年)に入ると、(一向宗側が?)2月10日に晴元がいる堺を陥落、晴元は淡路へ逃れた。また、細川高国の弟・晴国や三好元長派であった波多野稙通ら晴元に恨みを抱く勢力と連携して一時包囲を解くことに成功する。
だが、それは逆に第12代将軍足利義晴から晴元へ下された本願寺討伐令という大義名分を与えるだけに終わった。一向一揆は3月に摂津伊丹城を包囲したが、3月29日に法華一揆を率いた木沢長政に打ち破られ、4月7日に晴元が淡路から摂津池田城へ入城、戦況は一進一退を続けたが、6月18日に山城で細川晴国が晴元の武将薬師寺国長を討ち取ると双方は和睦に傾き、6月20日に三好元長の遺児千熊丸(後の三好長慶)を仲介者として和睦した。しかし、下間頼盛は和睦に反対、翌天文3年(1534年)3月に証如を人質に取った。証如は石山本願寺へ戻ったが、5月29日に和睦を破棄、再戦に及んだ。天文4年(1535年)6月に細川軍の総攻撃が始まると戦闘は本願寺の敗北に終わり、当時の後奈良天皇
>>131
の日記に「本願寺滅亡」と記されたほどである。
これを機に証如も天文4年4月に長島から呼び戻した蓮淳や興正寺蓮秀と共に再び和議を図り、下間兄弟を今回の一揆の扇動者としてその責任を転嫁することで証如・蓮淳の責任を不問とし、彼らや近江などの畿内門徒の総破門を行うことを条件にした。9月に本願寺と細川との和睦交渉が妥結、11月に幕府・細川・六角との和議が成立した。和議に納得しない一部の一揆衆は翌天文5年(1536年)3月に中嶋城に籠もったが7月29日に木沢長政に鎮圧され、下間兄弟もその後粛清された。
この間、戦勝で京都の自治権を得た法華一揆と比叡山延暦寺が敵対し、天文5年7月には本願寺にも比叡山側から援軍を求められたが、派兵には応じず軍資金を送り比叡山の支持表明のみ行った(結果は比叡山・六角連合軍が勝利した)。8月には細川晴国も味方の裏切りで敗死した。
和議終了後も蓮淳は証如の求めに応じて石山本願寺に留って成人した証如の補佐役として従来の立場を事実上回復し、天文19年(1550年)に同寺で没するまで蓮淳は証如の名において本願寺の事実上の最高指導者としての地位を保持し続けることになったのである。
137
:
とはずがたり
:2014/01/26(日) 22:38:17
奉公衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%85%AC%E8%A1%86
文官である奉行衆(ぶぎょうしゅう)とは異なる。
奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。
鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。
概要
8代将軍足利義政時代の奉公衆の編成を記す『御番帳』が現存しており、それにより,各番が抱える若党や中間なども含めると平均して5000から10,000人規模の軍事力であったと考えられている。なお、鎌倉公方や古河公方の下にも奉公衆が編成されていたといわれている。
成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる。所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ、応仁の乱などでは共同して行動している。ちなみに、足利氏にとって重要な拠点のひとつとされていた三河の奉公衆は40人を超えていたといい、国別で最多。
奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、所領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収などの特権を与えられていた。
沿革
3代将軍足利義満は守護勢力に対抗するため、御馬廻と呼ばれた親衛隊整備をはじめる。彼らは将軍直属の軍事力として山名氏が蜂起した明徳の乱や大内義弘が蜂起した応永の乱などで活躍する。
それでも4代将軍足利義持の頃にはまだ畠山氏や大内氏の軍事力などに依存しており、6代将軍足利義教は義満の政策を踏襲してさらに強権を目指した。
