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哲学・宗教質問箱
693
:
森下克介
:2014/08/16(土) 17:20:08
政教分離の件
前略;
「キリスト教の真実」を読んでいます。途中です。
152頁の、世俗の王たちの徳義を監視するのもまた、「天」ではなく、聖職者や教会権威でしかない。世俗の主権者には、聖職者のコントロールなしの権威を行使するための自由を必要とした。
結局、西洋近代はそのような「神」を世俗の主権者から切り離すことによって、世俗の自由と自立を獲得した。
と有りますが、「神」としては、「聖書」にある、「預言者」が伝える「神からの言葉」がすべてで、現実にはその仲介をする「聖職者」は神と同等でないとすると、一般の信者の皆さんは「本当に信ずべきものとしての「神の代理」の言葉を正しく聞けなくなるのではないでしょう
か?
ここでは、「「そのような神」とは、聖職者の言葉が正しくない」という意味であれば、信者も同じ、聖職者や教会権威を信ずるに値しないという事になる。と云うジレンマが生ずるのではないかと思いますが。いかがでしょうか?
文面がうまくできませんが、先生のご意見をお聞き出来たら大変うれしく思います。
よろしくお取り計らいください。
26−8−16
421−0216
焼津市相川408
森下克介
tel/fax??054-662-0057
Email??morikatsu@palette.plala.or.jp
694
:
sekko
:2014/08/16(土) 23:29:46
愚者さまへ
ええと、いろいろなテーマが複合しているので、簡単には答えられませんが、この掲示板の7/31付の私の答えをお読みになっていると仮定してその先を続けてみます。
今の時代は、エコロジーの角度から平和の問題、社会悪や不平等にまで切り込む路線が貴重で有効だと思います。
解放の神学もそうでしたが、カトリック的な社会活動が左派イデオロギーと重なる部分があって共闘したり利用されたりすることもあったわけですが、基本的にはキリスト教には右派も左派もなくて、福音的活動の実践が問われていると思います。
「現代世界憲章」などは普遍宗教と人間の関係の中で到達点の一つとしてまさに画期的なものだと思います。これをじっくり読めば、「聖霊に従う」ということの意味が分かると思うのです。
ただ、「ミッションスクール=お嬢様文化=勝ち組グループ」みたいなものと結びついた小教区みたいなところでは、勝ち組の立ち位置を揺るがせるような反体制的言辞が「政教分離」の名のもとに嫌われて排除されるというのはフランスでもいくらでもあります。
司祭が家族を持たないとか社会経験がないから云々というのはもちろん言いがかりで、そういう人が本気で考えてくれれば、自分状況に縛られずにはいられない人々と違って、クリアで建設的な提言が生まれるかと思います。
少なくとも近代以降に教皇の地位にまで上り詰めたような人々の回勅や説教は、私心なくして考え抜かれた貴重なものだという印象を持っています。
「時の政権」というのは国や時代によっていろいろあるわけですから、そのあり方が福音に反しているものであればキリスト者が従うことができないのは当然だと思います。
でもこれも難しい問題ですね。
たとえばクウェーカーとか絶対平和主義の宗派が、たとえ犠牲を伴ってでも、絶対兵役拒否をすべての信者に強制できるほどの力を発揮するのを見る時、確かに、同じ宗教的力で若者たちを聖戦の名で自爆テロに向かわせる宗派だってあるのだから、複雑な気分です。
どうせなら全員を「絶対兵役拒否」「完全非暴力主義」で「洗脳」すればこの世に戦争はなくなるだろうに…と思ったり、でも兵器産業があれば無人戦争が続くのか、とか、どんなに「洗脳」して戦争をなくしても、違法暴力行為に向かう人やそのために組織される団体などはなくならないだろうから、結局それを取り締まるために合法的暴力装置としての警察は必要だし、とか…。
聖職者が神と同等でないとして世俗の権力者がその力を排してきたという話はあくまでもヨーロッパの歴史の流れで、そこに至るまでには、政教癒着や権威主義の実態がいろいろあったわけです。
すごいと思うのは、カトリック教会が、その中で消滅することもなく、分派することもなく、その葛藤の反省をしながら自己批判も臆せず、福音の道へ絶えず戻ってきたということです。
これについて、9/10発売の『カトリック生活』10月号に「ジャンヌ・ダルクと神学」というテーマで書いたところなので、発売前ですが、関連箇所を少し引用すると、
『コンスタンツの公会議では、公会議によって代表される「戦う教会」はキリストから直接授けられた至高の権力を持ち、その権力は教皇を含むすべての人間の服従義務を前提とすると宣言された。
それは大分裂を解消するために必要なものだったが、単に教皇支持派と公会議主義者の争いという構図ではない。世界を「聖職者」と「非聖職者」に二分して、後者を前者に無条件で絶対服従する下層民となす差別的世界観が提示されたのだ。世俗の者にとっての「徳」とは「服従」であり、「服従」が「信仰」と同義だった。「教会学」が「教会全体主義」というイデオロギーと化したわけである。(・・・・)』
それが今は、
『教会の力とは「服従させる力」ではなく「福音の力」であり、聖性にいざなわれた神の民である地上の教会とは、謙虚な奉仕と愛を実践するものだとされるようになった。その帰結が二〇世紀後半の第二ヴァティカン公会議だ。教会への服従こそが「徳」であり「信仰」であるというイデオロギーの時代を越えて、信教の自由が謳われたのだ。ジャンヌ・ダルク裁判は、もっとも貴重で聖なる一人一人の人格(ペルソナ)を根本的に無化する試みだった。だからこそジャンヌの復権と列聖は、カトリック教会が天に向かって確かに歩を進めていく象徴になる。人は自由意志によって神の呼ぶ声に答えるのだ。』
となったわけです。
ひとりひとりが「神の代理」となるくらいの気持ちで心と耳を傾ける必要があるのかもしれません。
http://setukotakeshita.com/
695
:
sekko
:2014/08/16(土) 23:34:16
すみません
さっきのお答えで、愚者様へのお答えと森下さんへのお答えをまとめてしまいました。続いて読んだのと、ある意味で共通した問いだと思ったので。
森下さまも、愚者さんからの質問も合わせて読んでいただけると幸いです。
http://setukotakeshita.com/
696
:
sekko
:2014/08/17(日) 00:13:24
Keiさま
Keiさま
ドイツはトルコからの移民家族が娘を公立学校で体育に参加させないとかスカーフをかぶらせることにもフランスと違って寛大なので政教分離がうるさいトルコ本国よりもいいねというトルコ人もいると、ドイツのドキュメンタリーで見たことがあります。
すぐれた女子スポーツ選手に同性愛者がいるというのは、優れた男性ダンサーに同性愛者が少なくないことと同じく、驚きません。
筋力だけでなく競争力や努力のパフォーマンスに男性ホルモンが関係しているのは事実ですし。
だからこそ競技では男女が分けられているのですが、グレーゾーンというのはどこにでもあるわけです。
女性ホルモンの多い男性選手がスポーツで有利になるとは思えないので、グレーゾーンはもっぱら女性として活躍する女性の同性愛者で目立つのでしょう。
勝ち負けが商業効果にも関係するプロスポーツだといろいろ問題でしょうが、勝ち負けとは関係のないアートの世界ではグレーゾーンも問題が少ないなあと周囲を見ていても思います。
娼婦が罪の女とか、男装して戦争に行くのが罪とかいうのは、罪と言っても「社会的罪」の側面が大きいかと思います。
その点イヴの罪は、何一つ不自由しない環境(何しろ「楽園」ですから)にいながら、「神の言葉に背く悪」の誘惑に乗ってしまったという意味の罪なので、ちょっと違うかなあと思います。
同性愛の人たちは「性的な誘惑」には異性愛の人同様に負けてしまうことがあるかもしれませんが、「同性愛であること」の誘惑に負けるわけではありません。
最初からグレーゾーンに生まれる人というのは必ずいますから。
ただ世間がそれをどう見るかということの推移はまた別問題です。
キリスト教の原罪説は、人間に罪悪感を植え付けてよくない、などと言われたこともありますが、逆にプロテクトしてくれているという説もあります。
悪いのは人間でなく誘惑したサタンだと責任転嫁できるということで。
人間が自助努力しなくちゃいけないのは、誘惑に耳を傾けない、耐えるという部分で、その反面教師としてアダムとイヴがいるという人もいます。
完全に罪のない人間はいない、つまり完全な善人はいないということによって二元論を避ける意味でも、原罪は役だったかもしれません。
つまり、すべての人は悪の誘惑にさらされているという点で平等で、その証拠に中世のカテドラルの「地獄図」みたいなものには必ず、普通の人と友に枢機卿の姿の人なんかも炎に焼かれていたりします。
日本のイメージでは「家」の中に邪鬼を入れない、疫病神を入れない、みたいな「家内安全」努力があって、その代わり家族の誰かが罪を犯したら「家」全体が「罪」の連座になったりします。
それに対して、キリスト教的なイメージでは、各自が自分の中に悪魔に入られないように、つけ込まれないように、という感じでしょうか。
うちの猫を見てると、罪のない状態というのはこういうのだなあ、とは理解できるのですが…(智慧の実なんか食べなくてもいいからね。)
「修道士ファルコ」は前にもどなたかから名前は聞いたことがありますが読んだことはありません。おもしろそうですね。私もいつか修道院物のホラーとか書きたいなあと思ってるのですが・・
http://setukotakeshita.com/
697
:
ふうこ
:2014/08/20(水) 13:46:54
許しあうこと
「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」
この箇所に感銘をうけました。sekkoさまは、パレスチナ内戦を念頭に話されていますが、「許しあう」ことなくしては本当の平和はもたらされない、というのはあらゆる人と人との関係性においても言えることですね。
とても身近なことですが、お父さんと長く絶縁関係にあった友人がお兄さんが不治の病で闘病をすることがきっかけでお父さんと会う決心をしました。そのお父さんは、相当な暴君で、愛人を家に連れて来たり、いわゆる「飲む、打つ、買うは、日常茶飯事」暴力的で子供の言い分は全て無視で言いなりでなければならない、というお母さんにとっても友人きょうだいにとっても耐え難い存在だったそうです。お父さんと別れて、やっと平和な生活を送っていた矢先のお兄さんの発病。高額の治療費の支援の要請が表向きですが(お父さんも後悔しているらしい、との話もあり)、友人は「兄は父への恨みで病気を呼び寄せているように思えてならない。父との和解なしには、回復を望めないのでは」と言います。でもお父さんといざ対峙したとき自分がどうなってしまうか不安で、ある神父さまに「許しは癒しにつながりますか」と尋ねたところ、神父さまは「許しは、癒しです」と何度も繰り返され、友人に按手しました。その瞬間は、感動的でした。もしお父さんと和解できたら、それは奇跡だと思います。「許し、許されること」「愛し、愛されること」は、キリストが命を賭して投げかけたメッセージですね。「隣人を愛せよ」という言葉にとどまらず(これは一方的になる可能性があると思います)、ヨハネの「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味を思いめぐらしています。
698
:
kei
:2014/08/20(水) 15:18:18
修道士ファルコ「辱めの儀式」
原罪という考えかたは、日本人が一番拒否感を感じるところかと思います。
自分もまあ、そんなことを考えなかった頃は常にパーフェクトを目指してずいぶんストレスを貯めていたものでした。
今「ユダ」を読んでいますが、その中で日本的「良心」のことが書かれています。
良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。
日本人は重大なときには耐えかねて自殺まで追い込まれてしまいます。
フーコーの言う「パノプティコン」が当てはまるのかもしれません。
自分もかなりまいったものです。
しかし人は皆罪を犯すようになっており、主によって赦されうるという考えかたはずいぶんと救いになったものです。
さて「修道士ファルコ」の印象的なページをアップロードしておきました。
貴女の著作で、守護聖人がその義務を果たさないときには罰せられると読んでおりましたが、具体的にこのような儀式があるとは興味深く思いました。
この場面は聖女が娼婦に降臨するところで、中世キリスト教の特徴が出ているものと思われます。
いつか著者の青池保子さんとのコラボでキリスト教や中世思想の解説本ができたらと夢みています。
http://fast-uploader.com/file/6964069546497/
http://fast-uploader.com/file/6964069605371/
http://fast-uploader.com/file/6964069660215/
699
:
sekko
:2014/08/21(木) 03:08:21
ふうこさま、keiさま
keiさまが
「良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。」
とおっしゃることと、ふうこさまがおっしゃるゆるしの問題は関係があると思います。
「罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかない」わけではなく、ゆるされることで、いい方に向けて解消される気がするのです。
私がユダのコメント
http://setukotakeshita.com/page1.html
で書いたことがそれです(このコメントのエラーをまだ直していません。JP2による平和の定義は3・11の翌日でなく翌年です。回勅のはじめです)。
7/21の読売新聞のインタビューでも、
ユダという存在はキリスト教の『ゆるしのシステム』を思い出させると言いました。
>>人が悪事をなした時に抱くやましい気持ちは、それを隠し通しても解消されない。逆に「ゆるしてもらいたい」と願って告白し、ゆるしを得ることで初めて解消される。キリスト教はそのメカニズムを理解し、「告解」というシステムを作り上げた。現代はキリスト教社会も世俗化して「ゆるしのシステム」も失われつつあるが、竹下さんは「ユダが語られ続けることで、人間には『ゆるし』が必要だということが思い出されるのではないか」と言う。
その意味でユダへのこだわりは、「悪や背信といった暗い部分に倒錯的にひかれるだけではなく、人間同士が『ゆるす』ことで共に生きる可能性につながります」<<
という感じです。
もともとすぐ罪悪感を抱いてしまうようなタイプの人は別ですが、私のような人間は、あれやこれやのプチ罪悪感のおかげでエゴイズムや独善から辛うじて逃れている感じです。
「ゆるしてもらう」っていうのは精神衛生にとてもいいので、そのためには、より難しい方の「ゆるす」努力もしなくては、と思うのですが…。
「辱めの儀式」云々はやはりかなりフォークロリックですよね。
こういう、神仏への祈願とその効験いかんによる対応の仕方は時代や国や文化によっていろいろですね。
「祈願した側の責任だ、いまいち信心が足りなかった」などと言われると私などはすぐ納得しますが、神仏に対して「神も仏もあるものか」とならずに、「約束が違う、謝罪会見で土下座せよ」みたいなことで「次に期待する」飴と鞭みたいなやり方もあるのかも。
いずれにしても、人間の、
「目の前の不幸を何とかしてくれ」、
「目の前の脅威を取り払ってくれ」、
という神仏祈願の欲求は多分なくならないと思うので、それをどうやって信仰の文脈に組み入れていくか、危機管理していくかというのもまた人間の宗教の知恵なのだと思います。特に中世では。そのことについてブログでまた書くつもりです。
http://setukotakeshita.com/
700
:
愚者
:2014/09/08(月) 01:32:20
公会議
sekko様
回答ありがとうございます。面白い講義を受けた気分です。
以前、JP2世がコンスタンツ公会議の公会議至上主義を教皇至上主義に変えたとどこかに書いていらっしゃったのを読んだ覚えがあります。
知りませんでしたが、B16世の主な功績は教会の環境倫理の確立だったのですね。戦争は巨大な環境破壊だから、必然的に教会は反戦ですね。今日、資源に加えて金融、法制度、学術、文化などが覇権を争う主な戦場である現実に鑑みればもっともなことです。
カトリックはカルトだとか、洗脳されて非科学的なことを信じてるなどという理解も少なくありませんが、自由意志を尊重して強制を避けるのが本来の教えではないでしょうか?
警察のあり方として、日本は確保して検挙するのが目的であり、傷を負わせたり殺したりしてはいけないという強力な原則が実践されているるらしいです。いくつもの冤罪事件で明らかになった違法な捜査、証拠捏造、暴力的な取り調べとは不釣り合いな慎重さです。
教会がしぶとく生き延びていることに関して、押田神父という人(故人、ドミニコ会)が、教会は神様が設立して今も運営してるんだからこの世が続く限り消え去ることが出来ない、と言っていました。
質問を書ききれないので後ほど投稿します。
701
:
愚者
:2014/09/08(月) 19:46:02
現代史のバチカン
sekko様
「カトリック生活」は「カトリック・サプリ」を目当てによく購入します。10月号も楽しみです。引用部分からは公会議の変遷の意味と壮大な激しいドラマが読み取れて面白いです。ジャンヌ・ダルクが500年後に復権し列聖される隠された道筋といい、頑なな瀕死の老人のような?教会が叡智に満ちた預言者に生まれ変わった公会議といい、神業ですね。
ところで、第二次大戦でバチカンはナチスを容認しつながっていたとの理解が、一部では現代史の常識的な知見として受け入れられているようです。
これの反証になる文献ー検証に耐える記録はないのでしょうか?