9代将軍足利義尚は、文官である奉行衆と共に奉公衆を制度として確立し、長禄元年(1487年)に近江の六角高頼討伐(長享・延徳の乱)を行った際には、奉公衆が将軍の親衛隊として活動している。大名と将軍の取次役の申次衆から取り立てられる例もあり、北条早雲も申次衆から義尚の奉公衆に加えられたとされている。
10代将軍足利義材(義稙)は、延徳3年(1491年)に奉公衆を率いて再度の六角氏討伐を行い、明応2年(1493年)には河内の畠山義豊を討伐するために出陣するが、出陣中に管領の細川政元が将軍廃立を行い(明応の政変)、奉公衆の制度も事実上解体された。
しかし番の結束力は固く、明智光秀の中心的な家臣として石谷氏(斎藤利三)、肥田氏、進士氏など旧奉公衆が参加している。
138
:
とはずがたり
:2014/01/26(日) 22:42:20
奉行衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E8%A1%8C%E8%A1%86
奉行衆(ぶぎょうしゅう)は、右筆方(ゆうひつかた)とも呼ばれ、室町幕府の法曹官僚である奉行人の集団である。幕府直属の文官集団として、武官集団である奉公衆と対応される。
奉行人は鎌倉幕府より存在しており、鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏に従って室町幕府に参加した者の中には引き続き、奉行人として用いられる者もいた。当初、引付と呼ばれる裁判機関に右筆と呼ばれる奉行人を配置して奉書・御教書などを作成した。また、仁政方・庭中方・内奏方などの各種訴訟機関も設置されて奉行人が配置された。
しかし、鎌倉幕府の体制を引き継いだ政権構想を主導してきた足利直義の没落、3代将軍足利義満が院別当・太政大臣などを歴任することで院政・朝廷の政治機能が幕府機構に吸収されるなどの変化に伴って奉行人の役割も変質してくることになる。
引付が事実上廃止されて、政所・侍所・問注所・恩賞方などに右筆が配置された。
「別奉行」と呼ばれる特命を担当する役職に任命される奉行人が現れるようになる。
将軍が主宰する御前沙汰にも御前奉行人(御前衆・御前沙汰衆・恩賞方衆)と呼ばれる右筆中の有力者が参加を許されるようになった。御前沙汰とは本来、恩賞方に設置されて評定衆・引付衆(内談衆)による会議の中でも将軍の私的会議としての性格の強いものであり、奉行人は御前沙汰においては意見状と呼ばれる判決原案を作成する立場にあったが、後には将軍の私的権限において御前奉行人が御前沙汰に参加する事が許されて直接意見を述べるようになった。
義教時代
6代将軍足利義教の時代になると、将軍が管領以下を抑制するために御前沙汰によって重要決定を行うようになり、法制や先例、有職故実などに詳しい御前奉行人は公的には将軍の命令書である奉書(奉行人奉書)の作成・加判を行うとともに、御前沙汰などにおける意見や伺事は将軍の裁決に重大な影響を与えるようになり、次第に将軍の私的顧問としての性格も有するようになった。
特に御前奉行人のうち最高位の者を公人奉行と呼んで右筆・奉行人を統括するとともに評定衆の一員に列せられ、これに続く上位数名も引付衆(内談衆)に準じた待遇を受けるようになる。この頃になると鎌倉時代の奉行人であった太田氏・三善氏らの子孫で、代々こうした知識を家伝・家学として伝えてきた斎藤氏・松田氏・飯尾氏・布施氏など限られた家系によって右筆・奉行人などの地位が独占されるようになり、彼らは奉行衆・右筆方として集団を形成していくことになる。彼らはその重要性にも関わらず幕府本来の機構の中では組織の次官に当たる開闔・執事代にまでしか昇進できなかった。なお、奉行人のうち御前奉行人(御前沙汰衆)に達しない者をまとめて御前未参衆と称した。
更に、こうした家々の庶流の中には幕府の役職には就けなかった者もいたが、そうした者の中には有力な守護大名に登用されて司法や文書作成など分野においてその能力を発揮した者も存在した。阿波国守護細川氏に仕えて応仁の乱後の京都の焼け野原の有様を詠ったとされる飯尾常房(彦六左衛門尉)もその1人であるとされている。
その後
義教以後も幕府内部における奉行衆の発言力は増大して、8代将軍足利義政の頃には評定衆などの既存の幕府制度上の役職に代わって、事実上の幕府最高諮問機関を構成することになる。こうした中で、文明17年(1485年)には奉行衆と奉公衆の間で衝突を起こすまでに至っている。義政は奉行衆を基盤に置いていたが、息子の9代将軍足利義尚は奉公衆
>>137
を近臣に取り立てていたため、衝突は権力を巡って発生した事件であった。
武官である奉公衆は管領による幕府権力の掌握を目指した明応の政変を機に解体に向かうものの、文書作成・裁判行政を担当する奉行衆の価値は幕府機構が存在する限りは引き続いて存在し、戦国時代に入って10代将軍足利義稙・11代将軍足利義澄の2人の将軍が並立した時期には奉行衆も分裂して双方に幕府機構が存在した。また、この時期になると御前沙汰に将軍が出席するのも稀となり、将軍の側近集団によって新たに再編された内談衆(殿中申次・内談方)が奉行衆による沙汰の結論を将軍に伝えて裁可を仰ぐようになった。このように奉行衆は室町幕府の行政機構を支える存在として幕府滅亡まで存続したと考えられている。
139
:
とはずがたり
:2014/01/26(日) 22:43:31
内談衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%AB%87%E8%A1%86
内談衆(ないだんしゅう)とは室町幕府の引付方あるいは内談方において所務沙汰の審議にあたった構成員。鎌倉幕府に置かれた引付衆の後身的存在であるため、引付衆(ひきつけしゅう)とも呼ばれた。
概要
内談(ないだん)とは、室町幕府の諸機関それぞれで行われていた部局内の会議のことであったが、足利直義が引付衆を再編して所領問題を扱う専門部局して内談方を置いて以後、内談方の構成員を指すようになり、更に直義の失脚で引付方が復活した後も継承された。
内談衆は担当地域ごとに3番(内談方)あるいは5番(引付方)に分けられて、足利氏一門や守護大名を代表である頭人のもとに約10-20名が任命されたが、その多くは鎌倉幕府の評定衆・引付衆・奉行人の末裔であり、室町幕府の評定衆や奉行人を兼ねるものもいた。彼らは月に6回程度、頭人邸にて内談を開き、管領や政所が受理した鎌倉府支配地域及び九州を除く所領に関する訴訟(年貢・用水訴訟も含む)の処理にあたった。審議は最古参格の奉行人が頭人に次ぐ開闔(次官及び事務局長格)が案件を説明し、籤の抽選順で内談衆が意見を述べていった。結論は文書化されて将軍の決裁を得て正式な効力を得た。
ただし、14世紀後半頃(因みに応仁の乱が1467-1477)から将軍が評定衆や内談衆による審議よりも、自らが主宰する御前沙汰などによって問題処理を図るようになったこと、事務・法務職員であった奉行人が奉行衆として直接審議に参加できる資格を得るようになったことから形骸化してしまい、15世紀前半には引付方は有名無実と化した。
なお、足利義晴の頃より内談衆が再び幕政に登場するようになるが、これは引付方が復活したのではなく、義晴の擁立に参画してその後奉行衆に代わって義晴政権を構成した「殿中申次」などと呼ばれていた将軍側近集団を組織化するとともに、彼らの出自身分や奉行衆・奉公衆などの職制の枠に捉われない新たな格式・待遇を与えるためであったと考えられている。この時代の内談衆は御前沙汰を開いて、臨席することがなくなった将軍に対して意見を進言したり、奉行衆と将軍との間の取次を行ったり、時には御料所の代官を務めるなど、将軍の親裁を補佐する役目を果たした。
140
:
とはずがたり
:2014/01/26(日) 22:44:10
御供衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BE%9B%E8%A1%86
御供衆(おともしゅう)とは、将軍の出行に供奉するものであり、御相伴衆のように幕府における身分・格式を示す一種の称号であった。その格式は、御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐものであったが、将軍の出行に供奉するという点で、将軍に最も親近な名誉的な職であったと推測されている。
三番編成であり、構成員は御相伴衆を出す家の子弟や弱小守護家の当主、奉公衆や政所執事伊勢家など多岐に渡った。その役割は将軍出行の行列の行装を整えることにあり、遊興目的などに際しては供奉の必要がなかったという。供奉にあたっての人数は5〜6名前後と一定せず、往復で人員が異なることもあったというが、御供の中心は何れにおいても御剣役が中心でおり、その役目を担う家は固定されていた。