日本では長年カトリックを看板にしているミッションスクール出身の作家が他の御用識者以上に原発と事故、沖縄戦についてトンデモ発言を重ねています。ナチスの手口発言の閣僚もカトリック信仰を公にしています。また、先週入閣したカトリックの女性閣僚は極端な国粋主義グループのメンバーで、政権と関わりの深い某カルト教団に寄付をしたと言われています。彼等は積極的に某神社に参拝するようです。そして、自信満々で究極の上から目線です。こうした様子がカトリック教会は極右でナチスと同類といった見方を助長する一面があるのではないでしょうか。平和、生命、尊厳を政治の次元に引きずり降ろして、右左のラベルを貼るからおかしなことになるのではないでしょうか。
前述の人々の思想信条も言動も自由ですが、カトリック教会=極右=ナチスの同類、は誤りですから放置してはいけないと思います。護教ではなく、事実の検証が必要だと思います。でも、どこに確かな証拠があるのか知識がありません。反論するささやかな機会に遭遇したら反論するためにそれを知りたいと思います。
ヒントを与えて下さるようよろしくお願いいたします。そういう著作を出版していただければもっといいと思いますけど。
702
:
sekko
:2014/09/08(月) 23:51:09
愚者さま
「カトリック教会=極右=ナチスの同類」なんて思われてるんですか。
そうかと思うとユダヤとカトリックの共同の陰謀論もあるし、まあ、何でも組み合されますが、イデオロギーに使われたり、現職の議員や閣僚の言動をチェックされると困りますよね。
ちょうど昨日、キューバのフリーメイスンについて書いていて、そうか、チェ・ゲバラもフランシスコ教皇もアルゼンチン人なんだよなあ、と感慨深く思ってたところです。
日本におけるカトリックのイメージについて、最近岡田大司教の本で、青年の時にプロテスタント教会で洗礼を受けて、「カトリックは宗教改革で否定された反動的な中世の遺物だと思っていた」ら、自由意志と神の恩恵についてのカトリック神学の精緻な教理に出会って「二千年の教会の歴史の遺産と知恵を見い出」して、実存的な飢えと知的探求心の両方を満たされ手「改宗」したとあったのを読んで、なるほどと思いました。
私も、カトリックが、歴史の荒波の中でいろいろな難破もしながらとにもかくにも大船を建て直し維持してきた智慧の結集にはいつも感心させられます。
フランスでは何世紀もカトリックしかないような村はまだいくらでもありますから、そんなところでは、政治的にも思想的にも性格的にもあらゆるタイプの人がいるわけで、「カトリックだから何々」とは別に言われないのは、「日本で家の墓が何々宗のお寺にあるからあの人は…」と言われないのと同じです。
でもそんなフランスでわざわざカトリックから仏教に「改宗」するような人はやはり、仏教徒だから菜食だとか殺生しないとかいう目で見られます。日本で「カトリック」をあえて選ぶ人もそういう意味で、上から目線どころかひたすら謙虚に弱者に仕えるところを見せてほしいですね。今の教皇が言っているのもそういうことですが。
ヒトラーとバチカンの関係についてはいくらでも資料はありますよ。ヒトラーのライヒ・キリスト教は何しろイエスはアーリア人だとか言っているのだし、基本的にお話になりません。でも国際政治のパワーゲームはまたそれとは別ですし、個別にはいろいろなケースが出ました。
今日本語ですぐに何かないかと少し検索したら、wikiに「ドイツのカトリック」というのがありました。多少役に立つかも。
しかし最も大切なのは、そのような時代を経た後彼らがどうそれを乗り越えたかということで、その意味で第二ヴァティカン公会議もそうですが、ポーランド人教皇やドイツ人教皇さらにアルゼンチン人教皇を輩出したことには感心します。
前も書きましたが、世界的に見ると「人材」には事欠かない大きな組織なので、今時、その中から選出されるような人は、ありとあらゆることを考え尽くす知的誠実さに信頼のおける人だなあと思います。聖霊の風に吹かれているとはいえ何でもきっちり文章化してくれるのも分かりやすくて魅力です。
そして、誠実に突きつめれば突きつめるほど単純化する本質的なものもあって、仏教も含めて「普遍宗教」の霊性というのは本当はそういうものなんだなあと思います。
あまり「評判」や「誤解」を気にせず、自分より相対的に弱い人の役にたてることを少しずつやっていくのが一番確かかもしれません。
http://setukotakeshita.com/
703
:
kei
:2014/09/10(水) 22:11:20
ユダ
ヒストリーチャンネルでしたか、ビン・ラディンの殺害に重ねて、リーダーを捕まえるには必ず手引きをする者が必要だ、と言っていましたが、アメリカのTVが言うと妙に納得します。
最後の晩餐の動揺からしても、マークされていたのはユダだけではなかったと思われます。
著書のように、イエスは確かにユダを許していたし、ユダの状況を理解してその苦しみを和らげようとしていたようにも思えます。
しかしその後、ユダヤ人と共に、人類最大の悪人とされてしまったのはこれこそ人間の罪の深さというべきでしょうか?
最近でも、キエフ派のウクライナ正教会総主教が、プーチン大統領を「カイン」に例えたとのことです。
シリア内戦(もうアラブ宗教戦争と言うべきでしょうが)では、サウジのイスラムの指導者が、アラウィー派のアサド大統領と戦うことを聖戦扱いにして、アサド大統領は、外国戦闘員を背教者と呼んでいました。こんな取り返しのつかないことをすると泥沼は深まるばかりです。
自らの立場を正当化するために、相手を絶対悪とレッテルを貼るのは今後も続くことでしょう。(世俗的には「民主主義の敵」なる言葉も流行しているようです)
罪深い人間の歴史の中で、ユダも少しずつ人間的な光を当てられているようですが、それはポジティブなことなのでしょうか。
今、教皇は困難な中でも寛容と和解を訴えているようですが、その基本的な立場を貫いてほしいものです。
(ISISに対しては正当防衛の歴史からの理解をしています)
今ユダはどこに居るのでしょうか?
704
:
sekko
:2014/09/11(木) 02:09:15
keiさまへ
教皇と正当防衛については前に少し書きました。
http://spinou.exblog.jp/22507342/
ユダについては、そうですね、ユダの罪が少しずつ「人間だもの」みたいな許され方をする傾向は、もしそれが「裏切りを正当化する」ものならポジティヴとは言えません。
でも、これまでユダ一人を悪者にしたてて責任転嫁してきたやり方よりも、ユダ程度の裏切りは「人間だもの」と認めることで逆に、誰でもユダになり得る、それをどう克服するかという一般論の方向に行くならポジティヴかもしれません。
「人間だもの」で許すのではなくて、それを克服しようとするのもまた人間的な営為だと思います。
原罪は「蛇=サタン」の誘惑のせいということで、人間が皆断罪されるかわりに、「悪の誘惑をどうしたら斥けられるか」という方向にスライドしていく場合、ネガティヴではないと思います。でも、ユダの場合はいくら「サタンが彼の中に入った」せいだと言っても、ユダという人間が悪と同義にされて否定されるのだとしたら、それは「救いの対象になるすべての人」を人が勝手に「仕分け」してしまうことになるので、いろいろな差別と共通の根を持つことになるでしょう。
出来心だとか小さな裏切りは、ほとんどは大した結果を生みませんが、運が悪いと大きな災厄を引き起こします。そういう例は少ないのかもしれませんが、それをたいそうに言い立ててもらった方が、自分も含めて凡人には抑止力になるかも、とも思います。
多くの人が、「ユダが悪い、神殺しだ」のように短絡化してやってきた歴史は不思議でもあります。でも、「悪いのはいつも自分や自分たちの仲間ではない誰か」という言説を人は信じたいのかもしれません。
ユダがいるのはやはり普通の人の心の中、なのかもしれませんね。
http://setukotakeshita.com/
705
:
愚者
:2014/09/13(土) 00:36:18
ナチスとバチカン
sekko様
おっしゃるとおり評判を気にするべきではないのですが、私の目上の親しい人は、カトリックは嘘と迷信の原点から始まった宗教であることを知った方がよいと忠告してくれました。中学以来の親友はアラブ研究の片倉ともこ氏が寄稿した雑誌を貸してくれて、目を覚ませというメッセージをくれました。片倉氏は「キリスト教は明らかにあり得ない処女懐胎や復活を信じる宗教。イスラム教にはそうしたお伽噺はなく理性に反しない宗教」と記していました。
そんな経験から、カトリック教会に縁のない一般人の印象は、反感と侮蔑が基調にあることを知りました。下はよくあるその種のツイートとコメントです。
http://sun.ap.teacup.com/souun/15241.html
教会は世の終わりまで敵意や侮辱という十字架を担うのでしょうが、その原因の事実誤認や誤解に腹がたつこともあります。
女性が司祭になれないのも時代遅れの性差別といわれますが、私見では「被除階権」という権利は存在しないと思うので性差別には当たらないような気がします。最後の晩餐の原型への拘りが感じられて、カトリックにも原理主義的な聖書への忠実さがあることに気づきました。
最も困惑させられるのは、天動説の弾圧、宗教戦争、異端審問、魔女狩りなどの愚行を犯したのはカトリック教会唯一者だけである。というイメージがいつの間にか定着してしまったことです。
いつの時代にも、最悪の過ちを犯してきたカトリック教会という根強いイメージ。その反面、コペルニクス、ガリレオ、デカルト、パスカル、エラスムス、ルソー、メンデルなどの不朽の思想家たちがカトリックであることはあまり知られていません。ラスカサスは最近まで知りませんでした。
wikiの「ドイツのカトリック」反論の素材になる情報がありました。
近年教皇庁で第二次大戦中の文書などの整理が進み、いずれ公開されるとどこかで読んだ気がしますが、日本で優れた翻訳や解説が出るまでには十年や二十年はかかるのでしょうね。
現教皇は大変好もしい方で、ユーモアのセンスもあるそうなので、厳しい危機に適した人材ですよね。B16世は極端な金融ゲームを公に非難して良識を示しましたが、報道したのはカトリック新聞だけでした。
706
:
sekko
:2014/09/13(土) 01:31:37
愚者さま
なるほど…。これは『キリスト教の真実』でも書いたのですが、「西洋近代史」って、プロテスタントがその名の通りカトリックを大批判または全否定するような形で生まれ、その後、理神論とか無神論がカトリックもプロテスタントもまとめてキリスト教を批判、否定するような形で進んできたので、そういう議論には事欠きません。
順番からして一番たたかれているのがカトリックで、言い換えると、プロテスタントや理神論、無神論の勢力の台頭と接触のなかった文化、脅威にならなかった文化は全くたたかれていないわけです。
カトリックの方は何を言われても、最初は「破門だ、異端だ」と言っていても、そのうち「よく考えてみると自分たちもまちがっていたかも」と反省もしてしまい、他宗教への批判がアイデンティティになるところまではいかないので、自己弁護の武装が今一つ足りませんよね。
でも、プロテスタントやイスラムより古くて、しかも、あれこれメンテナンスしながら生き続けているのですから、「今のやり方を見てくれ」といういわば「大人の態度」をとっているともいえるわけです。私は自分も年を取ってくるとそういう方にシンパシーを感じます。
宗教の創生神話とか建国神話とか、教祖の誕生の不思議譚そのものはどこにでもあるのでその表層はあまり気になりません。
同時に、「理性では信じられない」という言い方は、理性や科学では説明がつかなかったり考えられないようなことはこの世にたくさんあって、いや、多分、合理的な部分というのはほんの一部だと思うので、私はむしろ不可知論です。
『自由人イエス』(ドン・ボスコ社)で書かれているように、イエスの「復活」というのは、私には想像もつかないような形で使徒たちの全世界観を覆すようなことが起こったのでしょう。
すごいなあ、ちょっと知りたいなあ、とは思いますけれど、私が知りたいけれど理解を超える、または手の届かない世界の不思議なんて無限にありますから、復活をきっかけに何が起こって何が問われているのかの方が本質的なものだと思います。
カトリックではなく無教会派ですが矢内原忠雄の『キリスト教入門』(中公文庫)も日本におけるキリスト教理解について興味深い本です。プロテスタント無教会主義の明快な、それだけに厳しい信仰の態度は、うらやましいような、やってられないような、日本人には無理だなあ、という感じはします。フランスにおけるカトリックのぬるさの方が「応用がきく」という私の印象は変わりません。
『自由人イエス』、『キリスト教入門』とも私が解説を書いています。よかったら参考にしてください。
http://setukotakeshita.com/
707
:
今紫
:2014/09/26(金) 22:07:23
改めて気になるバチカンへの落雷
お久し振りです。
もう大分前のことになりますが前教皇が退位され一時聖マラキの予言が話題になりました。退位を発表したその日、バチカンのサンピエトロ大聖堂に落雷した事件はご存じでしょうか。あの映像は覚えています。巷では様々な憶測と説が交差し混乱しました。これはどういう意味が込められていたのでしょうか。単なる偶然でしょうか、それとも神のおもしめしでしょうか。
708
:
sekko
:2014/09/27(土) 18:04:19
今紫 さま
そうですね。フランス系の通信社AFPのカメラマンがあの日、嵐になったので、サン・ピエトロ大聖堂の上の避雷針に雷が落ちるのではないかと期待して柱列の下で2時間も待機して、3度の落雷のうち2度目をキャッチしたのでその特ダネ写真は世界中に配信されました。
BBCのカメラは3度とも録画していてこれも今もネットで見れますが、当時も、「神の存在証明だ」という人や単にジョークとして扱う人もいました。
1981年に初めて社会党のミッテランが大統領選に勝利した夜も大嵐で、オランド大統領も大雨男で、就任後のパレードもずぶ濡れ、ドイツに向かった大統領機に落雷して引き返したことなどもいろいろ言われていまして、フランス国内ネタではそっちの方が熱心でした。
あの日のイタリアは半島部分の西半分、サルデーニャ島まで広範囲で嵐で落雷があったので、別にヴァティカンだけに突然落雷したわけではないし、避雷針が機能していたということでしょう。
前教皇はそんな予報の出ていた日にわざわざあんな発表をしてしまったわけですが、もちろん偶然でしょう。
でもそれだけ「絵になる」ということは、あの大聖堂が「神と人間の中継地点」「神へのアンテナ」と多くの人にイメージとして刷り込まれているのだなという意味ではすごいなと思います。
あの写真だけで「マラキ書」が蒸し返されるとしたら、巷の見た目もっと堅固な陰謀論や終末論には反論してもなおさら無理かもしれません。視点を変えた方がいいですね。
フランシスコが最後の教皇、世界の終わりの教皇などと言われても、彼の福音的にぶれない姿勢は広く評価されていますし、使命感は変わらないと思います。自然現象ではなく、生き方、使命の遂行の仕方によって「神の意志」を伝えようと彼は思っているのでしょう。
この掲示板に時々来る陰謀論や終末論系のリンクは消去しています。あまりこの手の話題をふらないようにご理解ください。
http://setukotakeshita.com/
709
:
愚者
:2014/09/28(日) 21:17:48
不穏
「自由人イエス」を読んでから投稿するつもりでしたが、のんびりしてはいられない気分です。
国連人種差別委員会からレイシズムの禁止と規制を勧告されてほどなく内閣が改造され、19人中15人が極端な国粋主義グループのメンバーであると同時に差別団体と親しい関係にあることが明らかになりました。国連が禁止・規制を勧告した類いの団体の代表的なものです。逮捕者も出ています。
欧米の主要紙が取り上げたそうですからsekko様もご存じと思います。しかし国内の主要メディアは全く報道しません。9月25日は外国特派員協会(FCCIJ)で行われた山谷国家公安委員長の講演と質疑応答の驚くべき内容が、タイムズ、ウォールストリートジャーナル、ワシントンポストなどで報じられたそうで、主にwebに表れる独立ジャーナルや識者の記事によって私たち一般人はそれを知りました。
海上自衛隊がNATO軍と合同訓練をすることが決まったなどというニュースも、重要な情報ほど主要メディアは知らせません。
先々週、ロックフェラー家の財団だか持株会社だかが石油事業から手を引いて再生エネルギー事業に出資するBBCのニュースがありましたが、主要メディアは取り上げません。政府もメディアもグローバル化、グローバル人材と大合唱しているのに、グローバルイシューを活発に論じません。
件の国家公安委員長は普通選挙法、婚姻の自由と男女平等に反対していて、離婚禁止法が必要だと公言したそうです。就任時に山谷氏は有名な差別団体との関わりを訊かれて、そんな団体はきいたこともない、と答えたのですが、写真や文書の記録がいくつも公にされてからは、記事の書きぶりが問題だと居直りました。国家公安委員長が差別主義団体の仲間で、それを隠すために就任早々虚言を吐いたのです。ナチスドイツを手本にする閣僚も差別主義(ヘイトクライム)団体の顧問を務めた人も即刻辞任するべきだと思いますが、全くその気配はありません。
遠からず秘密保護法が施行されたら、この程度の常識的な会話も監視や嫌がらせの対象にならないとは言えません。質問したかったのはリベラルという語と概念の理解のねじれについてですが、改めて投稿します。
そういえば、岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話を聴きました。
710
:
sekko
:2014/09/28(日) 23:53:44
愚者さま
ここは一応宗教・哲学のテーマなので、深入りしませんから、Forum3の方にでもまた話題をふってください。他の人も参加してくれるかもしれません。
山谷さんのことは前からネットを通して聞いています。昨日も田中龍作ジャーナルで経緯を読みました。確かにヘイトスピーチの団体の堂々のデモなど、私の知っている日本では想像もつかないことです。でも、フランスにいても日本の情報がこうして伝わってくるのですから、これも30年前には想像もつかなかったことで、このようなグローバル化をなんとかしていい方につなげたいですが・・
>>>岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話<<<
ですが、ラザリストや愛徳姉妹会を創った近代都市の社会福祉の先駆である聖ヴァンサン・ド・ポール(ヴィンセンシオ・ア・パウロ)はこう言いました。
「あなたが祈っている最中に一人の貧しい人がドアをノックしたなら、神をひとまずおいて、神を迎えなさい。
ドアを開けに行きなさい、あなたに会いに来たのは神なのです」
この言葉を教えてくれたラザリストの神父が弱者を支援する時の座右の銘は
「ゆるす、忘れる、継続する」
なのだそうです。これについてまたどこかに書きます。
時代も国もはなれた今の日本でも、愛徳姉妹会の日本人シスターたちは迷わず聖ヴァンサンの言葉に従っています。というか、貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人などのうちのドアをたたき続けています。もちろん国籍や出自は無関係です。
これは今の教皇の霊性に近いので、今の教皇を煙たがる人も決して少なくないですね。