御供衆の成立[編集]
御供衆が記録にはっきりと現れてくるのは、足利義政の寛正年間頃からであるという。それ以前の武家様における将軍出行の供奉は大名が務めていたが、寛正頃(1460年- 1466年)になると義政の頻繁な出行や出行を担ってきた小侍所の形骸化に加え、諸大名間の派閥抗争の激化が従来の大名による供奉を難しくした。これによって新たな形式が求められ、足利義量が行っていた近習供奉の形式を参考に、新たな方式として整えられたと考えられている。この義政期に成立した形式が明応の政変まで維持されたという。
相伴衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%9B%B8%E4%BC%B4%E8%A1%86
相伴衆(しょうばんしゅう、御相伴衆とも)は、室町幕府における役職的な身分の一つ。将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。管領家の一族や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった。
将軍の外出などに守護大名が随従する慣習は足利義満の頃には成立していたが、役職・身分としての相伴衆の成立は足利義教の永享年間であると推定されている。即ち「相伴衆」といえば山名・一色・畠山(匠作家)能登守護・細川(讃州家)阿波守護・赤松・京極・大内の7家の当主を指していた。
このうち『宗五大草紙』等における格式・礼式の規定を見ると、赤松・京極・大内の3家は相伴衆中では下位に位置づけられていたようである。
新興戦国大名の名誉格式へ
だが、戦国時代に入ると、朝倉孝景や北条氏康、尼子晴久、斎藤義龍など守護大名ではなくかつ在京して将軍に随従する事もない地方の戦国大名が任じられる例も増えて、役職としての意味合いは希薄化して大名の格式を示す身分としてのみ存在するようになる。また、本来は細川氏の家臣であった三好長慶が足利義輝より相伴衆に任じられてその身分的権威をもって管領の役職を代行して幕政の実権を握っている。
更にこれとは別に将軍家に近い公家が相伴衆に任じられる例があった。永正の錯乱の際に足利義澄に従って京都を脱出した日野高光、出家隠遁した冷泉為広、妻の実家今川氏に逃れた正親町三条実望は義澄の相伴衆であったという。
職制としては室町時代のみであるが、戦国時代から江戸時代初期に見られる御伽衆は、しばしば相伴衆とも呼ばれ、将軍(あるいは大名)に仕えた似たような役職である。
141
:
とはずがたり
:2014/02/07(金) 01:06:53
管領代と云えば大内の印象だが資料的には六角定頼のみだそうな。守護大名ではなく守護代クラスの管領代としては三好長慶やこの茨木長隆が挙げられる。
また今谷氏が茨木長隆を管領代に擬しているそうだが,伊勢貞親が「康正元年(1455年)頃から義政の御内書に副状を添えるようになりそれまでは管領細川勝元が発給していた副状に代わり義政の御内書発給数が上回り幕府奉行人の管轄が管領から貞親(将軍)へ移動、奉行人奉書または御内書を通して義政の親政を支え」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E8%B2%9E%E8%A6%AA
たとあるけど,貞親的な立場(政所執事代?!)だったのでわ?(貞親も伊勢氏にも拘わらず最初は政所執事になっていなかったがどういう事情だろう??)
茨木氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E6%B0%8F
概要
茨木氏は、摂津国島下郡茨木を本貫とした国人領主で、室町時代には茨木城
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1063013969/301
を中心とした地域で活躍した。代々室町幕府に仕えていたと見られる。戦国時代の初期に摂津国人一揆に参加したため細川政元の攻撃を受け、一族の多くが自刃するなど一時衰退するが、茨木長隆(伊賀守)の代に細川晴元に仕え栄達した。しかし、江口の戦いで晴元が敗北すると長隆も没落する。茨木重親(佐渡守)の代に三好氏に代わって台頭した織田信長に臣従したものの、1571年、摂津三守護の一人和田惟政とともに池田氏を攻撃した際に、白井河原の戦いで敗北を喫し、重親は荒木村重に討ち取られ、まもなく茨木城も落城し、茨木氏は没落した。大坂の役の際に豊臣方として参加した茨木又十郎は、詳細は不詳だがこの一族出身と推測されている。また、又十郎の子孫との伝承のある茨木氏が東大阪市にある。