http://setukotakeshita.com/
711
:
愚者
:2014/09/29(月) 02:41:46
sekko様
哲学宗教と関係ない投稿申し訳ありませんでした。
外国在住者はむしろメディアコントロールを免れていることに気がつきませんでした。内田樹、水林章、佐々木中といった知識人もブログやSNSで遠慮なく言論活動をしていて、それが当たり前に外国に届いているのですね。
フランシスコ教皇の著書邦訳を読んだ友人が、教会の未来に希望が持てることが書いてあったと言ってました。
ある神父さんがフランスの教会は見る影もなく縮小してしまったが新しい霊性や霊性の刷新はなぜかフランスで生まれると言っていました。霊性ではありませんが、アメリカでブームになったT.ピケティの本ー特権階級が煙たがる経済史らしいーは12月に翻訳が出る予定だそうです。日本国内では読んだ人による書評はまだありません。もしもsekko様がお読みになったら、どこかで感想を書いていただければと思います。
これからは質問するときはFORUM3に参ります。
ありがとうございました。
712
:
愚者
:2014/09/29(月) 03:38:46
訂正
愛徳姉妹会を身近に感じる環境ではありませんが、福音を文字通り実践する修道会なのですね。
信徒であっても聖ヴァンサンの教えを実践できるようにならなくては。
水林先生のサイトは工事中でしたので、取り消します。
sekko様を始め思慮に富んだ知識人がインターネットで言論活動を続けている限りなんとかなると思えてきました。改めてありがとうございました。
713
:
sekko
:2014/09/29(月) 06:26:51
愚者さま
ピケティの新著については前にブログで触れたことがあります。
http://spinou.exblog.jp/22257223/
このブログで書いたピケティの以前のパートナーだったオーレリー・フィリペティは、 8月にヴァルス首相がフランスの経団連みたいなのにすり寄って内閣改造した折に怒って出て行ってしまいました。
新著は通して読んでいないのですが、数々の記事や抜粋や著者インタビューを聞いて、この本を取り巻く言説の方に興味を持ちました。
愛徳姉妹会は徹底的な社会奉仕においてぶれがなく、ラディカルです。いつも感動します。私はカトリックの不思議話が好きで、パリの愛徳姉妹会の「奇跡のメダイ」のチャペルの話を本で紹介して以来のつきあいなのですが、今は、「奇跡、なに? それ」という感じでエネルギッシュに活動しているシスターたちの存在そのものが奇跡だなあ、と思っています。
10/22には大阪で彼女らが運営する養護施設「聖家族の家」で子供たちのためにバロック音楽劇をやります。11年ぶりです。
11年前の慰問コンサートのことはトリオのブログに書きました。
http://nitetis.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-c7e8.html
今回は子供たちと踊る趣向もあります。子供たちに今より少しでもよくなる社会を残したいです。
http://setukotakeshita.com/
714
:
今紫
:2014/09/29(月) 19:44:09
大天使ミカエル、ガブリエル、ラファエルの祝日
竹下先生
先日はありがとうございました。偶然の出来事であることがわかり安心しました。
陰謀論の件は今後、ふらないように気を付けます。申し訳ありませんでした。
本日、大天使の祝日です。竹下先生に大天使のご加護がありますように。
715
:
kei
:2014/10/10(金) 14:45:14
プロファイラー、パルジファル
10月8日放送のザ・プロファイラー「ジャンヌ・ダルク」に出演しておられました。
あの1時間ではとうていプロファイリングなどできないのはもちろんでしょうが、改めて合理的な理由が出れば出るほどそれをすり抜けてしまうことを実感しました。
テロ戦以来、西側の戦争の戦略論理に慣らされてしまっています。そのようなものは結局シャルルの論理なのでしょう。
日本で今ジャンヌ・ダルクの劇がやっているようで、なぜ日本で?と思ってしまいますね。
ところで、「ユダ」の反ユダヤ主義の例にワグナーが入っていません。
楽劇「パルジファル」などはその好例のように思われます。
最初に永遠に呪われて死ねない女クンドリが出てきますが、さまよえるユダヤ人を知らずにはちょっとわからないでしょう。
クリングゾルなどアラビアとなっていますが、どうみてもユダヤ人のことです。
これを見る人たちはユダヤ人のもたらした悪徳からの救済と見ていたのでしょうか。
どうもここには、自分たちの問題点の責任を他者に転嫁してしまう西欧的思考が見られるような気がします。
それが社会主義やイスラムにとって代わられているだけではないでしょうか。
ジャンヌも背教者として処刑され、免罪、そして聖女となったわけですが、こうしたご都合主義が今も続いている気がします。
716
:
sekko
:2014/10/11(土) 23:49:35
Keiさま
今赤坂ACTシアターでやっている『ジャンヌ・ダルク』の公演のパンフレットにも記事を書いています。今までとは少し違った視点で書いてみました。機会があればご覧ください。
私はコンサートや講演で日本にいくので、11月の横浜公演の方に行ってみたいと思っています。(コンサートの情報は下のURLから入れるトリオ・ニテティスのブログに載せてあります)
ワーグナーについては複雑な思いがあります。フルトヴェングラーについても複雑なので。
私は中学生の頃から渡辺護さんと交流があり1967年の大阪国際フェスティバルのバイロイト国際フェスティヴァルで講演された時も楽屋でおしゃべりしました。
そんなこともあってゲルマン神話世界と反ユダヤ主義の関係は何となくスルーしたのです。
反ユダヤ主義は「ユダ」本人への憎悪よりずっと政治的でもあり複合的なのであまり深入りできないところでもあります。今はフリーメイスンについての書下ろしを進めているのですが、ユダヤ=フリーメイスンの陰謀論の構造と歴史がまた複雑です。ユダと同じく、フリーメイスンにまつわる言説を通して見えてくる文化の差、歴史というものは興味深いです。
http://setukotakeshita.com/
717
:
愚者
:2014/12/24(水) 00:22:19
クリスマスおめでとうございます。
sekko様も藤永先生のブログの読者なのですね。あんな94歳に、できるものなら自分もなりたい、と感じさせる方ではないでしょうか。闇の中で叫ぶ賢者。
T.サンカラの生涯とJ.ジグレール「世界の半分が飢えるのはなぜ?」が改めて取り上げられていて、クリスマスのプレゼント向けの本だと思いました。日本の漫画家がサンカラの伝記を描くといいと思います。井上雄彦氏あたり(他の作家を知らないので)。
岡田大司教との対談を聴かせていただきました。大司教が、我々はずっと以前からキリスト教の悪口を毎日聞きながら宣教している、と言ってましたが、実感がこもっていました。長年の報われない宣教の苦労で、疲労困憊した顔色や表情が固定してしまったのでしょうか。
でも、大司教の指摘のとおりだと思います。音楽家、彫刻家、画家、小説家・詩人などにはキリスト教徒がけっこういるみたいですが、キリスト教の影響に接することのない普通の人は、その人がキリスト教だと思っているところの、キリスト教に非ざるものをキリスト教だと考えていることが多いと思います。よく、ローマ法王に忠誠を誓うカトリック信者という表現を見ますが、少なくとも日本では忠誠を誓ってるカトリック信者に会ったことはありません。しかし、そう定義されているようです。陰謀論の世界ではバチカンやイエズス会はレギュラーらしいし。
一方、映画「天国は本当にある」は意外と空席が少ないとか、銀座の大手レコード店でノートルダム大聖堂のミサのライヴの売れ行きが凄いなどという話も聴きました。
「自由人イエス」を読んでおりますが、むずかしいところは飛ばしています。文章は平易なのに内容は私にはやさしくありません。
幸いなクリスマスとお正月をお過ごしください。
718
:
sekko
:2014/12/30(火) 08:03:07
愚者さま
ありがとうございます。
クリスマスって、よく考えるとすごいですね。神が受肉する時、わざわざ赤ん坊になって、しかも飼い葉おけの中で、牛やロバからさえ見下ろされる、世界中のキリスト教会や家庭で飾られる「馬小屋」の中で、一番低い位置にいるのが「幼子イエス」って、「上から目線」の神さまや教祖様とは正反対の究極の「下から目線」。
これが出発点で、最後は、十字架の上に「上げられて」下から見上げられる「さらし者」として殺されて、そのまた後に復活して、ようやく「昇天」して「天の父」と合流するわけですけれど…。
生まれたとたんにすたすた歩いて「天上天下唯我独尊」としっかり「優越性」を宣言しているように見えるお釈迦様のイメージとは違いますよね(お釈迦様は生まれた時に立っていて、亡くなった時に涅槃で横たわってという感じで、イエスは生まれた時は裸かぐるぐる巻かれて横たわり、死ぬ時と昇天が垂直のイメージで逆なのが興味深いです)。
藤永先生は、まだ80代でいらっしゃると思います。まだまだお元気で発信し続けていてほしいです。
カトリックに関して、ローマ教皇に忠誠を誓う修道会は普通にありますけれどね。普通の信者は忠誠というより、「キリストのまねび」というか、キリストをまねて生きた聖人たちの生き方をまたまねて、というようにモデルがたくさんあるので目的地ははっきりしているはずですけれど生き方路線はいろいろなのかもしれません。
よいお年をお迎えください。
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719
:
kei
:2014/12/31(水) 13:47:37
JP2とF2
クリスマスネタですが日本の漫画「セイントお兄さん」でマリア様がネットで馬小屋で出産したと書き込んだら「うっそー」「ありえない」との反応だったようですよ
なかなかあの漫画はためになりますね
ジャンヌ・ダルクの舞台、堀北真希ちゃんのがネットであがってますが、ちょっとリュックベッソンに影響されすぎていますね。
モーニングで漫画家の山岸 涼子が書き出したようですが、これもどうもリュック・ベッソンの系統のようです。
「宗教戦争」の時代に妙なとらえかたをされたのは困ったことです。
「イスラム国」ですが、「アラブの春」の混乱の中で、結局極端なイスラム主義にアイデンティティを求めてしまったのでしょうか。
そもそもアラブの春というものが民族主義的な独裁を打破ったとき出てくるのは、西欧型民主主義ではなくイスラム主義というのは当時からみえていたことではなかったでしょうか?
アラブの春そのものも、さまざまな諸潮流がまざりあっていたのに、民主主義と単純に規定してプロパガンダに乗せられてしまって今日に至る気がします。
ウクライナ然りですが。
私は、現教皇フランシス2世のアプローチは正しいように思います。
双方に和解と寛容を促すアプローチ。
キューバとの和解についてはマスコミでもヨハネ・パウロ2世のアプローチと比較されていますが。
無神論なるがゆえに体制を変えようとしてしまったJP2は、その後のブッシュ政権のイラク侵攻から、この混乱を招く引鉄になってしまっている気がします。
JP2は、冷戦崩壊後の世界はフクヤマ主義的なものを考えていたのではないでしょうか。
まさかこのような混乱と弱肉強食の世界となるとは考えていなかったに違いありません。
720
:
sekko
:2015/01/01(木) 01:35:45
新年おめでとうございます
フランスはまだ大晦日ですが、これから忙しくなるので今のうちにご挨拶です。
keiさま、現教皇はフランシスコです。選出された時「フランチェスコ一世」と報道されたこともありましたが、正式には、次にフランシスコ二世が登場した時に、今の人がフランシスコ一世とよばれることになるそうです。
(ヨハネ・パウロ一世はなんだか最初から一世と呼ばれていたような印象なのですが、ひと月ほどで亡くなってすぐにJP2が誕生したからかもしれません)
「アラブの春」に関しては、軍事独裁政権がそれまでイスラム主義勢力を抑えていたのが打倒されたことで歯止めがなくなったこと、「民主主義」を求めていた人々はまとまった政党をつくるストラクチャーも余裕もなくて、結局イスラム主義政権が「民主的選挙」で選ばれてしまったというジレンマがあったと思います。
それを言うなら、フランシスコ教皇のアルゼンチンもずいぶん危うい道をたどってきました。フアン・ペロンの正義党がファシズムだったのかどうか、その運命を思うと感慨深いです。今も正義党は健在ですし。
ペロンも教皇と同じイタリア人ルーツがありました。今の教皇の人気もポピュリズム、ペロニズム(ペロニスマ)と評する人もいて、危うい部分もあるなあと案じられます。ともかく、世界中で平和や環境保護を望む人たちが教皇の人気をよい意味で最大限に利用して、特定の国や企業への利益誘導という流れを変えていってくれればなあと思います。
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721
:
kei
:2015/01/05(月) 17:43:54
イスラム国とナポレオン
確かCNNだったと思いますが、乳幼児死亡率などの改善は中国の効果が非常に大きいということを見た覚えがあります。
アラブの春からイスラム国への流れは、シリア情勢をウォッチングしていた過程から言うと、結局「民主主義派」が武装闘争になるときに、なんでもかんでも引き入れてしまい、特に欧米がアンタッチャブルのサウジ、カタールなどが、スンニ対シーアの観点から介入して、シリア国内のスンニ派高官などに働きかけ、政権転覆を狙ったときから宗派戦争化してしまいました。
イランとサウジどちらが先に介入したのかは論争の的ですが。
イスラム国の前のISISも、イラクのシーア派政権を牽制するために泳がされていたのはもう周知といってもいいと思いますが、
まさかここまで思い上がるとは、と攻撃にまわっていますが、それは甘すぎるというものです。
フランス革命もナポレオンが居なければあっさりと潰されていたかもしれません。
皇帝を名乗るなどと妙なことをしましたが、近代の思想に基づいた改革を行ったのは、希に見る「良い独裁者」といえるかもしれません。
ある意味ナポレオン帝国が短期で終了してしまったことが、ナポレオンの良い側面がその後に受け継がれたかもしれません。
マルクスもレーニンも革命と民主主義と独裁の関係を研究していますが、それを考えると共産主義独裁が残ってしまったロシアよりも、敗北したドイツやフランスのほうが社会主義の思想をうまく引き継げたのかもしれないとも思ってしまいます。
革命と啓蒙主義的普遍主義思想のイデオロギー化の失敗、そしてナポレオンによるカトリックとの和解と普遍主義、さらに宗教。
こんな感じで考えてゆけばナポレオンは今日的かもしれません。
722
:
愚者
:2015/01/13(火) 00:49:47
1/2
sekko様
去年の投稿の誤りを指摘して下さってありがとうございました。藤永先生は21年生まれと思い込んでいましたが、私の誤りで正しくは26年生まれの80代でした。
sekko様が他のところでも書かれたキリスト教の逆説は最も心を惹かれる事柄ですが、精神を調えて集中しないと質問するにしてもまとめることが難しいので(^O^)、後回しにします。
L'art de croire を読んでアメディとアメドの対比には心を打たれました。
今回の事件に関する日本の識者の反応では、「反テロリズムでは一致できるのに、なぜ反戦争で(ともに行進した首脳ら)は一致できないのか?」想田和弘
「Charlie Hebdoが命をかけて守った風刺精神が今向かうべきは、Je Suis Charlie の「熱狂」だ。」伊勢崎賢治
「シャルリ・エブドの風刺は下劣で差別的だが、(中略)マイノリティへの人権侵害を成しているとは言えない。無論テロに正当性を与えるものでもない。」「言えることは二つしかない。いかなる言論に対してもテロ行為は許されないということと、テロリストたちがムスリム社会を代表するかのような捉え方はとんでもない誤りであるということ。」中野晃一
などいまのところ共感できる意見が目につきます。イスラエルの首相が反テロリズムの行動に参加することへの疑問・批判も散見され、巧妙に忍び込んだ「偽善」にも気がついています。
723
:
愚者
:2015/01/13(火) 01:51:21
2/2
8日の新聞には「風刺は弱い立場の者から権力に向けるものであって、シャルリの表現は風刺ではなく差別だ。」という日本のムスリムの声が載っていました。トルコ研究とイスラム研究の内藤正典同志社大大学院教授は、欧州のムスリム差別の歴史の理解なしには(ムスリム側から見た歴史という意味らしいですが)、イスラミストによるテロやイスラム国出現の真の原因を解き明かすことはできない、との論を展開しているようです。
犯人が殺されて背景や動機の捜査が出来なくなったのでは?生きた犯人を逮捕することを重視しないのでしょうか?
非人道的な死刑制度がないとはいえ、現行犯として容疑者をためらいもなく射殺するフランスの警察は、犯罪を解明したくないのだろうか、裁判で死刑にできないから凶悪犯は裁判にかけずに殺してもいいといった深層心理でもあるのか?と疑問を感じました。
日本の警察は、犯罪の全容の解明に必要なので、生きている犯人や容疑者を逮捕するのが原則だときいたことがあります。冤罪や不都合な事実が次々出てきたけれど、この原則は人道的だと思います。
キリスト教の伝統と人権宣言の国フランスの警察の姿勢は意外でした。
教皇への忠誠についてですが、洗礼に際して使徒信条を自らの信条とするのを教皇に忠誠を誓うと言い表すのではないでしょうか。教皇様に臣従を誓って家来になる、わけではないですよね。
724
:
kei
:2015/01/13(火) 13:09:11
グローバル化と寛容
まず掲示板の趣旨から言って、複雑な一事件の警察の対応などへの質問は控えるべきかと考えます
内藤 正典氏はこのごろとみに過激化しておりますのでお気をつけください
それに比べて酒井 啓子氏は非常にバランスがとれていると思われますので、中東・イスラム問題については参考にしてよろしいかと思います
http://www.newsweekjapan.jp/column/sakai/2015/01/post-901.php
シャーリー・エブドの襲撃については、一連の問題が最悪の形で爆発して切り分けられないまま進行しているかと存知ます
ムハンマド肖像風刺で揶揄・批判の対象しているのは、結局イラン、サウジなどの宗教と政治権力が一体化している国家ではないかと思われます。
しかしムハンマド肖像問題は権力問題とはかかわりなく長い間の文化問題でもあり、権力を批判しているつもりが、ムスリム一般が侮辱されているよう受け取られているように思われます。
フランス国内のムスリムはどうかわかりませんが、イランなどが声高に批判してくるので、ますますお互い過激になり、今回のように犠牲になるのは国内のムスリム達ではないかと。
グローバル社会、ネット社会の難しさが如実に出ているように思います。
例えば私はドイツのBILDはよく見ますが、過激なことを書いていても「またアホやってる」とか大笑いできるのですが。
他国でそのことだけを取り上げて、それがその国の姿勢みたいに広められると慣れない人は憤慨するかもしれません。
サッカーでもテロまでは至りませんが、メディアが煽って暴力沙汰は頻繁にあります。
国内で多数派のことで他国を煽りあいして、その結果戦争になるのは繰り返されてきたことではないでしょうか?
ワールドカップでもドイツ代表が祝賀会でアルゼンチンをからかう悪ふざけパフォーマンスをやったところ、アルゼンチンメディアから「侮辱」と言われて、「そんなつもりはなかった」と謝りました。
グローバル的な節度は求められているとは思いますが、今のメディアの過激化は問題かと思います。
教皇フランシスコ2世が和解と寛容を求め、自らモスクで礼拝している態度はそれに比べてなんと立派かと思います。
今はトルコですが、イランにも行けるようになればいいかと思います。
国家などにはそれぞれ複雑な問題があり、ある程度長期的にみていかねばならないことですが、欧米は性急にすぎて、かえって自分たちに降りかかっているように思えます。
挑発ではなく相互理解の積み重ねが大事かと
725
:
sekko
:2015/01/14(水) 00:50:36
keiさま、ありがとうございます
確かに昨日の書き込みはこの質問箱に適していなかったと思うのでForum3に移動しました。この質問箱は、上に書いていますが、死生観などについて迷っていることや考えていることについてピンポイントで私ならどう考えるかを知りたいという人のために開いているものですので、みなさま、それ以外についてはできたらForum3の方に書き込んでください。
このサイトもこの掲示板も、前にボランティアでやっていたフランス語のレッスンをやめた時に、引き続き、何か役に立てればと思ってはじめたものです。その頃、困っていたことについて他の掲示板で相談してみたらとても親切に答えていただいたので、私も自分にできることを何かしたいと思ったのです。それには、他の人よりも分かるのはフランス語とフランスの暮らしかなあと思って、Forum1を作りました。
ひっそりやっていくのが基本方針なのでみなさまよろしくお願いします。
http://setukotakeshita.com/
726
:
愚者
:2015/01/25(日) 20:32:54
お詫び
投稿が掲示板にそぐわない内容で申し訳ありませんでした。
フォーラム3への投稿を何度か試みましたが、ハードの機能の限界が立ち塞がりました。
フランスの政教分離に関する著作には心から期待しております。釈迦に説法で恐縮ですが、日本人によるフランスの政教分離に関する研究書で一般人の関心にもある程度応える著作は、今のところ伊達聖伸「ライシテ、道徳、宗教学ーもうひとつの19世紀フランス宗教史」くらいではないでしょうか。この本は私たち一般人には分厚過ぎて堅すぎます。私たちに必要なのは政教分離の宗教史文化史的な、また人物が登場する読み物だと思います。これを書ける人はsekko様の他にいないのではないでしょうか。
板違いで申し訳ありませんが、板垣友三東大名誉教授の興味深いインタビューがIndependeot Web Journal(IWJ) のサイトやアカウントに公開されています。もし未読だったらご一読に値するかもしれません。お騒がせしました。お詫びまで。
727
:
愚者
:2015/01/25(日) 20:37:43
訂正
誤 板垣友三
正 板垣雄三
でした。
728
:
sekko
:2015/01/27(火) 07:56:57
愚者さま
Forum3 に入れないのですね。
無理なさらないでください。
私もIT弱者なので。(愚者さまの問題は別の者かもしれませんが…)
板垣先生のインタビュー拝見しています。
1/11の共和国デモにネタニヤフがぎりぎりになって来ることを決めたのは、選挙が近くて、対立党の外務大臣らが出席するのを知った後での自国向け政治的パフォーマンスのようです。それでオランドも慌ててアッバス議長を呼んだようです。
政治家たちの思惑ばかりが交錯していたにしろあれはあれでよかったかもしれません。ヨルダンの国王夫妻がいたのも印象的でした。
板垣先生がフランスはイスラムをからかうのは自由でユダヤ人をからかうのには厳しいダブル・スタンダードだと言っていましたが、それは違います。
ユダヤ人差別言辞についてはペタン時代のホロコースト加担という過去のせいで特別に厳しいというのは事実ですが、もう長い間、いわゆる「平均的フランス人」には反ユダヤ主義は見られなくて、イスラム差別も、極右だと思われるのが嫌、不寛容だ、共和国的でないと思われるのも嫌だという自主規制が働いているので事実上見られませんでした。
社会のアメリカ化と共同体主義が進み、ムスリムが共同体化していったので、パレスティナ情勢のこともあり、反ユダヤ人言動は一部のムスリムか極右、ネオナチなどが主体でした。
カトリック文化で育ったけれど冠婚葬祭以外に教会には行かないという普通のフランス人は、「宗教」などもう過去のものだと半分は思っているのです。それなのにキリスト教も含めてを執拗に揶揄し続けていたシャルリー・エブドなどは「無神論の活動家」であるわけです。
それなのにヴァルス首相などが「ライシテこそ共和国の最高宗教だ」みたいな感じのことを言うので、なんか変な具合になってきました。
しかも、日本もそうですが、非キリスト教文化圏の人たちはなぜか「フランス=欧米=キリスト教」と言う連想があるので、シャルリーのせいでパキスタンやニジェールなどで教会が焼き討ちされたりしたのは気の毒です。イラクやシリアのキリスト教に至ってはヨーロッパよりも昔からの伝統ある宗教なのにさらに気の毒だなあと思います。
フランスのライシテについてはフランス人自身、特に知識人たちが自己欺瞞しているので実態は伝わりません。私が解説すると感心されることがよくあります。機会があれば書きますね。
http://setukotakeshita.com/
729
:
kei
:2015/03/03(火) 23:18:25
教皇の言葉は命令か?
シャルリー・エブドの復刊号の表紙に教皇などがエブドを追っている画が載っているそうですね。
この雑誌にこだわるわけではありませんが、最近教皇が子供のお尻を叩いてもいいのか、という議論を起こした、というニュースがありました
http://vpoint.jp/world/eu/37080.html
私などは、非暴力のドグマに捕らわれて、ほぼ子供のお尻も叩いたことはありませんが、心のどこかで「それでいいのだろうか?」と思っていたところ、この答えは大変参考になったものです。
しかしそれでも教皇が体罰を容認したというような声が出てくるのですから、なかなか難しいものだと思います。
フランスやヨーロッパは我々と違い、教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか?
ウサギ発言についても、私はとても具体的でウィットに富んだ言葉だと思いますが。
残念ながら私は子供のお尻を叩く機会をもう失っておりますが、次に孫が出来るときには、威厳を損なわない形でお尻を叩く方法を考えてみたいと思っております。
730
:
sekko
:2015/03/05(木) 07:21:57
keiさまへ
子供への体罰ですが、フランスでもヨーロッパの他の国のように禁止の法律化が話題になっています。個人的には、すべてその家庭での親と子の普段の関係を抜きにしては考えられないし、子供のタイプや親の判断力にもよると思います。子供が小動物や自分よりも小さな子供に害を加えたりいじめたりするような行動をとった時に害のない体罰によって断固とした親の意志を見せるという場合、その親がその信念にふさわしい行動をしているならばありかなと思いますね。でもこんな法律が必要になるほど、今は子供の虐待の連鎖とかの問題があるのだとしたら深刻です。
私自身は子供を叩いたりしたことはありませんが、普段可愛がっている猫にだって、ひどく引っ掻かれた時に思わず叩いたことが何度かあります。たいていはこちらが悪いのだし、犬と違ってそれこそしつけにすらなりませんが、反射的に手が出ることがあるというのは体験しているので、他人を批判することはできません。
で、「教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか」、というご質問、フランスに関してはないです。まあ今の教皇は人気者なのでこういう話題も取り上げられますが、普通はたいていスルーされます。『シャルリー・エブド』の復刊号にも、教皇の「私の母を悪く言う者は…」云々が取り上げられて、「福音書を読んでくれ(右の頬を殴られたら左の頬を出せ)」とか書かれていましたが、それでも愛されキャラみたいな扱いです。
もう30年位前、フランスのカトリックしかないような田舎で年配の女性たちのやっていた「昇る星」とかいう信徒の集まりに出たことがあります。みなそれこそ第二ヴァティカン公会議以前の要理でやってきた人たちばかりでしたが、すごくリベラルでフランクでびっくりしたことがあります。
避妊について、ヴァティカンが避妊具を容認してないことについて「そんなことちゃんときいてる人なんてない、家庭をもったことのない人たちに言われたくない」ってみんな言っていました。
まあ、フランスは司教会議もリベラルですが。
もちろん原理主義的な人たちはいますが、そういう人たちって分派していく傾向にあるし、たいていは教皇よりも「過激」ですからね。
フランスは絶対王政の頃も、ガリア教会主義で教皇の勅令が出ても、国会の承認を得なければ適用されなかったので、ある種の禁令が野放しだった例があります。
でもいつの時代も庶民はプラグマティックだったという気がします。社会に別のクライシスの要因が顕在化した時には信仰を刷新する人や下手すると狂信者なども出てくるのかもしれませんが…。
http://setukotakeshita.com/
731
:
ともこ
:2015/04/12(日) 00:23:27
サルトル「存在と無」第三部「対他存在」
私は海外の大学で哲学を学んでおり、現在、サルトルの「存在と無」の第三部「対他存在」第三部「他者との具体的諸関係」の部分を英語で読んでいるのですが、とても難しいです。「存在と無」の内容全体ではなく、第三部の第三章について、日本語で詳しく教えてほしいです。また、「存在と無」のオンライン書籍があれば紹介していただきたいです。私の英語力が全く追いついていなくて、困っています。時間がないので日本語の本を取り寄せる時間がありません。助けてください。
732
:
sekko
:2015/04/12(日) 00:30:31
ともこさん
残念ですが対応できません。図書館で当該図書の英語の解説書をさがせばいかがでしょう。ネットでも、日本語で助けを求めるよりは英語で検索すればレジュメや掲示板などあるのでは?
http://setukotakeshita.com/
733
:
kei
:2015/11/02(月) 07:43:57
神の計画
「フリーメイソン」楽しく読ませてもらいました。なかなか新教と旧教の対立は激しいものだと改めて思い、それを超えた普遍を求める志向について認識を新たにしました。しかし結局エリート主義結社だったなあと実感しました。グローバル時代とはいいながら、対立が深まるばかりで、新しい普遍がでてきてこないようですね。
ところでちょっと質問ですが、カトリック聖職者からも「神のご計画」という言葉をききます。
しかし人間の自由意志を重視しているのなら、個人のあれこれは個人(と守護天使)にかなりまかせておられるということになるのではないでしょうか?
カルヴァンの予定説との違いがよくわからなくなります。お教えいただければ幸いです。
PS.「ナポレオンと神」を心待ちにしています
734
:
sekko
:2015/11/03(火) 03:28:33
kei さま
「神のご計画」と人間の自由意志の関係ですが、神学的なことはカトリック系サイトの質問箱でお尋ねになれば答えてくれると思います。
エラスムスはトマス・アキナスを引いて、神の意思と人間の自由意志は別々に存在する、神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応するといいました。
その時にルターは、自由意志は神にしかなくて、人間に適用するのはナンセンスであり、人間のすべての行動は神の意思に添っているのだといってユダの例を出し、ユダの行動もすべて神のみ旨だと言いました。
ユダならまあ何とかこじつけられますが、もっと納得のいかない例もこの世にはたくさんありますよね。まあ、それは「この世」のことで「神のみ旨」なんて理解できないのだから不可知論になってしまいそうです。
でも、単純に言えば、神の計画はきっとあって、いろいろ人間に働きかけ続けているのだとは思いますよ。
でもそれに気づくか、アンテナをそちらに向けるか、気づいてもスルーするかなどの自由が人間にあるのでしょう。
でも、スルーされても拒否されても、気づかれなくても、神の方からはいつも情報を発信している(愛し続けている)わけで、いつしか人間の方が、自分の条件が変わった時(病気や老いや孤独その他)などに態度を変えて、今までの生き方を悔いたり、「神の計画」に参入するとか愛に応えるとか新しい関係性に入っていくことがいつまでも可能なのではないかと思います。放蕩息子の帰還みたいに。
「神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応する」ということは多分そういうことなのでしょう。
ちょっとハイゼンベルクの不確定原理みたいですが、電子を測定する時はじめて位置だの運動量だのが確定するので、神のみ旨を知りたいとか神のみ胸にゆだねるとか神の計画の役に立ちたいとか誰かが自由意志で決意した時にはじめてそれが見えてくる感じでしょうか。
そういうのを決意なしで自然体でやってしまっている人たちもたくさんいるのでうらやましいですが。
まずは、命を与えられて無事に生きていて信頼できる人がそばにいて、などの幸福に感謝、というところから始めたいです。
http://setukotakeshita.com/
735
:
kei
:2015/12/03(木) 17:15:11
聖母マリア
改めて「聖母マリア」を読んでいます。
この著作は貴女の著作を読んだ2作目(最初はジャンヌ・ダルク)で、そのころは不勉強でなんとも思っておりませんでしたが、その後いろいろ読むうちに、聖母マリア崇敬が異端であった時期があるのかなあ?と現在思っています。むしろ聖母マリア崇敬を抑えるためにマリアの従順さをクローズアップしたのではないかと思っています。
神が人間となり、母の胎内から生まれたのがわかっている以上、マリアの聖化は避けられなかったことかと思います。ローマ弾圧時代でも女子信徒は多く、ヨハネ福音書は女性に人気があったとの記述もあります。聖カタリナはマリアの勧めで、キリストと神秘の結婚をしたとされています。
現代は、メディアが英米優先なので、ピューリタン的男女平等が喧伝されておりますが、カトリックのいうように、母性については尊重されるべきものと思います。先進国での少子化の一端はそこにあるかとも思います。
拙の娘も結婚して、旦那の要望に従って専業主婦となりましたが、かえって自由に自分の好きなことをやれて、今和装の免状もとってサイドビジネスになりつつあります。こういう仕事の復帰もあるのか、と目をひらかされております。
https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31
736
:
sekko
:2015/12/04(金) 03:41:03
聖女の条件
『聖女の条件』(中央公論新社)の中で、ジャンヌ・ダルクの子とも聖母マリアの子ともさらに敷衍、展開しています。機会があればお読みください。
聖性と母性は都合よく結びつけられることが多いので私は警戒しています。
ただ、日本においては、専業主婦や母親になることで世間の圧力なしに実は自由を獲得する道が女性に開けている部分はあると思います。
でもそれは夫、父親の収入だけでやっていける恵まれたケースで、今はそれがだんだん難しくなっているのは心配です。
母性がリスペクトされるべきだというのはもちろんです。小さな命がこの世に生まれる、命を送り出す、というのは死の時と同じように、永遠とどうつながるかというすごいことだと感心します。
http://setukotakeshita.com/
737
:
kei
:2015/12/22(火) 04:02:45
クリスマス
ちょっと変な質問で申し訳ありません。日本でもクリスマスコンサートが教会で行われています
私も近隣の2,3に参加しました。
日本人は「教会」という定盤はほぼカトリックの大聖堂で、ヨーロッパ観光に行くとよく入るのに、ミサを体験してやろうという人はいないし、日本でもほぼ居ないと思います。わざわざクリスマス気分を味わうためにヨーロッパに出かける人もいます。せめてこんなときくらい来ればいいのにと思うのですが。
日本人にはカトリックは海外高級ブランド品のようなものなのでしょうか?中に居るとそんなこともないのですが、確かに感じなくはありません。聖フランチェスコの最初の教会のような貧しい者が集まる教会かというと疑問です。フィリピン人、ベトナム人などは平気で来てくれるわけですが。
アメリカ系では、大ホールに集まってゴスペル歌ってもりあがろうぜ、という教会が日本にも来ているようです。ポピュラーはポピュラーでしょうね。
慈しみの聖年が始まりました。貧者を招く教会というのは何なのかと考えるクリスマスです。
PS 貴女の著書でカトリックの面白さに気づき、(まあそれだけではありませんが)、入信しようという人が出ました、感謝申し上げます。
https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31
738
:
kei
:2015/12/22(火) 04:28:33
奇跡
すみません、あと1つ。まとめて答えていただいて結構です。
マザー・テレサの奇跡が承認されました。著書でフランスでは奇跡は割と不思議なこととは思われていない、と書かれていたと思いますが、これは伝統でしょうか?
日本では神道、修験道系で奇跡は出てきますし、神社で○○頼みをしているのは奇跡を待っているようなのですが、いざ「奇跡」と言われると引くと思います。アメリカでは事故などで助かった場合定盤のように「神が助けてくれた」と言いますね。
癌になったと落ちこんでいる(苦しんではいない)人が奥さんの友達に居て、マザー・テレサの奇跡を言って、気晴らしにルルドにでも行ってみたら?と言いたいのですが、ルルドも日本人知りませんね。
https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31
739
:
sekko
:2015/12/22(火) 08:27:13
kei さまへ
日本人のキリスト教感にはきっとミッション・スクールのイメージがあるのだと思います。前にもどこかで書きましたが、「日本にはカトリックお嬢カルチャーというものがあるんですよ」と教えてくれた方もいました。
それとは別に、今日のブログでも触れましたが、明治以降の知識人で、特にプロテスタントから無教会主義系で、キリスト教の精神を民主主義や人権などに結びつけて軍国主義や国家神道やらへの抵抗思想とした人たちの系譜もありますね。
でもその人たちは、神の摂理の予定調和などに疑問を感じて、いわゆる信者になる人は少数でした。
日本では、いわゆる貧しい人を救う、共同体から疎外された人を救う、という点では、新興宗教のネットワークが活躍したと思います。困難な状況にある人のところに出かけて行って支援と勧誘をセットにしたことが多かったのですね。
教会の方は、扉を開けて待っているだけで、すでに信者である人の共同体のケアという内向きのものが多かったのではないでしょうか。
貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人、母子家庭などのところに積極的に出向いて寄り添うタイプの活動をし続けてきたのは各種の修道会というイメージでしょうか。でも彼ら彼女らは、それこそマザー・テレサと同じで徹底して奉仕するだけで新宗教やカルトのような勧誘など絶対しませんから目立たないし、「海外ブランド」のようなカトリックとは別物と意識されるのでしょう。
日本にいる外国人がカトリックのコミュニティを通して助け合いやネットワークづくりをするのはうらやましいですね。
彼らの方がある意味では割り切っていると思うし、「困った時の神頼み」式の信仰や帰属意識の強さというものはすごいなあと思います。
ミッションスクール間の国際的なつながりも羨ましい感じです。(私には縁がないものばかりです。)
今の教皇の言っているのは、貧者を招くというより、動く元気もなく傷ついている人のところに積極的に出て行って野戦病院のように助けよう、ということですから、活動修道会の精神と近いですね。カトリックでなくても他のNGOとも協力しあう開かれた奉仕が目指されているのでしょう。
マザー・テレサの列福の奇跡は腹部ガンの30歳の女性で、今回はその13年後の2008年に35歳の男性で複数の悪性脳腫瘍があり、手術室で昏睡し、手術開始予定から30分後に外科医が来たら座って治っていて、「私はここで何をしているのか」と聞いたというやつです。腫瘍はすべて消えていました。奥さんがマザーテレサに助けてくださいと祈ったとか。前の奇跡は患部に不思議のメダイをあてていた、という話でした。
今回は9/5に、「現代の医学では説明不可能」という結論が出て、12/5にそれの奇跡としての神学的整合性が認められたという話で、列聖が来年の9/4ということですね。
マザーテレサのようなビッグネームなら祈る人も多いでしょうから、公式認定されない奇跡の治癒もきっとたくさんあると思います。
日本でも尊者認定されて奇跡を待っている蟻の町のマリアだとか調布のチマッティ神父とかいますし、取次ぎの祈りの文も紹介されていますから、祈っていれば治らないでも気持ちが楽になるかもしれません。
メダイでも他のお守りでも、奇跡でも「神の手」の外科医とかでも、苦しんでいる人が楽になったり治ったりするのは歓迎です。
カトリックでいうと、65歳以上の人は病気でなくとも病者の秘跡を受けられるというので、65歳になるのが楽しみです。
まあそんなことを言っているのは今のところ深刻な病気がないからかもしれませんが、生きている限りは何らかの形で人の役に立てるように、避けられる痛みや病気を軽減してくれる良心的なツールはいくらあってもいいなあと思います。
ルルドも、長崎の「ルルド」にはちゃんと水も湧いているそうです(というか昔から健康にいい水の湧く所に洞窟のレプリカを作った?)から長崎もありかなあと思います。東京カテドラルのルルドもいい感じだけれど水はないです。
不思議のメダイは、贈る人に信仰があれば「信者でなくとも効く」というスタンスですから、差し上げやすいのではないでしょうか。病気を患われているお知り合いの方のためにどうか祈ってあげてください。
http://setukotakeshita.com/
740
:
kei
:2015/12/24(木) 00:23:12
父の慈しみの御顔
詳しいご回答ありがとうございます。拙も聖年にちなみ、とにかく募金箱に必ず入れるという戒律を建て実行しているところです。クリスマスコンサートもアフガンやカンボジアへのチャリティでした。
しかし翻って我が国を見ますと、失業率は低く、皆確かに食べてはいけるでしょうが、ワーキングプアーで心のほうがパンクしているようです。カトリックの美しい典礼で心を休めてほしいのですが、ちょっと声をかけると、「クリスチャンです」と言われ、聞いてみればキリスト教系?新興宗教でした。ますますそれにのめりこんでまわりが見えなくなっていくようです。
フランスと同じようなものを感じます。オウムのようにテロをしろと言われればやってしまうような感じです。既存システムからの疎外感は、「自分たち(だけ)が正しい」と言われるとすぐ反応してしまうようです。歴史的にもルネサンスのフィレンツェの閉塞感からサヴォナローラの原理主義が一時期支配しました。日本のプロテンスントでも何やら終末論をほのめかすところもあります、アメリカ映画の「レフト・ビハインド」が教会に(多分映画会社?)が貼ってあってびっくりしました。アメリカはこういう映画は、宗教層の観客動員が見込まれるため、制作されているようです。
教皇のご提起は時期を得たものですが、若干の無力感も覚えます。父の慈しみの御顔とはどういう顔なんだろうか?といつも考えています
https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31
741
:
アップル
:2016/03/04(金) 17:07:07
心霊主義について
節子先生、こんにちは。
数年前にたしかキリスト教福音派について質問させていただいたものです。
その時のハンドルネームは忘れてしまったのですが。
福音派教会は日本在住の日系ブラジル人の間にまだまだ存在していますが、
数年前のあの熱狂ぶりから比べると、今は少し落ち着いているような印象です。
かわりに最近増えてきているのが、espritismo のグループです。
調べてみるとブラジル本国では確かに信望する人が多いようです。
彼らのバイブルは、アラン カルデックの書物です。
ブラジルで、サッカー選手にアラン カルデックという選手がいるくらい
多くの人が名前を知っています。
現代のフランスではどうなんでしょう?