茨木長隆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E9%95%B7%E9%9A%86
茨木氏は応仁の乱後、摂津国人一揆に参加したため、細川政元の攻撃を受けて一時衰退するが、一族の弥三郎が細川氏へ帰順し、以後は春日大社領の給人(荘園領主より給田などの土地を授けられて領主のために奉仕するもの)として、茨木城を中心に摂津東部を支配する小領主として成長した。
管領細川高国が晴元に破れた大永7年(1527年)2月の桂川原の戦いで茨木長隆は他の摂津国衆とともに晴元側に帰参した。
将軍義晴と細川高国は近江へ脱出。以後、長隆は(晴元側から)奉行人として京都代官を任され、晴元政権の中心的役割を果たすことになる。義晴の庶兄義維を擁する晴元政権は「堺公方」と呼ばれる擬似的幕府機構を組織して畿内の統治に臨み、幼い晴元を三好元長ら細川家根本被官と茨木氏などの摂津国衆が支える体制となった(柳本賢治は元長と対立して陣没)。
享禄4年(1531年)3月の大物崩れ以後、晴元(堺)政権の下で三好元長が擡頭するが、将軍義晴との和睦問題を巡って間もなく晴元と不和となる。高国討伐の功労者であった元長に対しそれを邪魔者と見る畿内の国衆が晴元の下に結集,茨木長隆もまた三好元長と仲の悪い同族の三好政長や木沢長政と組み元長と対立した。
元長が畠山義堯(総州家)と組んで木沢の飯盛山城を攻めると翌天文元年(1532年)長隆ら摂津国衆は一向一揆を煽動し、逆に義堯・元長を堺に追い詰めて自害に追い込んだ。ここに堺公方府は崩壊する(この時晴元は在京?義晴は1532-1534と近江桑実寺で近江幕府を主宰)。
142
:
とはずがたり
:2014/02/07(金) 01:07:25
>>141-142
だがこの後、長隆ら摂津国衆と一向一揆衆の確執が表面化,一揆衆は京都山科に本山を構える法主証如の意向と関わりなく暴走し翌年にかけて晴元政権と各地で激しく戦った。
摂津国衆側は一向一揆に対抗する為,京都代官であった長隆が堺へ下向。河内守護代の木沢長政に浄土真宗の浅香道場を焼き討ちさせた。一方で証如率いる一向門徒の堺攻撃に対抗して諸宗僧徒の動員を決行。長隆は京都の法華一揆(京町衆主体)と結び一向一揆勢力を京都から一掃する(享禄・天文の乱)。
しかし、頑強に抵抗を続ける門徒は石山に本願寺を移し、引きつづき晴元政権と対抗した。この攻勢に耐えかね天文2年(1533年)2月には細川晴元・茨木長隆主从は淡路島への逃亡を余儀なくされる。6月20日阿波から大坂に渡った三好元長の嫡男千熊丸(長慶)の仲介により証如との和睦が成立。しかしこの間(1533/2-6)京都は木沢長政の軍がわずかに残ったほかは、門徒を追い払い増長した法華一揆の自検断が支配する無政府状態に置かれた。
これは荘園制を基盤とする公家・寺社など京都の諸権門の危機であり、それらに依存する晴元・長隆らの忌む所でもあった。ここに長隆らは法華一揆とも対立するようになり天文5年(1536年)には六角定頼および山門等の兵力を利用して京都の法華一揆を弾圧(天文法華の乱)。漸く晴元政権は京の安定を確立する。
今谷明はこの時期の幕府奉行人奉書に関する研究から茨木長隆の政治的地位の高さを指摘した。従来、晴元政権における重要人物は初期には柳本賢治・三好元長、後期には木沢長政らが知られていたが、長隆に言及されることは殆ど無かった。だが今谷は、柳本・三好ら重要人物(山城守護代クラス)へも奉書を下している茨木長隆の方が地位は上であったとする。長隆が連署した奉書あるいは長隆発給の添状は、細川氏の領国経営のみならず、幕府奉行人への指示も含み、その政治的位置は管領代(右京兆代)ともいうべき地位にあった。即ち形式的な主君である足利義維(のち義晴)・細川晴元に次ぐ地位であり、実質的な畿内の最高実力者とする説である。但し「堺幕府論」などと同様、茨木氏の過大視傾向も他の論者の反論を受けている。