アラン カルデック及びスピリチスムのフランスでの位置づけ
を知りたいのですが。よろしくお願いします。
私が知りたいのは、アラン カルデックの国フランスでは
742
:
sekko
:2016/03/05(土) 07:55:42
アップルさま
そうですか。
ブラジルではカルデックの本が3千万部も売れているらしいですね。
フランスでは、確かにペール・ラシェーズのお墓はいつも花がいっぱいですごいなあと思いますが、まあオカルトの位置づけですね。
カルデックも、もとは子供たちを迷信から啓蒙しようという合理主義の教育者でしたから、アメリカ由来の「霊との交信」に本格的にはまってからも、霊名(?)を使い分けて、スピリティスムも「科学」の言葉で語ろうとしていました。
だから、一応、宗教とは違う、というスタンスで、無神論のイデオロギー陣営ともキリスト教陣営とも直接衝突しないで、文化人を含むかなりの人の「オカルト趣味」として一時はかなり浸透していたようです。
今はオカルトのon of them という感じでしょうか。
ブラジルのようにカトリック、先住民インディオの土着宗教、17世紀から奴隷として連れて来られたアフリカ人の土着宗教の三つの心性が混然としている所だからこそスピリティスムがその三つをつなぐけれど既成宗教とは直接バッティングしない形で自然にシンクレティズムを形成したのでしょうね。
スピリティスムが新宗教の形をとるとベトナムのカオダイ教のような分かりやすいシンクレティズムとなります。宗教でなく「科学だ」とか「実在する超常現象だ」という形で信奉者を獲得するビジネスになる場合もありますね。
日本では土着のシャーマニズムの伝統や先祖との交流みたいなものが心性として残っているので、カタカナのスピリチュアリスムはそれらとフュージョンすることはなく、カタカナのオカルト、カタカナのスピリチュアリスムとして別枠で存在するのかもしれません。
カルデックはブルターニュの名で、前世がドルイッド教であるとしてキリスト教以前のガリアの土着宗教と結びつけることで正統性みたいなものを担保しているわけですが、そしてお墓もドルメン型ですが、ブラジルではそんなことどうでもいいような気がします。
でも、亡くなった人との魂の交流そのものは古今東西よくある話で、別にわざわざ科学だと言わなくとも、そして詐欺や騙りもあるでしょうが、「宗教」とか「霊性」とかとは別枠で考えればいいのでは、思います。
今、あるジャーナリストが、父親の棺に4つのものを入れて埋葬し、有名な霊媒4人に父親にコンタクトしてそれが何か伝えてもらうというテストをレポートした本を読んでいます。おもしろいですよ。
結局は、病気や治療や治癒と同じで、現象は似ていても、その原因も経過もケース・バイ・ケースとしか言いようがなく、教義や教祖をたてるのは罠か誘惑か誤りか矮小化なのでしょうかね…
http://setukotakeshita.com/
743
:
アップル
:2016/03/05(土) 11:19:48
(無題)
お返事ありがとうございます。
フランスでは、なんというかやっぱり予想通りオカルト扱いなんですね。
節子先生がおっしゃるように、もともとブラジルには文化的に親和性があったということで、
独自に発展していったのでしょうね。
日本在住日系人たちが集まるスピリティスムのグループに属する人から
耳にするのは、輪廻転生についての講義を受けたり、
espirita という指導者が無料で人々の悩みを聞いて
アドバイスしたり、病気の人にはspiritual surgeryを施すというような
ことです。
ブラジルではシコ シャビエルという霊媒(故人)が今でもとても
尊敬を受けています。
日本人の私としてはなんだか胡散臭く感じてしまうのですが
ブラジル人たちは「シコ シャビエルは
お金を取らずに人の役に立った人」と讃えます。
福音派の動きが落ち着いてきたのは、彼らの教会のマーケティング戦略
に嫌気がさした人が増えて離れたからだと思います。
節子先生が読んでおられる本はフランスのジャーナリストが書いた本ですか?
私の勝手なイメージでは霊媒による話などは
フランス人にとっては完全にゲテモノ扱いなんじゃないかと思っていました。
でもそうでもないのでしょうか。感心のある人がいるのはいるのですね。
744
:
sekko
:2016/03/05(土) 18:48:53
アップルさま
その本について、ブログにリンクをはっておきました。
http://spinou.exblog.jp/25374556/
いろいろ考えさせられます。ありがとうございました。
http://setukotakeshita.com/
745
:
アップル
:2016/03/07(月) 10:15:36
sekko先生
ブログのリンクありがとうございました。
とても興味深く拝読しました。sekko先生のこうしたテーマへのスタンスが
理解できたことがよかったです。
Le test: Une expérience...のアマゾンの紹介文を読んで、フランスでも
人間はどこでも同じなんだ(死者がどうしているのかを知りたい、死後の生があるのか知りたいという気持ちを持っている)とほっとしました。
死後の生、今日ではそれは理性に基づいた仮説なんだ、という文章は
フランスらしいというか。
またブラジルではどうなのか、ただ遠巻きに眺めているだけでなく私なりに
調べてみたいと思います。ありがとうございました。
746
:
スイス鉄道のように
:2016/04/30(土) 23:00:41
縄文に感じて?
こんにちは。
いつもL'art de croireの記事を拝見させていただいております。
出雲に行かれておられるんですね...
そこは、縄文文化が色濃く残る地だと言われておりますね。
そして、”縄文”というと、日本人の遺伝子の4割は縄文系だそうです。
最近読んだ本(『DNAでたどる日本人10万年の旅』崎谷満著)で知りました。
科学的な証明の裏付けがある内容でした。
さらに興味深いことには、古代エジプト人やユダヤ人と縄文人は近縁だそう。
すなわち、ハム=セム語族の先祖の一部は、ペルシアから南インドへ行きドラビダ人になり、
さらに一部は、東南アジアから中国を北上し、朝鮮半島経由で日本に来たらしいとのこと。
しかし、分岐は3万年前だそうです。
しかしそう見ると、南インドのドラビダ系の言語と日本語の関係を研究した大野晋氏の『日本語とタミル語』は一定の根拠をもちますし、
ヘブライ語と日本語は同祖というトンデモ本や日ユ同祖論なども意外と空想でもないように思えてきます。
竹下様はカトリックでおられ、古代ユダヤ文化にもある程度通暁しておられるので、
縄文と中近東の比較をし、どう感じられるかご意見を聞いてみたいような気がします...
http://likeswissrailway.seesaa.net/
747
:
Sekko
:2016/05/03(火) 20:50:42
「スイス鉄道のように」さま
そうですね。『キリスト教の謎』でも触れましたが、ローラシア大陸や古代の超大陸のことを考えても、北アフリカから中近東と日本の古代とが関係があるというのは不思議ではないと思っています。
ただ、それらが経由してきたはずの中国では、秦の始皇帝の焚書以来、神話的なものの記録が極端に少ないそうで、各種の技術伝搬はともかく、メンタリティはどこかで断絶してしまった部分があるのかなあと、中国民間信仰の専門家である友人と最近話していて思いました。
ユダヤ教にはメソポタミアよりも古代ペルシャ文化の影響の方が決定的だったかもしれないと思っています。それとエジプトからの移民が合流したかのような部分もあるようですが、いろいろな研究や異説が進行中です。
http://www.setukotakeshita.com/
748
:
スイス鉄道のように
:2016/05/15(日) 14:09:14
聖霊降臨について
こんにちは。
聖霊降臨の主日、おめでとうございます。
L'art de croireで聖書の聖霊降臨についてお書きになられておられますが、
私の理解(といいますか、今まで読んだ文献,神父様の講義や説教からの理解)では以下の通りです。
まず、基本的に、旧約と新約は「合わせ鏡」...
対(つい)になっています。少なくてもキリスト教では。
よって、新約の聖霊降臨もまた、対になった記述のひとつ。
すなわち、旧約のバベルの塔の物語によって散らされた人々は、
新約の聖霊降臨によって、”集められた”のだと。
その証拠に、教会のことをギリシア語で「エクレシア」と言いますが、意味は「集められたもの」だそうです。
このように考えると、イエスキリストも、この世にやり残したことがあったのだとも言えます。
キリストは、新約では、旧約の完成として語られています。
律法の完成、乙女から生まれる救世主の物語の成就、動物を犠牲にする祭儀の自らの身による置換、などなど。
旧約の信仰の限界や行き詰まりを打開し、瑕疵を癒やし、完治させる者として描かれている...
しかし、ただひとつ、天に昇る前にやり残したことがあった...
それが、傲慢によって全地に散らされた人々に対する『救い』です。
この瑕疵に気づいたパウロら初期教会時代の神学者たちは、この瑕疵を治癒させる記述を盛り込んだ...
それが、新約の聖霊降臨の記載...
こう考えれば、つじつまがあいます。
旧約は父なる神が働く時代、キリスト生誕から昇天までが子なる神が働く時代。
そして、キリスト昇天後から現在までは聖霊が働く時代。(ヨハネ福音書14章)
つまりキリストはすでに昇天してしまって、この世にはいないので、
「聖霊の働き」を聖霊降臨の記載に描かざるを得なかった、ということだと思います。
http://likeswissrailway.seesaa.net/
749
:
sekko
:2016/05/15(日) 17:32:09
「スイス鉄道のように 」さま
ありがとうございます。
聖霊降臨の意味、「スイス鉄道のように 」さまのご理解でよろしいかと思います。
私が今回ブログに書いたのは、別に解説とか解釈とかではなく、今まで、「聖霊降臨」って不思議だなあ、と思いつつ教科書的にスルーしていたのが、最近フランスのカトリック雑誌で「…ように」の表現に注目しているものを見つけて、なるほど、と感心したことを分かちあうためでした。
標準的な解説や公式見解をさがしていらっしゃる方は、別の形で検索できると思うので、想定していませんでした。だから聖霊降臨と自由という取り合わせに違和感を感じた方があるとしたら申し訳ありません。
それよりも、こんな話題にこんなにまじめなリアクションをする方ってどんな人だろう、と思って「スイス鉄道のように 」さまのブログを拝見して驚きました。
この投稿をくださったこと、また私のブログを読んでくださっている(あるいは偶然に今回だけ?)ことと、プロフィールとのギャップが新鮮でした。
私は何でも好奇心をそそられる性分なので、「スイス鉄道のように 」さまのブログにリンクされていた他の方のブログもあれこれ読んでしまいました。
絶対に自分ではたどりつけなかったようなブログであり分野です。
聖霊降臨祭にぴったりの体験ができて感謝しています。ありがとうございました。
http://setukotakeshita.com/
750
:
宮野
:2016/07/16(土) 19:27:25
LGBT+ カトリック・ジャパン
ご無沙汰しております.お知らせをしたくて,書かせていただきました.
昨秋から,LGBT+ カトリック・ジャパンという信徒団体を私ともう一人の発起人で始めています.
両名ともLGBT+ではなくて,所謂ALLY (協働者)です.
LGBT+とALLYで7/17から毎月ミサを始めます.
数名の司教様や神学者,司祭にお会いして,少しずつ足固めを始めています.
どうぞ,よろしくお願いします.
フェイスブック:LGBT カトリック・ジャパン
https://www.facebook.com/lgbtcj
ブログ:
http://lgbtcj.blogspot.jp/
751
:
sekko
:2016/07/18(月) 18:30:40
宮野さま
ご連絡ありがとうございます。
有意義な活動のイニシアティヴをとられていることもありがとうございます。
パリでは、私が前にBlogでも書いたマレー地区のSaint-Merry教会で月一度、LGBTの他、すべての人にOKのミサがあります。
ダビデとヨナタン
http://www.davidetjonathan.com/
というパリ市公認のアソシエーションが主導で、もとはゲイの人が中心で、キリスト教同性愛者運動の一環としてもう何十年もミサがあります。ミサ、祈り、分かち合いなどがあります。もとはまだ同性愛が刑法上の罪として残っていた1971年に始まり、1981年の社会党政権の誕生と共に1983年に今の形の公認NPOとなりました。旧約に由来する「ダビデとヨナタン」はグループの刊行物のタイトルでした。
私は男女の同性愛者といっしょに25年も演奏活動をしているので、彼らと日本に行くたびに、日本のコミュニティと連絡を取りたかったのですが、敷居が高くてかないませんでした。
フランス人二人を連れて新宿二丁目に行く勇気はないので、三丁目で、ネラン神父の「エポペ」だとか、最近は歌川たいじさんの「タックスノット」などに行きましたが、全員タバコの煙に弱いこともあって長居はできませんでした。カトリック教会で演奏したり愛徳姉妹会に泊めていただいたりしましたが、いつもなんの差別も受けませんでした。
性的傾向はグラデーションであり、ほとんどのケースは生物学的要因(ホルモン)で決まってしまうので本人には選択の余地がなく、それを「賜物」として受容できなければ他の心身の「障碍」も受容できないものとなってしまいます。
いわゆる「マジョリティ」の人たちよりももっと切実に超越的なものを必要としていらっしゃる方々のために何かお役に立てることがあれば声をかけてください。
http://setukotakeshita.com/
752
:
宮野
:2016/07/20(水) 21:44:41
ご返事に感謝
ご返事くださって,こころから感謝します.
フランスの事情も知らず,伺えただけでもとてもありがたいです.
7/17のミサは,20名ほどで分かち合いました.感謝です.
これから毎月,少しずつ心の扉を開きあっていければと願っています.
これから信友になっていきたいと,互いに握手した方で,例えば,
幼児洗礼で,マスールの厳格教育により自己否定感が強くて,30年ぶりにミサにあずかった方,
LGBT+は病気といわれた友人信徒が自殺したため,正教信徒からカトリックに転会勉強中の方,
LGBT+を理由にカトリックへの転会を拒否され,受けられるはずの聖体拝領も拒否された方,
トランスジェンダーを告白せずに受洗した罪悪感を司祭に解放してもらった方,
男性で受洗して性転換後,戸籍変更もできたので,教会籍を女性に変えたかったが,それはローマの判断が必要で,問合せができないため,断られている事例
誕生時から染色体のせいで両性を生きていて,父なる神という表現に今も身が切られると感じる方,
等,様々あります.これからもっと分かち合われると思います.
本当にイエスは,根源的で全てなんですね.
イエスに会いに皆さん来てくださいました.
それで,新宿界隈のこと:
日本キリスト教団新宿コミュニティー教会中村吉基牧師は,新宿5丁目で教会をなさっています.
http://sccmission.net/index.html
東京レインボーパレード2016で,ブースが隣同士でお話もできました.
新宿界隈は詳しいと思います.今度お会いしますので,禁煙の店等いろいろ伺ってみます.
中村牧師は,元カトリック神学生で上智界隈の修道会系出版社勤務経験もあり,代表の神父様とも旧知の仲のようです.
その神父様とも私達はお会いして,LGBT+ 信徒とのわかち合いのため,今度私達のミサの司式をして下さることになりました.
将来は出版企画を種々考えていきます.ぜひそのときは,ご指導をお願いします.
共同発起人の小笠原は仏語TOBを普段から読んでいる精神分析家なので,理論面からもいろいろ考えています.
ホアン・マシア神父にお会いし,私達と協働して下さるとお約束もいただいて,司教団の皆様への献身もして,協働できるように努めたいと願っています.
753
:
sekko
:2016/07/20(水) 22:50:27
宮野さま
17日の最初のミサ、実りがあったようでよかったですね。
私は10月から11月にかけて日本なので、もしそちらのミサの日付けがフリーであればぜひ参加したいです。
新宿にそんな教会があるとは知りませんでした。ホームページも興味深く拝見しました。
「ヨーロッパの死者の書」はデジタル版が筑摩書房からもうすぐ出る予定です。
またお気軽にご連絡ください。
http://setukotakeshita.com/
754
:
宮野
:2016/07/21(木) 00:08:15
ごミサの予定
本当にありがとうございます.感謝いたします.
10/9or16のいずれかの予定,11/27は確定です.
午後1時30分からミサ その後分かち合いを5時頃までします.
毎月司祭が代わり,多くの方々と関わりが増えるようにと務めています.
場所は,都内の交通至便地です.
場所と司式司祭は未公表なので,別途ご連絡します.
8月からは東京教区ニュースに毎月ミサ案内が掲載され,LGBT+という文字が初めて出ます.
あの素晴らしいコンサートを今年もなさるのですか?
「ヨーロッパ死者の書」は広汎に広まるのが当然必然の書です!
発刊記念対談をしてくださればと...
養老孟司「身体巡礼」(新潮社)と「ヨーロッパ死者の書」の精神潮流の接点
大津秀一「死ぬときに後悔すること25」と「ヨーロッパ死者の書」の知恵
とか.
755
:
スイス鉄道のように
:2016/07/27(水) 19:50:32
われわれが為すべきこと
こんにちは。
L'art de croire、いつも拝読しております。
わたくしの今の考えをまとめてみました。
私たちカトリックには、”死”は終わりではなく始まりです。
理由は2つ。
1.
イエス・キリストの十字架における死がなければ、カトリック教会は発足しなかった。
イエスが官憲に捕まった時、弟子たちや取り巻きは蜘蛛の子を散らすように皆逃げました。
ペテロなんか少し遅れて捕まったわけですが、イエスと面通しをされ、「そんな人知らない」と3度言い張って難を逃れました。
もっとも、あとで涙を流しましたが...
結局、イエスの死と復活によってカトリックは始まったのです。
もしイエスが終身刑にでもなっていたら、カトリック教会は今存在していません。
2.
カトリックではミサで信仰宣言をしますが、
「私たちは聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだの復活、永遠の命を信じます」と唱えます。
つまり、将来のいつか、正しい人は神様によって生き返らせてもらえるのです。
それが教義ですよね。
特に、理不尽な死に方をした人は必ず将来生き返ると考えます。
なので、今回の事件の被害者のジャック・アメル神父は、必ず将来生き返ります(復活します)。
よって、死は悲しむべきものですが(なぜなら死を悲しむのは自然だから。自然=神の創造したもの、だから)、それで終わりではありません。
次へつながるものです。
今回の事件によって、「信仰の炎」が心の中で燃え上がるような想いがしております。
愛と赦しといつくしみによる生き方をせよ、そして広めよ、一刻も早く、おまえの身の回りからすぐにでも始めよ、ぐずぐずするな、ぼうっと見ている場合ではない、傍観者になるな、日々の生活のすべての局面で積極的に行動せよ、福音にのっとった生き方によって、ということかな、と...
http://likeswissrailway.seesaa.net/
756
:
sekko
:2016/07/27(水) 22:55:41
「スイス鉄道のように」様へ
「スイス鉄道のように」様がそのようにお考えになれることが、今回のテロでカトリックの司祭が犠牲になったことの大きな意味の一つだと思います。
フラ・アンジェリコの言葉に
「世界の闇は一つの影に過ぎない。その後ろに、我々の手の届くところに、喜びがある。この闇の中には、我々に見えることが出来さえすれば、素晴らしさ、言い表せない喜びがある。そしてそれが見えるためには、見ようとするだけでいいのだ」
というのがあります。
死からの復活だけではなく、今ここで呑み込まれた闇からの復活でもあります。
「死」を前にしても「光」の方を見る、ということですよね。
普段はそういうことが理屈としては分かっていても、こういう事件がそういうことをリアルな実践として教えてくれるのは「恵み」なのだと思います。
アメル神父が将来復活するかどうかよりも、今、この世での使命をより広げて新たな使命を遂行し続けているんだなあと思います。
罪のない子供や若者たちがテロの犠牲になるのももちろん不当で悲しいことですが、それだけにリアクションが「怒り」や絶望や恐怖や報復に向きがちです。
アメル神父が犠牲になってくれたからこそ見えてくるもの、言葉にされる赦し、意識される友愛の必要性、などを感じて、感謝の念すら覚えているところです。
http://setukotakeshita.com/
757
:
宮野
:2016/07/28(木) 11:09:08
人生は死んでからが本番...
フラ・アンジェリコ氏の言葉に,感謝.
皆様におすすめして,ほとんどの方から「読んで良かった」と言われる自慢の本があります.
?竹下節子先生著「ヨーロッパ死者の書」ちくま新書 ISBN-13: 978-4480056429
私はカトリック国の人々の死生観には,幾つもの入り口があるという深さを初めて知りました.
「戒名という別の名前になるのを嫌悪していて,どうしたら良いか?」と尋ねられたので,この本を紹介しました.入信に至るのはこれからですが.
私は,興味関心(信仰的・霊的・知的)が揺さぶられて,心が動きます.そして,「死を受容して,人間的になる,大人になる」という感じ方になりました.皆様,是非ご一読を! または,再読を!
以下駄文ですが.
私が霊操でいただいたイメージでは,「神の意思で受精し,霊魂と肉体があらわれ,帰天した霊魂は神を賛美して神のために働き続ける」です.
私の両親は帰天していますが,身近にいるようで,嬉しいです.
親しい宣教師は,「死は劇場の幕が上がり,言いようもない素晴らしいドラマが始まる時」と言いました.
難聴の知人に「死は隣の部屋に行くようなもの.でも,私の場合は違うの.今度は目が見えて,耳が聞こえるの」(ヘレン・ケラー)と話したら,嬉し泣きしていました.
熱心な知人は,「私達は今,復活した体を生きている霊気というイメージ」と言い,驚きました.
まとまりがなく,すみません.
758
:
sekko
:2016/07/28(木) 17:47:51
宮野さま
ありがとうございます。
キリスト教の死後の世界の考え方で私が一番ぴったりだなあと思ったのは、「二人の胎児の会話」です。ドン・ボスコ新書の『生き方をインスパイアする25の話』にある「おなかの中の対話」で紹介しました。
これをもっと広めたいなあと思っています。
『カトリック生活』11月号にはスターティングについて書く予定です。
http://setukotakeshita.com/
759
:
宮野
:2016/07/28(木) 22:06:16
感謝
ご返事に心から感謝します.
サプリ2巻目は,本当に間が悪くて,友人に貸したままになっています.
アマゾンで再注文しました.
多分あのエピソードだと思います!
「スターティング」も待ち遠しいです.
私は最近,Suscipe(霊操234番)を観想する生活が望みになってきています.
生かされて生きているという感じがします.
8月初旬に巡礼風の旅をします.
ローマ:聖イグナチオ・デ・ロヨラへの巡礼
パレ・ル・モニアル:イエスの聖心への巡礼
「観光は?」と言われますが,
「それより,祈れば御国観光ができるし,ガイドは三位一体の御交なんですよ」というと,信徒さんからも呆れられています...
760
:
宮野
:2016/08/02(火) 17:01:48
ごミサの予定-変更
三位一体の御交に感謝
竹下先生へ
LGBT+ カトリック・ジャパンのミサ10月日程が変わりました.
晴佐久昌英神父様が司式をして下さいます.
10/23(日)午後2時:集い 午後4時ミサ 司式司祭:晴佐久昌英神父様
場所:都内交通至便地
1/27(日)午後1時30分ミサ その後集い
場所:都内交通至便地
761
:
sekko
:2016/08/17(水) 20:32:51
訂正
おしらせ
今発売中の『カトリック生活』9月号(ドンボスコ社)の私の記事に日付の点でミスがあったのをここで訂正します。
実は年号についての単純ミスはよくやるので申し訳ありません。
「私の言いたかったこと」が伝わるかどうかに注意を集中しているので、今の時代、誰でも簡単にチェックできるから訂正してもらえるだろうという甘えがありました。
訂正は次の部分です。
これは私がベースにした批判記事自体に単純ミスがあったものです。
マザー・テレサを批判する人たちの書いたものを紹介する部分で、
「ノーベル賞受賞の折には、ボスニアで組織的にレイプされた女性をめぐる質問に答えて、中絶は平和の最大の破壊者で、母による直接の殺人は直接戦争であると唱えた。
一九九六年のアイルランドの国民投票の折には離婚と再婚の禁止を憲法に加えることを提唱した。」
という部分です。
まず、1979年に「中絶は平和の最大の破壊者」とコメントしてすでに中絶合法化の陣営に批判されていました。次に1994年にカイロで行われた人口問題の国際会議の際の記者会見で、ボスニアのことを尋ねられて「母親による直接殺人」という答え方をしたのです。
それを混同していた批判記事の年代の矛盾にすぐ気づきませんでした。
次に、アイルランドの国民投票は1995年11月でした。そのすぐあと、1996年になって、ダイアナ妃の離婚問題についてインタビューを受けて肯定的に語ったので矛盾しているとまたすぐ批判されたのです。
マザー・テレサが時として激しい批判を受けたのは、それだけ彼女の言葉がメディアにそして政治にまで大きな力を持っていたことの裏返しであり、だからこそ、彼女に対する評価の両義性の意味が何であったのかを、列聖を機会にさぐろうとしたのが私の記事の意図でした。
聖人の列に加えられるという時点で、もう「生前の業績」を超えた次元に参入するのであり、その力が今も大きな実りをもたらし続けているというカトリック教会の列聖システムならではの連帯のパワーを書きたかったのです。
日本にはそもそもキリスト教的な縛りがないので中絶や離婚に関するキリスト教の言説の持つ力とそれに対抗する力のせめぎあいがありません。
でもそれはキリスト教文化圏にとって大問題なので、マザー・テレサのそれに関する言説への批判も厳しいのです。
もちろんカトリック教会全体への批判もたくさんあります。
イスラム過激派への批判よりずっと執拗で激烈です。
聖人の条件となる「奇跡」認定に対しても「蒙昧」批判はいくらでもあります。
私はそういうやり取り自体がどういう文脈で起こっているのかを分析するのが好きです。
奇跡も列聖システムも聖人たちも彼らに祈る人たちもみんな好きです。
私がこの記事で「批判」を紹介したことで誤解を受けるのではないかというお知らせをいただいたので、年代に関するミスの訂正だけここでお知らせすることにしました。
他の「批判」などの内容や証言については、いろんな人がいろんな「目撃」談を長い年月にわたって残しているので、どれが唯一の事実であるかというのは少なくとも私にはわかりません。
でも、マザー・テレサが残して継承された「愛の真実」については疑いをもっていません。
それが私の伝えたかったことでした。
ご理解をお願いします。
http://setukotakeshita.com/
762
:
スイス鉄道のように
:2016/11/03(木) 12:45:31
人権、表現の自由、説明責任...
竹下様、お久しぶりでございます。
お聞き及びかどうかわかりませんが、数日前、日本のアイドルグループがナチス風の衣装をコンサートで使用したとして、
海外のメディアまで報道する騒ぎとなっております。
例えば、以下のニュースなどご参考に。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000035-mai-int
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/20161031-00063914/
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000001-jij_afp-ent
結局、ひとことの反論も、説明責任も果たさず、
このアイドルグループの日本の責任者は、謝罪とこのコンサートのテレビ番組への放映を取りやめました。
↓↓↓
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6219483
私自身、ナチスを決して肯定するものではありませんが、
しかし、「表現の自由」という問題もございます。
反論も説明もせず、海外の批判に無条件にこうべを垂れるのはいかがなものかとも思います。
竹下様はいかがお思いになられますでしょうか?
およろしければ、ご見解をたまわりますれば幸甚に存じます。
http://likeswissrailway.seesaa.net/
763
:
スイス鉄道のように
:2016/11/03(木) 17:41:00
追伸です...
先ほどの投稿に追伸でございます。
イスラエル大使館がこの件に気づき、関与してきました。
(在日イスラエル大使館のTwitterにコメントしています)
単なるアイドルグループの問題ではなく、結構、おおごとになって参りました...
https://twitter.com/IsraelinJapan/status/793994601312976896
http://likeswissrailway.seesaa.net/
764
:
sekko
:2016/11/03(木) 23:02:36
「スイス鉄道のように」さま
うーん、フランスの新聞にも取り上げられていました。
これは表現の自由の問題というより危機管理の問題のような気がします。
ユダヤ人のロビー活動力というのは半端ではないですから、しかも、20年前と違って今のようにSNSが発達していてyoutubeも流れる時代に、危機管理の意識がなさすぎるのでは、と思いました。
私の見た記事ではみな「オリンピックを控えた日本で」ということが付け足されていました。
しかも、カリカチュアやコミックの中の表現などではなく、広く動画が流れるようなもので、未成年の女の子たちにグループでそういう恰好をさせるリスクをとったというのはやはりプロデューサーの責任だと思います。
私が親ならプロデューサーに抗議していたかもしれません。
イギリスの王子のコスプレのスキャンダルもありましたよね。今回はそれよりもパブリックな形ですし。
クール・ジャパンとかでこの種のカルチャーも積極的に売っているわけですから、やはり識別力が大切かと思います。
765
:
スイス鉄道のように
:2016/11/03(木) 23:21:45
ありがとうございました
ご返信、どうもありがとうございました。
そうですか。
今回のアイドルグループのプロデューサーが東京オリンピック委員会の理事の一人でもあるという事実から、そういう報道になってしまうんですね...
http://likeswissrailway.seesaa.net/
766
:
スイス鉄道のように
:2016/11/21(月) 09:03:33
二人セゾン...
こんにちは。
先日、ナチス風の衣装で問題になったアイドルグループの新曲のプロモーションが始まり、
そのプロモーション用ビデオ(PV)が日本時間の17日に公開されました。
15歳から21歳までの青春真っ盛りの少女たちが東京の風景を背景にパフォーマンスしているのですが、
一度しかない青春の輝き、若さ、純真さ、清楚さなどが見ていて感じられます。
とてもステキなPVに仕上がっています...
シーンは小春日和的でもあり、これからの寒い季節にも心が温まるような作品でもあります。
また、アイドルらしからぬ哲学的な歌詞にもなっております。
曲名は、「二人セゾン」...
およろしければ、ぜひ一度ご覧ください。
↓↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=mNpPQXMgtmw
http://likeswissrailway.seesaa.net/
767
:
sekko
:2016/11/21(月) 18:38:45
「スイス鉄道のように」様へ
PVはフランスで視聴できないということでした。
でも検索して少し曲を聴き、歌詞など読みました。
あまりコメントできなくてすみません。
私はこの種の集団アイドルグループのコンセプト自体に賛成でないので。
男女ともそうですが、特に女の子たちのは。
みんな可愛いですし、おっしゃるように
「15歳から21歳までの青春真っ盛りの少女たちが東京の風景を背景にパフォーマンスして」、
「一度しかない青春の輝き、若さ、純真さ、清楚さ」
を見せてくれるのは多くの人にとって恵みですが、そんな素晴らしいことが商品化されていることに賛成できません。
似たような輝き、若さ、純真さ、清楚さを持った少女たちを集めてパーツにすることによって生じるひずみも想像できて。
もし私にこの年代の娘や孫娘がいたら、そしてこういうキャリアに夢を抱いていたら、私は絶対反対すると思うし、なぜ反対するのかを本人にじっくり話すこともできます。
いつかこういうことについて書く機会があるかと思います。
今回はこれで。
http://setukotakeshita.com/
768
:
ナカハラ
:2017/12/11(月) 16:45:30
フリーメイソンの実態に関するご質問。
サイゾーさんの本年9月号で竹下先生のお名前を拝見してのご連絡です。
ご著書も手配済みです。
サイゾー系の以下の記事に関して、信憑性も含めた竹下先生のご見解をお聞かせいただけると有難いです。
>フリーメイソンは1日4億円以上寄付している!? フリーメイソンで製薬会社の社長が語る「メイソンの真実」!
http://tocana.jp/2015/09/post_7299_entry.html
お忙しいところ誠に恐縮ですが、勝手では御座いますが宜しくお願い申し上げます。
m(_ _)m
https://twitter.com/dotcom07
769
:
sekko
:2017/12/11(月) 18:29:30
ナカハラさま
該当記事と同じtocanaのサイトで、前にフランスのフリーメイスンについて私のインタビュー記事が載っています。私の名でサイト内検索をしてお読みください。
該当記事の方は、イギリス、アメリカと、アングロサクソン国のFMについて語っていらっしゃいます。
アングロサクソン系のFMは巨大な慈善親睦団体なので、多額の寄付があるというのは想像できますが、額のことなどは私にはわかりません。アメリカならあり得るかなあ、とも思います。
でも、堂々と寄付できるルートはいくらでもあるのですから、FMを通した匿名で大口の寄付をする人は、FM内での何らかのリターンがあるのでは、とも思います。
またアングロサクソン系のFMはクラブ文化、ロビー文化の伝統の上に成っています。
内部で根回しをしたり利益交換をするのも「文化」です。
でも、国際的に会員同士の便宜を受けられるという意味では、アングロサクソン系FMの別の形であるロータリークラブなどでも同じです。
FMは自分で身分を公表することはできますが、他の会員の名を公表することは禁じられているので、ある会員が外で言っていることの真偽を確認したり訂正したりすることは外部の者にも内部の者にも困難です。ましてやFMを名乗る多くの組織が混在しているので、一般論は言えません。
お役に立てなくてごめんなさい。
私のブログの「フリーメイスン」のカテゴリーにも少し書いています。
選書メチエの中に書いた範囲の歴史などは信用していただいてOKです。
http://www.setukotakeshita.com/
770
:
ナカハラ
:2017/12/11(月) 21:10:21
竹下先生宛
ご丁寧なお返事に感謝申し上げます。
有難う御座います。
m(_ _)m
https://twitter.com/dotcom07
771
:
水蓮
:2017/12/31(日) 00:04:06
ご教示ください
カトリック信者(一般人)のブログに以下のことが書いてあります。友人が「これって本当?」と確認してきたのですが、私の認識とあまりに違っていて頭の中は???です。
http://blog.goo.ne.jp/maria1968/e/494302a021b693f8f78f9e2f747aaa01
http://blog.goo.ne.jp/maria1968/e/6f10be8c4a88291e68e106146e3b11a8
疑問点1)「カトリックのクリスチャンは、お相手がカトリックの洗礼を受けなければ、離婚歴のある方との結婚は教会法の法律上、することが出来ないのです。」とありますが、私の理解では、カトリック信者は、離婚歴のある人とは、その人の宗教とは無関係に、教会法上では「結婚」することはできず、たとえ法律的に結婚しても「罪のうちに生きている」ことになるので、聖体拝領はいずれにしてもできなくなる、なのですが・・・?