晴元政権内での長隆は三好政長と結び、荘園制の維持を基本として国衆の押領停止などを命令、荘園領主である在京諸権門の権益を徹底的に保護したため、朋輩であるはずの国衆との間に晴元政権内での権力闘争が激化した。摂津国衆の中でも池田氏・伊丹氏ら急進的な勢力が長隆から離反し、嘗て没落させた三好元長の子である三好長慶の下に集まるようになる。天文18年(1549年)遂に長慶が細川氏綱を擁して立ち、両者は江口の戦いで激突。細川家嫡流をめぐる晴元・氏綱の戦いであったが、管領代の座を争う長慶・長隆の争いでもあった(と云う事になる)。
六角軍の遅延もあり三好政長が敗死する等長慶側が勝利し長隆もまた没落した。長慶は氏綱を擁して入京すると晴元や足利義晴・義輝父子を近江へ追放しやがて畿内支配を確立する。しかしこの後、長隆は宿敵であった氏綱政権に帰参したものと思われ,天文22年(1553年)に氏綱が丹波国衆に発給した文書に奉行人として長隆が現れている。但し嘗てのように政治的影響力を発揮する場面は最早なく、没年も不明である。
143
:
とはずがたり
:2014/02/07(金) 18:28:39
>>137-140
申次衆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E6%AC%A1%E8%A1%86
申次衆(もうしつぎしゅう)とは、室町幕府の職名の1つ。
申次とは奏者とも呼ばれ、元来は天皇や院に奏聞を取次ぐ役目をする人物を指し、鎌倉幕府や室町幕府でも将軍に奏聞を取次ぐ人を指した。幕府の申次は将士が将軍に拝謁するために参上した際にその姓名を将軍に報告して拝謁を取り次ぎ、同時に関連する雑務も処理した。室町幕府6代将軍足利義教の頃には伊勢・上野・大舘・畠山の4氏出身者によって独占されるようになり、彼らは数名で結番して交代で申次の職務にあたった。これを申次衆と呼び、後に御相伴衆・御供衆・御部屋衆に次ぐ家格としての意味を有するようになった。
近年では、伊勢盛時(北条早雲)も申次衆の1人であったと考えられている。
大舘尚氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%98%E5%B0%9A%E6%B0%8F
寛正4年(1463年)に父・教氏が38歳の若さで急逝するが、祖父持房の後見を受けて8代将軍足利義政(義教の子)に出仕する。文明元年(1469年)に将軍世子足利義尚に付けられて申次となり、義尚の将軍就任後は御供衆・申次衆を務めて奉公衆第五番番頭を兼務、二階堂政行・結城政胤と共に将軍側近として活躍した、後に義尚の偏諱を受けて尚氏と改名した。
長享元年(1487年)の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)には奉公衆第五番を率いて参加、政行・政胤と共に評定衆に任じられて、義尚の政務決裁に参与した。2年後に義尚が急逝すると、即時撤退を唱えて六角氏の反撃を食い止めた。だが、義尚の元で権力を振るった政行・政胤らに連座して失脚して番頭も解任された。その後も幕府に用いられて永正2年(1505年)に従四位下に叙せられる。
また、若狭の青保・松永・安賀・鳥羽・宮川各荘など北陸地方における幕府御料所の代官を務めた。12代将軍足利義晴の代には幕臣の長老として重んじられて申次・内談衆に任じられ、娘を義晴の側室にするなど破格の待遇を受けた。
尚氏は有職故実に詳しく、能筆として知られた他、和歌・連歌・蹴鞠にも通じていた。このため、三条西実隆ら公家や僧侶とも親交が厚かった。更に役職柄、各地の戦国大名との連絡役を務めることが多く、特に越後の長尾氏との取次に関する史料が残されている。義晴−尚氏−長尾為景・晴景の交渉は、次代の足利義輝−大舘晴光−長尾景虎(上杉謙信)へと継承されることとなる。
有職故実の著書としては、『大舘常興書札抄』・『大舘年中行事』などがある他、晩年に執筆された日記『大舘常興日記』は戦国期の室町幕府の動向を知る上で貴重な史料となっている。晩年は出家して常興と名乗り、伊予入道とも称したが、天文15年(1546年)の舎利寺の戦い後に近江国に逃れた義晴に老齢であった尚氏が同行したとされていることから、具体的な没年は不詳であるが、この時点では健在であったと考えられている。
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