疑問点2)「(離婚歴のある人と)籍を入れるとなると、まずカトリックの結婚講座を必ず受けなければなりません。そして相手の方が洗礼を受けるならば、教会法に基づき、教会で結婚することが出来ます。・・・…彼が洗礼を受けないと、あなた自身がご聖体拝領をすることが出来なくなりますよ」とありますが、私の認識では、離婚歴のある人とは、たとえどんな条件でも教会で(秘蹟として)結婚することはできないはず、なんですが・・・?それとも、離婚経験者がキリスト教徒でなかった場合は、受洗によって以前の結婚が無効になる、なんてことがあるのでしょうか?
疑問点3)それとも、日本だけ特例が認められているのでしょうか?このブログをしている女性はご自分の教会の司祭から、このような説明を受けたということなのですが・・・。
すみません。年末に変な質問で・・・。このブロガーにきいてみたらいいものの、以前にどこの誰とも知らない人のブログに、内容について「本当ですか?」的なコメントをした後、とても不愉快な経験をしたことがあり、それ以来、特定不可能な一般人のブログなどへのコメントは一切しないことにしています。
急いでおりませんので、お手すきのときにでもお返事いただけましたらうれしいです。私も調べてみようとは思っておりますが、竹下先生なら既にご存知かと考えたため…。
772
:
sekko
:2017/12/31(日) 02:22:37
水蓮さま
私に確実な返事はできません。
まず、フランスでOKのことでも、日本でダメと言われたことはいろいろあります。
たとえば、65歳以上なら差し迫った病気がなくても病者の塗油を受けることができるはずなので日本で頼んだら、「病気じゃないのにもちろんダメ」と言われました。
他にも、少し前(といっても30年くらい前?)までのフランスの田舎では第ニヴァティカン公会議前の感覚のままの老司祭さんもいて、冠婚葬祭はけっこう自分ルールでやっていました。それで別に不都合もなくみなやっていたような…。
で、フランスの大都市圏でここ数年の間に結婚や離婚をしてきた人を見てきた限りでは、教会で結婚式を挙げていない限りは、法律婚をしていても離婚していても、事実婚を違った相手と繰り返しても、それは、教会的には「未婚」ですから、問題にされたのを聞いたことはありません。
教会レベルで「初婚」でさえあれば、相手が未信者であっても、洗礼を受けている人の方はもちろん聖体拝領もOKです。
ただ、教会法にも、担当の教区司祭の采配によって、どちらかが教会での結婚に「ふさわしくない」と判断されれば、司祭は結婚式を断ることができる、とありますから、法律婚で離婚に至った事情なども判断に関係してくるかもしれません。
法律婚の離婚を経験している未信者がその後で洗礼を受ける、となると、もちろん、教会での結婚のハードルはぐっと低くなると想像します。
もともと七つの秘跡のうち、結婚の秘跡だけは、司祭から授けられるものではなく、自由な男女の神の前の誓いによって成立します。
16世紀に、教会の許可するしかるべき司祭の立ち合いが必要となって、細かい規定ができましたが、1983年の教会法にもいろいろな例外があって、時と場合によっては立ち合いが司祭でなくともよいし、立ち合いがいなくともよいとあります。
つまり、愛し合い永遠の絆を神の前で誓い合う男女がいるところでは、神に祝福される結婚の秘跡が成立し得るわけで、結婚への意志と愛が、最終的にさまざまな規則に優先するというわけで、なかなかすてきですね。
そこにはカトリックの教義に対する知識やら合意すら条件にはなっていません。
で、そうして結ばれた「結婚」は二人だけではなく、聖霊とも永遠に結びついているわけです。
こういう「両性の愛と信頼」至上主義というのは、社会的動物としての人間の習慣にとってはあまりにもラディカルですが、それを「神」のもとに聖霊によって成り立たせるのはまさに「秘跡」だなあと思います。
「結婚講座」についてもいろいろ規定はありますが、実際はケースバイケースですね。どちらもカトリック信者であっても、原則としては複数回、時には別の婚約者カップルもいっしょに司祭との一時間くらいの講座、というか、お話を聞いて、秘跡としての結婚がどういう意味を持つのかを理解しているかを確認されます。
これは子供に洗礼を受けさせる前も同じです。
事実婚のカップルが生まれた子供に洗礼を受けさせるのも、親たちの少なくとも一方が洗礼を受けていて、二人が望み、子供にカトリックの教育を受けさせる意志があるなら問題はありません。法律的にもカトリック的にも「未婚」の両親であっても支障はありません。
そんなことが支障になっていたら、今のフランス人の親で子供に洗礼を受けさせる人などいなくなってしまいます。
一番厄介なのは、やはり、信者同が教会で挙式したのにその後法律上の離婚をすることで、教会的には離婚はできないので、秘跡の無効を認めてもらう道しかないので大変です。
実際は、次の相手とは事実婚のままであればスルーされますが、その偽善に耐えられない人や、法律的に再婚したいけれどそれでは聖体拝領できなくなるのがつらいという人もいます。
まあ、だから、いろいろな面倒を避けるために、最初から法律婚も教会婚もしないで、洗礼を受けた子供と一緒に成長儀礼としてのセレモニーをこなしていく人もたくさんいます。
以上フランスの場合ですから、日本のことは知りませんが、日本では細かいことを言っていたら誰も教会で結婚する人がいないので、未信者同士でも、それなりの手続き(結婚講座4回とか)を踏めば、カテドラルでだって、結婚式を司式してもらえるようですね。
原則初婚、というのも、法律婚のことで、日本は紙一枚の届けですからフランスとはちがいますね。
フランスの法律婚はもともとカトリック教会での結婚に対抗してできたものですから、市長が市役所ホールで男女に誓わせる公のセレモニーという位置づけで、その証明なしには教会婚ができないという法律もフランス独特です。
今の教皇になってから冠婚葬祭に関する規定のいろいろなニュアンスが、まず、「いつくしみの神」という視点にシフトしていっています。
「恵み」というのは何なのかとまず考えたいですね。
2018年が水蓮さまにとって恵み多い年でありますように。
http://www.setukotakeshita.com/
773
:
水蓮
:2018/01/01(月) 01:30:54
(無題)
竹下先生、詳しい御即答をありがとうございます。
そういえば、ある小教区では不可能だったことが、隣の小教区では可能であった、といった話をメディアで読むことがありますが、この件もそうなのかもしれません・・・。
>>>法律婚の離婚を経験している未信者がその後で洗礼を受ける、となると、もちろん、教会での結婚のハードルはぐっと低くなると想像します。>>>
やはり、このあたりでしょうか・・・。
他にもこの関連で書きたいこともありますが、個人的なことになりますので、また、いつかどこかで何かの機会がありましたら・・・。
竹下先生にとっても2018年が素晴らしい一年となりますように。平安。
774
:
水蓮
:2018/01/04(木) 20:23:15
あけましておめでとうございます
先日(昨年!)の私からの質問に関連して、ブログ記事でお取り上げになり、「こんなこと気にする日本人なんているのかな」とお書きになっていますが、私の印象では、かなりいます!・・・です。
まず、今回の質問をしてきた友人がそうですし、これまでにもいろいろありました。若い頃から渡仏する頃まで、私がカトリックとわかると、必ずといって「離婚できないんですよね」「カトリック信者じゃなきゃ結婚できないんでしょ」「将来結婚して、離婚したくなったらどうするの」等など、結婚・離婚に関する教会の掟をそれはそれは詳しく知りたがり・・・。
というか、カトリックに関して、初めの質問が結婚・離婚以外のことだった人なんて、いたかしら?と思うほどです。(2番目以降の質問は、そんな話ができる間柄の人の場合は、大抵が性的なこと〜避妊、婚前交渉、中絶〜だったような気がします。)
ところで、竹下先生の結婚における聖霊の位置づけと日本の昔の結婚における仲人の位置づけとのパラレルにはおもわずうなづきました。これは(大半の)日本人にとっての「神」は「世間様」だ、という見方と符号するような・・・。今日の平均的日本人の「神」は何なのでしょうね。「自分自身」?「お金」? 友人の中に、最近の日本人にとっての「神」は「日本」そのものになりつつあると言う人がいます。
775
:
sekko
:2018/01/05(金) 01:35:27
水蓮さま
そうなんですか。
>>>まず、今回の質問をしてきた友人がそうですし、これまでにもいろいろありました。若い頃から渡仏する頃まで、私がカトリックとわかると、必ずといって「離婚できないんですよね」「カトリック信者じゃなきゃ結婚できないんでしょ」「将来結婚して、離婚したくなったらどうするの」等など、結婚・離婚に関する教会の掟をそれはそれは詳しく知りたがり・・・。
というか、カトリックに関して、初めの質問が結婚・離婚以外のことだった人なんて、いたかしら?と思うほどです。(2番目以降の質問は、そんな話ができる間柄の人の場合は、大抵が性的なこと〜避妊、婚前交渉、中絶〜だったような気がします。)<<<<
私が、宗教帰属の意識の希薄な平均的日本人として生まれ育ってきた時は、そんなこと気にしていませんでした。アテネ・フランセの神父さんとか以外、カトリックだと分かる人とのつきあいもなかったし。ヘンリー八世がらみで「カトリックは離婚できない」というのは知っていましたが、実生活でそれを気にするようなシチュエーションもなかったです。
やはり、日本ではマイナーな宗教だから、それに帰属しているということは好奇心で見られるのかもしれませんね。
フランスではパリやパリ近郊では、帰属と実際がかなり乖離しているからあまり問題になりませんよね。地方では、フランドルの小さな村のことはよく知っているのですが、何世紀も前からカトリックしかないところで、教会も冠婚葬祭受け持ちの氏神様みたいで、村の人はとにかく全員代々カトリックですから、町内会みたいで、避妊だろうが離婚だろうが人それぞれで気にしてない、という感じですね。
都市の一部ブルジョワ階級のアイデンティティとしての保守カトリックは健在ですが、それも建前的な部分が多いし。
今の時代、「拝金主義」という偶像崇拝がはびこっているのはどこも同じですね。
その拝金主義のグローバリズムという弱肉強食に対して、民族主義と聖性を結びつけて自由や平等を規制したり、妙な純血主義やよそ者排除に向かったりなどの共同体ファーストもありますが、どちらも同じ病の裏表のような気がします。
どんな神さまによるプレッシャーも、それを適用するのは生身の人間なので、やはり、誰をも排除しない社会を実現するために何を大切にすべきかを一人一人がちゃんと考えて行かなければと思います。
http://www.setukotakeshita.com/
776
:
ヴィオラ
:2018/01/16(火) 06:22:21
北欧の福音ルター派
はじめまして。
竹下さんのご著書は、何冊か読んだことがあるのですが、とても面白いブログをたくさん書いていらっしゃることを最近になって知り、質問したくなってしまいました。
私は、福音ルター派の北欧に長年居住しています。北欧にいると、ヨーロッパ内の東西南北区分に気づきます。東にはオーソドックスなロシア正教、西にはキリスト教、北はプロテスタント、南はカトリックという大まかな区分です。プロテスタントとカトリックは「近代」と「伝統」として感じられていて、合理的な北欧と奇跡などを信じて非合理・迷信の南欧(フランスが入ることもあります)、男女平等の北欧と女性の地位の低い南欧という見方とあいまって、北欧が一番進んでいるという意識につながっています。
南の方のカトリック教会に行くと、告解室があり、悩める人と牧師が向き合って話をしている場面を見かけることがあります。北欧のキリスト教では、人は心の中で神と1対1で対峙し、神と対話するので、大きな違いがあります。細長い十字一本を壁に掛けただけの教会もあり、原理主義的でもあります。フランスから見た地政図というか、北欧の福音ルター派はどのように見えますか。私は信仰がなく、キリスト教についてよく知っているというわけでもなく、深い質問ではないのですが、お返事いただけたら嬉しいです。
777
:
sekko
:2018/01/16(火) 08:07:14
ヴィオラさま
ご愛読ありがとうございます。
スウェーデンですか?
今の季節、日が短くて寒そうですが、今年がより良い年になりますように。
うーん、私にとっては、北欧系プロテスタントって、為政者の宗教を国教にした棲み分けの国のまま21世紀って、アナクロニックな気がします。ノルウェーはさすがに2012年にルター派を国教から外したと思いますが。イギリスだって、カトリックは国王になれないという法律は今も生きていますし、カトリックは公務員になれない、のは一九世紀まで続いていましたし。
フランスはすごく世俗的な国で、カトリック文化圏といっても、日本の仏教みたいなユルイ感じです。「告解」に行く人なんてマイナーだし、「告解」でも、私がブログ
http://spinou.exblog.jp/25470580/
で書いたことがあるように、悩んでる人なんて超少ないのでは、と思いますが…。
プロテスタントのみなさんが心の中で神と対話しているのかどうかはわかりませんが、それも、カトリックの人だって、人それぞれだと想像します。
ただ、宗教って、「教え」の側面、「信」の側面、「わざ」の側面があると思うし、生・老・病・死などの実存的な危機を前にする人は、非合理、迷信、奇跡などを必要とする心性は普遍的だと思うので、ちゃんとした宗教にそういう受け皿があった方が、変なカルトや怪しい霊媒などに頼ってしまうよりはリスクが少ないような気がします。
あまりお答えになっていないかもしれませんが、そうですね、今のフランスから見たら、イギリスや北欧の国教会システムって、国別に分かれている正教会と同じで、政教分離してないなあ、という感じですね。今はどうか確認していませんが、スウェーデンでは行政の一部が教会税を通しての住民登録という形で国教会に委託されています。もちろん信教の自由は保障されていますが、非国教徒でも行政事務の経費分は免除になっていませんでした。
今ちょうど政教分離について書いていたところなので。
スウェーデンのおもしろい話題があれば教えてください。
http://www.setukotakeshita.com/
778
:
ヴィオラ
:2018/01/18(木) 03:53:01
ありがとうございます
早速のお返事、ありがとうございます!
フィンランド在住です。最近、少し寒くなってきました。
北欧系プロテスタントは、アナクロな感じなのですね。面白いです。政教分離していないというのも同感です。フィンランドでは大統領以下、大聖堂でミサに出て、その年の議会が始まるし。教区に所属していると、教会税あります。教会から抜ければ、払う必要はありませんが。政治と宗教のみならず、大学と宗教も繋がっています。秋の新学期始まりには、学長などが大聖堂のミサに出ます。あと数年に1度、博士号取得者が正装して大聖堂に行進、ミサに出た後、舞踏会という慣習もあります。
北欧の人は、自分たちは世俗化していて近代的、イスラムやその他が宗教的と大体思っているのですが、実は様々な面でキリスト教は深く浸透していると思います。自分の人生を語る時も、特に女性は 犠牲・苦難を経てより大きな意味づけへというような、イエス・キリストの人生を下敷きにしたような語りをよく耳にします。
ただフィンランド人は、すごく自然が好きなのですが、その「自然」という考えには、どこか「キリスト教以前」とか「異教」というニュアンスがあり、キリスト教的ではないものに対する憧憬があると思います。
竹下さんは、フリーメーソンに興味をお持ちですよね。少し違うのですが、私は騎士団(と修道院)に興味があります。騎士団は、その名前もやや奇妙なものが多いのですが(靴の紐、黄金の皮、クマの殺害者とか)、勲章には細部に渡って非常に細かい意味づけがされていて、フェティッシュです。騎士団は過去のものではなく、今も健在です。ヨーロッパでは国家元首かその任命する人物がグランドマスターで、フランス、フィンランド共に、それは大統領です。現在の騎士団は勲章と国旗によって、誇り、感謝、悲しみ、追悼、慰め等の感情を表現します。近代の国民国家は、その基底に軍事と宗教を持っているようなのですが、こうした制度が国民国家の重要なシンボルとして使われていることをどう思われますか。
779
:
sekko
:2018/01/18(木) 06:55:05
ヴィオラさま
フィンランドでしたか。議会も大学も国教のストラクチャーを共有しているのですね。
そんなところで、たとえばムスリムが政治や学問の第一線に加わるのは微妙でしょうね。
スウェーデンなどと違って移民の受け入れも少ないような。
私は北欧のような金髪碧眼っぽい国でアラブ系の人や黒人とか目立ち過ぎるのにどうやって混ざっていけるのだろう、ゲットー化しない方が難しいのでは、と不思議です。フランスは特にパリや大都市は人種の混交が多いので、何人でも目立たないですが。
アジア人に対してはどうですか? 人種差別とか文化差別を感じますか?
私の甥(英仏ハーフ)が、2年前タイのダイビングクラブで知り合ったインストラクターの女性がフィンランド人でした。彼女は今甥の息子をフィンランドで育てています。甥はフランスに来るように言っているのですが、フィンランドではシングルで子育てをするのは簡単なのだそうです。
ああ、騎士団の話でしたね、
フリーメイスンと同様、玉石混交というか、19世紀に、過去のもの、修道士の騎士団、十字軍由来や14世紀の騎士団の名を使って民間で再興したものがたくさんあります。
軍事と宗教がセットになって互いを正当化してきたような歴史は事実ですが、例えばフランスの騎士団とおっしゃっているのはレジオンドヌールですか?
その手のものは要するに個人の業績に国が権威付けをするもので、ある意味持ちつ持たれつというか…。フランスでは最近サウジアラビアのプリンスにも勲章を授けたりしたということが批判されていましたが、完全に政治的、外交的なものですね。
この手の「騎士団」の特徴は、フリーメイスンと同じく内部にヒエラルキー、位階がはっきりと分かれていることです。中世の騎士団には内部の位階はありませんでした。
神殿騎士団のことはずっと調べているのでいつかは書こうと思っていますが、オカルトや陰謀説をインスパイアするようなのでなかなか切り口が難しいですね。
今は知りませんが、少なくとも20 世紀の例では、フランスの国家勲章って、くれるという通知は来るのですが、事前に勲章を用意して購入するのは本人なんですよ。もらえるものだと思って手ぶらで行ったらもらえなかったので、持っている人に借りた、という例もあります。つけてもらえるという儀式が重要なんですね。アンチックショップでもいくらでも売ってますし。
ただし、国家勲章をもらった人の娘や孫娘だけが入れる中高一貫校があって、制服もある全寮制というフランスらしくない場所なのですが、これも、女性限定というのも含めてなんだかなあ、と思います。フィンランドもそうですが、「共和国」っていっても、「?」なものはいくらでも残っていますね。
http://www.setukotakeshita.com/
780
:
ヴィオラ
:2018/01/19(金) 05:42:44
(無題)
お返事、ありがとうございます。
フィンランドは宗教に関してはアナクロのようですが、政治に関しては民主主義や人権、法の支配の原則などはしっかりしていると思います。
ソマリ出身の国会議員は少なくとも数人いて、アフガニスタン出身の国会議員(女性)もいました。市民権はなくても、永住権があれば地方議会の選挙権・被選挙権があるので、地方のレベルではもっと色々です。学問も出身国による差別というのは、ほぼないだろうと思います。
移民受け入れは、スウェーデンに比べればずっと少ないです。でも、今後人口減少が進めば、増やしていくでしょうね。まあ、スウェーデンは北の植民地帝国だったし、巨富の蓄積があるお金持ち国です。
金髪碧眼の中で、違いが目立つということはありますね。アフリカ系で、道を歩いていて「国に帰れ」とか言われ、嫌な思いをしている人達はいると思います 。でも、最近は減少しているらしいのですが、アフリカ、アジアなどからの養子も普通にあります。今はどこもそうなのでしょうが、極右の政治家はいるし、ネオナチのようなグループもあります。2015 年の「難民危機」では、受け入れ反対と賛成が拮抗していた感じです。賛成論は、困っている人達は助けようというキリスト教的な主張でした。
私は、幸か不幸か人種差別はほぼ感じたことがないのです。日本人に対しては好意的というのは、あると思います。まあ、そういうのもちょっと問題で、だから日本人で良かったとかは全然思いませんが。
少し前の竹下さんのブログで、お葬式に行く前、バッハの無伴奏5番サラバンドを弾いたとあるのを見て、もう10年以上も前のことですが、父のお葬式から帰ってヘンデルの組曲11番のサラバンドを弾いていたことを思い出しました。父とは親しくはなかったのですが、胸がとても苦しくて、なぜかあの曲を弾かなくてはならない気持ちでした。弾きながら泣きました。竹下さんは、ギターを弾かれるんですよね。私はピアノです。
竹下さんのブログ、これからも読んでいきたいと思います。また、何か質問させていただくかもしれません。その時は、どうぞよろしく!
781
:
sacra 桜
:2018/03/06(火) 09:26:17
ゆるしの秘跡
ご返答くださりありがとうございます。
質問をした背景はまず、ゆるしの秘跡が現代のカトリックを生きる上で核心となっていると考えるところがあり、この視点から見えてくるものを探しているからでした。
リンクをつけてくださいましたご記事は掲載時に読んでいました。ブログ記事のおかげでこの二作の感動的な映画を知ることができて有難いと思いました。東京のニコライ堂の記事もおもしろく読みました。「マックス・ジャコブの回心」の一連の記事は圧巻です。たしかに私達が生きている時代の少し前にはすごい人々が沢山おられて、遺してくれた書物や作品等は そこから大きな刺激を得られる資料でもあります。先生がご著書や論文を通していろいろ教えてくださることに感謝しています。また、自分でも少し調べてみたい破門の危機を通過された聖書神学者のことなどもありますが、いずれまた質問したく思います。
今回のことは、もっとごく普通の市井の信者の場合のゆるしの秘跡を巡る思考についてことでした。とりたてていうような劇的な回心があったわけでもなく、大抵は温厚で協調性のある、神学に特に深入りする必要は感じられないけれども、それなりにそこそこ教養もあるタイプの一般信者の場合です。もう少し質問をふくらませるか、具体化させることができるか、考えてみます。
それにしても、先生のお尋ねになられたことも神父さまのお答えもどちらもすごいです。そしてそのことをストレートに書いてくださったことも。どうもありがとうございます。
あと、「再教育」という語で表したかったのは、パリの或いは地方の大都市のカトリック学院などで随時開催されている一般にも開かれているセミナー、半日から一日または泊り込みの黙想会や研修会、都市内にある修道院(托鉢修道会等)で定期的に行われている講義など、結構活発なことをご存知だと思います。
また少し日をおいて質問いたしたく、重ねてありがとうございました。
782
:
sekko
:2018/03/06(火) 19:18:42
sacra 桜 さま
なるほど、そういうことだったのですね。
フランスにお住いなのだと思いますが、そして、ゆるしの秘跡が核心ということも共感しますが、私の感じるのは、カトリックにはゆるしの秘跡が核心、キリスト教には「赦し」が核心ということかもしれません。ゆるしの秘跡を受ける以前に自分が多くのこと、多くの人に対する「赦し」を全然できていないと思うので。
フランスの司祭さんの話は、
https://spinou.exblog.jp/25470580/
に書きました。
その前にも
https://spinou.exblog.jp/25452617/
にも書いています。
この19区の司祭は、聖体を授ける時も、告解の時も、わくわく楽しそうで、人間と神さまが大好きって感じでいいですね。司祭と差し出ゆっくりお話をするのにわざわざ約束をとったりするのは敷居が高いですが、告解の時にいろいろお話できるのは気に入っています。
去年は日本で東京カテドラルの枝の主日のミサに出たので、ミサの前に告解したのですが、うーん、ブログには書きませんでした。メンタリティが違い過ぎて。
フランスの私と同世代か少し上の人は、1970年以前にカテキズムを受けた人ばかりで、この人たちは、まさに、68年で教会からも信仰からも離れた後で、リタイアしてからすごく積極的にいろんなカトリックの講座に参加している人が多いです。パリではプロテスタントの講座もカトリックの人が結構います。
この世代の人は、告解というと、罪悪感、許してもらわないと地獄に堕ちるよ的な上から目線メンタリティの司祭を前にしてトラウマになった人がけっこういるのですが、私が「祝福だけしてもらったら?」とかいうと、結局半世紀ぶりに免償してもらってすっきりしたりしているようです。
パリのアンスティテュ・カトリックで神学部長を2011年から二期6年つとめたドミニコ会のチィエリー=マリー・クロー師は、私が2011年に東日本大震災のチャリティコンサートを開いた時にも来てくれたすてきな人ですが、仏教の講座を持っていて、最初に知り合ったのもヴァンセンヌのパゴダでした。彼から神学部のカリキュラムをもらっていたので周りのリタイア組に配りました。
sacra桜さまのおかげで、今年もちゃんと復活祭しなくちゃ、とスケジュール立てはじめました。ありがとうございました。
http://www.setukotakeshita.com/
783
:
sacra 桜
:2018/03/07(水) 08:02:23
ゆるしの秘跡
ご教示くださりありがとうございます。
質問に至った理由のひとつに、この四旬節に上映の「ラパリシオン」(2月26日の紹介記事ありがとうございます)と「ラ プリエール」によせてふと思ったことがありました。両作品の制作は確かに誠実です。ただ、そのあとのこと、その先で学ばなければならない事柄についても触れ得る作品を今後は期待したいのです。神秘を感じること、回心の方向に導かれてゆくこと、愛の存在に気づくこと、でも実人生ではそこから先を生きてゆくのでは? そこで「再教育」というか、むしろ「生涯教育」というかたちのコミットメントのことがでてくるのではないかと。そして救済のコンテクストがカトリックであれば、生涯にわたって年一度は「ゆるしの秘跡」を受ける義務があり、程度の差こそあれ真摯に取り組むことになります。
仰るとおりです。フランスの地方都市ですが、通っています教区教会のごミサに与る方々を拝見しても、68年世代の方にはそういうケースが少なくないのではと思います。リタイアされた後はいろいろ考えたりする時間がとれることも、さらに離婚や病気・介護などのファクターが加わる時には尚の事。またその子供や孫の世代の人達に、カトリックに新たに入信されるケースも多いようです。そして新たに獲得された熱心さを継続するためにも教育の継続が必要であり、そこに「ゆるしの秘跡」の理解の大事さがあると。
「和解」というターム。神さまとの和解、教会との和解。その意義は頭では理解できるのですが。アルフレッド・ロワジーの ? Jésus annonçait le royaume, et c’est l’Église qui est venue ? がよぎるわけではありませんが、後者のほうが前者より難しいと思ってしまうところに私は自分の弱さをみてしまいます。
アルジャントゥーユのレポートでは、これは司祭さまとの秘跡というよりおしゃべり枠の対話だったと思っていました。ところで告解はこちらで仏語でなさる方を好まれますか?
既にご存じかもしれませんが、京都大学リポジトリに告解を対象にフィールドワーク調査を試みた珍しい論文があったので、題名とURLを :
? 主体化をめぐる複数の回路とトランスカルチュレイション : マルタにおける告解の事例から ?
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/177240
ご返答くださり本当にありがとうございました。
784
:
sekko
:2018/03/07(水) 19:19:07
sacra 桜さまへ
京大の論文、さっそく読みました。
告解が司祭対平信徒とあるのが少し気になりました。司祭も告解をするのですから、マルタのようなコミュニティで司祭同士が告解している内容の方に好奇心があります。それとも内輪同士ではなんだから別の教区から告解司祭にきてもらっているのかしら。
私も一度はフィールドワークを考えて、同じ罪を告解したらだれがどうこたえるのかを比較しようかともしましたが、やはり、向こうに一方的に秘守義務があるのではフェアでないので、もっぱら質問ばかりしています。フランス人司祭は話好きだし考えを言語化するのがうまいですから充実しています。
日本のことはよく知らないのです。しかもマイノリティ独特のメンタリティに同調圧力も加わって、フランス頭で関わると??なことばかりです。
なかよしの宣教師さんや神父さんとは話がはずみますが、突き抜けて自由なのはシスターたちだなあといつも思っています。
密室のフィールドワークというのはもうずっと、霊能者とか占い師を対象に日本でもフランスでもやっていますが、日本ではあまり質問すると嫌がられます。自分は自分の話をするためにいるんじゃない、と言って。
私は時間をお金で買っているのだから取材であることも隠さないのですが。
でも、本当に霊感のありそうな人?からは、「あなたは自分のこと何にも考えていませんね」と見抜かれます。
私は告解司祭とか、占い師とか、心理療法士とか、「罪の精査や来し方行く末など自分のことばかり考えてやってくる人々」と一対一である程度の責任をもって対応する人たちが、相手との「関係性」をどう捕らえているのかに興味があるのです。
だから、聖霊が働くかどうかとは別に人間性の豊かでない相手だとがっかりします。
「和解」についても、個人的にはほとんど気になりません。
私にとって、和解というのはある程度対等な関係にあるからこそ対立している相手との間に赦したり譲ったり赦されたり譲られたりして構築していくもので、「神」とか「教会」など自分より大きいものとの関係ではないからだと思います。
神も教会も一方的に赦しいつくしんでくれるという信頼があり過ぎるのかもしれませんが。
向こうからも信頼されているという気もするのでそれに応えたいです。
論文にあった「善きカトリック信者」の言葉ではないので、聞き流してください。
http://www.setukotakeshita.com/
785
:
sacra 桜
:2018/03/08(木) 01:04:48
ゆるしの秘跡
ご返事ありがとうございます。
通常行い難い調査をまとめた稀な論文でしょうか。
でもここでいう「善きカトリック信者」というのは、論文を離れればむしろアブない域に入るところもあるのでは。
共感してしまうは、
>>> 小さい頃は良かった。 [...] でも(大人になった)今はね。 <<<
>>> イヤだから告解に行かない <<<
という胸中が述べられているところでした。
このあたりを追求すると卑近な事柄からやがて形而上の内省にまでいたるから、だから「ゆるしの秘跡」の意味があるのかと。
絶対的に赦されていることを最高の恵みとして受けとめる、それなのに、いやそれだからこそ。と、このあたりに「ゆるしの秘跡」の奇跡が存在するのかもしれないと、ごく普通の信者にとっても。。。そして多分ここでは告解司祭さんと信者とキリストさまの三者で小さな奇跡が実現されるのかなあと。(聖職者の方々も様々な悩みをかかえていらっしゃると思います。ご自身の告解義務の頻度も高いでしょうし。ただ、信者の前にそれをみせる必要は普通ならばないほうがいいと考えます。)
数回にわたって よいご意見とご教示をいただきました。心からお礼申し上げます。先生のご助言のおかげで、からまっていた糸玉がほぐれたような気がします。四旬節後半ですが、さわやかな気持ちで過ごしたいと思います。どうもありがとうございました。
どうぞ、よい四旬節を。
786
:
沖島いちろう
:2018/08/25(土) 15:16:16
宗教のじかん
で教えを聞いて努力は正しいかいのりもする
787
:
哲学に興味があります
:2018/09/13(木) 12:02:22
カントについて
私は編入を考えています。編入を考えるにあたって、生きるとは何かについて大学の講義で考えました。
そのことを契機に生きることについて考えてきました。
生きている時間は無限ではない。死は誰しも避けることができない。限りある命ならただ生きるのではなく、善く生きたいと私は考えました。このことをなぜ哲学的に研究したいのかと言われても、はっきりと理由が言えるわけではありません。ただ言えることは、編入学を志したきっかけとして、私がこのままの未熟な状態では社会には出れないと感じました。今までの私は、言われるがままに流されて生きてきました。だからこそ、自分に意見があったとしても根拠を考えることができず、説得力のない意見しか述べれませんでした。だからこそ自分を好きになるために自分を形成したい。物事の根本を考えた根のある意見を述べられるよう、哲学を勉強したいと考えました。私の入りたい大学に編入した先輩の多くがカントを選んでいたため、私もカントから研究をしていきました。善く生きるとは何かについてカントも考えています。カントの平和論について、人はそもそも邪悪で放っておけば戦争をしてしまうという意見にとても共感しました。戦争だけではない、他のことにも置き換えて考えることができると考えたからです。平和について真の平和を考えていくのであれば、人間は邪悪ではあるが理性を持っているために、道徳について考えることができる。道徳があって真の平和に導き出せると思います。編入後はカントの考える道徳について、原文から解釈することで理解していくとともに、カントが生きていた時代の近代の近代哲学史を研究したいと考えています。近代史を研究する理由として、カントが平和について考える契機は歴との関係、ロマン主義、戦争が関係していると考えました。カントの考えを深く理解、総括的に理解するために、近代史の研究もして生きたいと考えました。しかし、幸福について、他の哲学者、例えばラッセルも考えていました。カントに絞った理由、根拠は何かと言われたら先輩がとなってしまいます。私の考えが浅はかなことは承知です。でもどういう考え方、カントを選ぶ根拠を考えれば考えるほどわからなくなってしまいまhした。どうかアドバイスをいただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。
788
:
マルヤ
:2018/10/02(火) 10:42:31
文献についての質問です。
初めまして。
大学3年生で卒論をイエスの父ヨセフについて書こうと考えております。
竹下先生の『〈弱い父〉ヨセフ』を読ませていただきました。ヨセフについて、信仰の起りから現在の家族の形への影響など幅広く書かれておりとても勉強になりました。
今回、こちらに投稿させていただいたのは題名の通り、『〈弱い父〉ヨセフ』の参考文献を教えていただきたいと思ったためです。主要参考文献は、本に載っており、その他の文献は公式サイトで、とのことでしたが、サイトにアクセスできませんでした。ブログや新公式サイトも探してみたのですが見当たりませんでした。もしそちらに載っているようでしたら教えていただきたいと思います。何卒よろしくお願いいたします。
789
:
Sekko
:2018/10/02(火) 18:19:05
マルヤさま
ごめんなさい、確かに、他の参考文献はサイトでにあるような書き方をしていますね。
聖ヨセフはカトリックではビッグネームですから私の本の後にもたくさんの論文などが出ています。
google.frではこういうものが最初に出てきます。よくまとまっています。
http://voiemystique.free.fr/saint_joseph_04.htm
https://questions.aleteia.org/articles/135/qui-est-vraiment-saint-joseph/
英語なら、saint joseph theologyで検索するといろいろあります。
日本語では検索したことがありませんが、神学研究があると思います。
ドン・ボスコ社から出ている月刊の「カトリック生活」の今年の3月号は聖ヨセフの特集で、私もフランスの聖ヨセフ崇敬について書いています。バックナンバーを購入できると思います。
プロテスタント雑誌の「信徒の友」の今年の12月号には家族の形を考えるためのヨセフ論を依頼されて書いているところです。
今はネットで多くの情報を得ることができる時代で、取捨選択、そして自分が何を言いたいのか、をよく考えて、卒論以降の生き方につなげるようなものをぜひお書きください。
http://www.setukotakeshita.com/
790
:
マルヤ
:2018/10/02(火) 18:45:39
ありがとうございます。
参考文献に関する質問へのご返信ありがとうございました。
参考にさせていただきます。
また何かありましたら質問させていただくことがあるかもしれません。よろしくお願いいたします。
791
:
清眞人
:2018/10/30(火) 09:11:47
献本先
清眞人と申します。先日、藤原書店から『フロムと神秘主義』を出版しました。同書で竹下さんの『キリスト教の謎』を取り上げさせてもらいました。第?部につけた補注13と第?部第五章360〜361頁の箇所です。同書を献本させていただきたいので、送り先をご連絡くださいませんか?藤原書店にご連絡ください。
792
:
グラ
:2018/11/07(水) 10:55:38
新刊を拝読させていただきました
ご無沙汰しております。
「神と金と革命がつくった世界史」を読ませていただきました。
一度の通読では理解不十分なのは、私の力量の無さだと感じております。
アメリカの中間選挙はどちらが勝利しても分断が解消することはありません。
世界規模で、分断や格差が拡大しているのは、この竹下先生の本を読むと、合点がいきました。
原理的に、偶像崇拝化による「帝国主義化」しているグループのガチンコ勝負の観があるのだと思いました。
超克とは、目を覚ますことなのでしょうが、「気違いに刃物」の現状では、冷たい水をどのように用意できるかということかもしれません。
偶像崇拝のメカニズムも学びたくなりました。
新刊の出版を感謝します。
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